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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 7番 松尾大社

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コミュ内全体

延喜式神名では名神大社に定められ22社では上から4番目に列せられる名高い神社であります
京都府、楽土の道
(87) 山城國葛野郡
松尾大社(まつおたいしゃ)
住 所 〠 616―0024 京都市西京区嵐山宮町3
電話番号 電話 075―871―5016
御 祭 神 大山咋神 中津嶋姫命
開 祀 大宝元年(701)と伝わる
アクセス 阪急電車桂駅乗り換え嵐山方面松尾駅下車すぐ
<神歴・縁起> H/P  http://www.matsunoo.or.jp/index-1/index.html
式内社 山城國葛野郡 松尾神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗
旧官幣大社
御祭神
大山咋神 中津嶋姫命(市杵島姫命)
境外摂末社式内社
山城國葛野郡 葛野坐月讀神社 名神大 月次新嘗
月読神社 月読尊
山城國葛野郡 櫟谷神社
櫟谷宗像神社 奥津島姫 市杵島姫

 [磐座祭祀]
当社の大山咋神は当社社殿建立の奈良時代の頃、はじめてここに祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのがはじまりと云われております。
 [秦氏来住]
五・六世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦氏の大集団が朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。
[秦氏の開拓]
伝説によると……
「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山、荒子山となった。
そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城、丹波の開発につとめられた神である。」……と申すのも、
秦氏がこの大山咋神のご神威を仰ぎつつこの地方一帯の開拓に当たったことを示すものと言えます。
 [大堰と用水路]
また秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(大堰、大井と云う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられております。
その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地を通っております。
 [酒造神]
農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになったようです。
酒造については秦一族の特技とされ、桂川に堤防を築き、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できます。
室町時代末期以降、当社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。

朱塗りの大鳥居
[平安京誘引]
時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説となっております。
 〔神殿の造営〕
文武天皇の大宝元年(西暦701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させました。この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(松尾、東、南とも称した)です。
 〔松尾社と平安遷都〕
上代において秦氏を始めとする山城・丹波の住民から、農産業、土木工業の守神と仰がれた松尾社は、平安時代以降朝廷の守護神とされるに至りました。
桓武天皇は延暦3年(784)11月、都を長岡京(現在の京都府長岡京市)に移されると、勅使を派してこれをご奉告になり、秦氏の邸宅に御所を営まれましたが、まもなく平安京に都を移されると、当社と賀茂神社とを皇城鎮護の社とされ、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されて、ご崇敬はいよいよ加わるに至りました。
 〔神階昇叙〕
仁明天皇は、承和年間(834〜847)に勅使を遣わして奉幣あらせられ、神階を従三位に昇らせ、文徳天皇は仁寿2年(852)に正二位を、清和天皇は貞観元年(859)に正一位に進められ、後に勲一等に叙せられました。
 〔二十二社〕
醍醐天皇の御代に編修された延喜式(927年撰上)には、2神とも名神大社に列せられているのですが、その後22社の制が立てられると、その第4位に記されるに至りました。
〔皇室の参拝祈願〕
一条天皇以下、後一条、後朱雀、後三条、堀川、崇徳、近衛、後鳥羽、順徳天皇の各天皇は行幸参拝あらせられ、清和、後白河両天皇はご神宝をご奉納、仁明天皇は病気平癒を、清和天皇は甘雨を、村上天皇は皇居並びに京師の安泰をそれぞれご祈願あらせられました。

楼門
 〔荘園〕
平安時代には前述のような状況で、社頭は極めて栄え、社領も遠近各地に散在しており、丹波国の雀部庄、小川庄、天田川庄、摂津国の山本庄、越中国の松永庄、甲斐国の巨摩庄、遠江国の池田庄、伯耆国の竹田郷、三朝郷、東郷庄、豊前国の門司関などが著名です。
 〔分霊社〕
また当社のご分霊を勧請して各地に祀ることも盛んで、現在全国に存するご分霊社1300余の内には、この時代に創設されたものが相当あると云われております。
 〔武門の崇敬〕
鎌倉時代に入ると、源 頼朝は社参して願文を奉納し、黄金百両、神馬十頭を献じましたが、以後も武門の崇敬は続き、将軍足利義政、豊臣秀吉も神馬を献じました。
 〔江戸時代〕
江戸時代には、ご朱印の社領1333石を有し、また嵐山一帯の山林1000余町歩を持っており、奉仕する神職は33名、神宮寺の社僧は十余名、筆頭の神主、秦氏は累代三位に昇らせられ、また幕末には、勅使を派遣される勅祭社に擬せられたこともあったのです。
 〔明治時代以降〕
諸政一新の明治4年(1871)になると、全国神社中第4位の序列をもって官幣大社に列せられ、政府が神職の任命や社殿の管理などを行う国の管轄となり、大正11年(1922)には皇后陛下ご参拝あそばされ、終戦直後には梨本宮妃殿下がご参拝なされました。また天皇陛下よりはしばしば神饌幣帛料をご奉納なされました。
終戦後は、国家管理の廃止により、官幣大社の称号も用いないことになったことから、同名神社との混同を避けるために昭和25年に松尾大社と改称し現在に至っております。

拝殿
 京都洛西の総氏神として、約十万戸の氏子の崇敬を集めるほか、古来、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神として仰がれ、特に醸造祖神として、全国の酒造家、味噌、醤油、酢等の製造及び販売業者から格別な崇敬を受けています。

本殿
 本殿は大宝元年、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて創建以来、皇室や幕府の手で改築され、現在のものは室町初期の応永4年(1397)の建造にかかり、天文11年(1542)大修理を施したものです。
 建坪35坪余、桁行3間・梁間4間の特殊な両流造りで松尾造りと称せられています。
箱棟の棟端が唐破風形になっているのは他に類例がなく、柱や長押などの直線と屋根の曲線との調和、木部・桧皮の色と柱間の壁の白色とが交錯して醸し出す色彩の美しさ、向拝(ごはい)の斗組(ますぐみ)、蟇股(かえるまた)、手挟(たばさみ)などの優れた彫刻意匠は、中世の特色を遺憾なく発揮しており、重要文化財に指定されています。また本殿につづく釣殿、中門、回廊は、神庫、拝殿、楼門と共に江戸初期の建築と云われています。
 摂社 月読神社  京都市西京区松室山添町鎮座
御祭神は月読尊。日本書紀によれば、顕宗天皇の3年(437)、阿倍臣事代という者が任那に使した時、神のお告げを受けたので、京に還ると天皇に奏上して、山城国葛野郡の荒樔田の地(桂川沿い、現在の上野辺付近)を神領として賜り、月読尊を祀る神社を創建し、壱岐県主、押見宿祢が神職として奉仕したと伝えています。押見宿祢の子孫が(卜部姓)代々神職として世襲しましたが、文徳天皇の斉衡3年(856)に水害の危険を避けて、松尾山南麓の現在地に移り(文徳実録)ました。
貞観元年(859)正二位、延喜6年(906)正一位勲一等の神階に進まれ、延喜式では名神大社に列しています。全国屈指の名社ですが、当松尾大社の勢力圏内にあるため、古くからこの松尾大社の摂社とされてきました。 
境内には聖徳太子社、御船社、月延石があります。
聖徳太子社は月読尊を敬祭された太子の徳を称えて祀ったとものといわれ、御船社は、天鳥船神を祭神とし、毎年神幸祭の前に渡御安全祈願祭を執行する末社です。
月延石は安産石とも称し、神功皇后が腹を撫でて安産せられた石を、月読尊の神託により、舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求められ、当社に奉納されたという伝説(雍州府志)があり、古来安産の霊験を慕ってお参りされる人が多い神社です。
現在は、「戌の日」に安産の特別祈祷をいたしており、祈祷後「安産祈願石」にお名前をお書きいただき、月延石の前にお供えしてお参りをしていただいております。

安産石
 摂社 擽谷、宗像神社  京都市西京区嵐山中尾下町鎮座
現在は、2社同殿で御鎮座されており御祭神は、櫟谷神社が奥津島姫命、宗像神社が市杵島姫命になっている。この2神は異名同神(紀の一書)と見られていますが、天智天皇の7年(668)筑紫の宗像から勧請されたものと伝えられています。
櫟谷神社は嘉祥元年(848)従五位下、貞観10年(868)正五位下の神階を授けられた延喜式内社であり、宗像神社は、貞観12年葛野鋳銭所に近き故を以って新鋳銭を奉納されていたことが三代実録に見える由緒ある神社です。
両社とも大堰川(桂川)の水運の安全を祈って祀られたものと思われ、明治10年には摂社となりました。
西七条御旅所  京都市下京区西七条南中野町鎮座
御祭神は松尾大神で、名称の示すように松尾祭の神輿の御旅所である。創建は平安時代末期の史料にすでに見られ、元々は西七条地区に3ヶ所の御旅所があったのが、明治になってからは現在の地に定められた。なお江戸時代までは200余石の朱印地が与えられていた。
 末社 松尾総神社  京都市下京区朱雀裏畑町鎮座
御祭神は月読尊で、往古より松尾祭の還幸祭の道行きに際し、六基の神輿の御旅所とされて来ました。

 末社 三宮神社  京都市右京区西京極北裏町鎮座
大宝年代の創建といわれ、玉依姫命を祀っていたが、のちに大山祇神、酒解神を合祀して三宮社と称したと伝えられる。川勝寺地区の産土神です。松尾祭には、三宮社の神輿の御旅所となる。
 末社 衣手神社  京都市右京区西京極東衣手町鎮座
祭神は玉依姫命・羽山戸神。古くから郡(こおり)の産土神三宮神社に、明治8年本社の境内末社衣手社(羽山戸神)を合祀して衣手社の神輿の御旅所として、明治11年末社衣手神社と改称したものです。松尾祭には、衣手社の神輿の御旅所となる。

神仏霊場 ご朱印



脇勧請という榊の小枝を下げた鳥居      衣手社

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