ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ホーム > コミュニティ > その他 > 2019年 安部政権 対 中国共産党 > トピック一覧 > 台湾、、

2019年 安部政権 対 中国共産党コミュの台湾、、

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

もしあなたが、以下のうち一つでも当てはまることがあれば、このお知らせはとても重要です。

組織を率いるリーダーとして、もっとステップアップしたい

人生のステージを上げたい、もっとスケールの大きな仕事をしたい

自らの影響力を高め、より大きな成果を上げられるようになりたい

本物のリーダーシップとは何かを、本物の実践者から直接学びたい

そのリーダーシップを、日本から世界に向けて発信していきたい

一度きりの人生、ありきたりな一生で終わりたくない

なぜなら、それを手に入れることができる最高の、そしておそらくは一生に一度の機会があるからです。

1988年1月13日、台湾の歴史を変える出来事が起きました。

ある人物が、台湾生まれ(本省人)として初めて台湾の総統となったのです。
さらにその後、1996年には最初の国民直接選挙(総統選挙)を導入し、自ら総統に選出されました。

その人物が行った六度にわたる憲法改正によって、一滴も血を流すことなく、台湾は民主化を達成しました。
そして、彼は『台湾民主化の父』と呼ばれるようになりました。

その手腕を評価する声は台湾にとどまらず、「ミスター・デモクラシー」「哲人政治家」と世界中から絶賛されています。

日本においても、政財界をはじめ各方面から高い尊敬を集め、

「現存するリーダーの中で、最も人格と見識が高い人物」
「李登輝元総統のような政治家が日本にいてくれたなら」

などと評価する声も数多く、事実、昨年7月にその人物が来日し、衆議院第一議員会館で講演を行った際には、下村博文元文部科学大臣が「空前絶後」と述べたほどの反響がありました。なんとその人物の講演を聴くために、あのダライ・ラマ法王が講演した時の約2.5倍もの国会議員約300名が一堂に会したのです。

その人物こそ、あなたが今回直接リーダーシップを学ぶことができる、台湾元総統・李登輝氏です。

李 登輝(り とうき)氏
1923年台湾生まれ。元台湾総統。農業経済学者。米国コーネル大学農業経済学博士、拓殖大学名誉博士。京都帝国大学農学部を終戦のため中退。台湾大学に編入・卒業。台湾大学講師、米国アイオワ州立大学大学院を経て、中国農村復興聯合委員会顧問、台湾大学教授。71年国民党入党、72年行政院政務委員として入閣。

台北市長、台湾省主席などを歴任、84年蒋経国総統(当時)から副総統に指名される。88年の蒋経国の死去にともない総統に昇格。96年台湾初の総統直接選挙に当選し就任。


2000年任期満了に伴い総統を退任。
2007年第一回後藤新平賞受賞。
『台湾の主張』(PHP研究所 第8回山本七平賞受賞)
をはじめ、近著には『「武士道」解題-ノーブレス・オブリージュとは』(小学館文庫 2006年)・『李登輝実録-台湾民主化への蒋経国との対話』(産経新聞出版 2008年)・『最高指導者の条件』(PHP研究所 2008年)・『李登輝より日本へ贈る言葉』(ウェッジ 2014年)・『新・台湾の主張』(PHP研究所 2015年)ほか著書多数。
李登輝氏が成し遂げた偉業についてあまりご存知ない方は、氏がなぜこれほどまでに評価を集めるのか、「生ける伝説」とまで言われるのか、不思議に思われるかもしれません。

それを理解するためには、まず台湾の歴史を知る必要があります。
以下の年表をご覧下さい。


ご覧の通り、台湾は、1624年にオランダに支配されて以来、数百年にわたって、明鄭、清、日本、そして中国国民党という外来政権によって支配されていました。

つまり、台湾の歴史とは、他国によって支配され続けた歴史だったのです。

李登輝氏は、こうした外来政権による支配を終焉させ、台湾を民主化し、数百年に及ぶ外国の支配から、台湾を台湾人の手に取り戻しました。

すなわち、

台湾人の数百年来の悲願を達成させた

ことこそが、李登輝氏が成し遂げた偉業の偉業たる所以ですが、その達成までには、想像を絶する困難がありました。

その最大の困難とは、「中国の法統」を断ち切ることにありました。

李登輝氏の1988年の総統就任時、台湾を統治していたのは、蒋介石に始まった国民党政権です。
彼らの統治時代、43年間もの間、台湾では人権や民主主義が蹂躙され続けていました。

憲法は凍結され、世界最長とされる38年間もの戒厳体制が敷かれ、国防・治安などの権限を総統に極度に集中させ、独裁政治が行われ、住民による民主化要求は、国家反逆罪として弾圧されました。

令状なしでの逮捕が認められたため、深刻な人権侵害をもたらしただけでなく、国会の選挙も凍結され、中国大陸で選出された議員が半世紀近くも居座り続け、彼らのことを「万年議員」、国民大会や立法院、監察院は「万年国会」と呼ばれていたのです。

なぜそんなことになったのか。

それは、一言で言えば、国民党政権・中華民国政府が「中国の正統政府」を自任し、中国共産党が統治する中国大陸への反攻を目指していたため、

台湾を国民党の「軍事基地」とみなしていた

からです。

それを正当化するために、彼らは台湾が中華民国領土の一部に過ぎず、中華民国の国会を台湾住民のみによる投票で改選することはできないと主張し、選挙を凍結。

人権や民主主義を蹂躙する一方で、形式的には中華民国憲法が施行され続けていることを喧伝します(実質的には、後に触れる動員戡乱時期臨時条款により、憲法の効力も凍結)。

これによって生まれた「万年国会」と中華民国憲法による“正統性”と「法統」と呼び、民主化要求を「法統」を犯す「法理独立」だと決め付け、弾圧したのです。

そして、李登輝氏の総統就任時にも、民主改革を求める凄まじい民意の声にも関わらず、国民党の保守勢力は、「法統」で約束された地位を手放そうとせず、民主改革を求める声に耳を傾けようとはしませんでした。

その問題を解決するため、李登輝氏は、「その病巣はただ一つ」と見抜いた憲法の改正に着手します。その最大の目玉は、「動員攪乱時期臨時条款」を廃止することにありました。

これは、台湾と中国は内戦状態(国共内戦)にあるとして、憲法を停止して国家総動員体制を敷くことを可能にしたもので、独裁政治を可能にし、人権が蹂躙されたのも、選挙が凍結され、大陸出身の「万年議員」「万年国会」が権力の上に居座り続けたのも、これが癌だったのです。

これを廃止するため、自身が第8代総統になるための選挙で支持を依頼した600人の議員全員を説得し、引退させ、1991年、「万年議員」は全員退職し、「万年国会」問題は解決しました。

さらに94年7月、台湾省・台北市・高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙を実施。

国民党内では依然として党こそ国であるという「党国」体制がまかり通っていて、個人の下に権力やあらゆる利益を集中させたがる状況にあった悪しき伝統を、100人の党員が反対する中で打ち絶ちました。

さらに総統直接選挙の実現に向けて行動。

国民党が提出した間接選挙ではなく、直接選挙を主張し、国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することを賛成多数で決定させます。

同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定め、1996年、初めての総統直接選挙において54.0%の得票率で当選し、

台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任

したのです。

いかがでしょうか?李登輝氏の卓越したリーダーシップ、高い精神性の一端が、お分かり頂けましたでしょうか?

李登輝氏の偉業とは、このように周囲の猛烈な抵抗に遭いながら、「法統」を錦の御旗として掲げる国民党の主席として、決して甘んずることなく、台湾人の数百年来にわたる悲願を成し遂げたことにあります。

その根底にあったのは、他でもない、台湾人としての強いアイデンティティでした。

そして李登輝氏は、台湾が台湾であるために、さらにもう一歩踏み込んで、台湾を中国の一部とみなす「一つの中国」という思想から台湾を解放するという大仕事に取り組んでいきます。

国民党が自らを正当化する拠り所とした「法統」とは、国民党が生み出したものなどではなく、中国が5千年間もの間続けてきた閉鎖的な帝王政体である、と李登輝氏は言います。

したがって、本当の意味で、台湾を台湾人の手に取り戻すために、

「中国の歴史は、黄帝以降の夏・殷・周から明、清に至るまで、脈々と同じ流れを受け継いできた大中華帝国体制であり、その「一つの中国」という概念の外にある者は、即ち化外の民であり東方と北方の蛮族の国とみなす」

思想を持つもう一つの中国、すなわち、

中国共産党による束縛から台湾を解放

する必要があったのです。

それを国際社会に対して表明したのが、99年に「ドイツの声」の取材に対して氏が語った次の言葉でした。


当然この発言に対して中国共産党は猛反発をし、「武力解放」や軍事威圧さえちらつかせましたが、 台湾を台湾人の手に取り戻すために、どんな相手に対しても、怯むことなく本質を貫いたのです。

そろそろ、李登輝氏が「ミスター・デモクラシー」「哲人政治家」とも称され、世界中から絶賛される理由がお分かり頂けたでしょうか。

今を生きる人物の中で世界最高のリーダー

と言っても、決して過言ではないでしょう。
あなたも、この「生ける伝説」から、本物のリーダーシップを直接学びたいとは思いませんか?

今まさにその機会があるのですが、その前に、もう少しお話をしなければならないことがあります。
ここに、私達にとって最も注目すべき李登輝氏の発言があります。

私はね、二二歳まで日本人だったんですよ、岩里政男という名前でね。
私は日本人として、非常に正当な日本教育を受けた。後に中国の教育も受け、アメリカにも学びましたが、私の人生に一番影響を与えたのは、この日本時代の教育だったんです。

李登輝 小林よしのり(2003)李登輝学校の教え pp75



つまり李登輝氏は、「自らを作ったのは日本の教育だ」と言っているのです。
さらに、総統になる上での重要な通過点となった、蒋経国から副総裁に指名された時の理由についても、このように述べています。

私の想像ですが、おそらく私の日本人的な部分を評価したのではないでしょうか。私にはどうも日本人的なところがあるらしく、そこが蒋経国の気に入ったようです。責任感が強いし、嘘はつかない。おべっかも使わない。だから国民党員でもなく、国民党等とは無関係だった私を登用したのです。

李登輝(2014)李登輝より日本へ贈る言葉 pp68,69



それでは、李登輝氏が受けた日本の教育とは、一体何だったのでしょうか。
李登輝氏の「日本人らしさ」の源流はどこから来るものなのでしょうか。

それを学ぶ上で最も近道なのは、1895年から1945年までの50年間の日本統治時代について学ぶことです。

なぜなら、この時代の日本人によって李登輝氏は日本の教育を受け、この時代の日本人に色濃く影響を受けているからです。

そして、それを学ぶことは、あなたをリーダーシップのさらなる高みへと誘うばかりでなく、戦後教育の中で日本人が失ってしまった本物の日本精神を学ぶことにも繋がります。

さらには、なぜ台湾がこれほどまでに親日なのかも理解できるようになるでしょう。

李登輝氏は、「この50年間をいかに評価すべきなのか?」という問いに対して、このように述べています。

この問いにはひと言で結論が出る。日本は台湾を近代化させた。日本統治によって、台湾は伝統的な農業社会から、近代社会に変貌したのである。

李登輝(2015)新・台湾の主張 pp20



それでは50年間の日本統治は、どのように台湾を近代化させたのでしょうか?
全ての人物をここで紹介することはできませんが、5人の重要な日本人をご紹介します。

#1.児玉 源太郎
1898年、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れていた。ここで第4代台湾総督として任命されたのが、児玉源太郎です。

児玉は、第4代台湾総督に就任すると、後に紹介する弱冠42歳の後藤新平を台湾総督府の民政長官に抜擢しました。 そして台湾の行政機構の大改革を実施。6県、65署の役所を台北、台中、台南の3県、44署に統合簡素化すると同時に県知事、署長以下の人員整理を断行し、勅任官以下、1,080人の官吏を罷免しました。 約17万人いたといわれるアヘン中毒患者の撲滅にも積極的に取り組みます。


経済政策では、殖産局長に農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造を迎え、さとうきび栽培などの生産を1902年の50万トンから1905年の130万トンへと約2.5倍に激増。
台湾総督としての8年間に、西部縦貫鉄道、基隆港築港、通貨・度量衡整備、統計制度確立、台北医学校設立、予防注射強制、下水道整備、衛生状態改善、土地所有の権利確定などの諸政策を断行しました。

当時、日本の国家予算が約2億2,000万円という中で、約6,000万円という膨大な事業資金を台湾統治に投入しました。



#2.後藤 新平
後藤新平は、民政長官として台湾で働いた8年7ヶ月で、衛生環境の改善に並々ならぬ努力を払い、歴史上類を見ないほどの発展を台湾にもたらしました。伝染病などを減らすため、「台湾家屋建築規則」及び「台湾汚物掃除規則」を公布し、都市の衛生環境の改善をし、その2年後には、公医費、伝染病予防費、消毒費、井戸地下排水、汚水清掃費、衛生品検査費、水道水費などの各地の衛生経費は、地方税で賄われるように制定しました。

そして、1905年には「大清潔法施行規則」を交付し、3月と9月の年2回全台湾で定期的に大掃除をすることとし、同時につねに各家庭が清潔に保たれているかの抜き打ち検査を実施。


こうした生活環境や医療環境の改善などにより、1905年の年間死亡者数が千人当たり341人だったものが、1912年には、20人以下へと激減。
さらに当時の台湾ではアヘン中毒者が蔓延していましたが、彼の「阿片漸禁策」により、1900年には16万9千人いたアヘン常習者は1917年には6万2千人に、1928年には2万6千人にまで減少し、その4年後の1932年には500人以下にまで減り、1945年のアヘン根絶を行うきっかけを作りました。

その結果、台湾人の平均寿命は30歳前後から、終戦時には60歳前後へと驚異的な伸びを見せ、「一世紀にも等しい」と言われるほどの発展を台湾に遂げさせる活躍をしました。

李登輝氏は、後藤新平の貢献について「今日の台湾は、後藤新平が築いた基礎の上にある」と述べ、「後藤新平は、私にとって偉大な精神的導きの師である」と語っています。



#3.新渡戸 稲造
児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、日本で最初の農学博士・新渡戸稲造です。 新渡戸は、半年かけて台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけます。

その後、パリで開かれた万国博覧会へ出かけたのを機に、欧米諸国及びその他の植民地の製糖設備を調査して歩き、帰途はエジプトとジャワへ寄り、製糖業経営の実地視察、殖産局長心得を学んで帰ると、製糖政策の具体策を盛り込んだサトウキビの品種改良、栽培法、製造法などの意見書「糖業改良意見書」を児玉と後藤に提出。


彼の意見書を基に制定された「糖業奨励規則」によってサトウキビ農家には補助金を支給し、品種改良や灌漑施設の整備など、耕作意欲を刺激する政策が進められました。
同時に、機械化された大規模な製糖工場の建設を促し、従来の手作業を主とした製糖作業の機械化を推進し、農業と工業の両面から発展させました。

この結果、台湾の製糖業は、1902年の生産高50万トンからわずか3年後の1905年には約2.5倍130万トンに激増。その前後を含めると、1900年に3万トンだった産糖は、40年後の1940年には160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となったのです。

李登輝氏は、高校時代に新渡戸稲造の著作に出会い、「新渡戸稲造という日本人の偉大さに心底感服したことを覚えています」と述べています。

そして、新渡戸の後を追いかけて農業経済学への道を進んだ氏は、さらに「武士道」に感銘を受け、京都大学へ進学。その後の波乱万丈の道のりの中でも、新渡戸の言葉や精神が自らを鼓舞してきたと話し、「後藤新平は指導者としての先生。新渡戸稲造は人生の先生」と公言しています。



#4.八田 與一
台湾で最も愛され、神様のように崇められ、台湾の歴代総統も彼の墓前参拝に訪れるほど恩人として慕われている人物が、八田與一です。 八田の業績は、1930年、当時としては東洋一の先進的なダムと膨大な水路を整備し、不毛の土地を台湾最大の米作地帯に変えたことにあります。

不毛と呼ばれた嘉南平野は香川県ほどの大きさで、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地でした。 また亜熱帯性気候で一年に2、3回もの収穫を期待できる地域でしたが、河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちるために、雨期には手をつけられないほどの暴れ川となり、乾期には川底も干上がるありさまでした。


八田は、この嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することで、この地を台湾の穀倉地帯にできると考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げました。
予算は総額4200万円、これは当時の台湾総督府の年間予算の三分の一以上に及ぶ規模でした。

計画の第一にあった烏山頭ダムは、満水時の貯水量1億5千万トン。黒部ダムの75%に相当し、土石を水圧で固めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリック・フィル工法をわが国で初めて採用。

ダム湖に水を引くために、直径8メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘り、毎秒50トンの水を流し込む。それは、当時最大のトンネルだった東海道線の熱海の丹那トンネルよりも15センチ大きい規模でした。

給排水路の全長は1万6千辧∨里の長城の6倍、地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも及び、さらに給水門、水路橋、鉄道橋など、200以上もの構造物を作るというその壮大な計画の実現によって、水田は30倍に増加し、ダム完成から7年後の1937年には生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍となり、その業績は台湾の中学校の『社会2・農業の発展』に詳しく記載されています。



#5.明石 元二郎
第7代台湾総督として赴任した明石元次郎の在任は1年4ヶ月と極めて短い期間でしたが、短期間で現在にもつながる大きな功績を残しました。 最初に手掛けたのは、水力発電事業の推進と教育制度の確立でした。

水力発電事業に関しては、彼が赴任する前年に水力発電の企画案が日本政府に持ち込まれていたものの、当時の台湾総督府年間予算を超えるあまりに膨大な資金投資にその要請を一蹴されていたものを、見事な政治手腕で日本政府を説得しました。 そして完成した大観水力発電所の発電量は1万5千キロワットで、当時の日本国内にもない大がかりな発電所群となり、今でも台湾の水力発電の半分をここで供給しています。


教育制度の確立に関しては、日本人と台湾人の区別を少なく教育を受けられるようにするという、当時革命的だった「台湾教育令」を制度化しました。
これが後の台湾の発展に大きな力となり、台北師範学校、台南師範学校をはじめ多くの学校を開設し、李登輝氏をはじめ、数多くの台湾リーダーが誕生するきっかけとなりました。

さらに注目に値するのは、1945年時点で50年間日本領であった台湾の就学率が92パーセントに達していたことです。400年間もオランダの植民地であったインドネシアの就学率がわずか3パーセントだったことを考えると、明石の功績には目を見張るものがあります。

そのほかにも司法制度の改革、嘉南銀行の設立、台北高等商業学校の設立、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めました。

没後、彼の墓を建てるために彼を尊敬してやまない台湾人からたちまち多額の寄付金が寄せられ、「軍人中、皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはない」と言われるほど壮大な200坪もある墓が作られました(現在は別の場所に移されています)。



李登輝という世界最高のリーダーは、いかにして生まれたのか。
彼を育て、台湾を近代化した偉人たちの歴史、その桁違いのリーダーシップ、日本精神について、少しはご理解頂けたでしょうか。こうした偉人の生き様、彼らが残した歴史に直接触れることの価値をお分かり頂けたでしょうか。

日本の台湾統治は、あくまでも日本の国益のために行ったものです。それを忘れてはなりません。
しかし、統治した国や地域を発展させるという行為は、世界史上類を見ないことであり、結果的に日本統治時代の恩恵が今の台湾にも継続して残っているということは、紛れもない事実です。

そしてそれが、台湾の人々の今の親日感情に繋がっていることは、言うまでもありません。
その親日ぶりは、感激のあまり涙が出るほどです。

2011年3月11日、日本を襲った東日本大震災で、世界最高額となる義援金2億5200万ドルの支援をしてくれたのは、面積は日本の約10分の1、人口は約5分の1、GDPは約9分の1の小国、台湾でした。

台湾の高校生の修学旅行先の9割は、日本です(年々増加傾向にあります)。

台湾から日本への旅行者数は、2013年221万人、2014年283万人であり、人口が約5分の1であるにも関わらず、日本から台湾への旅行者数163万人(2014年)を大きく上回ります。

日本の調査会社アウンコンサルティングが2014年に行ったアンケートでは、100人中90人の台湾人が日本を「大好き」「好き」と答えてくれています。

しかし、日本人は、そんな台湾人の気持ちに感謝を示すどころか、何度もないがしろにしてきた過去があります。

東日本大震災における台湾支援に対して、当初日本政府は、中国共産党の顔色を窺って、謝礼広告を掲載しませんでした(それを見かねた民間人が行った募金活動「謝謝台湾計画」によって、最終的には、無事謝礼広告は掲載されました)

日本人として生まれ、京都帝国大学で青春時代を送り、ずっと日本を愛し続けてきた李登輝氏の訪日を、同じ理由で長らく拒み続けてきました(それが初めて許された時の理由は、「命の危険があるから人道上仕方がない」という極めて消極的なもので、その行動を「病気治療」目的に厳しく制限し、政治的発言を一切禁じました)」

95年に日本が議長国となって大阪でAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の総会が開かれた際に、同じ理由で、わざわざ台湾に人を派遣して「李登輝氏が参加しないようにしてほしい」と伝えに行きました



今でこそ、このような失礼極まりない行いは聞かなくなりましたが、台湾の人々に感謝を示せているかどうか、恩返しができているかどうかという意味では非常に疑問です。

いっぽう、日台友好は、日本の安全保障という意味でも極めて重要な意味合いを持ちます。

原油の99.7%を海外に依存し、穀物・豆類などの食料も輸入に頼っている日本の物資輸送の99%を海運が担っている中で、シーレーン(海上通商路)は日本の生命線です。








コメント(4)



東日本大震災における台湾支援に対して、当初日本政府は、中国共産党の顔色を窺って、謝礼広告を掲載しませんでした(それを見かねた民間人が行った募金活動「謝謝台湾計画」によって、最終的には、無事謝礼広告は掲載されました)

日本人として生まれ、京都帝国大学で青春時代を送り、ずっと日本を愛し続けてきた李登輝氏の訪日を、同じ理由で長らく拒み続けてきました(それが初めて許された時の理由は、「命の危険があるから人道上仕方がない」という極めて消極的なもので、その行動を「病気治療」目的に厳しく制限し、政治的発言を一切禁じました)」

95年に日本が議長国となって大阪でAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の総会が開かれた際に、同じ理由で、わざわざ台湾に人を派遣して「李登輝氏が参加しないようにしてほしい」と伝えに行きました



今でこそ、このような失礼極まりない行いは聞かなくなりましたが、台湾の人々に感謝を示せているかどうか、恩返しができているかどうかという意味では非常に疑問です。

いっぽう、日台友好は、日本の安全保障という意味でも極めて重要な意味合いを持ちます。

原油の99.7%を海外に依存し、穀物・豆類などの食料も輸入に頼っている日本の物資輸送の99%を海運が担っている中で、シーレーン(海上通商路)は日本の生命線です。

そして、この日本のシーレーンにおいて最も重要な位置にあるのが、台湾と沖縄なのです。
(中国共産党が台湾と沖縄を付け狙う理由もここにあります)

実際に台湾の地を訪れ、李登輝氏に直接学び、偉大な先人の遺した歴史に触れることは、

今を生きる世界最高の指導者から本物のリーダーシップを学べるだけでなく、

その人物を育てた源流に直に触れ、本物の日本精神を学ぶことができるだけでなく、

先人の偉業に感謝を示し、それを今も忘れずにいてくれる台湾の人々に感謝を示し、

日本と台湾の未来のために真の友好関係を築くための足がかりとなる、

最高の機会になる、と信じ、それを手にして頂くために、昨年11月、「李登輝台湾元総統に直接学ぶ日台友好歴史探訪ツアー」と題して、台湾に渡り、李登輝元総統の講演を聴講するとともに、史跡巡りや現地の人々との交流を通じて日台友好の歴史を学ぶ3泊4日のツアーを実施しました。




この企画には、実に107名もの方々に、日本全国のみならず海外からもご参加頂いたのですが、今まで何度もセミナーや講演会を企画してきた中でも、非常に満足度の高いものになりました。

その証拠が、このアンケート結果であり、


このように、びっしりと書かれた熱いご感想の数々です。


このツアー初日、92歳(当時)とは思えないほどの迫力に満ちた元総統の素晴らしい講演と、それをお聴きになった参加者の皆様の熱い表情を見て、すぐに次回企画ができないかと、元総統の事務所に相談しました。

その時、いつ頃まで元総統は講演が出来るかご相談したところ、

「おそらく2016年いっぱいがギリギリではないか」

という回答でした。企画を急がなければ、と思っていた矢先、前回ツアー開催の真っ最中に、あることが起こりました。

李登輝元総統が、軽い脳卒中で入院されたのです。

講演を行って頂いてから実に2日後の出来事でした。幸い命に別条はないということでほっと胸をなでおろしたものの、このお知らせを聞いた時は、正直、もう再度の企画の実現は難しいかもしれないと思いました。

しかし、少しでも多くの方に、今を生きる世界最高のリーダーから直接学んで頂き、現代人が失った日本人の精神を何としてでも取り戻して欲しいという想いから、再度交渉を行いました。

そして、交渉の結果、李登輝元総統に講演依頼を承諾頂き、ツアーの開催を再び実現できることになりました。日程は、可能な限り最速の日付を選びました。

そして、今回行う企画が、これです。










午前中、羽田・名古屋・関空・福岡いずれか最寄りの空港から空路、台北へ向かいます。

空港到着後、添乗員が案内するバスにて早速市内に向かいます。見学する場所は次の通りです。



◆ 李登輝氏 講演・質疑応答
ホテルチェックイン後、ホテル内宴会場にて、李登輝台湾元総統の講演会となります。 李登輝氏がホテル入りされる際は、道路が封鎖され、SPと白バイが前後を囲みながら、お見えになります。

ホテル玄関で、台湾国旗と日本国旗を振りながら、皆で李登輝氏をお迎えしましょう。

講演中は、「生ける伝説」と同じ空間を共にできる幸運をかみしめながら、この世界最高のリーダーの息遣い、オーラ、人間性を肌で感じながら、リーダーシップの神髄とは何か、日本精神の神髄とは何かを学びとってください。

李登輝氏は上下セットのスーツ、ネクタイ(&ポケットチーフ)の正装でご講演されます。 ぜひ聴講の際には、あなたも正装でお臨みください。


講演時間は45分〜60分で、以下のような内容をお話し頂く予定ですが、皆様に最高の体験をご提供できるよう、最後まで内容を精査します。

幾多の苦難を乗り越え、数々の改革を成し遂げたリーダーシップの本質

卓越した成果を残すために、リーダーが持つべき資質とは何か

李登輝氏自身が一番大切にしている、基盤となる考え方は何か

李登輝氏を支えた日本の教育、日本精神の根幹とは何か

台湾に生きた日本人の偉業から李登輝氏が何を学び、実践したか

これからの日本人へ期待することは何か



今を生きる世界最高のリーダー・李登輝台湾元総統から直接学ぶことができる、おそらくは一生に一回の機会のこの講演会は、ただ一方的に李登輝氏から話を聞くだけではありません。

あなたから直接李登輝氏に質問することができます。



93歳というご高齢のため、質疑応答の時間は30分に限られますが、あなたが「ここを知りたい」と思う内容を、ぜひ直接李登輝氏にぶつけ、その貴重なアドバイスを持ち帰ってください。





◆ 夕食会(パーティー)
講演終了後、ホテル内の宴会場で、参加者同士の交流のために夕食会(パーティー)を開催します。 このツアーに集うメンバーは、世界最高の指導者から本物のリーダーシップを学び、本物の日本精神を学ぶために、日本と台湾の未来のために、決して安くはない参加費と4日間の時間を投資することのできる極めて志の高いメンバーです。実際、前回のツアーでは、さまざまな業界の最前線で活躍している実力者・著名人が、100人以上集まりました。

ここでできる人脈の価値も、計り知れません。前回参加された方からは、「何より今回出会った同じ想いを共有できる人たちと出会えたことが一番の財産となった」というご感想も数多く頂きました。

ぜひこの機会を活用し、最高の体験・学びに加えて、ここで最高の仲間も見つけてください。








2日目は、午前中に台北から台南へ移動します。ホテルからバスで台北駅へ移動した後に移動手段として乗るのは・・・



◆ 台湾新幹線
正式名称は台湾高速鉄道ですが、車輌など日本の新幹線技術(JR東海・JR西日本共同)を投入したため、台湾においても「台湾新幹線」と呼ばれることもよくあるそうです。

最高速度は時速300キロで、在来線では4時間かかっていた台北(台北市)−左営(高雄市)間の約345キロを最速96分で結び、台湾の交通環境、ライフスタイルを一変したとさえ言われています。


さらに、スケジュールは遅れない、車内も綺麗にされているなど、日本の新幹線さながらの運転が行われ、2011年に中国で発生した脱線事故に際しては、台湾高鉄の担当者は取材メディアに対して、「日本と同じシステムを採用したので、あのような事故はありえない」と語ったといいます。

日本の新幹線技術の輸出第1号となったこの鉄道に乗り、日台友好の絆を感じながら、台南までの旅をお楽しみください。




◆ 鳥山頭ダム・八田與一記念公園

台南に着いてから向かうのは、鳥山頭ダムと八田與一記念公園です。

烏山頭ダムの建設は、現在の金額に換算すると、約5000億円規模にもおよぶ大工事でした。 その完成によって、100万人もの農民が豊かな生活を送ることができるようになったと言われています。


ここを訪れる時、あなたは、その壮大な敷地、ダムの美しさ、ここから見える絶景と、八田與一の功績に驚かれることでしょう。そして、台湾で最も愛される日本人の偉業に、心から感動することでしょう。

当時世界最新の工法を採用して建築されたこのダムを、「烏山頭ダム水利システム」として世界遺産に登録しようとする活動もあるそうです。

そして、ここでは今でも毎年八田の慰霊祭が行われ、台湾の歴代総統が彼の墓前参拝に訪れるほどです。

その墓前にある銅像は、戦後すぐは、蒋介石が日本の形跡を消すことに躍起になっていたため、烏山頭管理事務所の人達は、こっそりとこれを別のところに保管していたそうです。

そして1981年、ようやく八田與一の銅像は、元の場所に戻ることになりました。

ここでも、八田がどれだけの偉業を成し遂げたのか、いかに台湾の人々に愛されていたのか、台湾の人々がいかにその記憶を守り抜いてくれたか、その歴史に直に触れる感動はひとしおでしょう。


この烏山頭ダムと2011年にできたばかりの八田與一記念公園を結ぶ道路を目にした時、あなたはもっと驚くかもしれません。

この記念公園オープンに合わせて、八田の功績を後世に残す趣旨のもとに、道路名が「八田路」と改められたのです。このような事実を、私達は知らなくてよいのでしょうか。


その記念公園ですが、2009年に国民党の馬英九総統が「南部に来る日本人観光客が必ず訪れる名所にしたい」と表明して建設を指示したというから驚きです。 ここでは、廃虚となっていた八田家族の宿舎を復元し、宿舎内には一家の生活が感じられる品物も展示してあります。


八田家以外にも、ダム建設のために家族で住んでいた技師の宿舎も復元されています。 烏山頭ダム、八田與一記念公園の双方に記念館があり、八田の業績に関する資料や私物が展示され、日本語の解説も流れております。

また、台湾でも放映された「パッテンライ!」(八田が来た)という映画のDVDもあり、台湾人にとって、八田がどれだけ重要な人物であったかも感じることができます。



今回は、さらに学びを深めるために、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」代表であり、あの有名旅館「加賀屋」を台湾で開業させた立役者、台湾在住20年以上の光重人氏に、これらの場所を案内して頂きます。


「日勝生加賀屋旅館」元支配人

光重人(とくみつ しげひと)氏 プロフィール
1961年石川県金沢市生まれ。金沢大学教育学部卒業後、株式会社ザ・ビッグスポーツでスポーツクラブの運営を行い、1995年台湾現地法人 鉅運股?有限公司の総経理となる。

その後、2004年に日勝生加賀屋国際温泉飯店の総経理となり、2010年12月18日に「日勝生加賀屋」をオープンさせる。


八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会 世話人(金沢)
財団法人紀年八田與一文化芸術基金会(台湾)
石川県観光親善大使(台湾)
台湾石川県人会 世話人
台湾日本人会 理事 なども務めている。

今回は、光氏のご厚意により、鳥山頭ダムでは、普段は立ち入ることのできないエリアを見学することができます。また、八田與一の知られざる秘話も光氏に直接ご紹介頂きます。

皆様のご質問にもお答え頂きますので、是非とも有意義なお時間をお過ごしください。








◆ 日本統治時代施設
その後、時間に余裕があれば、台南の日本統治時代の施設を見学します。台南には、下記のような施設があります。

1カ所目は國家台灣文學館です。
1916年に建設され、建設当時にはその威風堂々とした様子に「台南の総統府だ」とも言う人もいるほどでした。 日本統治時代に台南州庁として台南の政治経済の中心的役割を果たしてきました。

戦後中は大きな被害を受けましたが、その後修復・保存され、軍施設や市役所庁舎として使われ、中華民国の台南市役所となり、 2003年には台湾初の国家規模の文学博物館として現在に至っています。


2カ所目は土地銀行台南支店です。
元日本勧業銀行の台南支店で、重厚で立派な建物で、現在は台湾の土地銀行として使用されています。

台南が日本統治時代に重要な土地だったことを示す歴史的な建物です。


3カ所目は、山林事務所です。
1925年に建てられた2階建ての洋館で、林業の育成・振興のために設立された機関の事務所として建設され、戦後は台湾政府の役所として使われていました。

大きなひさしは雨が多く日差しが強い南台湾の気候に適したもので、建物の最大の特徴となっており、工夫も知ることができます。


施設4カ所目は台南武徳殿です。
日本統治時代には警察官の剣道、柔道の道場で日本人の武道精神を学ぶ大切な場所でした。 現在は小学校の体育館として利用されています。

日本統治時代の建物が残っていること、しかもそれをそのままの形で大切に使用してくれている台湾人の方々に、再び感謝の気持ちが湧き出てくるでしょう。 帰りは、再び台湾新幹線で台北へと向かい、その後ホテルへと戻ります。





◆ 特別ゲスト講演
(評論家・元中華民国総統府国策顧問 金美齢氏)
3日目の午前中は、このツアーでの学びをさらに深められる、二人の特別ゲストによる講演をご用意しています。

その一人目のゲストとは、、、
テレビを始め、新聞・雑誌などの各種メディアでおなじみの評論家であり、元台湾総統府国策顧問でもある金美齢氏です。

評論家・元中華民国総統府国策顧問 金美齢氏
1934(昭和9)年生まれ、台北出身。1959(昭和34)年来日、早稲田大学第一文学部英文科入学。1971(昭和46)年早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位修了。多くの大学で講師を歴任、早稲田大学では20年以上英語教育に携わる。元中華民国総統府国策顧問。現在は「評論家」として、テレビを始め、新聞・雑誌など各種メディアにおいて、家族・子育て・教育・社会・政治等、幅広い分野にわたって様々な提言を行っている。

著書には、『鍵は「台湾」にあり!』 (文藝春秋 1996)、『自立できない国 日本』(日本文芸社 1999)、『私は、なぜ日本国民となったのか 』(WAC BUNKO 2010)、『凛とした日本人』(PHP研究所 2015)ほか多数。


金美齢氏は、1934年台北生まれで、日本統治時代の台湾で育ち、当時の日本を実際に体験していらっしゃいます。国民党政権下では台湾民主化運動に参加し、反政府活動家として扱われ、政府のブラックリストに掲載され、30年間以上も台湾の土を踏むことができずに父の葬儀にも参列できなかったという苦い経験もお持ちの方です。

また、今年1月16日に政権交代を果たした民進党政権時には、2000年〜2006年に総統府国策顧問として勤務されていましたので、民進党とも深く関わりがある方でもあります。

そんな金美齢氏には、60分の講演時間の中で、以下のような内容をお話し頂く予定ですが、皆様に最高の体験をご提供できるよう、最後まで内容を精査します。

・日本統治時代の日本はどうだったのか?
・なぜ愛する台湾から日本へ帰化したのか。その心の内とは?
・政権交代を果たした民進党、台湾初の女性総統となる蔡英文はどんな人物なのか
・元総統府国策顧問が語るこれからの日台関係
・21世紀を迎えて、次代に伝えたい美しい日本の心
・これからさらなる日台友好に向けて、私たち日本人ができることは何か
そして金美齢氏にも、あなたから直接質問することができます。各種メディアでおなじみの金美齢氏ですが、メディアでは語ることができない、ここでしか話せない本音をお話しして頂く予定ですので、あなたが「ここを知りたい」と思う内容を、ぜひ直接金美齢氏にぶつけ、その貴重なアドバイスを持ち帰ってください。





ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

2019年 安部政権 対 中国共産党 更新情報

2019年 安部政権 対 中国共産党のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。