15歳のとき、ルー・テーズ相手にデビュー。陸軍やオクラホマ大学(中退)に在籍しながらプロレスを続け、28歳でフルタイムのプロレスラーとなり、ハワイ、カリフォルニアなどのアメリカ各地を転戦。ローカル・タイトルを数多く獲得している。各地を転戦していく生活はニックの希望していたことであり、のちに「プロレスラーはスーツケース一つで旅ができる仕事」と述懐している。
天才と言われるほどの実力派レスラーだったがタイトル挑戦に恵まれず、30代中頃からミネソタ州ミネアポリスの団体AWAに定着。ボビー・ヒーナンをマネージャーに付けレイ・スティーブンスとのタッグでAWA世界タッグ王座を獲得した後、1975年11月18日、ミネソタ州セントポールにおいてバーン・ガニアを下し、AWA世界ヘビー級王座を獲得。以後1988年5月2日にカート・ヘニングに敗れタイトル戦線から退くまでの13年間で同王座を合計4回獲得し延べ7年以上保持、北部の帝王として君臨する。
日本にも国際プロレス、全日本プロレスへの参戦でたびたび登場。特に有名なのが1984年2月23日、蔵前国技館におけるジャンボ鶴田戦に敗れ、AWA世界ヘビー級王座を奪われた試合だろう。
1987年8月の全日本プロレスへの参戦を最後にリングを降り、WWF(現WWE)のコメンテーターなどを務めた。また、UWFインターのリングでビル・ロビンソンとエキジビションマッチを行ったこともある。
現在はラスベガスに在住しているが、2006年1月、ZERO1-MAXにおける大谷晋二郎対スティーブ・コリノのAWA世界ヘビー級選手権試合の立会人として久々の来日を果たした。このときはただ試合を見守るだけでなく、「興奮して」大谷にイス攻撃を見舞うという特別出演もしている。
リック・フレアーと並びバディ・ロジャースの流れを汲む「ヒール・チャンピオン」のスタイルを貫いた。劣勢になるとわざと凶器攻撃を見舞ったり、セコンドを乱入させて反則負けを選ぶことがほとんどだった(反則負けでは王座は移動しない)。伸び盛りのハルク・ホーガンを相手にしても、このやり方で寄せ付けなかった。当初AWAでトップを取ることを目指していたホーガンだったが、こういったニックのやり方に失望し、AWAを離れ、WWEへ移籍することになる。そういった意味で、「古き良き時代」と「新時代」の狭間にいたチャンピオンということができよう。 トリプルHは某誌のインタビューで、彼のスタイルをモチーフにしていることを告白していた。ヒールのお手本的存在としても語られることの多い名レスラーである。
非常に理詰めのレスリングをし、投げ技は上手いがほとんど使わなかった。「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る(相手のスタイルに合わせてレスリングをする、つまり相手の持ち味を十分に引き出すのが私の役目、という意)」という言葉は、プロレスの本質を余すところなく表現した名言。
(以上、Wikipediaより引用)
稀代の名レスラー、ニック・ボックウィンクル氏について語り合うコミュニティです。
御参加お待ちしています。