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2019年 安部政権 対 中国共産党コミュの胡耀邦総書記と山崎豊子「大地の子」  誕生秘話、これは、胡耀邦氏の番組余話でした。

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2017-10-12 08:17

「NHKスペシャル」の胡耀邦総書記と「かんさい熱視線」の山崎豊子「大地の子」 35


◎金曜日の夜7時のNHKニュースが終わると関西では、「かんさい熱視線」が始まります。先週6日の金曜日は山崎豊子さんの「大地の子」誕生秘話でしたが、これは、9月23日に放送されたNHKスペシャルの胡耀邦氏の番組の余話でした。

先日、久しぶりに雑誌の交換でSさんをお迎えして、お茶飲み話をしたとき、この話題になって、二人で「山崎さんて、あんなに情熱的でストレートなものの言い方をされるのね〜、相手にぐいぐいと迫る迫力が並大抵ではない、すごい迫力!」



中国の最高指導者に対しても臆せずズバズバとモノを言う山崎さん、相手への絶大な信頼と愛情があるからこそです。それにこたえて胡耀邦さんもリクエストに応じるよう努力してくださるという対等な友人関係みたい。そして、胡耀邦さんの失脚と死去、泣き崩れる山崎さん。「大地の子」完成後、墓前に本を捧げる山崎さん。あの陸一心の「大地の子」の話にもなって、「惜しい人を亡くしたね〜」「文学作品だけじゃなくって、残留孤児の引揚者の子供や孫の教育の面倒までみていたのね〜」と感心。今、山崎さんが生きておられたら…と自然にそんな話にも。終わった番組ですがメモ代わりに・・

◎NHKの「かんさい熱視線」から:http://www4.nhk.or.jp/P2852/x/2017-10-06/21/50157/8207895/


午後7時30分〜 午後8時00分
かんさい熱視線「そして名作は生まれた-山崎豊子 『大地の子』誕生秘話-」

大阪が生んだ国民的作家、山崎豊子の代表作「大地の子」。山崎の遺品から、中国での困難な取材を支えた中国共産党トップとの肉声記録が見つかった。名作誕生の秘話を描く。

大阪が生んだ国民的作家、山崎豊子の代表作「大地の子」。中国残留孤児が、過酷な運命を生き抜く姿は、読者の心を揺さぶった。今回、山崎の遺品の中から、中国での困難な取材を支えた人物との会談記録が見つかった。
「中国を美しく書いてくれなくてもよい。それが真実であるならば」-声の主は中国共産党のトップだった胡耀邦。しかし、胡は作品の完成を見ないまま急死する。2人の「約束」を記録した、門外不出のテープを紐解く。
◎その山崎さんと胡耀邦氏との対談が録音されている3本のテープをもとに作られた番組がNHKスペシャルの「総書記 遺(のこ)された声 日中国交 45年目の秘史」でした。この番組を見て、中国にも民主的で話の出来る指導者がいた時代があり、それはまた、日本にも言えること。指導者同士人間的な信頼関係ができていた時代もあったのかと。それに、中曽根康弘元首相をちょっと見直したりも。

【NHKスペシャル】「総書記 遺(のこ)された声 日中国交 45年目の秘史」【2017.09.23】

2017年9月23日(土) 午後9時00分〜9時49分

作家山崎豊子の自宅から1980年代に中国共産党トップ・総書記を務めた胡耀邦の4時間を越える肉声が記録されたテープが発見された。胡耀邦が語っていたのは日中関係について。共産党トップとは思えない率直さで、歴史認識問題などについての自らの考えを述べていた。

遺された総書記の肉声と、今回独自に入手した外交資料をもとに、日中関係の知られざる歩みを見つめるスクープドキュメント。
日本と中国が国交を正常化して45年。しかし、両国の間には依然として深い溝が残ったままだ。これからの日本と中国の関係はどうあるべきなのか。今回、NHKは日中関係が「蜜月」から「反目」に変化した1980年代から90年代にかけての中国の対日政策に関する貴重な一次資料を独自に入手した。その一つが親日派として知られた胡耀邦が総書記時代に作家・山崎豊子と3年にかけて行った会談の音声記録である。番組では、中国政府要人の肉声や資料、新証言をひもとくことで、日中関係の未来を考えていく。
【語り】加賀美幸子
番組HP:http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170923
◎「晴天とら日和」さんのブログから、NHKスペシャル「総書記 遺(のこ)された声 日中国交 45年目の秘史」★見逃した方は、ブログを訪ねて動画を!(http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/52305154.html

NHKスペシャル公式‏
@nhk_n_sp

日中国交正常化から45年。作家 #山崎豊子 さんの自宅から中国共産党トップ・総書記の肉声が見つかりました。その死が天安門事件へとつながった胡耀邦総書記の肉声です。赤裸々に語られる日中関係から、今後の両国の関係を考えます。土曜夜9時
http://nhk.jp/special
☆今日、これから、加賀市の義弟夫婦の車にのっけてもらって、4人で城崎温泉一泊のドライブ旅行に出かけます。夫のリウマチもなんとか旅行に参加できるぐらいになりました。お天気が心配ですが、途中竹田城跡、翌日は出石の観光も。行ってきま〜す


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金曜デモとトモダチ作戦と敬老会 「原発」と「9日新宿アルタの脚..

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山形の森 保守醒論
山崎豊子の「大地の子」は、開明派の胡耀邦総書記が在任のときだから取材執筆できたものであろう。
13/10/03 20:32 Weblog

社会派小説家の山崎豊子が、9月29日に心不全のため死去された。88歳。
ほとんどの著作に魅かれて映画、テレビドラマを視聴してきた。
そのなかでも、「大地の子」は特にお気に入りで、ビデオも全巻所有している。
山崎は執筆取材で、1984年から訪中、85年、86年と当時の胡耀邦総書記と3度の会見をされている。
8年に亘る大作「大地の子」は、胡総書記の全面協力のもとに完成することができた。
1986年秋、山崎豊子が、胡総書記と3度目の会見を果たしたとき、胡は「今後は、おそらくお会いする機会はないでしょう。来年山崎さんが訪中した時には、私がここにいるかどうかは分かりませんが、作品が完成したら一部送ってください」と語り、政治権力闘争の渦中、翌1987.1の政治局会議で解任され失脚した。
1989.4.15の胡耀邦元総書記死去から、5.20の天安門動乱勃発で戒厳令が敷かれ、後任の趙紫陽総書記も失脚に追い込まれることになる。
小平は「(民主化運動に)譲歩したら、中国(共産党)はなくなってしまう」と民主化運動阻止を指示、軍隊を出動させた。
この天安門事件で、民主化運動の多数の若者が弾圧され死亡している。
NHKは一人の死者もでていないと報道してきたのだから、北京政府(中国共産党)のコントロール下にあると言ってよいだろう。その後の訂正もない。
CCTV(中国中央電視台)日本支局がNHK放送センターに同居して、日本人視聴者を情報操作しているのだから、日本反日協会(NHK)と呼ぶことにもなる。
「大地の子」は、文藝春秋1987.5.〜1991.4月号に連載され、1995.11〜12月にはNHKでドラマ化された。
1991.6月、山崎は出版されたばかりの「大地の子」単行本を持って江西省共産党青年城へ赴き、故人となった胡耀邦の墓前に跪いて黙祷を捧げた。
胡総書記と首脳同志の関係にあった中曽根康弘首相は、権力闘争で攻められる胡総書記を気遣い、(正月)春夏秋と毎年続けてきた靖国神社参拝を譲歩(中止)した。
この宥和判断が、その後の靖国参拝問題の愚かな火種となっている。
中曽根には鬼籍に入るまえに、この誤った判断の取り消しと善処をキチンと成し遂げて貰わねばならない。
2007.6月訪中の中曽根元首相は、胡錦濤総書記と会談。故胡耀邦元総書記の墓参(江西省の共青城)を希望したが、それすらも受入れられなかった。
ドラマ化された「大地の子」は、中国側の撮影協力を得て完成したにも拘わらず、いまだ中国国内で放映はなされていない。
日本での放映でも文化大革命のシーンを削除されたなどと言われるが、天安門事件につながる胡元総書記の協力のもとでの作品として、民主化され、胡耀邦の名誉回復が成されるまで中国放映は無理だと言うことであろう。
山崎の「大地の子」取材は、開明派の胡耀邦総書記が在任のタイミング良いときだったからこそ、完成出来たものと思われる。
山崎豊子の逝去に合掌。

ジャンル名:文化






不屈の取材積み重ね「社会派小説」の金字塔

山崎豊子が描いた壮大な人間ドラマ

 2016-06-27


 「白い巨塔」や「華麗なる一族」などの社会派小説で知られ、映画やドラマとして映像化された作品も大ヒットした作家・山崎豊子(1924〜2013年)。作品の多くは実在の人物や団体をモデルにし、医療や戦争などの難しいテーマに真正面から向き合いながら、数年掛けて精力的な取材を重ねており、「限りなくノンフィクションに近い人間ドラマ」が人気の秘密だ。死去から3年となる今年も、「沈まぬ太陽」がWOWOWで初めて連続テレビドラマ化され放送中で、山崎の存在感を示し続けている。【丸山進】


山崎豊子の最高傑作「沈まぬ太陽」の構想はアフリカの大地で生まれた
■上司の井上靖に文章の厳しさを学び、作家活動へ


「沈まぬ太陽」の刊行記念サイン会で笑顔を見せる山崎豊子さん=1999年撮影

 山崎は1924年、大阪・船場の昆布商に生まれ、44年、京都女子専門学校(現京都女子大)国文科卒業後、毎日新聞に入社した。大阪本社学芸部の副部長で、すでに小説家だった井上靖に文章の厳しさを学び、自らも休日を利用して小説を書き始めた。執筆に10年を費やし、生家をモデルにした「暖簾(のれん)」を57年に刊行。さらに翌年、「中央公論」に連載した「花のれん」で直木賞を受賞し、これを機に毎日新聞を退社し、作家活動に専念。「ぼんち」や「女系家族」「花紋」といった大阪を舞台にした女性の生涯を描いた。61年に学芸部の同僚だった美術記者の杉本亀久雄氏と結婚した。精力的な取材活動の半面、生まれつき気管支が弱く、入退院を繰り返した。

 その一方で、仕事に関しては自分にも周囲にも厳しかった。50年以上も山崎の秘書を務めた野上孝子氏の著書「山崎豊子先生の素顔」(文芸春秋)によると、電話の応対や日々のあいさつまで、ことあるごとに雷を落とされた。原稿の感想を聞かれ、どこが具体的に面白く、どこを改善すべきかを求められ、具体的な意見が出せないと「意見なきものは去れ」と手厳しかったという。

■主治医の左遷がきっかけに医療過誤訴訟を描く


サンデー毎日で1963年に始まった連載小説「白い巨塔」は大学病院の暗部を描いた
 「社会派作家」としてのスタートを切ったのは、大学病院の腐敗を鋭く描いた「白い巨塔」。自身の主治医だった大阪大の助教授が「次期教授」と嘱望されながら、学内の嫉妬が元で九州に左遷されたことがきっかけだった。連載された「サンデー毎日」の編集者が医学博士の肩書きを持ち、学会や製薬会社も巻き込んで現金も飛び交う教授選の裏事情に通じていたことが構想の大きな助けになった。大学病院医師へ取材しただけでなく、学会や手術も見学し、医療過誤訴訟を描くために弁護士の元にも足を運んだ。

 作品は、いったんは患者側敗訴のまま終わり、続編を書く予定はなかった。しかし、連載終了後に読者から落胆の声が予想以上に広がり、控訴審を続編として執筆することになった。そのため、「逆転勝訴」の筋書きを生み出すのに苦労したが、医学界に「白い巨塔」のファンが多く、医師たちの知恵を結集して現実的な逆転物語をまとめ上げた。

 「白い巨塔」は田宮二郎主演で映画化され、4回にわたってテレビドラマ化もされた。78年6月〜翌年1月のフジテレビのドラマでは、撮影が終わり、ドラマ放送があと2話となった年末、主演の田宮が猟銃自殺する衝撃的な事件も起きた。

■夫人と同格の席に座る愛人の姿をヒントに親族間の愛憎劇


 「華麗なる一族」は、山崎氏が毎年年末から正月三が日までを過ごし、今年の「伊勢志摩サミット」の舞台にもなった志摩観光ホテル(三重県)で目にした華やかな企業オーナー一族が出発点。夫人と同格の席に座る愛人の姿が目に付き、愛人を別宅に囲うよりも背徳感を強く覚え、お堅いイメージの都市銀行の裏に隠された親族間の愛憎劇のヒントになった。

 山崎は、取引のあった都市銀行の頭取から取材協力を取り付け、行員とともに金融再編も織り込んだ物語を練り上げた。阪神銀行が上位の銀行を呑み込んで合併する山崎の構想に対し、合併先の大同銀行が歴代頭取を日銀から迎え、経営改革も進んでいないという設定は行員からのアイデアだった。

 シベリア抑留体験を持つ商社マンが主人公の「不毛地帯」では、物語の舞台となるロシアやサウジアラビアなどに加え、軍用機商戦を描くために米国にも取材旅行を敢行した。連載終了後の78年2月には、日米間の戦闘機取引を巡って日本政府高官が商社経由で不正資金を受け取った「ダグラス・グラマン事件」が発覚し、現実を先取りする山崎の眼力の高さが証明された。

















■胡耀邦総書記との初対面でいきなりクレーム

 山崎は78年秋に米ハワイ州立大の客員教授、84年には中国・北京の中国社会科学院の研究員として赴任した。しかし文筆を置くことはなく、講義や研究の合間を縫って取材を重ね、日系アメリカ人を主人公とした「二つの祖国」と、中国残留孤児をテーマとした「大地の子」を生み出した。


山崎豊子さんの自宅に残る、膨大な取材の足跡=堺市で2014年8月25日、鶴谷真撮影



 特筆すべきなのは、「大地の子」取材で胡耀邦総書記(当時)と面会し、初対面でいきなり総書記に「中国の官僚主義は根深く、取材の壁が高い」と批判したことだ。野上氏の著書によると、総書記はその姿に打たれた様子で「中国を美しく書かなくとも、真実なら欠点も書いてよい」と取材許可を出した。当時は外国人に開放されていない場所が多かったが、300人以上の孤児から取材できた。総書記との面会は、外国人としては異例の3度に及び、信頼度の高さをうかがわせる。



 「大地の子」はNHKで戦後50年の日中共同制作ドラマとして1995年11〜12月に放送された。主演の上川隆也は当時新人俳優だったが、この作品でブレークを果たした。








■ケニアから生まれた「沈まぬ太陽」、主人公と出会い

 「大地の子」執筆に精魂を使い果たし、疲れをいやすために旅立ったのは東アフリカのケニア。そこで旅行社の職員とともに出迎えたのが、「沈まぬ太陽」の主人公・恩地元のモデルとなった航空会社のビジネスマンだった。


書斎で資料を見ながら小説の構想を練る山崎豊子さん=堺市の山崎さん宅でで2012年4月20日、竹内紀臣撮影
 労働組合の委員長として厳しい要求を突きつけて会社ににらまれ、パキスタン、イラン、ケニアと10年にわたって海外支店を転々とさせられた経歴を持つ。労務部次長が支店に巡回視察に来訪して「わび状を書けば許してやる」と要求したことや、会社側が労使協調路線の「第2組合」を結成させて社員の分断を招いたことなども聞いた。それらが組織のひずみを生み、航空機事故につながったと知り、「アフリカ編」「御巣鷹山編」「会長室編」の3部構成となる壮大な構想が固まった。

 御巣鷹山の慰霊登山を手始めに、数多くの遺族の話を聞いたほか、検視に立ち会った医師らからも話を聞いた。米国で航空機メーカーへの取材にも成功した。その一方で、パイロットや客室乗務員、整備職などの組合員らにも取材を重ねた。

■全20話で初のドラマ化、壮絶の大事故を軸に


ベストセラーとなった「沈まぬ太陽」
 渡辺謙が主演した映画は、3時間22分の長時間作品となった。初めてのドラマ化作品は現在、WOWOWで開局25周年記念番組として、地上波連続ドラマの約2倍の全20話で今年5月から放送されている。

 恩地を演じるのは「大地の子」でも主演した上川隆也。左遷されたことを責める妻(夏川結衣)と、組合員仲間の三井(檀れい)や沢泉(小泉孝太郎)の板挟みに苦悩しながらも意志を貫く姿を演じる。一方、同期で労組副委員長だった行天(渡部篤郎)は経営者側に寝返り、恩地と対照的に同期の出世頭となる。國村隼や板尾創路も、社員よりも出世を気にする経営幹部役を熱演し、恩地と行天の対比を際立たせる。7月10日から始まる第2部では、墜落事故が起き、会社再生を目指す恩地の前に常務となった行天が立ちはだかり、2人の対立が決定的になる。

 後年、山崎豊子は「小説を書く限り、現代性、国際性をもったものでなくては、というのが、私の持論です」(断筆となった「約束の海」単行本)と書いた。自身の作家としての生きざまを凝縮した言葉だ。WOWOWで放送中の「沈まぬ太陽」は第2部のスタートを前に7月3日午後10時から第1部の総集編を無料放送。また9日の午後1時から1〜8話を一挙放送する。映像化された「沈まぬ太陽」から、山崎豊子が貫いた、その作家魂をぜひ感じてほしい。

  <参考文献>野上孝子著「山崎豊子先生の素顔」(文芸春秋)

  








取材ノート

ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。

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知日派指導者 胡耀邦の子息来日で思い出したこと(加藤 千洋)2014年9月

日中関係は依然として冷え込んだままだが、この春くらいからか、双方に「出口」を求める動きも出てきた。11月に北京で開催されるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)をターゲットに、特使派遣など水面下の動きも伝えられる。

そんな中で、おやっと思ったのは今年4月の胡徳平氏の来日だった。知日派として知られた故・胡耀邦元総書記の長男だ。共産党や政府の要職にはないが、互いに党中枢だった父親を持つつながりで習近平総書記と「直接対話ができる関係の数少ない知日派」という。官房長官や外相、野党要人らと会見していったが、安倍晋三首相との面会が実現したことは公表されなかった。

外務省の招待だったそうだが、共産党指導部の了解があっての来日であり、日中関係打開の何らかの瀬踏みの意味があったのだろう。私も外務省関係者から「黙っていたら向こうから誰も来ない。こちらから仕掛けないと」との解説を聞いたから、日本側が模索する出口戦略の1こまだといえようか。

ところで、その胡徳平氏が帰国して間もなく目にしたA紙のベタ記事に、私は別の意味で注目した。

2012年の党大会で習近平氏にバトンタッチして以降、中国メディアにも登場がまれな胡錦濤前総書記に関する動静報道だった。湖南省瀏陽市にある胡耀邦元総書記の生家と記念館を夫人とともに訪れ、銅像に献花したのだという。

元総書記が心臓発作で死去したのは1989年4月15日のこと。あの6月4日の天安門事件の直前である。というより学生に理解のある指導者の死が、政治の民主化を求める学生たちを天安門広場に結集させる、重要なきっかけとなったのだ。

胡錦濤氏の4月11日の生家訪問は、「師」と仰ぐ元総書記の25回目の命日の直前というタイミングだった。この記事を目にし、私自身が記事にしなかったものの、いまも忘れ難い、2人の胡氏の人間関係に関するエピソードを想起したのである。



中国南部の江西省に中国最大の淡水湖、?陽湖がある。その西側湖畔に共青城という風変わりな地名の町がある。「共青」というのは中国共産党の青年組織、共産主義青年団(共青団)のことだ。胡耀邦、胡錦濤両氏とも、そのトップ経験者だ。前総書記は元総書記によって共青団第一書記に抜擢された、というのは中国ではよく知られた話だ。

私が共青城を訪れたのは03年春のことだったが、現地で耳にした地名の由来は、だいたいこんな話だった。

新中国建国から間もない1955年のある日、上海の若者100人近くが無人の荒地に入植した。中国民衆が共産党の指示によって国造りに打ち込んでいた、よき時代のことである。?陽湖周辺は湿地が多く、農業には不向きな土地だったが、毛沢東の呼びかけに応え、都会生活を捨てた若者たちがテントに泊まり込んで開墾事業に挑んだのだ。

間もなく北京から共青団中央の責任者が慰問に訪れた。小柄ながら言動に独特の力を感じさせる若手幹部だったという。それが当時、共青団第一書記だった胡耀邦である。

テントに泊まり、焼酎を飲み交わし、若者たちの悩みを聞き、励ましていった。この体験は若者だけでなく、第一書記自身にとっても忘れ難き思い出になったのだろう。なぜなら胡耀邦氏の遺言に基づいて、墓所は?陽湖を見下ろす共青城の丘の上に定められたからである。

その墓参を済ませると、案内人は私が記者であることにいささかのサービス精神を発揮してくれたのか、一般には公開していない施設にと導いてくれた。清掃具など作業用の器具などもしまわれた、何の変哲もない倉庫である。そこにほこりをかぶったままの花輪が置かれていた。中国のそれは紙やプラスチックの造花でできており、保存がきくのだ。

十数個あったなかで、まず目に入ったのは中央の2つである。右手の花輪にかけられた白い布の対聯には、右に「敬愛的父親」とあり、左には「長子 徳平」、その下に、謹んで哀悼するという意味の「敬挽」という文字が書かれていた。

その喪主が贈った物の左隣にあった花輪の対聯には「胡耀邦同志 永垂不朽」「胡錦濤 敬挽」とあった。永垂不朽とは死者を弔う決まり文句だが、その功績は永遠に朽ちることがない、という意味である。

花輪はいずれも納骨式が執り行われた90年12月の物との説明だった。ほかに当時の有力者たちが贈ったと見られる花輪の類は、目につかなかった。













胡耀邦氏は86年末から87年初めにかけて起きた学生運動に際し、学生に同情して対応が手ぬるいと長老らから批判され、総書記辞任に追い込まれた。事実上の解任だった。84年秋に日本の青年3000人を独断で招いたことなど、対日関係で元総書記が積極的に動いたことも「罪状」となった。

その後、亡くなるまで政治局員の地位は保ったものの、政治的には処分を受けた身で、納骨式も中央の指導者が顔をそろえるといった、にぎにぎしい格式にはならなかった。政治的に慎重に配慮し、あえて弔意を示さなかった幹部が多い中、当時、チベット自治区党書記だった胡錦濤氏は花輪を贈り、哀悼の意を表したのである。

案内人がわざわざ倉庫の中まで見せてくれたのは、胡錦濤氏が総書記となって半年後のこと。どういう配慮だったのか真意はわからないが、薄暗い倉庫に並んで保存された花輪を見せられ、私は2人の胡氏を結ぶ確かな絆を感じ取ったものである。



そうそう、そこで案内人がもう2つ、興味深いエピソードを語ってくれた。そのことも書いておこう。

納骨から3年目の夏、日本から初老の婦人がやってきて、墓前にひざまずき、ぽろぽろと涙をこぼしていったという。去年秋亡くなった作家の山崎豊子さんだった。

91年に出版した代表作の1つ『大地の子』は、胡耀邦総書記の全面的な支持があって完成したともいえる作品である。綿密な取材をベースに創作するのが山崎さんの一貫したスタイルだった。胡耀邦氏は山崎さんの語る構想に賛意を示し、直ちに関係方面に指示を出し、当時は外国人には非公開だった刑務所や、舞台となる中国東北部の辺境地帯の取材にも特別の許可を出したのである。

もう1つは、胡耀邦氏の命日に日本の政治家からの依頼で、墓前に花が手向けられるというのだ。案内人が口にした名は、いまも90歳を超えて健在の総理経験者だった。そういえば現職時代、胡耀邦氏との盟友関係をしきりに誇示していた。



こうした「昔話」をふと思い出したのは、元総書記から前総書記へと受け継がれたであろう「対日関係重視」の考え方が、いまの習近平指導部ではどうなったのか。それが大変気になるのと、現在の日中間の政治家同士の交わりに、血の通った、人間味を感じさせるやり取りが、あまりにも少ないと感じるからである。交わりすらできないというのは、論外である。

かとう・ちひろ
1947年生まれ 72年朝日新聞入社 論説委員 外報部長 編集委員などを歴任 この間に北京に2回 バンコク ワシントンに駐在 2004年以降「報道ステーション」(テレビ朝日系)コメンテーター BS朝日「にほん風景遺産」風景案内人を務める 中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞 2010年4月から同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授


日本記者クラブ会報

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