丹波国穴太(あのう)村の農家に生まれ、15、6歳のころ京都にでて、石田幽汀(ゆうてい)に絵を学んだ。
狩野派の画法を基礎に、三井家など新興の町人層の感覚にあった平明で情趣的な新様式を確立し、その後の京都画壇に大きな影響を与えた。
覗機械(のぞきからくり)用の眼鏡絵制作を通じて、西洋画の空間表現にふれ、また庇護をうけた円満院祐常法親王の影響などから、経験主義的な写実の重要さを認識。多くの写生をのこすとともに、中国の古画や清時代の写実的な花鳥画なども研究した。
代表作に「藤花図屏風」「雪松図」「雨竹風竹図屏風」「保津川図屏風」、大乗寺の障壁画などがある。