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上田合戦コミュの☆第2次上田合戦−概要

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1600(慶長5)年9月、関ヶ原合戦で西軍に入り、信州の上田城に籠もった真田昌幸・信繁(幸村)に対し、東軍の主力部隊を率いた徳川秀忠(家康の後継者)が攻めた戦い。
戦力は徳川方3万8000人に対し、真田方は多く見ても5000人だったと言われている。

               ☆

1600(慶長5)7月下旬、西軍に加わることを決めた昌幸と昌幸の二男である信繁(幸村)は上田へ戻るため、東軍に加わることを決めた昌幸の長男である信之と別れ、それまで上杉討伐のため徳川氏に従い滞在していた下野国の犬伏宿を出発した。
昌幸と信繁(幸村)は上田に向かう途中で沼田城に立ち寄ろうとしたところ、沼田城にいた信幸正室である小松殿は2人を城内に入れるとそのまま占領されてしまうことを危惧し、昌幸らの入城を拒否。
昌幸・信繁(幸村)は、沼田城への入城をあきらめた上、攻撃もせず上田へ帰る。

信幸は小山に着陣した家康に拝謁し、東軍に加わったことを報告した上で、嫡子である信政を人質として江戸へ送ることを確約し、忠誠を誓う。
家康は東軍に入った信幸を大いに褒め称えたと言われ、昌幸の領地である小県郡を信幸に与えることを約束。

7月下旬、福島政則・池田輝政らが東軍先発隊として西に進軍を始める。

8月上旬、石田三成が大垣城に入城し、東軍との衝突に備える。

福島らの東軍先発隊の活躍を知った家康は、上杉氏への牽制で宇都宮に留めておいた秀忠に西へ向かうように命令。
軍勢の規模を見て、秀忠が率いる隊が徳川本隊であったという説がある。
秀忠は東西決戦が行われるであろう尾張方面に向かう途中で、信濃の諸大名で唯一西軍に加勢した真田昌幸・信繁(幸村)を征伐をすることになり、信幸にも参加命令が出る。
秀忠に従い討伐に参加した主な武将は、榊原康政・大久保忠隣・大久保忠常・本多忠政・酒井家次・奥平家昌ら。
この時、家康から秀忠の補佐役を命じられていた本多正信は真田討伐を反対したが、これを秀忠は聞き入れなかったと言われている。

東軍先発隊は大垣北方の赤坂まで兵を進めて、家康が来るのを待つ。

8月下旬、秀忠はまず真田氏を討つ為に宇都宮から中山道を西へ向けて出発し、松井田に到達。
東軍先発隊は岐阜城を陥落させ、さらに合渡川の戦い、犬山の戦いにも東軍が勝利。

福島政則ら東軍先発隊の快進撃、西軍への内部工作の進展、そして伊達氏からの支援で上杉氏の南下が不可能であることなど、有利な状況が整ったと感じた家康は9月1日になって、ついに江戸城を出て東海道を西へ進み始める。

9月2日、秀忠は道案内役の信幸ら諸武将を率いて小諸城に着陣。
真田信幸と本多忠政を上田へ派遣して降伏を勧告。
(忠政は小松殿の兄であり、信幸にとって義兄。)
信濃国分寺で徳川方と真田方の会見が行われる。

9月3日、上田城で籠城している昌幸が信幸を介して秀忠に降伏を打診したが、翌日9月4日に昌幸の降伏は嘘であることが判明。
時間稼ぎであることを知った秀忠は森忠政に真田氏への攻撃を命じた。
これにより、秀忠方(東軍本隊)と真田昌幸・信繁(幸村)父子による第二次上田合戦が始まる。
攻める秀忠方の3万8000人に対し、これを迎え撃つ真田方は多く見ても5000人だったと言われている。

信幸に信繁(幸村)が守る砥石城への攻撃を命じられ、あわや兄弟対決になろうかという場面だったが、兄弟対決を嫌った信繁が(幸村)が砥石城から上田城へ退却し、それは回避された。
信幸はまず、信繁(幸村)が退却した砥石城に隣接した伊勢崎城に入り、続いて砥石城に入いる。
これに伴い秀忠は、味方である信幸が入った砥石城を背にして、上田城と向かい合う染屋の地に陣を構えた。

秀忠は稲刈り奉行を任命して、稲の刈り取り作業を始めた。
上田城から数十人の真田方の妨害部隊が出てきて秀忠方を挑発。
真田方の兵を追って、秀忠方の兵は我先に上田城の城壁近くまで押し寄せた。
この瞬間を狙っていた真田方は城内から一斉射撃を始めた。
上田城内から真田の部隊が出てきたのを見て、人数で勝る秀忠方はこの挑発に乗ってしまう。
上官が攻撃を制止しても止めることができない状態になり、秀忠方は上田城の周りへ押しかけ、城内からの一斉射撃を受け大きな損害を出した。

真田氏の策略によって秀忠方は混乱に陥って敗退し、砥石城までも真田方に奪還されるなど、上田城周辺で激しい攻防戦が繰り広げられた。
秀忠方の中で7人の槍の達人が真田氏との戦闘で目立つ戦果を収めたようで、この武者達には「上田七本槍」と言う異名がついた。
秀忠方は大混乱に陥り、多くの死傷者を出して神川を越えて撤退し始めた。

本多正信は軍令違反をした武将を罰した。

9月7日、秀忠は上田攻撃を中止し、上田小県から小諸城に退却。

その後も再攻撃を検討したが断念。
9月11日(8日説も有)、秀忠は真田氏討伐をあきらめ、関ヶ原に向けて小諸城を出発。
秀忠方は真田の勢力が支配している和田峠を避け、大門峠を越えて諏訪経由で木曽へ向かったが、仙石秀久・森忠政・真田信幸らは上田城への押さえとして小諸城に残った。

この時点で、徳川氏は家康による第一次上田合戦に続いて、その息子秀忠による第二次上田合戦に際しても、上田城周辺に兵が押し寄せて一斉射撃で叩かれ、その後、士気が低下するという同じ失敗を繰り返したことになった。

9月15日、関ヶ原合戦が起こり、三成が率いる西軍は裏切りが続出し、家康が率いる東軍に敗れた。
この時点で秀忠は、関ヶ原から遠く離れた木曽付近にいた。
真田氏討伐に手こずり失敗した秀忠は、関ヶ原合戦に間に合わず、関ヶ原に着いたのは勝負がついてから4日後の9月19日だった。

秀忠は、激怒した家康としばらく面会できなかったという。
これは西軍が84000人だったのに対し、東軍が75000人という不利な状況下で、到着すれば兵数で逆転できる秀忠隊38000人が間に合わず、不安定な西軍からの寝返りに頼らざるを得なかったことが家康の怒りを買ったと言われている。

               ☆

次男信繁(幸村)の正室である利世(竹林院)の父大谷吉継は親友である石田三成に従い西軍として関ヶ原にて戦死。
昌幸五女の夫である宇田頼次は、姉(または妹)が石田三成の正室である事から、父頼忠と共に西軍として石田三成の居城である佐和山城にて籠城し、関ヶ原で西軍が大敗した後、東軍や小早川氏など西軍の裏切り隊による攻撃により戦死。

               ☆

この戦いで東軍に入った信幸は、昌幸から貰った諱である「幸」を変えて信之に改名し、徳川氏への忠誠を誓った。

家康は昌幸・信繁(幸村)に切腹を言い渡したが、信之が井伊直政や小松殿の実家本多氏を通じて助命嘆願をし、恩賞も辞退したため、家康は助命嘆願を受け入れて、昌幸・信繁(幸村)の切腹は回避された。

家康は死罪を免除し、昌幸と信繁に対し高野山での幽閉を命じた。

1600(慶長5)年12月13日、昌幸は近い立場にあった16人の家来、信繁(幸村)とその妻子らと共に上田を出発。

※上記文章は随時、訂正・改変される可能性有り

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