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哲学が好きコミュの近代というものについて考えよう。

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「丸山真男の反省的な認識においては、近代日本とは近代的思惟の未成熟な、したがって近代社会として不完全な国家であった。
いびつな形で、十分な内発的な力をともなわずに、無理やり発展せしめられてきた国家だった。
にもかかわらず日本人の意識において日本は、先進欧米諸国に伍しうる大国とみなされてきた。
この落差が結局、国家的な破局としての敗戦という形で露呈することになった。
日本の近代化における内発性の欠如へのこのような批判は、夏目漱石以来の近代知識人による日本近代への危惧の表明と同じ系譜に連なるものである。」
(子安宣邦)


近代とは何か、いかなるものか、自由に考え、検討し、語り合いましょう。

コメント(63)

>>[5] 自由・平等・友愛は人間が頭の中で考えだした概念で(18世紀の啓蒙主義
)、現実から抽象したものではありませんね。ニュートンの物理学の合理性を社会や人間にあてはめたもの(ヴォルテールやカント)で現実と齟齬がでるのは逆に当たり前です。ピーター・ゲイの2巻本を読むとよいのでは。

>>丸山真男の反省的な認識においては、近代日本とは近代的思惟の未成熟な、したがって近代社会として不完全な国家であった。


トピック文に引用されている文章は
近代の代表的な制度の一つとされる、民主主義というものが、
「生きたもの」に、なっていなかった という丸山氏の主張を言われているのでしょうね。

「自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。」


「民主主義という制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢」の重要性を
実感する時代になってきているように思えます。

近代の代表的な価値や制度が、「名前」だけになりつつあるのではないか、
という懸念があるからです。
>>[10] ピーター・ゲイの本は「自由の科学(1、2)」です。
近代のなかの民主主義(政治)を問題とするのなら当然、ロックやルソーの社会契約論、現代の右派(自由放任主義=ノージック)と左派(リベラル派=ロールズ)と中間派(共同体主義=サンデル)の立場を考慮しないといけないのでは?
>>[11] 横レスすみません。初めまして。わたしもヘーゲルは怪しいと感じてます。コジェーヴやフクヤマの解釈でも時代設定や目的がころころ変わりますから。スミスは「神の見えざる手」をどう解釈するかで後のミクロ経済学=新古典派のように「市場メカニズム」というように解釈すれば今でも意味があると思います。
>>[15] 初めまして。横レスすみません。「日本」はブラック・ボックスとのことですが、岸田「ものぐさ精神分析」とか柄谷「日本精神分析」とかの説明はどうおもわれますか?
>>[30] そうだなニューロンの辺りが近代=経済を意識した時日本では何時かな?
>>[33] コメントをありがとうございます。縄文人対弥生人とか蘇我氏へのクーデターとかだと最近の栗本慎一郎の研究が思い出されますがそれについてはどうでしょうか?吉本隆明は共同幻想論と少ししかよんでませんが割と面白かったです。昔は柄谷も真剣に読んでましたが左派に彼がなってから距離感を感じてます。後期の吉本、チェックしてみますね。
>>[32] なかなか鋭いしつもんですね。封建制の身分(政治)と経済・社会・文化が一体となった意識がいつ資本主義(経済、政治、文化、社会の分解)を感じるようになったのか?ニーチェやフーコーや歴史学(アナール派)の問題意識につながりますね。課題とさせていただきます。ありがとうございます。
>>[35]後期の 栗本氏の「パンツを脱いだサル」以降の研究は面白いですよ。どこまで本当か今後の実証研究に待たなければなりませんが、アシュケナージ・ユダヤ人がカザール帝国の子孫だとか、目から鱗です。ウォーラステイン流の左派の歴史に対する批判になっていると思います(例 柄谷「世界史の構造」)。ウィットフォーゲルはまだ読んでません。また読みたいです。
>>[027]

>「民主主義という制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢」の重要性を実感する時代になってきているように思えます。近代の代表的な価値や制度が「名前」だけになりつつあるのではないか、という懸念があるからです。


ぼくも民主主義に対するそういう姿勢は賛成です。
国民の側のいわば不断の努力と自己教育によって初めて、日々民主主義は実証されたり名目化(形骸化)したりするのだと思います。
国民が自己意識において、戦うか惰眠をむさぼるかが民主主義を生かしたり殺したりするのだと思います。
>>[40]

ありがとうございます。

はい。「国民の側の、不断の努力、自己教育」ということ、
それを意識化することは、重要だと思います。

おっしゃるように、惰眠をむさぼった時に、民主主義を自ら殺してしまううな、そういう危険性はありますね。

なかなか意識できない時もあるのでしょうから…

また、自らの中の偏見も取り除く努力をしながら
社会に関心をもつことが大事なのだろうと思いました。

丸山真男氏の
「である」ではなく、「すること」という
人間の実績行動に重きを置いた考え方は、いいですね。
>>[40] それが近代日本は文化的に優れてたからコメ騒ぎはあっても飢饉になるほどでなくまた政治的に困ってなかったから近代が遅れた寺子屋とかまた西洋に遅れまいという意識は個々にしかなかった中江兆民とか
>>[36] 農民一揆はあったが政治的社会的理論革命になる分子がなかった
>>[42] 日本文化の唐ごころ(理性)をさけてもののあわれ(感情や空気)を優先する点を批判して「文化の天皇制」と呼んだ柄谷行人の「日本精神分析」(講談社学術文庫)と山本七平の「空気の研究」と竹内靖雄の本があります。
>>[47] 日本は歴史意識を感じるチャンスはあったが潰した日本の近代は明治だろうが文明的には成熟してたが政治的社会的理論が未熟だった金だけあった坊ちゃん列車乗せられて帝国主義に走った感じ
>>[49] 平成になって成熟したと思いますか?
>>[50] いや自分を見失ったかな明治大正昭和平成と小説の形式も変わった知識人と呼ばれる小説家の言葉にその時代の悩みが反映されてる今は実存主義的悩み心の飽和状態かな携帯による実体のないペニシズムだから自分探しがテーマそのためには生きる力を地域で付けることかな教育再生
自分で地域と生きるこれが社会的に欠けてるTPPなど後の話だ
アメリカ主導で民主的にも近代を理解したのが昭和だが見返りが恐ろしい
画家が構図もなにもあまりよく考えず、捨てることを前提にした練習用紙にささっと落書きするような
調子で、独断と偏見にのっとって適当にイメージだけでモノを言うことを許してもらいたい。


そういう僕の独断と偏見の中での「近代」という単語が意味するところは
要するに、まず、中世の否定である。封建制だの家父長制だの貴族制だのといったそも他もろもろ
の前近代、前時代に中指をたててファックユーをすることである。
「貴族だとか王族だとか家父長だとかが偉い」という前提にクソくらえと言うことである。
ましてや「疑ってはならぬ伝統」などというものにはますますクソくらえと言い放つことである。
また、僕の中での「近代性」なるものは宗教に対しても辛辣である。
おおむねファックユーである。中世の土人どもは神の存在を信じ、そいつが天罰だのなんだのを
くだすから、神に逆らわないようにビクビク生きろといった、近代人はその前提を疑う。神などという
インチキ臭い奴が存在して、ましてやさらにインチキ臭いことに、そいつが地球という岩石に
へばりつく猿のためになんかしてやったりなにか契約を結んだりしているという前提を無批判に
受け入れることができない。近代人というのは基本、疑り深いのである。
王権神授説、そんなものはファックユーである。まず、王様に権威がある、などというのもクソくらえ
だし、神様からそれを授かったなどというインチキSFはますますクソくらえだと。
というわけで、近代意識が萌芽した市民階級が育つと、階級秩序があった国のあちらこちらで
革命がおきた。
もう、王様も神様も威嚇対象としてそれほど通用しないということである。クソくらえなのだから当然である。
貴族がなにほどのもんじゃ、ということである。
また、近代意識が萌芽した市民階級が育つと宗教が苦しくなった、聖書だか仏典だかしらんが
そんなクソファンタジーをありがたく押し頂く時期は過ぎたということである。「聖書にそう書いてある」
では近代人を納得させることはできないのである。



要するに権威だとかに対する壮大なファックユーであった。壮大な懐疑主義でもある。

僕にとっての近代とは、そういうものだった。神なんぞクソくらえ、王様なんぞクソくらえ、伝統的秩序
なんぞクソくらえ、ロックンロール魂の炸裂のようなものである。

だから、僕は近代が好きである。
>>[054]

とってもわかりやすい論述だと思います。ぼくもそういう西洋史からの印象に胸を熱くしたりしました。
しかし、齧ッテさんの論述では途中、聖書と並べて仏典にも言及し、あたかも東洋にもこの議論が成り立つかのような示唆を与えていますが、
これについては大いに疑問に思う所です。
齧ッテさんが熱く論述された近代化の革命的なプロセスは、まったく西洋の限られた地域にのみ見られた典型(モデル)あるいはその理想化であって、逆にそれが多くの人々を(齧ッテさんやぼくも含めて)感動させてきたわけですが、
振り返って明治維新から敗戦までの日本と、齧ッテさんが論述された所とを照らし合わせてみるならば、
日本では実は齧ッテさんが熱く語られたような西洋的近代化の革命はまったく実現されていなかったということにあらためて気づかされると思います。
>>[55]
もちろん、これは理想化された近代、しかも「僕の」近代です。
西洋か東洋かという区分よりさらに不明確な、ある現代人(近代化という
ムーブメントが生じた後の世界に生まれて、そこから歴史を振り返ることが
できる地点にいる一匹の人間)の、オツムの中にある近代概念です。
ようするに、「僕が」近代化というものをそのように把握しているという話です。

ただ、たぶん、似たようなイメージを持っている人間は多いんじゃないかということで
このトピックの肴として提出させてもらいました。

王様の権威だとか、教会の権威だとか、貴族(あるいはサムライ)の優位と平民や農民の劣位という
序列権威だとか、つきつめるところ伝統の権威、
それらを「ナベの蓋」と表現していいのなら、そういった鍋蓋を吹き飛ばすための蒸気圧、
「ふざけんじゃねぇこの野郎、伝統なんぞクソくらえ」だ、という気概、それが生むパワー、その
ムーブメント、おそらくそれが「近代」というものの特性の一つだと思います。

だから、個人主義だの自由だのが近代と結びつくのは当然のことなのです。
王様やイエや国家に縛り付けられるのは「クソくらえ」なのだから、当然、個人としての自覚が
生まれます。それは必然的に「近代的個人主義」なるものを産むに決まっているのです。
近代化というのが自由の拡張、プライベート性の拡張になるのも当然です。
近代人とは、なによりも、それを欲する人々なはずですから。

丸山眞男というと「近代的自我」という単語を思い出しますが、俺のアバウトな理解では、
近代的自我ってのは要はロック魂、権威や伝統に対するファックユーに近いものが
あると思います。

この近代的自我理解が正しいのなら、丸山が日本人に失望したのも当然でしょう。
ロック魂がなかったのです。権威に盲従しました。ファシズムだの国家体制だのの要求に
唯唯諾諾と従う人間は、ロックンローラーになれませんからね。
>>[56] 日本における近代とは天皇支配の限界を感じたからじゃないか仏教儒教により抑え付けられた下克上とか列強に支配される我々が革命を起こさなきゃという個人的逼迫感が明治革命近代の目覚めになったのではないか
私は近代とか近代精神は「批判精神」または「批判文化」だと思っています。
それまでは、市民、庶民には「批判」という概念がなかったように思います。
そして、行き着いたところが政治では民主主義、精神的には個人主義だったと考えております。
中国では哲学は出世のための道具に過ぎなかった
伝統と権威は違う伝統は文化だ文化を否定したら戦争しかない王権より悲惨だ
>日本の近代化における内発性の欠如


これは、国家権力の重圧に苦しんでいる一人一人の市民が、ついに我慢できなくなって封建国家をぶっこわし、
「国家というのは一人一人の市民の自由や権利を守るものじゃなきゃならないんだ! そういう国家を私たち一人一人が作るために申し合わせたからこそ、その義務も喜んで背負うのだ」
と考えるに至るプロセスが、日本にはまったく抜け落ちていたということでしょうか。

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