河口 慧海(かわぐち えかい、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧(晩年は還俗)、仏教学者にして探検家。 大阪府堺市生まれ、幼名を定次郎という。1890年に黄檗宗の寺で出家する。
中国や日本に伝承された漢訳仏典に疑問をおぼえたことが発端となって、インドの仏典の原初形態をとどめているというチベット語訳の大蔵経を入手しようとして、日本人で初めて西蔵への入境を果たした。
1897年に神戸港から旅立ち、ダージリンで機を伺っていたが、インド・ネパールを経て、1900年にダウラギリ山を越え、チベット北西原に入り、1901年にラサに到達。一時期セラ寺において学んだが、素性がばれそうになり1902年に脱出し、仏典を日本にもたらした。また、1913年〜1915年にも2回目のチベット入境を果たしている。ネパールでは梵語仏典を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。セラ寺には、河口慧海が学んだとされる部屋に日本人有志の寄進によって記念碑が納められているが、この部屋は多田等観が学んだ部屋である。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学博物館に収蔵されている。
1903年に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年に『西蔵旅行記』を刊行した。慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。英訳では1909年に"Three Years in Tibet"の題でロンドンの出版社から刊行されている。現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。
帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、在家仏教を提唱した。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。晩年は、青森県川内村(現在のむつ市川内町)にある湯野川温泉にこもり、蔵和大辞典を編集中、死亡した。
現在、生家跡(大阪府堺市北旅籠町西三丁1番)には記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前には銅像が建てられている。