2007:04:22 新装開店いたします。
小林一茶を語り合いましょう。
まずは、小林一茶の生涯をおさらいいたしましょう。 参考資料は、岩波文庫 黄223−1 「一茶俳句集」丸山一彦校注 です。
1763年5月5日、長野県信濃町で生まれ、幼くして母を亡くし祖母に育てられました。生活は困窮し、15歳で生まれ故郷を離れ、江戸に出てきました。
農民の苦渋と出稼ぎ人の悲哀を、知り尽くしたのです。
俳諧の道を歩み始めるのは20歳ごろらしい。当時、江戸の市中よりも周辺の農村地域で力があり誹風も平俗な、葛飾派と呼ばれる俳団に加わり、生活の基盤も千葉県下総・房総方面でした。
俳人として切磋琢磨し、各地の有力俳人たちとも親交を深め、西国にも旅をしながら吟行して俳諧修行に励みました。
30歳を過ぎても、江戸の町では、一茶を一人前の俳諧師とは認めません。父が故郷で死去して遺産相続で弟や継母と対立・抗争も片付かぬままの故郷を離れ、江戸で貧苦と孤独に耐えながらも、俳壇進出の夢は捨てずにいました。
それは、「百人一首」の古歌研究や「詩経」の講釈聴聞、「易経」の独学などの精進に現れています。
多くの人々とも親交を深め、スポンサーも得たり、有力俳人とも積極的に接触していきました。江戸本所界隈に住み、ひっそりと暮らす市井の人々と交流もしていました。
江戸暮らしが困窮すると房総各地へ出かけ、俳諧仲間と交流をし吟行もしています。
51歳のとき、故郷信濃町に戻ること、漂泊生活30余年で、やっと安住の地を得たようです。遺産相続はそれまでに粘り強い交渉で和解し、故郷に田畑や山林、家屋敷が手に入りました。
一茶は江戸帰りの宗匠として敬意を持って迎えられ、地元の金持ちスポンサーも付き、余裕ある生活を故郷で過ごしたようです。
52歳で結婚。年若い妻・きくを迎え3男1女をもうけたのですが、次々に夭折し悲しみに暮れました。
10年連れ添った妻きくにも死別し、老後の身で2度3度の再婚もしました。
1827年、妻・やを迎えるものの、一茶は病の身となり、家屋も火事にも合い、11月19日信州信濃町で持病の中風(ちゅうぶう)により急逝しました。
妻やをは一茶の死後に長女やたを出産し、一茶の血脈は現在につながっています。
生涯に残した俳句は2万句とも言われています。
TOPの写真は、東京足立区の炎天寺境内です。
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以前のトピと重なるかもしれませんが、あらたにトピを立ててみました。
このコミュのお約束はひとつだけ。
俳句を掲載されますときは
「やせがえる負けるな一茶これにあり」
というように、必ず「 」でくくってください。読みやすくするためにと、一茶俳句作品に敬意を表しての表現方法とさせてください。