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2017年 安部政権 対 ?、?、コミュの大日本帝国が、そこに殉じた軍人・政治家だけでなく多くの市民を巻き添えに崩壊した跡には、焦土と化した「国民経済」の残骸が残された。

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資本主義像の再構築(7) 国家と経済の結合―日本のばあい :世界資本主義を考える

https://s.webry.info/sp/48862558.at.webry.info/201704/article_7.html




資本主義像の再構築(7) 国家と経済の結合―日本のばあい 

2017/04/09 13:28




(4)日本のばあい

 徳川幕藩体制の日本において「我が国」は「我が藩」を意味した。日本が主権国家たることを迫られたのは、アメリカ、ロシア、フランス、イギリスの軍艦によって開国を迫られたことである。

列強の開国要求に対して統一国家として対処すべきことは、佐幕派にも反幕府派にも異論はなかった。



 明治維新は、(1)列強の武力に対する統一的な国防体制としての「国家」の形成、(2)版籍奉還→天皇制国家による主権国家の形成、(3)廃藩置県による全国単一市場の形成、(4)藩札を廃止し、政府紙幣発行による通貨の統一、を一挙に実現し、近代国家形成のスタートとなった。





 日本は日清・日露戦争をとおして「資本主義と国民国家の結合」の軌道に乗った。(註)
 
(註)維新直後の世界経済と日本経済を概観しておこう[石井寛治『日本の産業革命』]。



 1882年初、リヨン株式市場の暴落に発端し米鉄道ブームの崩壊で4年間世界不況がつづいた。世界不況は、対米仏の生糸輸出の減少をとおして日本にも波及した。

英独仏からの資本輸出により、米鉄道ブームが再開し、ヨーロッパの対米鉄道資材輸出も増大した。

しかし、日本は外国人の直接投資を禁止していたため、ヨーロッパ資本投資の影響はなく、国内の賃金・金利低下によって景気が回復した。




輸出の増加がみられたのは、生糸(対米)、こめ米(イタリアへの飢餓輸出)、銅(足尾銅山、対中国・インド・イギリス)、石炭(官営三井炭鉱、三菱高島炭鉱 対上海・香港・シンガポール=欧米の汽船・軍艦の燃料用)であった。


輸出増は国内消費を拡大したが、織物輸入は増加せず

(1870年代半の在来織物業の再編があったため)

国産織物の増産をもたらした。1887−89年、1万錘規模の紡績会社(のちの3大紡績)が、大都市商人の株式払い込みによりあいついで設立された。



鉄道は、1886−92年、14鉄道会社が開業し、私鉄の営業線は 国営鉄道を上回った。

鉄道投資は、綿紡績の10倍以上の巨大資本を必要とするが、その資金調達のための近代的銀行システムがすでにできていたこと、

松方デフレで社会的資金が銀行に集中していたことが、鉄道の銀行を介しての資金調達(銀行が株式担保金融)を可能にした

[古典的景気循環]。





日銀も鉄道株を担保とした手形割引に応じ、鉄道株暴落による銀行の破綻を防いだ。

鉱山業が 三井・三菱・住友・古川の財閥を育てた。



1886.6

海軍公債500万円が発行され、5%の低利であったのに、応募は3倍あったことは、国内資金の動員が国内産業の育成にとってはかなり可能な水準にあったことを示している

[あとで見るように、「強兵」には外資が不可欠]。










 ●日清戦争に向けての軍拡

 明治新政府が旧幕府から引き継いだ艦隊はきわめて貧弱で、遠洋航海可能は2隻のみであった。

1874年の台湾出兵でその不足を痛感し、以後本格的な海軍建設に向かう。

1875年イギリスへ2隻発注

(312万円 当時の国家予算六千万円)

したほか横須賀造船所で年3隻ずつ建造の計画を立てた。




「富国強兵」と一口に言われるが、明治政府内には「富国」派(殖産興業派、軍拡抑制派)[松方、伊藤博文、井上馨ら政府主流派]と

「強兵」派(軍拡優先派)[岩倉右大臣、陸海軍ら]の対立があった。




明治14年(1881)の政変で大隈重信大蔵卿が失脚し、「富国」派の松方・井上財政となったが、陸海軍からは大軍拡の要求が出された。


海軍は20年間に60隻建造(4千万円、年3隻 二百万円)と新造船所建設(5年間で300万円)。

陸軍は定員4万人の充足を要求。



陸海軍合わせて82年度予算での軍事費要求は、81年度予算を700万円上回った。




 これにたいして、松方正義大蔵卿は緊縮予算を貫き、陸海軍の要求を退けた。のみならず82−84年度の3カ年緊縮予算方針を決定し、軍拡凍結の予算とした。




 ところが1882じんご壬午事変(註1)を契機に対清戦争に備えて軍拡へ転換。海軍の要求は壬午事変を経て4千万円から7千六百万円へと拡大した。


松方も、たばこ税を財源に軍拡を承認せざるをえなかった。対清政策でも、 緊縮派(井上馨、松方正義)は対朝鮮不干渉を主張し、

軍拡派(山県有朋、大山厳)は対清対決を覚悟した積極干渉論を主張という対立があったが、

緊縮派が対朝鮮不干渉政策を貫くことはできなかった。



(註1)壬午事変:1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件





 1874台湾出兵のさいは、日清双方の海軍力はともに貧弱で対戦はなかったが、これをきっかけに 日清の双方が海軍力拡大へ向かった。

1875年、日本はイギリスに2艦発注し、木造艦を毎年1隻国産。

1874年、清国は海関税の2割(年400万両)を海防基として支出すると決定。

1874年以降イギリスに8隻発注。1879年、日本の強引な琉球処分により、清国はドイツに鉄甲艦2隻(定遠、鎭遠)発注し、海軍大拡張へ。


 1885年にはイギリスがロシア南下の驚異に備えるために巨文島を占領する巨文島事件が起き、日本の対朝鮮政策も転換し、対ロシアが第一となった。


 軍拡による財政危機で86予算編成できず。 緊縮派(伊藤、井上、松方)が主導権握り、軍拡方針の撤回を要求。

軍が抵抗し、海軍公債の発行(1886年度より3年間で1700万円の内国債)と軍拡案の縮小で妥協した。





 日清戦争の戦費調達はどのようになされたか。


  嵶彁軍事特別会計」に計上されたのが、陸軍省所管 1億6452万円、海軍省所管3996万円、 計2億0048万円[参考:1893年度一般会計歳出8,452万円] 

内債を募集したが、政府はあらかじめ、日銀借入で軍事費を散布し、これを公債で回収した形になった。

これは1930年代以降の日銀による赤字公債引受による戦費調達の先駆であった。





●日清戦争の勝利で金本位制へ

 公債を租税で償還する「租税公債国家」機構が資本主義的国民経済成立の前提であるが、これは独・日においても創設された。

これに加えて、ドイツは工業開発(産業革命)による輸出拡大で外貨を稼ぐが、日本は第一次世界大戦時の輸入急増期を除いて、貿易は輸入超過であった。。



日本は羚馭綵金を基礎として明治30年(1897年)に金本位制度の制定を強行した(註)。

その理由の一つは、これによって対外信用度を向上させ、外資導入の条件をつくることである

[日銀、戦前期の外資導入、日銀サイト]。





日本の外国債発行は、軍拡のほかに、鉄道・電力等のインフラ整備や国際収支の赤字補填にも必要であった。


(註)日清戦争の賠償金364百万円のうち、308百万円が軍事費として費消された。



金本位制国は信用リスク低いと見なされ、国債金利が低い。

日本は1897金本位制移行で、日露戦争戦費と戦後国債整理費用をロンドンで調達できた。

日本は、1900年代、ロンドンで最大の国債発行国であった。 
 









●日露戦争と外債による軍拡

 開戦を前にして、政府による戦費の見積もりは、以下のようであった。

ロシア:1903末外貨建て公債残高42億ルーブル(うち3/4がフランスからの借金)。

利払いが年1.8億ルーブル。ロシアの日露戦争のための戦費予想は5.5億ルーブル〜8億ルーブル。



日本:当時の日本の兵器生産能力は、小銃・機関銃は国産化していたが、主力艦と陸軍の火砲はすべて英仏独等からの輸入に依存したから、外貨が必要であった。

戦費の見積もり4.5億円(註)に対して開戦時の日銀保有正貨の余力は0.52億円。

戦費の1/3(1.5億円)が海外流出するとして、正貨の不足分は 0.52億円−1.5億円=▲0.98億円= 約1億円となる。

これに備えて 政府は開戦直前の1903年12月ポンド建て公債2000万ポンドの募集枠を決定した。


(註)4.5億円が日本経済にとっていかに大きな金額であったかは、1903末の全国銀行預金残高7.6億円、一般会計規模2.5億円を見ればわかる。 戦費見積もりは、最終的に20億円[陸軍12.8億円 海軍2.2億円]にまで膨張した。





 ロシアが1905年5月バルチク艦隊の派遣を決定すると、政府は戦費の拡大に備えて、1905年6月高橋是清に公債2億円の追加募集を指示した。

日露戦争は、ロンドン国際金融市場における信用力の闘いでもあった


[板谷敏彦『日露戦争、資金調達の闘い』新潮選書2012]。





ロシアは1889年に65.5年満期、4%クーポン債をロンドンで売り出している。これにたいして、日露開戦の直後の1904年2月にベアリング商会が日本に対して提示した日本公債の発行条件は「10年満期、クーポン6%、政府手取り85%、調達金利7.06%(現代式計算法では8.23%)、担保として200万ポンドをロンドンへ預託」というきびしいもので、日本政府は断った。


 高橋是清が渡欧して外債発行の交渉に当たった。


外債発行は当初困難であったが、鴨緑江渡河、九連城占領、マカロフ戦死など戦況の日本優位が伝えられると、一転してロンドンおよびNYで日本公債歓迎になり、1904年5月11日第1回ポンド建て日本公債発行は、大人気・大成功であった。


ただし、日露の公債価格はロシアの方が高く、日露の公債利回りの格差(スプレッド)は、日本の戦況優位にもかかわらず、拡大した。

ロシアの国力は日本よりはるかに高く評価されていたのだ。



ロシア公債の利回りは、ロシアの戦況悪化にもかかわらず変わらず、日本の公債利回りが低下(公債価格は上昇)して、ロシア公債の利回りと同じになるのは、

ようやく1905年3月、日本海海戦でロシア・バルチク艦隊が敗北した後である。[板谷、前掲書]




 日露ともに、それ以上の戦争継続は資金的に困難であり、アメリカの仲介で日露ポーツマス和平交渉となった。

日本は樺太の南半分を獲得したが、ロシア皇帝ニコライ2世の強硬姿勢により、賠償金はあきらめた。


日本の「世論」は小村寿太郎全権の譲歩に激怒、日比谷公園焼き討ち騒動となったのは、周知の通りである。
 







●金本位制による財政規律と世界恐慌によるその終焉


1905.9ポーツマス条約で終戦にこぎ着けたが、賠償金は取れず、戦争の財政負担は大きかった。


国債残高が1903年3千6百万円から1906年1億5千万円へと増加。

税収はこの間1億5千万円から2億8千万円と倍増したが、これが限界だった。



日本政府は、日露戦争の勝利を踏み台にさらなる軍拡の「戦後経営」へ進む。

軍備、鉄道、電話網の拡充。



そのために戦時国債の低利借換を図るが、これも外債に依存せざるを得なかった。

1905年11月第2回4%利付き英貨国債(ロンドン、NY、パリ、ドイツで計5000万ポンド)。

1907年3月5%利付き英貨国債。

1910年5月 第3回4%利付き英貨国債(1,100万ポンド)。




 日露戦争から第一次世界大戦までは、イギリスを中心とする国際金本位制の全盛期で、各国はロンドン、NY、パリ等の金融市場で盛んに起債した。


 金本位制の導入は日本経済への信用を高め、日本はロンドン金融市場でくりかえし外債を発行して、日露戦争の戦費を調達できた。


日露ポーツマス条約は、日清戦争と異なって、日本に賠償金はもたらさなかったが、英米に対して信用を高め、第一次世界大戦では戦時需要の恩恵を享受できた。


 金本位制と外債発行は、日本の金融・財政規律の維持に役立った。というのは、放漫財政はただちに国債価格の下落(国際金利の上昇)と国債の消化難、為替相場の下落をまねき、緊縮財政への転換が必要なることが、軍部を含めてのコンセンサスとなったからである。



 後発資本主義の独・米の工業力が19世紀末にはイギリスを追い抜き、イギリスは資本の海外投資で稼ぐ金融資本主義へと転化し、20世紀初頭にイギリス国際金本位制を軸とするパクス・ブリタニカが成立する。


そのパクス・ブリタニカが、第一次世界大戦を境に性格を変える。

大戦でヨーロッパ経済が戦勝国も敗戦国も消耗し尽くし、アメリカが債務国から債権国へと台頭する。



パクス・ブリタニカは英米基軸の世界経済体制へと変化するが、産業的基盤の脆弱な国際通貨ポンドと国際金融面で脆弱なアメリカ経済の組み合わせという連携の未熟さが、

1929年アメリカ株式バブルの破綻を世界恐慌と世界経済市場の分断にまで激発させた。
 




 先回りしていえば、1929年世界恐慌による国際金本位制の崩壊は、外債の起債を不可能にすると同時に、財政規律の歯止めをなくした。


政府は長期国債を大量に発行しこれを日銀が引き受ける、という方式に転換した。


軍部が天皇統帥権をふりかざして日中戦争から太平洋戦争へと突き進んだとき、戦争はもはや資本主義経済とも切断された「国家(大日本帝国)」の暴走となった。


大日本帝国が、そこに殉じた軍人・政治家だけでなく多くの市民を巻き添えに崩壊した跡には、焦土と化した「国民経済」の残骸が残された。













コメント(6)


https://chitonitose.com/lessons/jh/jh_lessons148.html

金輸出解禁と協調外交の挫折

第一次世界大戦後、金輸出解禁をおこなわなかった日本は、為替相場の変動に悩まされ、何回も金輸出解禁を試みましたが、そのたびに関東大震災や金融恐慌などによって実行できませんでした。

浜口雄幸内閣は、遂に金輸出解禁を実行しましたが、おりから発生した世界恐慌と重なって、日本経済は激しい昭和恐慌へとたたき込まれました。

昭和恐慌
金輸出解禁への期待

第一次世界大戦が起こると、各国は金本位制停止(金輸出禁止)をしました。

1917年に日本も停止すると、日本円の為替相場は下落し続けました。

金輸出禁止の解除 金輸出解禁 に成功すれば、為替相場は安定します。欧米が金輸出解禁に成功していく中、日本の財界は金輸出解禁を強く望みました。

旧平価
金輸出禁止前の日本円の為替相場(100円=50ドル)

新平価
1928年の日本円の為替相場(100円=46.5ドル)

金輸出禁止と為替相場の変動

最悪の時期での解禁
浜口雄幸内閣|1929年7月〜1931年4月

1929年、 立憲民政 党の 浜口雄幸おさち 内閣が組織された。蔵相となった前 日銀総裁 井上準之助じゅんのすけ は、1930年1月、旧平価による 金輸出解禁 に踏み切りました。

旧平価にした理由には、次の2つが挙げられます。

日本経済の国際信用を維持・強調
(日本円の為替相場の高低は、日本経済の国際信用の高低を意味)

産業合理化で物価を引下げ、商品の安さで輸出を促進
(100円で46.5ドル分しか買えない状態が50ドル分買える状態になり、輸出が減少して輸入が増加)
(輸出不利の環境下で、不良企業の整理や企業の努力による成長に期待)

旧平価での金輸出解禁
この時期、1929年からのアメリカ発の経済停滞 世界恐慌 が、各国へ影響し始めていて、各国の物価が下がっていました。日本の商品が安くなっても輸出は伸びず、金の流出・企業の倒産が続きました。

1930年、金輸出解禁・世界恐慌の重なりによる経済停滞 昭和恐慌 が生じました。

暗黒の木曜日
*世界恐慌の始まり

輸出額の国際比較

1931年、 重要産業統制法 制定
カルテル(企業間での販売価格の下限や生産数の取決め)を奨励する法律

困窮する農村
世界恐慌の影響で、アメリカへの 生糸 の輸出が大幅に減少しました。農家の重要な収入源である繭まゆの価格が大暴落しました。

農産物価格の推移(1929年=100)

1930年、米価・農産物価格が豊作のために下落し、農家の収入が減りました。また、1931年、北海道や東北地方中心に冷害による大凶作となりました。

昭和恐慌の影響で、農村では欠食児童や農家の娘の身売りが問題となるなど、農家が著しく困窮する農業恐慌が生じました。

協調外交の行き詰まり
対アジアの強硬姿勢
田中義一内閣|1927年4月〜1929年7月

田中義一内閣は、幣原喜重郎による協調外交を批判し、対中国の強硬方針を決めましたが、対欧米諸国では協調外交を維持しました。

1928年、 不戦条約 ( パリ不戦条約 )調印
国家の政策の手段としての戦争放棄を約した条約

天皇主権の憲法をもつ日本は「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」の箇所を削除

協調外交の再開
浜口雄幸内閣|1929年7月〜1931年4月

浜口雄幸内閣は、 幣原喜重郎 を外相に起用し、協調外交を展開しました。

1930年、日中関税協定
関係改善を目的に、中国の関税自主権を承認した協定

1930年、 ロンドン海軍軍縮条約 締結
ロンドン海軍軍縮会議において、米・英・日の補助艦保有率を「10:10:7」に制限した条例

海軍の一部に反対されたが、内閣は調印を決意

立憲政友会・海軍軍令部・右翼は、内閣が兵力量を決定したことを、「 統帥権とうすいけん の干犯」であると批判しました。

内閣は、枢密院の同意を取りつけて、条約の批准に成功しました。

1930年、浜口雄幸首相は、東京駅で右翼の青年に狙撃されて重傷を負い、翌年に退陣し、まもなく死亡しました。

統帥権
天皇の軍隊指揮統率権だが、慣例として兵力量の決定は内閣が掌握

野党による与党攻撃の材料―統帥権の干犯

兵力量の決定が統帥権に属すか否かは、大日本帝国憲法に明記されていませんでした。これは憲法の欠点でしたが、内閣に属し運営されることを慣例としていました。

しかし、野党の立憲政友会の犬養毅・鳩山一郎は、与党の立憲民政党を攻撃するために、統帥権の干犯を主張しました。

皮肉なことに、この一件で軍部が台頭し、彼ら政治家は発言力を失っていきました。








https://www.y-history.net/appendix/wh1503-070.html

張作霖爆殺事件/満州某重大事件

1928年、奉天郊外の満鉄線が爆破され、満州軍閥の張作霖が殺された事件。当時日本では満州某重大事件と言われ真相は明らかにされていなかったが、戦後になって関東軍の謀略であったことが明らかになった。


 1928年6月4日、北伐軍に追われ北京を撤退し奉天(現在の瀋陽)に戻る途中の張作霖が列車ごと爆破され殺された。

当時の日本では事件の詳細は報道されず「満州某重大事件」または「奉天事件」といわれただけでその真相を国民が知ることはなかった。

その事実が判明したのは第二次世界大戦が終わった後のことであった。


関東軍の謀略

 戦後の東京裁判などの過程で、この事件は日本の関東軍

(南満州鉄道の保護などを目的に設置された日本の軍隊)

の河本大作参謀が中心になって実行された犯行であったことが明らかになった。


当時日本の関東軍は、満州で最も有力であった奉天派の軍閥・張作霖を利用して満州における支配権を強めようと画策していたが、

張作霖は日本に非協力的であり、その張作霖が北京から満州に戻ってくる機会に一挙に葬ろうとしたのであった。

この謀略を、河本大佐らは政府や陸軍上層の許可を取らずに単独で実行した。



田中内閣の総辞職

 しかし国際的には日本の謀略であることが疑われ、政府・陸軍も河本大佐の単独犯行であると認めざるを得なくなり、ひそかに河本を退役させた。

しかし、日本の不利益になるとして軍法会議(軍人に対する裁判)にかけることはしなかった。

日本国内では「満州某重大事件」と言われたこの事件は真相を国民が知る機会は失われたが、ときの田中義一内閣の処置に不満を持った昭和天皇が直接首相を難詰したため、

田中首相は総辞職するという結果となった。



謀略の代償 張学良の易幟

 また張作霖の息子の張学良は父の遺志を継いで満州軍閥を継承し、翌7月にはそれまで対立していた蔣介石との提携を表明した。

張学良がそれまでの満州軍閥の旗に代えて中華民国の国旗である青天白日旗をかかげたことを「易幟」(えきし、旗を替えること)といい、

中華民国の抗日戦線を一本化したことを意味している。


このように関東軍の謀略は何の効果もなく、かえって満州情勢を不利なものにする結果を招いた。

関東軍はそのような状況の悪化を一気に覆すため、高級参謀となった土肥原健二や石原莞爾などが新たな謀略を進め、

1931(昭和6)年に満州事変を引き起こし、中国への侵略を開始することとなる。





Episode 昭和天皇、首相を辞任させる

 張作霖爆殺事件の責任をとる形で田中義一内閣が総辞職した際に、昭和天皇の強い意思が働いていたことは間接的に知られていたが、

1990年に発表された『昭和天皇独白録』によって生々しいその経緯が公表され、世間を驚かせた。



そこでの昭和天皇の「独白」は次のようなものであった。

(引用)

この事件の首謀者は河本大作大佐である。田中(義一)総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者(張作霖)を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりである、と云ふことであった。

そして田中は・・・

この事件に付いては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰するつもりだと云ったそうである。


 然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だったそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなって終わった。


 そこで田中は再び私の処へやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたい云ふ事であった。


それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。


 こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云い方をした。


それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処によれば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取止めと云ふことになったと云ふのである。


<寺崎英成『昭和天皇独白録』1991 文芸春秋 p.22 一部わかりやすいことば使いに改めた>



























<寺崎英成『昭和天皇独白録』1991 文芸春秋 p.22 一部わかりやすいことば使いに改めた>


この昭和天皇自身の発言によって張作霖爆殺事件は、責任者河本が、軍法会議にかけられたら日本の謀略を全部ばらすと脅したため、

田中内閣がうやむやに終わらせようとしたこと、

それに対して昭和天皇が「前言とちがう」と田中首相に辞任を迫り、それをうけて田中内閣が総辞職したという経緯が明らかになった。


昭和天皇はこの件を当時29歳だった「若気の至り」として反省し、この件があってからは、政府の説明に対して異議を挟むことは控えるようになったと云っている。


この独白録は、戦後天皇の御用掛となった寺崎英成らが、東京裁判で天皇が戦争犯罪人として告発されるかも知れないことを恐れ、そのときのために天皇から聞き取りを行ったもので、

多分に昭和天皇の自己弁護的な発言になっており、史料として扱う際には注意を要するとされているが、

それにしても昭和天皇が内閣を総辞職させるほどの政治介入をしていたことは驚きである。





某重大事件

 このような国際的な大事件が、国民にはその事実も真相も知らされず、「某重大事件」として処理されてしまった。

秘密にされた理由は、「暴虐であることがバレると国益に反する」ぞ、という軍人の脅しに内閣が屈したためだ。

気骨ある政治家であれば、国民に真相を知らしめるべきであったろう。



その点、昭和天皇は一見、筋を通したようにも見える。しかし、首相を辞めさせたのでは意味がない。

田中首相に、国民に知らせよ、少なくとも軍法会議にかけて責任者を処罰せよ、と迫るべきであったろう。


軍の不正をただすのは、唯一の統帥権保持者である天皇の責任なのだから。


 2014年12月15日、特定秘密保護法が施行された。国家機密を守るという大義名分で国民の知る権利が制限されたとき、どのようなことが起きるかと云うことは、満州某重大事件の教訓だったはずなのだか・・・・・。

再び「某重大事件」と言われるようなことが起きないことを願わずにはいられない。




























【昭和天皇の87年】渦巻く「宮中の陰謀」説 天皇はなぜ、一線を越えたのか - 産経ニュース

https://www.google.com/amp/s/www.sankei.com/life/amp/181230/lif1812300001-a.html




【昭和天皇の87年】渦巻く「宮中の陰謀」説 天皇はなぜ、一線を越えたのか

2018.12.30 07:00
ライフ 皇室

画=筑紫直弘





第84回 張作霖爆殺事件(3)

 関東軍の高級参謀が主導した張作霖爆殺事件が、日中関係にもたらした負の遺産は、あまりに大きかったといえよう。

 関東軍の狙いは満州を中国から分離し、親日的な政権に善政を布かせて日本の権益を保護、拡大することだった(※1)。

しかし張作霖は関東軍の支援下で力を蓄えると、中国統一の野望を膨らませて満州から飛び出してしまう。


そこで張を爆殺したわけだが、結果は、まるで逆効果だった。

 関東軍の一部は張の死後、混乱に乗じて軍事行動を起こし、後継者選びなどに介入するつもりでいた。

しかし、張の死が極秘にされたため思うような混乱とならず、軍事行動の機を逸してしまう。


張の長男で後継最有力だった張学良は、事件後も父のサインを真似た命令書を発出し、父の存命を装った。



 張の死が公表されたのは事件から半月余り経った1928(昭和3)年6月21日、学良の後継体制が固まってからだ。

 学良は、父を殺した日本を激しく憎んだ。やがて関東軍が求める満州分離ではなく、関東軍が恐れる中央帰属、すなわち蒋介石の国民党政府と合同する道を選ぶ。張作霖が存命なら、あり得ない選択肢だろう。



 年の瀬も迫った12月29日、満州各地に青天白日満地紅旗が一斉にひるがえった。国民党政府の旗(現在の中華民国〈台湾〉国旗)だ。世にいう「易幟(えきし)」である(※2)。

以後、満州の排日活動は激化し、事態打開のために関東軍の一部は第二の謀略を画策するようになる。





× × ×

 一方、関東軍を厳罰に処すことができず、昭和天皇の怒りを買って田中義一内閣が総辞職したことは、宮中にも暗い影を落とした。

天皇が首相に辞表提出の意思を問うのは、立憲君主の枠から逸脱した非常手段といえる(※3)。



田中に近い政軍高官らは宮中への不信を抱き、昭和天皇を取り巻く重臣たちの陰謀だと騒ぎ立てた。

 田中内閣の鉄道相だった小川平吉は「宮中の事情ほゞ世上に漏洩(ろうえい)し、宮中の陰謀に対して憤慨するもの少なからず」と書き残している。



 「宮中の陰謀」説まで飛び出した事件後の軋轢(あつれき)−。昭和天皇はどう思っていたか。先の大戦後、側近らにこう語っている。



 −−この事件の主謀者は(関東軍高級参謀の)河本大作大佐である。田中総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積(つもり)である、と云ふ事であつた。

 −−然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた。

 −−そこで田中は再ひ私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。


 −−こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。

 −−田中内閣は右の様な事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」と云ふ言葉を作り出し、内閣の倒(こ)けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至つた。


 −−かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とか云ふ、いやな言葉や、これを間(真)に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々迄(まで)大きな災を残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が少くないのである−−





 以上は昭和21年3月に側近が記録した「昭和天皇独白録」の抜粋である。長く引用したのは、ここに昭和天皇の、先の大戦まで続く苦悩の根源が垣間見えるからだ。





 昭和天皇は最後にこう言った。

 −−この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した−−


 昭和天皇は、「若気の至り」で立憲君主の枠から逸脱してしまったことを悔いていた。







 昭和天皇は最後にこう言った。

 −−この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した−−


 昭和天皇は、「若気の至り」で立憲君主の枠から逸脱してしまったことを悔いていた。しかしそれ以上に、天皇への批判の矛先が側近や重臣に向けられ、彼らの身に危険が及ぶことを恐れた。

現にこの後、過激な軍国主義者らが昭和天皇の側近、重臣らを攻撃する事件が相次ぐのだが、それは後述する。





× × ×

 ところでこの時期、昭和天皇の心を癒してくれたものが二つある。

 一つは家族だ。政局が一段落した同月12日以降、昭和天皇は、香淳皇后と長女の成子内親王が待つ神奈川県の葉山御用邸に休暇を兼ねて行啓し、しばらく滞在した。

 7月15日《皇后・成子内親王と海岸を御散策になり、汐見御茶屋において御朝餐を御会食になる。その後お揃いにて貝拾い等をされ、海岸を御逍遙(しょうよう)になる》(昭和天皇実録16巻107頁)

 8月4日《汐見御茶屋において皇后・成子内親王と御夕餐を御会食になり、(中略)終わって葉山町主催の花火を御覧になる》(同巻114〜115頁)

 厳しい内外情勢が続く中、自然の中での家族とのふれ合いは、昭和天皇の苦悩を和らげたに違いない。



 もう一つ、生物学研究の時間も貴重だった。

 前年の3年8月、皇居敷地内に生物学研究所がつくられ、昭和天皇は毎週土曜、顕微鏡の中に広がるミクロの世界に没頭した。

 研究対象に選んだのは、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学(※4)。生涯にわたって研究を続け、多くの新種を発見している。

 一般にはなじみの薄いヒドロ虫類の分類学を、どうして専攻したのだろうか。ここにも、国民への思いを読み解く鍵がありそうだ。





 先の大戦後、昭和天皇はこう話している。

 「日本には(ヒドロ虫類などの)分類学を研究してゐる者が少なかつた。これなら競争もせず、迷惑をかけることも少ないだらうと思つて始めたのだ」

−−

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)






(※1) 張作霖爆殺事件は関東軍高級参謀の河本大作が独自に計画し、実行したとみられるが、軍司令官の村岡長太郎らも張暗殺の構想を抱いており、関東軍としての狙いは同じだったとされる


(※2) 易幟とは幟(はた)を易(かえ)ること。

張作霖時代の満州は、蒋介石の国民党政府と対立する北京政府の旗「五色旗」を使っていたが、張学良は青天白日満地紅旗に変え、国民党政府への服属を明らかにした。

この易幟により蒋介石の北伐は目的を遂げ、国民党政府が形式的に中国を統一した



(※3) 昭和天皇による首相問責は、事前に内大臣の牧野伸顕らに相談し、「厳然たる態度を採らるゝこと然るべく」などの助言を受けて発せられたものだが、それによる内閣総辞職の混乱を、昭和天皇は自身の責任と受け止め、牧野らに転嫁することはなかった



(※4) ヒドロ虫類は、体内が食物を消化する広い胃腔になっている腔腸(こうちょう)動物の一綱で、定着性のポリプ型と遊泳性のクラゲ型などがある







【参考・引用文献】

○秦郁彦著「張作霖爆殺事件の再考察」(機関誌「政経研究 44巻1号」〈日本大学政経研究所〉所収)

○サンケイ新聞社「蒋介石秘録〈8〉」(サンケイ新聞社出版局)

○対支功労者伝記編纂会発行「対支回顧録〈上〉」

○小川平吉文書研究会編「小川平吉関係文書〈1〉」(みすず書房)

○粟屋憲太郎著「解説 田中内閣倒壊前後の政局と天皇・宮中」(河井弥八記、高橋紘ら編「昭和初期の天皇と宮中〈侍従次長河井弥八日記〉3巻」〈岩波書店〉所収)

○下村海南(下村宏)著「内側から見た天皇」(雑誌「再建評論 昭和24年11月号」所収)

○藤樫準二著「陛下の“人間”宣言」(同和書房)

○寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著「昭和天皇独白録」(文春文庫)

○宮内庁編「昭和天皇実録」16巻






























www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/syowa1.htm

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/syowa1.htm

政界の黒幕・久原房之助の立志伝
http://nobunaga-oda.com/kuhara-fusanosuke-hitati/






昭和時代史1、第ニ次世界大戦への流れ(昭和改元から満州事変まで)


 (最新見直し2011.04.13日)

 これより以前は、「大正ルネサンスの光と影」





1926(昭和1)年、昭和天皇即位後の動き

【大正改元】
 12.25日、大正天皇崩御、大正天皇を追号。摂政宮裕仁親王が践祚(即位)し、「昭和」と改元。

元号の「昭和」は、中国の「書経」にある「百姓昭明 万邦協和」から取ったもので,国民のしあわせと平和を願う意味があるという。

昭和元年は7日間しかなかった。


 大正15年度末の国債残高はほぼ50億円、歳入総額の2.5倍。諸々の矛盾が昭和に先送りされた。

 7月、蒋介石を指導者とする中国国民党軍が第一次北伐開始。


1927(昭和2)年の動き

【片岡蔵相が「東京渡辺銀行が破綻した」と失言、大騒動となる】

 1927(昭和2)年、首相の若槻礼次郎(憲政会)は震災手形処理の重要性から政友会および政友本党と政治休戦を結び、法案支持の約束を結んでいたが、政友本党が憲政会と連合したために政友会が反発。

憲政会内閣への攻撃を始めた。3月14日の事件はこの時の出来事。 


 3.14日、衆議院予算委員会で先の「震災手形」の満期引き延ばし法案を討議中、吉植政友会代議士の質問に答えて、片岡蔵相が「東京渡辺銀行が破綻した」と失言。

これを機に京浜地区の中小銀行に取り付け騒ぎが発生した。



 大蔵省の命令で台湾銀行が鈴木商店への新規融資を打ち切り、同社は万策尽きて倒産、鈴木商店が大株主になっていた神戸の65銀行が休業に追い込まれ、取り付け騒ぎは全国に飛び火し、金融恐慌へと発展。

全国の銀行で預金が引き出し(取り付け)が殺到し、休業に追い込まれた中小銀行は37行、大手銀行にも取り付けが殺到した。

株式市場も恐慌状態に入った(4月上旬)。



 「震災手形」の大口所持銀行の筆頭は台湾銀行、大口債務者の筆頭はその取引先の鈴木商店。なぜ神戸の鈴木商店が「震災手形」を多く抱えていたかというと、鈴木は第一次世界大戦好況期に借入金により巨額の投資をしたが、その後の戦後恐慌により苦況に陥る。

そこに起きたのが関東大震災。

鈴木商店と台湾銀行はこのどさくさに紛れて、関係手形を「震災手形」とし、決済を先延ばしにしていた。


同じ様な理由で、大戦ブーム期に過剰投資を行い、戦後恐慌でつまずいた企業・銀行が多くの「震災手形」を抱えていた。

(渡辺銀行もその一つ。)

手形は当然、満期がくれば決済の必要が有るため、満期引き延ばしが行われないとこれらの銀行・企業は資金売りが困難になる。 


 3.21日、昭和天皇が大元帥としての最初の裁可で、中国への軍隊派遣を指令した。中国の内戦に絡み、上海在住居留民の生命財産を守るため、イギリス・アメリカと共同出兵する体裁となった。


時の外相・幣原喜重郎(第一次若槻内閣)に、内政不干渉と国際協調の立場で派兵することを確かめ、軍令部長の鈴木貫太郎海軍大将に、自衛の域を逸脱しないよう念を押して上奏書類に署名され、日本の海軍陸戦隊が上海に上陸した。


 3月、中国で、国民党大会で蒋介石の国民革命軍総指令のポストを廃止し、国民党左派勢力が武漢の国民党政府を掌握。蒋介石派が放逐された。



【第一次若槻礼次郎内閣総辞職】

 4.17日、若槻政府は、台湾銀行救済の為の緊急勅令案を枢密院の議事にかけたところ、顧問官の伊東巳代治が強く反対し、且つ政府の外交政策を非難攻撃し始めた。

結果的に、同案は審査委員会で否決され、枢密院本会議での採決の結果否決された。

台湾銀行救済のための緊急勅令が否決され、政府特殊銀行である台湾銀行でさえ救済されなかったことで、預金者たちはパニックに陥る。

これにより若槻内閣は事ここに到って万策尽き即日総辞職となった。



結局、倒閣を目的とする政党同士の抗争が事態に火に油を注ぐ形となった。





【田中義一内閣(政友会)】

 4.17日、第一次若槻礼次郎内閣が倒れ、立憲政友会総裁の田中義一が第26代首相となり政友会内閣を組閣した。

田中首相は、元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが抜擢し大物揃いの内閣を組閣した。










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