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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第123回 文芸部 王都作「連作「今までやってこれたのに」3話(番外編)」

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第三話 防災訓練の日

 秋の空気は少し乾いていて、朝のビル街を歩く足取りは軽いはずだった。けれど僕の胸の奥には、鈍い重みが居座っていた。今日は年に一度の防災訓練。会社の総務からは「真面目にやる必要はない」と笑うように言われ、同僚の何人かも「面倒くさいよな」と顔を見合わせている。
 ただ、それを聞いて笑えない自分がいた。

 集合場所に向かう途中、非常用の白いヘルメットを手に持つ。新品特有のプラスチックの匂いが鼻につき、僕はなぜか前職の記憶を呼び起こしていた。あの会社の倉庫で、使われないまま積まれていたヘルメットの山。埃にまみれた備品を、上司に命じられてひとりで拭き続けた午後。あれも“備え”の一部だったはずなのに、誰も真剣に扱わなかった。
 形だけの準備。形だけの声掛け。
 その末に僕は、自分を守る術を奪われて退職したのだ。

 総務が拡声器で指示を飛ばす。非常階段を使って十数階を一斉に降りる。周囲はお祭り騒ぎのようにおしゃべりを続け、写真を撮る人までいる。僕はただ無言で足を運んだ。
 足音の反響が狭い階段に重なって、胸の奥を圧迫する。
 ――これは、心の災害訓練か。
 そんな言葉が、不意に頭に浮かんだ。

 地震や火災のように、予兆もなく襲いかかる出来事がある。人間関係も同じだ。突然の一言、無意識に踏み込まれる境界線、じわじわと進む侵食。僕はその被害に、備えることなく呑まれてきた。だからこそ、形だけでも「避難訓練」という枠組みがあることに、どこか羨望を抱いた。誰もが同じルートを辿り、同じ指示に従い、同じ安全圏を目指す。心の世界には、そんな“マニュアル”がなかった。

 広場に到着すると、訓練終了の合図が響いた。
 しばしの待機。隣の部署の若手社員が、「毎年やる意味あるんですかね、これ」とぼやいた。周囲は曖昧に笑い、誰も返事をしなかった。
 気づけば、僕の口が勝手に動いていた。
「……意味なんて、あとからついてくるんじゃないかな」
 自分でも驚くほど自然に言葉が出た。若手は一瞬ぽかんとしたが、「まあ、そうかもしれませんね」と気まずそうに笑って黙った。

 僕は胸の内で自分の声を反芻した。
 “あとからついてくる”。
 退職も、転職も、過去の痛みも。すべて意味を見いだせるかどうかは、この先の僕の構え方次第なのだろう。防災と同じで、起きてしまったあとにしか確信できないものもある。

 オフィスへ戻るエレベーターの中で、窓越しに街を見下ろした。ビルの谷間を、人々が忙しなく行き交っている。誰もが日々をこなしながら、何かに備えているのかもしれない。財布の中の千円札、スマホの充電、カバンに忍ばせた折りたたみ傘。小さな備えの積み重ねが、未来を支えている。
 心にだって、そんな備えをしていいのだ。
 無駄に見えるかもしれない沈黙や、ささやかな拒否の意志や、ほんの短い休憩。それらを「自分を守るための避難経路」と考えるなら、少しは肩の力を抜いて歩けるのではないか。

 デスクに戻ると、訓練の疲れを茶化す声があちこちで飛び交っていた。
 僕はパソコンを開きながら、心の中でひとつ言葉をつぶやいた。
 ――防災。
 それはもう地震や火災のためだけじゃない。
 僕がこれから積み上げていく、ささやかな生き方そのものなのだ。

コメント(1)

連作とされていたので、3作まとめての感想を書きますね〜

ギスギスした人間関係の描写が、とても生々しく描かれていると思いました
職場だと、冗談の内容やタイミングとか、すごく気をつかいますよね…汗

文芸部で、創作の過程を拝見しましたが、生成AIを使われたことで、王都さんの文体のバリエーションや描写がさらに豊かになっていると感じました

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