イタリア映画の星、
Marco Ferreri (マルコ・フェレーリ)
生没年月日 1928年5月11日ミラノ〜1997年パリ
詳しくないですがコミュニティーを立ち上げました。
数本見ただけですが、繰り返し見たくさせる作品ばかりでした。
『猿女』に感動しました。
■フィルモグラフィー
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■代表作
「猿女 (1963)」「女王蜂(1963) 」「ひきしお (1971)」「最後の晩餐(1973)」「バイバイ・モンキー/コーネリアスの夢(1977)」「マイ・ワンダフル・ライフ (1980)」「ありきたりな狂気の物語 (1981)」「ピエラ (1983)」「未来は女のものである (1984)」「I LOVE YOU (1986)」
■トップ・アイコン説明
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■フェレーリの感動と観客のレベル
「ひきしお」を見直した。
孤島や、文明vs原始生活という主題は、『気狂いピエロ』の影響もあるのではないかと思われる、『ひきしお』。
フェレーリは、フライアーノという有名脚本家と組みながらも、大衆性に薄く、同作品でも”全開”だ。純文学全開、ウケ難さ全開、そして、愛全開だ!
かつてフェレーリは一度も、観客に対して「こういう作品が見たいんだろう?」という態度を取ったことがなかった。彼は、職人である慎ましさは識っていたが、手先の技術でウエルメイドに作品を仕上げる偽のプロフェッショナルには甘んじなかった。
彼のどこか人を食ったような作風は、計算によって積み上げたものの詰まらなさを識っているからではないか?
計算によって積み上げられた感動に泣く観客には、フェレーリの良さは判らない。映画なんてたかが個人の趣味である以上、観客のレベルを云々するのは反則だろう。しかし、フェレーリが判らない観客はレベルが低いのだと、私は敢えて言いたい。
何故か。
感動から目を背けスタイルばかりを追う作家がいる。それを私は、照れの作家だと思う。自分の弱い部分や切なさを見つめるのがそんなに恥ずかしいのかと感じるからだ。
けれど、フェレーリは、いつでも感動にストレートに切り込んで来る。プロペラの回らないピンクのセスナが真っ直ぐ海に向かう『ひきしお』のラストは、二人の取った結論に涙が止まらない。
居場所のない孤独な二人が出会った場面から結末まで、非常にストレートな愛の作品だ。フィリップ・サルドの有名なテーマ音楽も甘い。
クロード・カリエール的な主題(動物と人間、支配と非支配など)やシニカルな視点の中、良くここまで普遍的な感動を演出できるものだ。サルドの甘い音楽を使いながら、良くウエルメイドにすることなく、優しく孤独を描出できるものだ。
計算によって積み上げられた感動は、映画を「流通する商品」にはする。だが、今年、100万人を感動させた映画は、10年後に何人を感動させられるのか。
フェレーリの作品は、公開当時に見ても、今見ても、30年後に見ても、全く色褪せることなく感動する。
ここで、もう一人の巨匠を登場させよう。
例えば、フェデリコ・フェリーニ。彼には、良い意味でのメロウさと大衆性がある。そして、それに甘んじることなく、巧みにはぐらかしながら彼は作品を成立させるだろう。マルコ・フェレーリがフェデリコ・フェリーニより上等だとは言わない。観客の牽引力や誇大妄想など、フェレーリがフェリーニに負けている要素はいくらでも思いつく。
しかし、せめてカタカナで書くとたった二文字違いのこの監督を支持する半分くらいはフェレーリの支持者が欲しい。
フェレーリがフェリーニになれないように、フェリーニはフェリーニになることによって失われたものがたくさんある。
フェリーニに映っていないものが見たくなったら、フェレーリを見直そう。そこには、新たな感動と愛が映っている。