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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 43番 伏見稲荷大社

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コミュ内全体

学生時代は良くハイキングを兼ねて奥ノ院から峠越えをし大津市などに足を延ばした思い出のある大社で、その当時は雀の丸焼きなど立ち並ぶ商店の店先で食べたりはしましたが
京都府、楽土の道
(123)旧官幣大社
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
住 所 〠 612―0882 京都市伏見区深草藪之内町68番地
電話番号 電話 075―641―7331
御 祭 神 宇迦之御魂大神
開 祀 和銅4年(711)2月 初午の日
アクセス 京阪電車 伏見稲荷駅下車 徒歩10分
     JR奈良線 稲荷駅下車 徒歩10分
<神歴・縁起> H/P  http://inari.jp/
式内社 山城國紀伊郡 御諸神社
式内社 山城國紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次新嘗
旧官幣大社
御祭神
宇迦之御魂大神
配祀 佐田彦大神 大宮能賣大神 田中大神 四大神

 伊奈利社創祀前史によると
欽明天皇が即位(539または531)される前のことについて、『日本書紀』では次のように書かれています。
 欽明天皇がまだご幼少の頃のある日のこと「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみました。天皇は目覚めてから早速方々へ使者を遣わされて探し求められたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいたのです。天皇はこれを大いに喜ばれて早速彼を宮廷に呼び寄せられ、「今までに何事かなかったか」と問われたところ、彼は「別段何もありませんでしたが、伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」と答えました。そこで天皇は、「夢で見たとおりの人に会えたのは、おそらく神のおかげであろう」と仰せられて、彼を厚く遇せられ、  
やがてにぎわいを呈するようになり、即位されると共に、彼を今でいう大蔵省の重席に任じたとあります。
稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。
 ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばして、ついに秦大津父の輩出となったのですが、皇極天皇2年(643)11月のこと、当時の宮廷において権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめたとあります。この「屯倉(みやけ)」とは、朝廷および皇族の直轄領のことで、その運営については、在地の豪族、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられています。この頃の族長は誰であったかわかりませんが、大津父から伊呂巨(具)に至るちょうど中間に相当する時期に、深草の里に秦氏族の存在が予測できるのはたいへん興味深いことです。
 平安時代初期に編集された数少ない書物の中に、『新撰姓氏録』という記録があります。これは弘仁5年(814)6月に奉られたもので、その当時近畿に住んでいた氏族の姓および出自等が伝承されていた1,182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に編んでいます。

諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化しました。その際に金銀玉帛等を献じ、仁徳天皇の御代にこの127県の秦氏を諸郡に分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させました。天皇は、これらの絹織物は肌膚(ハダ)に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったとされています。降って雄略天皇の御代に、秦公酒という者が、天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったとあります。
以上の来歴は、実際にはあまりあてにならず、近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられています。ともかく、雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でていた一方、大津父が大蔵省に任官されたように計数に明るかったようです。このようにして渡来あるいは帰化氏族は、秦氏に限らず、当時の先進地域であった大陸および
朝鮮半島の文物をわが国にもたらし、これが後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われます。例えば、記録、出納、徴税、外交事務それから文字使用を業とするのは、もっぱらこれらの氏族であったと考えられています。朝廷の渡来あるいは帰化氏族に対する処遇がよかったことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろうとされています。彼らはたいてい畿内の小豪族としての生活を認められ、それぞれの特技を生かした専門職の地位を与えられていたようです。
大津父の時代を下った山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。たしかなことは不明ですが、深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようです。この太秦の秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。また一方において、山背国における古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。言うまでもなく賀茂県主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、そうなることによっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったのであろうと考えられています。こうして太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。
 伊奈利社ご鎮座説話。
稲荷大神のご鎮座に関する最も古い記録とされているのは、「山城國風土記
逸文伊奈利社条」です。これにはまだ和銅4年(711)云々というご鎮座年代は
出てきていません。しかし「秦中家忌寸《はたのなかつえ いみき》等遠祖伊
呂巨(具)秦公」の時代に、彼が「積二稲梁一有二冨祐一」であったところから「用レ餅為レ的」したところ、それが「白鳥」と化して山の峰に飛んでゆき、「生レ子」んだ或いは稲が生じたので、その奇瑞によって「遂為レ社」した、そして「其苗裔悔二先過一而抜二社之木一殖レ家祷レ命也」とあり、「為レ社」した者が「伊呂巨(具)秦公」であったことが明記されています。この伊呂巨(具)について、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」によると、「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」と記され、
先にも述べた通り賀茂県主の子孫と称されています。
ここに和銅4年という年代が出てくるのですが、この年にご鎮座になった由縁として、この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、勅使を名山大川に遣わされて祈請させられたときに神のご教示があり、山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた、この祭祀された日こそが和銅4年の2月初午であった、との伝承があります。これは全くそのとおりだと言えない面もありますが、唐突にこの日が伝承されたのではなく、やはり同氏族の間に何らかの明記すべき由縁があったものと推測されるのですが、それがどのような事象であったのか今のところはわかっていません。しかし強いて言えば、一族の族長、すなわち祭政を一人で行うあり方の中から、大神の祭祀を専門にする職掌(先に見た系図で「稲荷明神御鎮座ノ時禰宜トナル」と記されているのがこれに当たる)が確立した時期であると考えてもよいのではないでしょうか。
 先の系図によれば、「風土記」に出てくる“秦中家忌寸”は、伊呂巨(具)から数えて九代目に相当し、「賜姓秦忌寸、禰宜、嘉祥3年3月従六位上」と記録されています。この中家に至るまで、稲荷社祠官は代々禰宜1名でありましたが、彼の代にその弟“森主”が「祝、嘉祥3年3月従六位下」と記録され、この頃から禰宜・祝の2員制に移行したことがわかります。いわば中家が奉仕していた時期は、中家の譜に忌寸賜姓のことが記されており、和銅4年が記憶されるべき年であったと同様に、稲荷社にとっては重要な時期であったろうことが予測されます。またそれは、稲荷大神に初めて神階奉授がなされたことからかもしれません。この神階奉授のいきさつについては淳和天皇の御代・天長4年(827)正月の詔に、「頃間御体不愈」によって「占求留爾稲荷神社乃樹伐礼留罪祟爾出太利止申須然毛此樹波先朝乃御願寺乃塔木爾用牟我為爾止之弖東寺乃所伐奈利今成祟」(天皇の健康がすぐれないために占いを求められたところ、先朝の御願寺=東寺の塔をつくる材木として稲荷社の樹を伐った祟りであることがわかった)、ということで、「畏天」内舎人の大中臣雄良を遣わして「従五位下乃冠授奉理治奉(従五位下の神階が授けられた)」とあって、まさに大神の御神威が大きく顕れ、以降の勇躍を約束されるような一大展開期であったことがうかがえるのです。
延暦13年(794)に長岡京から山背へ都が遷されたとは言うものの、初めのうちはその市街地の区画整備がされている程度でした。宮廷が完全に整ってから新京もだんだんと賑わいだしましたが、都の正面玄関に相当する羅城門の東西に建立された「東寺」「西寺」の造営さえも長くかかっていました。東寺の造営が空海(弘法大師)の手に委ねられたのは、大師が大同元年(806)に留学先の唐から帰朝してまもなくの弘仁14年(823)のことですが、この頃から伽藍構築もだんだん軌道に乗り、その工事の途中に、
先に述べた稲荷大神のご神威が顕れたのでした。
都が遷ってくるだけでも重大事であった上に、大神のお力が天下に知れわたり、それを畏って神階奉授がなされる。これはまさに一社の重大事として記憶されて当然のことです。“忌寸”の姓を賜った中家の奉仕時期は、ちょうどこの頃でした。伊呂巨(具)が「秦中家忌寸等遠祖」と称されたのと同様、中家も100年ほど後に「秦氏祖中家云々」と良く似た表現で記録されています。天暦3年(949)頃の『年中行事秘抄』という文献には次のように書かれています。
― 稲荷神 ―
 件神社立始由慥無所見
 但彼社禰宜祝等申状云此神和銅年中始顕坐
 伊奈利山三箇岑平処是秦氏祖中家等抜木殖
 蘇也
 即彼秦氏人等為禰宜祝供仕春秋祭等
 依其霊験有被奉臨時御幣相次
 延喜八年故贈太政大臣藤原朝臣
 修造始件三個社者
この文には、中家が秦氏祖と書かれていること以外にもう一つ重要な部分があります。それは延喜8年(908)、都が平安京に遷ってから約100年ほど後に、歌舞伎などでは悪役に仕立てられ、菅原道真公の政敵とみなされている藤原時平公によって、初めて三個社の御社殿が造営されたと書かれています。

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