ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

哲学が好きコミュの人間は「幸せだ(幸せになれる)と感じながら生きないと・・生きてる(生きる)意味が無い」のでは?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「人間は、幸せになるべきだ」と感じています・・考えてるのではなく・・感じているのです

ではなぜ?そう感じるのかを考えてみようと思います手(パー)
人間というモノは、「幸せだと感じていなくても・・生きている、生きる事はできている」と考えています
世界中のどれだけの人が「自分は幸せだ」「生きるという事は幸せだ」と感じて生きているのかは・・俺には分かりません
ただ、「全ての人々が幸せだと感じながら」生きているようには・・(俺には)観えません

もしこれが正しければ・・「人間は、幸せを感じていなくても」「生きる事はできている」という事になります足
「幸せだ(幸せになれる)と感じながら生きている」のと「そうでなく生きている」のは違う事だと思います

では具体的に、どう違うのでしょう?
「特別に生きたい訳ではないが、生き続けてしまっている」のと「もっと生きたい、生きるべきだ と感じながら生きている」
のは、違う事だと思います
「人が生きている」という(外から見た)くくりでは同じに見えても・・「中身は違います!」
「人の心の中は見え難い(としておきます)」ので・・その人が、ほんとは「どちらの生きてる」を生きてるのかは正確には判別できません手(パー)

「幸せだから、もっと生きたい」と感じて生きてるのと、「死ぬ事ができないから」生きてるのでは行動にも思考にも差がでます
人は、人に影響を及ぼし合いながら生きてると考えています・・
「もっと生きよう」「生きるべきだ」と心から感じ(見せかけではなく)てる人達は、「生き易くなる為の工夫」をします
「もっと生きたい が為に工夫をするのです」その工夫が周囲に良い影響を及ぼす事もあると思います
「ただ、仕方が無く生きてるだけ」の人達は、せいぜい「死なない為の方法」を考えるか
もしくは「上手く(自分が?人が?)死ぬ事ができる方法」を考えるか・・


『幸せとは、有限なのか無限なのか』
ここで「幸せ」というモノは、「奪うもの」なのか?「分かち合うもの」なのか?
「幸せ」というモノが・・限り(数量限定)されているモノであるのならば、奪い合う事になるのでしょうか?
個人的には、「幸せ」というモノは、「全ての人々が分かち合えるモノ」ではないか?と感じています(断定はできませんが)手(パー)
ただし、全ての人々が分かち合うには・・より均等に分配されるべきモノなのではないかとも感じています
そういう意味では、「幸せには限りがある」と感じてるのかもですが・・考えてみたいです

『人と人との協力なくしては』
ではなぜ?「幸せというモノが、全ての人々に分配されるべきだ」と感じ、考えてる
のかと言うと・・上で述べさせて貰ったように
「幸せを感じて生きてる人」と「不幸を感じて生きてる人」とでは、周囲、社会、世界に及ぼす(与える)影響力が変わってくるのです
「より多くの人達が幸せだ」と感じて生きる世界の方が、自分にとっても「幸せに生きる」助けとなるのです足
「人と人とが、より幸せに生きる為の意見を出し合う」というのも協力であり、幸せにつながると思います


『人を不幸にさせているものは?』
では、人を不幸にさせてる(感じさせてる)ものは何でしょう?
1つは、「幸せは奪い合うものである」というのはあるかもです・・
幸せに限らず、「人と人とが何かを奪い合う」という行為は、幸せな行為でしょうか?湯のみ
あと、人が過酷な(嫌な)労働から受ける「疲労」「嫌悪」「ストレス」なども不幸に繋がってるかもですが
これは、科学の発達による「機械の進歩」により、人は解放されていくと考えています
エネルギーの問題も、「太陽エネルギー」の有効利用により解消されていくと・・
まぁ〜・・「人が不幸」を感じさせられてる物事を考えて、解決していく(取り除く?)ことも幸せに繋がるかと手(パー)

『特定の一部の人達だけの幸せでは駄目』
特定の一部の人達だけが幸せになる という社会システムを構築していては
ほんとの幸せ(自分の幸せも含め)には繋がらないと考えています
「より多くの、未来の人達もが幸せになるシステム」を構築すべきではないかと

個人個人の幸せは、「社会でコントロール」できるモノなのではないでしょうか?
社会は個人に対して干渉してはいけないのでしょうか?
「不幸を感じて生きてる人達」は、「自分の力でなんとかしないといけない」ものなのでしょうか?

『人は、不幸を感じながらでも生きる事は可能である・・でも』
人というものは、不幸を感じてたり、幸せだと感じていなくても生きる事ができ
実際に生きている人達(自分も含め)もいるのだと思います・・
ただ、それは「生きているだけ」で、「生きようとしている」のとは違うのでは?
「人間は、幸せに生きる事(手段、方法)を見つける為」に、生きてる(生きるべき)気がしていますが・・どうなのでしょう・・

なぜ?「人(人間、人類、世界)は、幸せを感じて生きないと・・意味がない」と、(俺は)感じるのかを知りたいです・・夜


コメント(821)

>>[774]
えっとですね、逆正弦定理(法則)とは
コイントスで表裏を当てるだとか半丁博打勝負的なものを繰り返し繰り返し行った場合
最初に幾度も成功を重ね、それと逆の立場のヒトを引き離しリードした順に概ね成り立っていく法則なんです。
つまり上記でいう「逆のヒト」は、序盤に失敗を幾度重ねてしまったかで、いわゆる負け組になるか並で留まれるかと概ね分かれていきます。
最初が肝心、とはこのことです。
ただし>>[773]でも注釈した通り、この「逆正弦定理」は、あくまでも
各勝負の諸条件が公平かつ平等である
というところにあります。
日常における例えばスポーツだとかのように、
勝負する人間に実力差があったり、勝負毎に各自戦略を変えたりするようなケースでは
この定理通りにはなりません。

つまり何が言いたいかというと、もしも世界の人間が平等や公平を手にしたら
成功者=正真正銘の「たまたま運が良かっただけのヒト」となる
成功者に負けたヒト=運とツキだけが要因で(今以上にです)負け組に位置付けられつしまう
言い方を変えたら、やることなすこと「全て運とツキだけが人間の才能で実力」という世界に住むことになるんです。
私はイヤですね…こんな世界に住まされるのは(苦笑)
>>[774]
もういっこへのコメント忘れていました。
(というか途中で投稿してしまい[782]のようなコメントになりました、すいません)

>対数正規分布を想定されてるのなら、どこに区切り線を入れるかで比率が変わってしまうと思うですが、どうでしょう?

>>[772]での二個目のリンクの「解説・結論」の項内グラフ下の
下記の部分が「2:6:2」に対応ということにしております。
ここでは成功者に負けた側はポイントまたは金銭支払いという設定ですが
金銭ギャンブル的設定にしなくても
【成功した側が相手から幸福を与えてもらい、成功しなかった側が相手に幸福を与える
(成功しなかった側から見たらこれが重圧化するほど積み重なると「不幸」の構図になる)
:リンクでのプラスとマイナスの関係】
という風に対応できないかと思ったりw
**************
もう少し数学的にいうと、これは確率密度関数 1/{π・sqr( x(1-x) }のグラフです(ここでsqrは√の意味です)。
この関数を0から x (x<1)まで積分すると(2/π)arcsin(sqr(x))となります。この式が意味するものは、収支がプラスである割合がx以下である確率(あるいは全体の人数に対する割合)です。
例えば、x=0.1ならば、収支がプラスになる時間帯が1割以下(=9割以上の間マイナス、つまり、ほとんど負け)となる確率が(2/π)arcsin(sqr(0.1))=0.2048・・・と求められます。
100人でこのゲームをやれば、20人がほとんどマイナスで浮かばれないということです。
このグラフはx=0.5について対称ですから、プラスとマイナスをひっくり返して考えても同じで、20人はほとんどプラスで浮かれっぱなしということにもなります。
これからわかることは、全体の40%もの人たちが、収支のうえでほとんどプラスかマイナスかのどちらかに極端に偏っているということです。
**************
>>[772]で私の書いたコメントの
>>大成功:成功頓挫を小さく往復:大きく頓挫という割合が概ね2:6:2
はもっと厳密に書くと
「大成功:成功頓挫を小さく往復(ではあるが「完全なるトントンプラマイゼロ域」は少数で「ランダムに成功連続期間と失敗連続期間の繰り返しを”小さい区間として”結果を出す」派が大半):大きく頓挫という割合が概ね2:6:2」
ということです。はしょりすぎてしまっててすいません。

で、確率密度関数は対数正規分布ではなく、連続一様分布でもってグラフ化される
というとこですか・・・・・・・・

正直なところ私も数式自体の完全把握(応用していけるレベル)には至れていません(^^;
理屈の解説から中心で法則や定理の理解に至ってこれらのものを参考にしているような現状ですw
一応確率統計には興味ありありなんですけどね・・・・


ですから結果の平等を目指すためには結局、
スタートまでの平等を重視しても無意味なんです。
それをすればするほど、偶然の産物のみで逆正弦の法則がもろ発動してしまう。
むしろ結果を平等にしたいなら、個性は大切にしなければならないのだと思います。
しかしながら・・・・・・・・・・・

>トピ主さんの言う全ての面で平等は、原理的に不可能かもしれませんが、結果に対する平等を目指す社会というものは、概念としてはあり得るとは思います。
>それを標榜することは可能ですが、多くの人がそれに賛同するかどうかは、また別の話なのかもしれないです。

生きるとはちょっとしか明確に覚えてない過去と現在とを判断材料に、計り知れない未来を目指すこと
という意味でも、どこまでも近視眼的にものを見ることしかできませんしね。
「結果の平等」とは所詮「未来の話」です。
超能力者でもない人間がそれ(結果の平等)が確実にあると、信じられるかといえばそうでもありません。
ほんとにあるかないかもわからぬ結果の平等よりも、スタートの平等の方が信頼できると思えて当然ですから。



>>[777]

う〜ん・・人間を語るのは難しいですねぇ・・ふらふら
「個性」って、いったいなんなんだろう・・改めて考えると分からなくなってきた・・

人間にとって「生きるのに重要な要素(性質)」 これってなんなんでしょう・・?
人間は、それを求めようとするんじゃないだろうか・・
それが足りない人は苦しむ事になるのか・・?

「何かが足りない」から「苦しむ」のか・・?
すいません、ちょっと話しが反れましたかうまい!

>☆ かつさんの言う、労働しない事で失われる「個性」って具体的にどういうものですか?

どうなんでしょう・・上手く答えになるか分かりませんが
人の個性って、「苦悩」や「苦しみ」みたいなものとも関係あるのかと思いまして・・
人は「苦悩」や「苦しみ」などから逃れる為に、いろいろ考えたりする内に個性が発達したり・・
もし、未来に今よりも人間にとって安泰な世界が訪れたら、個性は薄れていくかもと・・分かりませんがw

>しかし、今度は情報の氾濫によって、何が本当なのか?自分にとって有益な情報はどれなのか?判断は難しく、その膨大な情報の中からどれかを選び出して、決断するなりしなければならない。

もちろん、情報は氾濫してて・・何を信じれば良いのか? という状態にあるのも事実だと思います・・
ただ今後は、「それらの情報の何を信じるべきなのか?」という作業も行われると思っています・・分かりませんがw

>☆最終的に、かつさんはどういう社会になる事を理想とされているのですか?
個性の喪失、もしくは希薄化によって、実現される社会とは具体的にどういう状態なのですか?

俺の理想であるかはどうかは分かりませんが「苦しみの少ない社会(世界)」であると思います・・
誰も、「多く苦しみたい」とは思わないでしょう・・
俺の中では「苦しみ」と「人の個性」や「社会」に、何か関係性を感じてるのかもですねぇ・・

>>[783] SEVENさん
>>[784]でも述べたように(リロードすればよかった)
中途半端なコメントだったので・・・・まことに失礼しました(^^;
しかもちょっとグダグダになってめっちゃレス削除しまくりです(;×;)ごめんなたい


>期待値0での出目の偏りは我々が直感的に感じるよりもはるかに多い回数試行しないと0に近づかない
あ、そういった点がお知りになりたかった部分なのですか・・・・・

・・・・・うーん・・・・それは・・・・・
ここまでのお話でどこに対応させればよいのか
全く思いつかず飛ばしてしまってました。
それを持ち出すのであれば
もうちょっと違う確率論を出すべきだったかな・・・・・・・

でも、逆正弦定理からも確率論からもわかることは
「近視眼的に見れば(人間の有限試行では)スタートの平等は決して平等にはならない」
ということです。
たとえば、勝つか負けるか1/2の勝負をしたとして
10回勝負では単純計算で5回勝って5回負けると1/2になるのですが
その通りになるヒトは一握り。
更に、自分と同じ条件で同じ回数勝負してるはずなのにたくさんの勝ち数をゲットするヒトを見て
なぜこんなに不公平なのだと嘆いたりして、平等を見ないうちに寿命を迎えるのですw
(人生全体で見ればそうはなりませんが、ある分野だけを見るとそうなります)


で、ここからも希望されてたお返事に適うものかは定かでは・・・・・・・w


幸福だとか不幸について最も特筆したいのが
【成功した側が相手から幸福を与えてもらい、成功しなかった側が相手に幸福を与える
(成功しなかった側から見たらこれが重圧化するほど積み重なると「不幸」の構図になる)
:リンクでのプラスとマイナスの関係】
これ(>>[784]参照)が”表向きの”幸福を与え受け取るの図=逆正弦定理に準じる構図なんです。
そこには
「自家発電で幸福を貯蓄する(その分は外部に放出したマイナスを補填するしむしろプラスに転じる可能性もある)」
という前提がないのですよね。
要するに、トピ主さんの言うような「幸福の奪い合いの構図」まんまです。


つまり「自分で自分を幸福にする・近視眼的に幸福を計らない」という前提がないとなると
誰かを犠牲にしてるかのようにたまたまたくさん得た幸福を尺度に
逆正弦定理然とした定義でもって人生を計りにかけることしかできなくなる。
当然の構図です。
こうなることがわかっているので皆さん「幸福とは感じるもの」と総括してみたり
「生きていることそのものが幸せ」と定義してみたりするんですよね。
放出が連続して幸福貧乏にならぬために。
そうすれば「誰かが成功した・幸福になった・自分に勝った=自分は不幸」ってことはないですから。

・・・・申し訳ありません、やっぱ私も人のこと言えないほど話がかみ合ってないかも(滝汗
削除だらけになるのはいかがわしいので(他のトピックでもこれ書いたな・・・・)
逆正弦定理ベースのお話はこの辺にしておきます。
結局どれだけ書き直してもぐっだぐだ・・・ホントすいません(;×;)

>>[788]
逆正弦定理はおしまいといいつつすいません。
わかってたつもりだったのになんか説明がやっぱグダグダになってたようで。

>この場合は逆正弦法則が適用されないのではないでしょうか。
>コインを投げて表なら勝ち、裏なら負けという設定ですが、逆正弦法則が適用出来るのは、参加者相互が勝ち負けによって干渉しあわない状態を想定した場合だけではないか。
>つまり、裏、表を仮に勝ち負けと言っている(決めている)だけで、ある集団の中での勝ち負けの確率ではないということです。

はい、そういった前提で大丈夫です。

二人なら二人・10人なら10人が”独立で”同じ回数コイントス当てならそれを行います。
ですから、成功したヒトと失敗したヒトの間でポイントを取引するのではなくて・・・・
コイントスの表裏当てにポイント発生の例だと
コインをトスするヒト(ディーラーです)を仲介したポイント取引と考えるとよいかと思います。
(なので2つめのリンクのジャンケン勝負の例は合ってるのかどうか・・・・)

ただ、ここではコインをトスするヒトというディーラーが
勝負をさせて儲けたいために勝負場を提供している、という前提ではないのですが
【成功した側が相手から幸福を与えてもらい、成功しなかった側が相手に幸福を与える
(成功しなかった側から見たらこれが重圧化するほど積み重なると「不幸」の構図になる)
:リンクでのプラスとマイナスの関係】
この例にディーラーという幸福の仲介主的存在が仮に絡むと設定して・・・・
「コイントス1回一斉に独立試行→当てた側にディーラーは幸福を与える(プラス):外れた側はディーラーに当てた側へ与える用の幸福を寄付する(マイナス)」
このような設定になるのかしら。

で、ひとつ考慮すべき点があって
ここでは複数の人間で同じ回数試行する前提になるので
コイントスで表裏に賭ける傾向が、2人なら2人が
毎回一緒の表裏の判断をするわけではない、という点です。
本来お互いが干渉しあわない独立試行の筈なのに
「見かけ上」あたかもひとつのコインの表裏をお互いに
表だ・いやじゃあ俺は裏だで競い合っているかのように見える局面は
ランダムに幾度も発生するはずです。

そういった「見かけ上こう見えてしまう」という近視眼的考察結果が
「幸福の奪い合い」であるかのような構図を更に浮き彫りにさせるのでしょうね。
>>[788]
ああ、コイントスの独立試行例とジャンケン勝負例が同等な理由がわかりました!

ごめんなさい、しつこすぎ(;×;)

独立で相手がどんな判断をしたかとか干渉なしでコイントスして判断が一緒=ジャンケン勝負のあいこ扱い
ということであるからだと思います。
>>[793]
>これって、A,B、どちらも同じ事って考えて良いのでしょうか?(やっぱり理解が追いついてないw)

「同じ考えになる」理論上はそうなるようです。
これをどううまく説明してよいのか私にはわかりませんがw
(なんせ、二人でジャンケンの例と二人以上でジャンケンの例が
同じことになるかどうかが頭の中で整理できてない、というような有様ですのでw)

まず逆正弦定理が適用できる条件が
「1回ごと及び総合の試行条件がプレーヤー全員平等」(この中に「独立試行である」が含まれる)
独立試行の例:ジャンケン・コイントス・投資
非独立試行の例:「○名(○個)が当たり」という当たりくじ全体X個を配り(=X個がなくなるまで順番に引いていく)、結果を見る
つまり、1回目の試行結果が次回以降の試行結果に原理的に影響を及ぼす試行や
作為を含むことがもとで原理に影響を及ぼす試行は
「独立試行による逆制限定理」に相当しないのですが、それ以外は適用されます。

ジャンケンを独立試行ではなくする例としては
「最初にグーを出したら次はパーかチョキだけで勝負しなければならない
(→その次はパーorチョキで先にだした方の残りだけ)」
とかいうルール規定を予めつけてしまうような例です。
グーチョキパーの内で(1試行毎1手だけ選ぶ)なら、毎回何をどういう順番で出してもいい
という条件がある以上は、コイントスと同じく独立試行ということになります。
更に>>[792]を加えて平等な例です。
ですので極端な例を出すと
「誰かが一生グーばかりを出す・その相手はグーチョキパーランダム」であっても
作為が絡んでいるにもかかわらず同じ原理であり原理自体に影響は及ばない、ということに。
※ジャンケンであいこが出るか出ないかまでグーチョキパーを出すと同時に決め、一方
コイントスは一般的な独立試行例を適用したまま、というような
ゲーム原理差があったとしたら、ジャンケン側が異なってきます。
・・・・・確か(←こんな状態でドヤ顔で説明してていいのか(;×;))※

>つまり、個々の勝率は独立でも、他のプレーヤーがその結果を見る事が出来ることで、相対的に幸福か不幸か生まれてしまうって意味ですね?

おお、そういう見方もできますね!
逆正弦定理を出すことでそっちの方の観点を語ろうって視点はなかったです・・・(・×・)w

うむ?しかし相対的とは比較によって生じるということだと「他のプレイヤー」がいなくても
逆正弦定理によってはじき出される平均値(並)と比較してしまった場合でも
それを幸福不幸と定義するとそれは生まれることになりますね・・・・・これは困りました。
この場合は厳密には幸運不運ですが。
・・・・・あ、もしかしたら、相対的に見てしまえる何かとは
実は「幸福不幸」ではなくて単なる「幸運不運」でしかないのでは?
だとすると、「生きていること自体が幸せ」も幸せなのではなく「幸運」
ただ、幸運と幸福が違うところは・・・・
「幸運不運という相対評価をせざるを得ない自分自身」というものを乗り越えた(超えた)ところに
存在するのが「幸福(幸福感)」であり、それを乗り越える(超える)ことができなかったとしたら「不運→不幸」に転じる
だからこそ、SEVENさんのこのコメントが生きるのかもしれませんよ。
>個人的には、幸福や不幸っていう事をあまり重視しないというか…正確には信用していないって感じで生きてる気がします。
相対評価からはじき出されるのは「幸福不幸」ではなく実のところは「幸運不運」に過ぎない
ということが無意識にわかっているから信用しないし重視しない
そういったことなのではないでしょうか?
その証拠に、感情の定義で「幸福感」はあるのですが「不幸感」というものはないのです。

それを加味した上で考えるのですが、本当に幸福感を感じたとき
やはりそれは、幸福の逆(例えば不幸だとか)と「相対」ではないのではないでしょうか。
不幸を感じる、という言い方もできますが、厳密にはそれは
不幸というそのものをダイレクトに感じているのではなく
「不運を嘆く(感嘆)がゆえに不幸を感じているように感じる」なのではと考えました。



幸福の定義が発生する「幸福感」が対象となる”感情”とは・・・・

例えば仏教用語でいうところの「色」の最たるもので、文字通りの「色」と考え方は同じなんじゃないか。

色とは厳密にいえば原色の定義を敷いて始めてその逆を「相対色」と定義するわけですが
私たちは多彩な色彩に対し無理やりに境界線を引き、しかも
純粋な黒だとか純粋な白だとかそんなものが存在しない中でそこを真ん中として
「これは原色」と定義しているのであり、本来色には境界線などないし基準値もない。

絶対的でもなければ相対的でもない世界が「色」なのだから
それと同じベースの「感情」を相対化しても本来無意味でしかない。

感情とは本当の意味での体験なのである
というコトバを誰かが語っていたのを思い出しました。


>>[791]

まさに、カウンセリングとか人生相談みたいになってきてますねぇ・・冷や汗
個人的に・・自分は「苦しみ」「辛さ」「不安」等に敏感な性質なんだと思います・・

「生き辛さ」というのも、人類共通に抱え込んでる問題の1つのように思っていたのですが
必ずしも、人々が「同じレベルでそれを(辛く)感じてるわけでは無い」みたいですねぇ・・たらーっ(汗)

>労働に関しての言葉から、「負荷」のようなものを想定されているのかもしれませんね。

確かに、「負荷」という言葉は適切かもしれません・・
これは以前にも話しましたが、「人間」には常に「負荷」というモノがかかり続けてる状態ではないかと考えています・・
「人間」に対して、人間以外の何物も人間を守ってはくれません・・「人間自身が守らなければ」人間は生きるのは厳しいでしょう・・

人間は、「社会」を発展させる事によって、「個人が自然の驚異等から身を守る」事に対しては抵抗力を持ったと思います・・
現代の人々にのしかかってる「負荷」は・・
個人が・・社会に適応する、人に対して適応する、社会システムを上手く機能させる事に対する「負荷」になるかと手(パー)

その負荷が、「苦しみ」「辛さ」「不安」等になるのかもです・・

>それだけでその苦しみは、幸せにつながるのではないでしょうか?
これも一つの苦しみですよね。

「喜び」や「成功」や「楽しみ」が、プラスの感情として、「苦しみ」を和らげるという効果もあるでしょうねぇ・・
ある意味「プラスの感情」にのみ注目できる人達は、ポジティブに生きれるのかもですが・・

>人は、有史以来、様々な社会制度の下、同じような苦しみについて書き残しています。
果たして、社会というものはそういった事を無くせるものなのでしょうか? 自分は答えを持ちません。
そして何の負荷もかからない状態というのも、自分はあまり想像が出来ない。

個人的には「社会」というのは、「人間にのしかかる負荷を減らす為」に構築されたのではないかと思っています・・
ただ、今では・・人間が人間に対し、社会が人間に対し、バラバラ(不均等)な負荷をかけてしまってる可能性も感じてます・・

>>[800]

>そうなると、他者がどの程度辛いと思っているか?とか、どれだけ苦しいと感じているかとかは、指標となるものが無いのです。

そうですよねぇ・・「具体的な指標」というものが存在しませんよねぇ・・
まぁ〜、慢性的に辛そうにしてる人 だとか いつもオドオドしてるとか・・
そういう抽象的な部分でしか把握できない・・
今だったら「うつ病」だと診断されなければ、ただの「気弱な人」なのかなぁ〜みたいな判断しかされないかもですね・・

もっと「人間の内面の部分を数値化」した、「具体的な指標」みたいなのが誕生しても良いかもですねぇ・・冷や汗
俺も以前は、うつ病等になりかけた経験が(何度か)あるので、そういう話には敏感で・・
俺の知ってる情報では、約300万人の人達が、ひきこもりにあるとか・・
これに「ひきもりたい」人達の数を加えると、必ずしも、世の中の人達が「生き辛さを感じていない」とも思えないのですが・・

>逆に、他者が自分と違って敏感ではないように「見える」「推察」できるだけで、実際、本当に他者が敏感ではないかとか、何も感じていないなどはわからないはずなのです。

これも、「具体的に数値化」して表さないと証明できないのでしょうねぇ・・あせあせ(飛び散る汗)
アーロン博士の著書を読んで「そぉー、そぉー、そーなんだよぉ」って共感した箇所が多かったのは確かですが・・
(普段、あまり何かに共感する事は少ないのですが・・)
ただ、敏感な機能は、常に働き続けるわけではなく、限界値に達してしまったら機能しなくなります・・
正直、たとえ敏感でも、それを「上手く社会で活かす事」が難しいのが現状だと思います・・疲れ易いですし・・

>「良い」とか「正しい」を全員に適用する為には、神様の世界とかイデアみたいな、「良い」や「正しい」のモデルとなるものが必要になります。

個人的には、そのイデアみたいなものの存在には興味あります・・あるような気がします・・
ただ、もしかしたら、過去の宗教みたいなものにも・・それらのヒントとなるものは存在するのかもです・・
俺は、宗教等にはうといのですが、いつからか「幸福」「平等」「平和」等の言葉や概念に惹かれるようになったのです・・
ほんとに、ぜんぜん興味は無かったし、むしろ否定的だったかもですが・・げっそり
ただ、そういう言葉に対して「批判的な人」も存在するのも分かってるので、使うのにためらいもあるのですが・・
(正直、人の弱みに付け込む利益優先の悪徳な団体や商売も多く存在する影響でしょう・・)

>この「種内競争」の場として第二の自然(文明社会)があるだけなのではないかと思うのです。

「種内競争」というものを考えるとなると、「優秀な人間」や「優秀な遺伝子」というのも絡んでくるかもですね・・
個人的には「優秀な人間」というのが・・「どういう人間?」であるのかが興味の沸く所ですが・・
まぁ〜、「今の時代」であるなら、「常に活気のある人間」や「経済能力に長けた人間」みたいになりそうですねぇ・・
実際、家庭を築いたり子孫を残しつつある人達は、そういう人達かもですが・・

>もちろん負荷がかかり過ぎるのも問題ではありますし、負荷がかかる場所が偏りすぎるのも困るでしょう。

個人的には、「人間に負荷がまったくかからなくなる」という状態に至るのは、かなり難しいと思います・・
ただ、「世の人々を生き(易く)させる」ために「社会(システム)を機能させ続ける」には
今は、どうしても「人々にかかる負荷」は、避けられないけれど、
極度に偏った負荷のかかりかた(←ブラック企業問題、いじめ問題もこれかもですが)を適度に調整しなおしたり
太陽エネルギー等の有効利用や、機械、コンピューターの発達等が進めば、人力の負荷は減っていくことでしょう・・

>>[786]

>どうなんでしょう・・上手く答えになるか分かりませんが、人の個性って、「苦悩」や「苦しみ」みたいなものとも関係あるのかと思いまして・・ 。人は「苦悩」や「苦しみ」などから逃れる為に、いろいろ考えたりする内に個性が発達したり・・


そうですね。人生上の苦しみといかに向き合うか、いかに戦うか、どのような答えを出し、どう行動するかというプロセスを通じて、僕たちそれぞれの個性は大いに練られ、独自の発達を遂げるかもしれませんね。
>>[802]

>他者との「感じ方」や「感じる度合い」の違いをどうやって知るかが問題ですよね

そうですよねぇ・・「HSP」について知ったのは、俺も最近なので偉そうには言えないのですがたらーっ(汗)
少なくとも、「人の感度」と「人の生き易さ」みたいなのに関係性があること・・
「人の感度」には、「個人差がある」ということ・・この二つは、存在するような・・

ただ、これは、「具体的な数値」として、まだ捉える試みが行われていないのも事実かもですね・・
個人的に思うには、「感度」であったり「ストレス度」みたいなものを、もっと明確に表す試みが行われていっても良いのかと?
そういうのを測る装置であったり、手段が発達しても良いかと・・
それでなくとも、人は「心の苦しみ、辛さ」を隠す傾向があります・・

社会的な広範囲なレベルで、それらを確認して管理していく行いがあっても良いのかと・・
そういうのをはっきり調べたら、「人間は無理している」というのが見えてくるかもです・・
人々は、思ってる以上に、ストレスや負担を抱えて溜め込んでしまってる気がします・・

気になってるのは、それらが溜まってる量よりも、「バランス」です
上手く、バランス良く「分散」されてるのではなく・・「一部に極度に溜まり過ぎている」ような気もしてます・・
社会全体のストレスや負担、負荷を、より人々に均等化する事の方が、社会は上手く機能するのではと思っています・・

>それが、遺伝子レベルで組み込まれているもの、つまり本能が関係しているとするなら、競争を弱めるルールが生まれることはあっても、競争を否定するルールは生まれない(生まれないというか生まれても定着しないはず)

「競争」に関しては、以前から、個人的にあまり好きなものでは無いのです・・
(まぁ〜、若い頃はどうしても、周囲の煽りに乗らざるをえませんでしたが・・)
なんか、これも「HSP」の特性の1つみたいなんですが・・げっそり
ただ、「なぜ好まない」のかの絶対的な理由は分かってませんが・・
おそらく「競争して得るモノ」よりも「競争せずに(協力して?)得るモノ」の方が大きいような気がしてるのかもです・・

個人的には・・「ほんとに人間が競争を好んでやっているのか?」に疑問を抱いています・・
何か、過去からの惰性であったり、違う事が要因となって行ってしまってるのではないか?
みたいな考えもあります・・

>自分も今の社会がまったくもって生きやすいものだとは考えていません。改良されていくべきだと考えています。

個人的には、いったいどの程度の数の人々が、そういう風に思っているのかが気になる所です・・
人間社会には、本音と建前というのがあるので・・腹の中では思っていても・・
今の構造の方が、「自分にとっては都合が良い」と考えてしまってる人達もいるでしょうし・・

いま自分が思うのは、やはり「人間、個人個人の負荷、負担、不満、不安」というのが、より均一になっていくのが理想的な社会構造であるかと・・

特別に誰かが大きく苦しんでいたり、強く不満を抱いているのは、社会的にバランスが悪い状態にあるかと・・

>>[797]
まだしつこく逆正弦定理の話にwスイマセン

>プレーヤーの数を増やせば増やすほど、その結果は逆正弦のグラフ形に近似していき、試行回数を増やし続ければ、個々の結果は期待値0の状態に近づく(しかし波として勝ち負けどちらかに振れ続ける。) 結果としてプレーヤーの勝ち組、負け組みは入れ替わるけれども、全体として逆正弦のグラフを描き続けるのはないか? 
>(個々のプレーヤーの試行回数を無限に続く横軸として描いたグラフは部分<横軸のある区間を抽出するという意味>が全体の相似形になるはず、つまりフラクタルですね。)

はい、おおよそそんなところです。

で、追記でSEVENさんにとっては周知かもしれませんが
じゃんけんの方がリードの分岐が始まる試行回数が早く、差が開きやすくなるのは
単に当てやすいか当てにくいか(確率)が関係するの。
単純に言えば、じゃんけんはコイントス勝負よりも「分母が大きいから」早く差が大きく開く。
1/2を連続で外してしまうより1/3を連続で外してしまう方が
その後も変わらず運で当てる(じゃんけんなら1/3の確率で勝つ)原理は不動なので
プラマイ0値を目指してですらも差を縮めづらい。
事前確率が頭にあると、そんなことないように感じるのですけど
コイントスにしろじゃんけんにしろ、何回かに1回必ず勝ちを納められる
といった保証は何らない試行勝負なので
早くたくさん勝ち(負け)を決めた方が不思議なことに
有限の人の中で最もプラス数(マイナス数)を稼ぐことを目指すには有利になるのですよね。
(ヒト目線で「天文学的に有り得ない」確率を一発二発で引き当てると「奇跡」と言われ
更にそれを見た周りの人々がその「奇跡」を一発二発で真似ることが事実上困難で
むしろ先人と同じ「奇跡」に辿り着くには一発二発どころではなく
「天文学的分母数(以上)の試行」が理論上の条件と変わる、ということと一緒)

結局は幸運とか奇跡などといったものはフラクタルな概念ですが
フラクタルな概念に「平等・公平」を求めることは
究極あるとかないとかいう概念を作れなくする世界を求めることにつながるのだと思います。
つまり、ヒトが生きること生まれることも否定排斥する世界です。
(有無の概念とはフラクタルな中に規則性や再帰性を無理やり見出すことでありますので)
フラクタルな概念は人生を楽しみ深みを生み出すためのもので
正しさを”求める”(正しさの解を出す(もとめる)、という意味も含める)ための概念ではないのでしょうね。


>実際的な対処としては、幸、不幸を直接取り扱うのではなくて、苦痛(肉体的、精神的)であるとか飢餓であるとか退屈であるとか、そうした個々の原因をいかに取り除くかに目を向けるべきじゃないかって思いますね。

個々の原因という定義を敷くのがまた困難なのですよね・・・・・
有無の概念の根本はフラクタルな概念となるわけですから
己と他の区別に規則性・再帰性を見つけるとたちまち
「そこは己だけの問題ではないのでは」「そこは他だけの問題ではないのでは」の対立が生じてしまう。
苦痛というひとつにしても「自分が誘発したのか」「他が誘発したのか」で
”いかに取り除くか”の方策は変わります。飢餓でも退屈でも同じように。
その対立もトピ主さんとその主張に懐疑的な人との溝を生んでいると思います。

で、どちらとするのが正しいかは人間の目線ではわかりません。
結局溝を生まなくする方法は
「自分が誘発した」「他が誘発した」の言い合いをやめ統一させることかと思いますが
「他が誘発した」を選択するよりも「自分が誘発した」を選択したヒトの方が
一定一般的に云うところの幸福を獲得しやすいヒトであるように思います。
単純に「他が誘発した」という見方は他の敵視にもつながりますし。

しかし「自分が誘発した」は時として自己の敵視につながりもするんですよね。
そうなれば他の敵視よりも長い目で見ると致命的です。
このジレンマをどう乗り越えるべきか・・・・・・
>>[780]


コメントありがとうございます。

前者の充実も、後者の欠陥の是正も、バランス良く両方とも大切にできると一番いいのかもしれませんね。

真理は善は普遍的なものかもしれませんが、それを具体的にどのような形で実現するかは個性や状況によると思います。

また、正義は万人に共通としても、善は各人の追求が自由になされるべき事柄と思います。
>>[809]
お言葉を返すようで悪いのですが・・・・・・w
「社会の不満は自分で解消していくように」的意見は
今のトピ主さんには通用しないかと。

私は、いやかなり多数のヒトがここまで何度も
問題点を指摘するにしても「”トピ主さんに”できること」はないのか「何かしないのか」
幾度も質問してきました。でも、なぜだか
”社会が自然にそうなってくれれば、誰かが導いてくれれば云々
(そうなれば済む話だろう・・・・・・という解釈もできる)”
”これから自然に自分の空想するようになるのではないか”
的発言に終始されていますw

このトピックで建設的発言がいつまでもないのは当然かもしれません。

【自分は他に何も与えず動かすことができず与えられ動かされる側の人間である
ただ何かを一方的に待ち受けることしかできない立場
こっちは何もできないからしない「その代わりに」不満不服位言わせてほしい】
という認識なのだと思います。
(かなり意地の悪い表現をしてしまいましたがそういうことでしょう)
>>[812]>>[813] SEVENさん
>>[810]の逆正弦定理に関しては、まだ話弾みそうですねえ(笑)
個人的にこのトピックの残りコメント数が気になったのもあって
この続き、別のなつかしトピックで続行したいと思っております。
まだコメントあげてませんが、よろしかったら見てやってくださいまし(・×・)
(上記の理由もありますが「廃墟トピック活用+中途トピック満了」に
すきあらば命を燃やす性分なものでw)

そうですね、私もその小話の不精猫的潔さがあるヒトに対してなら、黙って素直に敬服したかも。

今トピ主さんのしたいこととは、近未来的に何か環境を行動で変えることというよりも
「今の自分の気持ちを言うこと」それ自体 ・・・・・・なのかもしれないと思ったりもします。
問題提起も未来への提案も、「気持ち」それ以上のものではない。
そんなところなのかもしれません。
それを”長い目で見て何かを変えることに繋がる”と見れないのも
私の近視眼的ものの見方であるのかもしれないわけですが(^^;
もしかしたら、「単なる気持ち」それすらも今まで言うことを憚るような
抑圧した人生を送っていたところ、それだけでも言えるようになった
ということなら、それはそれでトピ主さん的に一種の変化を起こしたと言えるでしょうし
「未来を行動によって変える」ということすら何であるかなど、一概には言えないのかもしれない。
(なんかやっぱりカウンセリング的・・・・(;×;))

ただ、>>[810]で述べられた「コスト」私も重要だと思う点で・・・・
例えば「行動なんかなくても気持ち・コトバで世界を変えることができる」と考えるにしても
それがどの辺りまで可能であるのか、使うコトバによってその影響は変動しないのか
どこでどのように表現するのか、誰のためのコトバ気持ちであるのか
いつまでにそれを達成したいのか、自分が死んだ後でもいいのか
など、考えるべきところはたくさんあって・・・・・・・
気持ち・コトバであったらなんでも世界が思うようにとかいいように変わるわけではなく
何気ないと見えるその中にも、綿密な計画性がありありと見えたときに
「気持ちコトバで世界が変わる」こともある が実情なんではと思うのです。

言うこと「だけ」で死ぬまでに変えられることなんてどれだけあるかと思うと
「言う、そして目に見える行動する」が確実
だと私はなんだかんだで結論に至ってしまうわけですけどw
とりあえず表現という行為を除く行動を一切介しない世界の変革の可能性も考慮してみようと思い
上記のようなことを書いてみました。

ポスト0でも述べられている通り
>「幸せだと感じていなくても・・生きている、生きる事はできている」
これは紛れもない事実であります。
「幸せじゃないし(不満気持ちはネットのおかげで言えるようになった代わりに)
何もしないから思うように何も変わらないけど、生きることができているからとりあえず生きてみる」
という人生を、どこまで続けられるか試してみるのもその人の生き方だと思います。
それを究極まで続けて「これが最も楽」と思えるならば、それはそれで納得な人生なのだと思いますし
「もうこんな生活たくさん・耐えられないから別の行動起こす」と決めれるようになれば
それはそれでしめたもの。

それすらも、合点がいくまで試すことで「確実に自分の中でわかる」に変わるんでしょう。

>>[810]
>ねりたんさんの言わんとすることとは違っているかもしれませんが、こうした有限として切り取った時に現れる偏りが、我々を生んだのかもしれないです。
>もしかしたら、物質が有るという事にも関係しているかも…(飛びすぎかもしれないですがw)
>卑近に戻すなら、こうした偏りが無かったら、トランプなんてやってもたいして面白くないわけですよ。

いや、仰る通りだと思いますよ。
私たちは無限という計り知れない「神の領域(正直神と言うコトバは好んで使いたくないのですが)」の中の
一部であります。
死ねばそこに還るのみです。私はそのように見ております。

と話飛躍しすぎですねw

トランプゲームの偏りは置いといて欲しいけど、ヒトの不幸・苦しみを齎す偏りは減らして欲しい
なんて都合よく世界は作られっこないのですよね、言わずもがなですけど。
それこそ世界の不公平を望むこと同等です。
ヒトだから・弱者になってしまったから世界が贔屓してくれる奇跡などは存在しない。
奇跡を望んでない、万人に幸せがより平等に齎されることを望んでいるだけだ
という理屈も結局は「何によって幸福感が齎されるかバラバラだった場合奇跡で事実を補填して欲しい」という
よくわからない法則を望むことになるのです。
※それを避けるために個性を統一とかトピ主さんは色々提案してるようですが
カオス理論上「一時的にしかそうならない(統一しきっても再びバラバラになる)」と私は考えています。
自己と他者という相関関係そのものが既に個性の個別化であり統一からの離反なのですから・・・・※

これも今更ですが、世界は情け贔屓でヒトを生み出したわけではない。
だから「この世界全体」というマクロな視点に立てば、私達は残念ながら
全く不公平でもないし不平等なわけでもない。
むしろ理論値割れという優遇期間中同然の区間に位置しているかもしれない。
もちろんヒトを産みだす母親は、こどもという価値への情け贔屓でこどもを産みだしたかもしれないけれど
私達というそのものに情けをかけててくれたことで産みだされたのではない。
結果的に私達に情けをかけてくれる立場になってくれているとしてもです。

世界も他者も、本質的純粋にアプリオリに(しつこいw)
「自分そのもの」には情けを絶対的にかけてくれてなどいない。
だからこそ自分が不公平な立場になったとき、最も絶対的情けをかけられ得るのが
「自分」であると心得るのが妥当であり、そのことを示すのが
「幸福とは感じるもの」
というコトバへも繋がってくるのだと思うのです。



あ、最後に☆逆正弦定理関連の続きですけれども
「〜メンバー交流板〜」というトピックにコメントアップしました(・×・)よろしくです。
・・と実はこれが言いたくてこのコメントを書いたと言う説も(失礼しましたww)
>>[809]

具体的に、何をどう変革していくのかに返答ができてなくて困惑させてるみたいですねぇ〜冷や汗
(一応、そういう空気は読んでいます・・具体的なアイデアが頭に無いだけですw)

>今の社会は、ストレスを数値化して社会の側が管理してくれるようには出来ていません。
だからこそ、かつさんは管理があっても良いのにと書かれているのでしょう。
では、それを目指してがんばってください。

まぁ〜、「人のストレス」やら「人の幸福度」やら、人の内面をこと細かく「数値化」(具体化)する試みは面白いアイデアかもですexclamation
それが具体化するほど、社会(や、システム)のどの部分に不備や加重がかかり過ぎてるのかも把握できてくるでしょう・・

よく、経済や収入等は、人と人(企業と企業等)との比較に使われますが・・あれも、数値化(具体化)されてるからだと思います・・
最近、ビッグデータなる言葉も気になってますが、そういう時代になりつつあるのかもです・・
社会は、もっと「人の内面」「人と人とのバランス」というものに目を向けていくべきなのかもです・・

個人的には、人々がストレスや不安感や違和感やらを効果的に解決する箇所が弱いのでは?と思ってます・・
(何か他で紛らしたり、他に八つ当たり みたいな・・)

>かつさんが競争が嫌いなら、競争を避けて、協力して何かを行ってください。
世の中には競争が好きな人も、競争が嫌いな人も居るでしょう。

個人的には、「競争」というものと、「人間の幸福」の関係を把握したい所です・・
世界的に観て、競争社会の方向に向かってるのは向かってますが
「競争の激化」や「経済格差の拡大」を危惧する声も聞かれます・・

>競争や負荷に関しても同じ、で、かつさんはどうするのか、どうしたいのか。それだけだと思うのです。

「不要」であることを唱えるなら「不要であるという確かな理由」というものが必要なのでしょうねぇ〜目
現状、「今の社会(構造)が人間にとって最適(最良)な状態」にあるのなら、不要な箇所も欠陥も無い・・
世の人々が幸福な状態にあるというのなら・・人間って、幸福なのだろうか・・?たらーっ(汗)
>>[816]
横からすいません

>まぁ〜、「人のストレス」やら「人の幸福度」やら、人の内面をこと細かく「数値化」(具体化)する試みは面白いアイデアかもですexclamation
>それが具体化するほど、社会(や、システム)のどの部分に不備や加重がかかり過ぎてるのかも把握できてくるでしょう・・

面白いアイディアかも
ってもう随分前から実用化されてますでしょ?
あなたが注目したHSPとかでも、数値化と具体化が実用化されているからこそあなたは診断できたのですよ。
あと、SEVENさんとは多少触れたところですけど、
身体及び精神障害者への障害者年金保険適用に利用する等級なんかもそれです。

でもあなたは「既にあるよね」とピンとこなかったご様子。
なぜだと思いますか?
「意外にも社会的にはあくまでも目安的参考以上になりえない非実用的なものだから」
でありますw


例えば、鬱病の判断にどんな基準があるかというと現在は
患者との問診から判断
ですよね。脳を診たり内臓を検査したりなど殆どしないわけです。
つまりw
何かの利益を得るために鬱の症状を「具体化や数値化された情報をもとに」自分にそんな症状などないにもかかわらず
そういう症状がある出ると言い張ったとしても、鬱の診断を受けることができてしまうんです。
これで実際鬱病患者数が上乗せされていることがあります、ソースはアテにならぬかもしれぬ私の口コミですが。

これは数値化や具体化が実用化しても思うほどあてにはならないという一例です。


数値化や具体化は、不透明な部分を明確にしてくれる代償として
必要のないヒトにすら自らへ適用活用の活路を見いだせる仕組みを齎す
ということになります。自由に情報を獲得できるのですから当然です。
しかし、それを規制すればギリギリ必要である側といった微妙な立ち位置のヒトに情報が行き渡らない危険性も出ます。

数値化・具体化すれば何もかも解決する
そういった単純な問題ではないのですよ、「幸福」にしろ、こころが根元の問題は全て。

>>[817]

数値化されてると言っても、あくまでも「曖昧」な状態ではないかと考えてます

もっと、「自分の状態を具体的に把握できる何か」が必要なのではないかと・・

もちろん、調べたければ、いろいろな自己診断的なテストを行ってみる事も可能でしょうが
それらがどこまで信用できるのかも怪しい所でしょうし・・

それに個人的には、「そういう事を気にしていない人達」の状態が、むしろ気になるのです手(パー)

たとえば、「フラストレーション」や「ストレス」を溜めてる人達でも
(内に溜める事しかできないと、欝になり易いでしょうが・・)
外に吐き出す事によって、なんとか解消してる人達も・・けして良い状態とは思えない・・

「欝にならない」からといって、安心(安全?)な状態ではなく・・それももっと具体的に内面を把握できたら見えてくるでしょう・・
中途半端に「解消(対処)してしまってる」から、気付かなくなる・・
いかに社会に、「怒り」「嫉妬」「ねたみ」「苦痛」「恐れ」等が蔓延してしまってるかが分かるはずです・・目

今は、あくまでも「人が感じる」ことでしか、そういう事を捉える事ができませんが
そういう事を敏感に感じとってしまう人達にしてみれば、違和感を抱かざるをえない・・

むしろ今(社会や人々が)ある状態を、「具体的に数値化されていない」からこそ、現状を把握されていない・・
人々は、自分達が思ってるほど「幸福な状態にない」のが、現状なのです・・おそらくバッド(下向き矢印)

>>[818]
数値化具体化が羨ましいですか?
例えば、何点から何点まではとか具体的に何なら不幸で何点から何点までor具体的に何なら幸福なんてことになったら、人々の不公平感を増幅させる現象が必ず起こります。

例えばですけど、
日常的にありがちな会話として・・・・・日本で死にたいと嘆くヒトに対して
「もっと他国では貧しくても死にたいとか言わずに必死で生きてるのに」だとか
「生きたくても生きられなかったヒトがいるのに」だとか
そういうことは今までよく見てきましたね。
具体的にし数値で境界を作ると、このような言い合いはますます増えてきます。
単純に考えたって、数字の1は2と等しい数字ではありませんよね。
1は2とは全く違う数字、つまり数値化が厳密になれば
境界線上の人々の間で
「自分はたった1ポイント足りなかったばかりに(確かに幸福など感じてないのに)幸福扱いにされた」
「自分はたった1ポイント足りなかったばかりに(確かに不幸を感じてないのに)不幸扱いにされた」
そのような不満が更に吹き出ることになるのですが、それに関してはいかがお考えでしょう。

>人々は、自分達が思ってるほど「幸福な状態にない」のが、現状なのです・・おそらくバッド(下向き矢印)

上を見ればきりがない
という単純な意味でならそうでしょうね。
どこを最高と設定しても、もっと最高は常に更新されますので、この世の中。
それに対して単純に落胆するか、落胆する必要はないと思うかは人それぞれです。
かつさんは落胆するヒトなのでしょうね。
のあああwあげるつもりなかったのに半から揚げしちゃった・・・・・(;×;)
仕方ないので失敗コメ削除の上無理から書くwwwww



http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=929559&id=76373300

運動会で一等になれなかった子やびりになった子がかわいそうだからみんな一等賞にしましょうとか
運動会はこのように差別を生む反道徳的行事だからどの学校もやめましょうとか

・・・・・そういったことでしょうかね(・×・)


とか
そんなことを上記のリンク先見てたらば、またこのトピックを思い出してしまってましたw

ここのトピ主さんとリンク先のトピ主さんは、スタンスがほとんど一緒ですね・・・・
あっちのトピ主さんはどう思うかはわかりませんけど
最も定義を明確にしておかねば伝わらぬ部分がバズワードで埋め尽くされてるのと
ペシミズム全開なのはとりあえずまる被りですね。
カウンセリング的主張だという自覚が主さんに多少なりともありそげなとこだけ
このトピの方がまだ個人的に救いに見える。


http://www.idea-moo.net/chi-taiken/frame.html
***********************
 だが、「人間だって、アルゴリズムに従い思考して行動している。人間ができることをコンピュータやロボットが実行できないはずがない。」こういう考え方が人工知能論では依然として根強い。計算主義と呼ばれる立場がその急先鋒だ。言語学者で体制批判の著名な評論家であるチョムスキーなどもその一人だ。

 私は、これはドクマに過ぎないと考える。自然は数学という言葉で書かれているというドクマだ。

 自然も人間も、数学という言葉で書かれているのではない。数学は、自然と人間を合理的に把握するために、人間が作り出した(非常に強力な)道具に過ぎない。しかし、それが世界を覆い尽くすことはない。このように考えたからと言って、霊魂など物質に還元されない神秘的な存在を想定しなくてはならなくなるわけではない。

 では、人間はどうやって無数の課題を適切に処理することができるのか。おそらく、問題の認識⇒問題解決という図式で人間の行動と思考を捉えたのでは、謎は解けない。人間は数理論理学的シミュレーションではない。フレーム問題は疑似問題だ。

 人間は自然現象だという当たり前の事実に、謎を解く鍵がある。
***********************

人間は一様に○○になる(〜である)べきである
って思想を掲げるヒトって、「人間は自然現象」と表現する上記のような考えに
本能的部分では同意しつつも理屈で反発しちゃってるとこが厄介なんだろうな。
思想の部分が「本能的に反発/理屈で同意」という上でのそれならまだましなんだけども・・・・
(どっちかというと双方逆でないと思想の中身が簡単に破綻する)

と、私もバズワード全開になっちゃったな(・×・)サーセン

ログインすると、残り799件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

哲学が好き 更新情報

哲学が好きのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング