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この醜くも美しい世界コミュの『この醜くも美しい世界』読解

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生命は生まれた瞬間から死に向かって歩み始める。
全ての物質の姿は、崩壊に向かう一過程にしか過ぎない。
我々は皆、日々緩慢に死に続けている。
そして、その緩慢さゆえに、我々は死に向かう自分自身を自覚できない。
それは、自らの生命を自覚できないというのに等しい。

どこか自分の手の届かないところで動きつづける圧倒的な日常。
その日常に諦めと無力感を感じる高校生、竹本タケル。
タケルの諦めは、所詮自分はこの世界に参入してゆけないのだという疎外感であり、それは母親に捨てられたという苦い記憶に起因している。
タケルがヒカリを守ると自分に誓うのは、捨てられ、守ってもらえなかった過去の自分を慰めるための代償行為である。
そして、そのトラウマゆえにタケルはヒカリに惹かれながらも、積極的な行動に出る事ができない。

コメント(6)


現実世界は広大である。
だが、我々は自らの認識できる範囲でしか世界を捉える事ができない。
そして、世界の内側にいる者には、自らの世界の限界を自覚する事は困難である。

ヒカリはタケルの世界に現れた異物である。
彼女はタケルに外界を意識させるための装置であり、外界に通じる扉でもある。
だが同時に、ヒカリはタケルの理想の女性像であり、タケルの内なる世界のシンボルでもあるという二重構造を持つ。
これは、タケルの精神が、内と外に向かう2つのベクトルを持っている事を示している。

そして、タケルはヒカリを自分の世界に取り込んで日常化する道を選ぶ。
異物であるヒカリに、自らの世界に存在して違和感の無い設定、すなわち「ヒカリは自分が守るべき弱い存在」という物語を与える。
そして、ヒカリを守る事ができれば、自らのトラウマを克服できるのではないかと、無意識のうちに期待する。
それは、ヒカリにすがる事で自分の存在意義を確立しようとするタケルの”醜さ”の表れである。

デウス・エクス・マキナという言葉がある。
ラテン語で「機械仕掛けの神」という意味である。
混乱した物語を、突然何の伏線もなくやってきた存在が、強制的に物語を終わらせてしまうという、ギリシャ悲劇の演出技法の一つである。

(なにがなし、ほどいた者はアジアを支配できると言われた「ゴルディオンの結び目」を、刀で一刀両断したというアレクサンドロスの逸話を思い出さなくもない。)

ヒカリは過去6度に渡り、生物を絶滅させた「世界の破壊者」であり、生命という”物語”が行き詰まったときに、その状況を打破し、次世代への可能性を切り開くためのデウス・エクス・マキナである。
言うなれば、ヒカリは破壊と再生の女神なのだ。

そのようなヒカリの機能は、第5話で、画一性の象徴である学校を破壊するというシーンにも示される。
それは、繰り返される日常に圧迫されながらも、それを解消するすべを見出せずに煩悶する少女の心に、ヒカリの本来の機能が反応したからだが、これは、ある一つの可能性も示唆している。

すなわち、ヒカリを呼ぶ(絶滅を望む)のは生命(人類)自身だ、という事である。

第1話で、タケルの前に現れたヒカリは突如怪生物に襲われる。
それを救ったのは、謎の変身を遂げたタケルであった。
タケルは圧倒的なパワーで怪生物を倒し、破壊と絶滅の快感に酔う。

その怪生物は、作中では「ED(EXTENDED DEFINITION)覚醒体」と呼ばれる。
EXTENDED DEFINITIONとは、直訳すれば「拡張領域」という意味である。
「生物の能力を最大限に引き出した個体のことで、この地球に過去から周期的にやってきていた滅びの要因に対して、それを拒絶する防衛本能の現れ」であり、「ヒカリを倒すために、生物が攻撃性だけに特化した姿」だという。
(第一話の怪生物がアノマロカリスに似せて描かれているのは、おそらく生命の原初的な部分を強調するためであろう。)
それは絶滅者たるヒカリへの、地球上の全生命の反抗である。

タケルもまた、ヒカリと接触する事でED覚醒体へと変貌する。
ED覚醒体は、絶滅者への拒絶反応から突然変異的に発生するものなのだから、本来ならばタケルが攻撃しなければならないのは絶滅者たるヒカリなのだが、タケルは逆にヒカリを守るためにその力を使う。
滅ぼされる側のタケルが、自らを滅ぼそうとするヒカリをヒカリを殺すための力で守ろうとするという皮肉。
ここでも、本能に逆らうという人間の矛盾した性格を通して、自らの意思によって行動を選択する事ができるという可能性が描かれる。

この物語は、「世界の全てが彼女を憎む中で、たった一人彼女を守ると誓う少年の自立の物語」でもあるのだ。

今の自分とは違う別の何者かになりたいという変身願望は、多くの人間が持つ望みである。
だがそこには、自分の今までの人生は間違っていたという自己否定の感情が潜んでいる。
人は皆、自らの意思によって自らの行動を選択し、その意識するとしないとに関わらず、自らの望んだ姿となって今ここにいる。
現在の自分の姿を受け入れる事は確かに一種の諦めとも言えるが、別の視点から見れば、自分の今までの人生を全肯定する事に他ならない。

(余談ながら、富野由悠季氏はターンAガンダムの劇場公開時にNHK教育の番組『トップランナー』に出演し、「ガンダムを作るとき、人類は今後どうなっていくんだろうという事を真剣に考え、その結果、人類は”より良い存在”になっていくだろうと考えた。」「”より良い”というのはどういう事かと言うと、”全てを誤解なく理解し合える存在”になるだろうという事」「しかし、(”より良い人類”である)ニュータイプを物語の中心に据えるのは間違いだと気がついた」「急速に変化しようと考える事はむしろ危険だと悟った」と語っている。
しかし、たとえば、過去そして現在において理想主義である共産主義を「国教」とした共産国家で例外なく独裁圧政と大量虐殺が発生する事実を考えても、変身願望や理想主義が非常に危険な思想であることは既に実証済みである。少なくとも、「みんながこれを信じれば、世の中はもっと良くなる」「これをやれば、自分はもっと良い人間になれる」という考え方は、人間にとってあまり健全な考え方ではないと考えられるのだ。
富野氏は20年以上かけてようやくそのことに気づいたわけだが、それはターンAという作品を「過去のガンダムを全て肯定する作品(前述の番組より)」と位置付けていることからも伺える。)

少なくともこの作品のスタッフは、「アカリが現れ、タケルが変身することでタケルが何かより素晴らしい存在になる」という描き方はしない。
タケルは、ただ当たり前に成長してゆくだけである。
なぜこの作品が『この醜くも美しい世界』というタイトルなのか。
このタイトルには賛否で言えば否が多かったのだが、やや語るに落ちるタイトルではあれど、言いたい事をストレートに打ち出してくる姿勢は好感が持てる。

ちなみに、EDには「インポテンツ」という意味もある。
生命力を変化する力だと定義するならば、進化に行き詰まり、自ら変革できなくなった生命は、生物として「不能」なのだという意味にも取れるが、これは考えすぎかもしれない。
上記補足:

昨日聞いた話です。
EDの意味ですが、これは『ED−ベータ』からのネーミングで、
キャラデザの高村さんが好きだからだそうです。

ベータというのは、SONYの作っていたビデオの規格で、
かつてはVHSとビデオの標準規格の座を争っていました。
その結果、構造が単純なためにより低コストで製作でき、
かつ、いち早くレンタルビデオのシェアを握る事に成功した
VHSが圧勝。
機能的にはVHSよりも優れていたベータは、民生用から撤退し、
主に業務用として使われる事に。

ED−ベータとは、VHSでのS-VHSやW-VHSに相当する規格。
その画質の高さから、今でもTV放送で使われています。

ちなみに、高村さんが所有しているベータデッキは『ED−6000』。
(ちなみに、私が持っているのは『ED−5000』w)

また、EDにインポテンツという意味がある事は事前に分かっており、
最終的には山賀博之氏の「問題ないだろう」という一言で決まったとか。

では皆様、よいお年を。

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