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古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良 大神神社

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酒作りの神様で有名な神社です。ご神体は三輪山です。
奈良県、鎮護の道
(21)大和國一宮
大神神社(おおみわじんじゃ)
住 所 〠 633―8538 奈良県桜井市三輪1422
電話番号 電話 0744―42―6633
御 祭 神 大物主大神
開 祀 不詳
アクセス JR桜井線 三輪駅下車 徒歩5分
<神歴・縁起> H/P  http://www.oomiwa.or.jp/
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神
大物主大神
配祀 大己貴神 少彦名神

 『古事記』によると、大己貴神と少彦名神が、協力して国造りを行った後、
少彦名神は常世国へ去ってしまう。残された大己貴神が愁いていると、海を照らして神が出現し、「よく我が前を治めば、吾能く共与に相作り成さむ。もし然らずは国成り難けむ」「吾をば倭の青垣の東の山の上に拝き奉れ」と。
 『日本書紀』には、大己貴神が「汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処にか住まむと欲ふ」と問えば「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」と答えたとある。
この海の中から出現し、三輪山に鎮まり給う当社の神が大己貴神の和魂(幸魂奇魂)である大物主神。
 おなじく『日本書紀』によると、崇神天皇5年、国中に疫病が蔓延した。
そこで天皇は神浅茅原にて八百万の神々を招いて占いをした。
この時大物主神が、天皇の姑・倭迹迹日百襲姫命に神がかり、「もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平ぐだろう」告げた。
さらに天皇の夢に出現し、「わが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平ぐだろう」と告げた。
そこで天下に告げて大田田根子を探したところ、茅渟県の陶邑にて発見。
大田田根子に誰の子かと訊ねたところ「父は大物主大神、母は陶津耳の娘、活玉依姫」と答えたので大物主神を祀る祭主とした。
後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻になった。
この神は昼には現れず、夜だけ現れた。倭迹迹日百襲姫命が夫に、姿を見たいと願ったところ、あしたの朝、あなたの櫛函に入っているので驚かないでと告げた。朝、櫛函を見ると、美しい小蛇が入っていた。倭迹迹日百襲姫命が驚いた途端、蛇は人の形となり大空を飛んで三諸山へ去っていった。
倭迹迹日百襲姫命は、悔いて箸で陰部を撞いて死んでしまった。ゆえに、葬られた墓を「箸墓」と呼ぶ。
 さらに『日本書紀』によると
雄略天皇6年、天皇は少子部連スガル(蜾蠃)に、三輪山の神が見たいので、捕って来いと命じたところ、少子部連スガルは三輪山に登り大きな蛇を捕えてきて、天皇にお見せした。
天皇は斎戒していなかったため、大蛇は雷のごとき音をたて、目を輝かせていたという。このように、大神神社の祭神大物主神は蛇神であり雷神なのだ。
 また、大己貴神は密かに大陶祇の娘、活玉依姫のもとへ通い、活玉依姫が妊娠。父母は怪しんで、針を苧玉巻(おだまき:糸を巻く玉)につけ、神の裳にかけさせた。明朝、その糸を辿ると、三諸山に行き着いた。
糸を巻いて輪にしたものが三丸(三輪のこと)残っていたので三諸山と号し、三輪という。
御祭神について
当神社に祀る神、三輪の神、大物主神について、文献で最初に記述されるのは、 我が国最古の歴史書、『古事記』の上巻にあります。
それによれば、大国主神が、自分と協力して、ともに国造りに励んできた少彦名神がなくなられ、 独りしてどうしてこの国を造ればよいか思い悩んでいた時、「海を光(てら)して依り来る神」が あった。その神が、「我がみ前をよく治めれば協力しよう」と申し出た。これに対し、大国主神は、 「お祭り申し上げる方法はどうしたら良いのでしょうか」と問うたところ、その神は、 「自分を倭(やまと)の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と希望した。その後に、 「こは御諸(みもろ)の山の上に坐す神なり」と記されています。
つまり大和の国の周囲を垣のように取り巻いている青山のその東方の山上、三輪山にお祭りした神が、 三輪の神であり、これが大神神社ということであります。続いて、同じ『古事記』中巻の 神武天皇段に至って、三輪の神は「大物主神(おおものぬしのかみ)」であることが記されます。
 また『日本書紀』には、同じ内容が書かれ、大国主神の別名である大己貴神(おおなむちのかみ) が、協力者の少彦名神(すくなひこなのかみ)がなくなられたので、嘆き悲しんでいるところへ、 海を照らしてやって来た神があり、この神は、大己貴神の「幸魂(さきみたま)・奇魂 (くしみたま)」であると言い、「日本国(やまと)の三諸山(みもろやま)に住みたい」と答える。
そして「この神が大三輪の神である」と記しています。
続いて『日本書紀』の崇神天皇8年に、大田田根子(おおたたねこ)が三輪君族の始祖であり、 三輪の神が大物主神であることが示されています。
更に、平安中期の法典であります『延喜式』の巻8、祝詞篇の「出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこかむよごと)」の中には、「己(おの)れ命(みこと)の和魂(にぎみたま)を八咫(やた)の鏡に取り託(つ)けて、 (やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)と名を称えて、 大御和(おおみわ)の神奈備(かんなび)に坐せ」とあり、大物主神は詳しくは、 と言い、大御和の神奈備【三輪山】にお祀り申し上げたことが記載されています。
いずれも、大和の東方に独座していた三輪山に、大物主神を祀ったことが記載されています。
御神徳
  国造りの神様として、農業、工業、商業すべての産業開発、 方除、治病、造酒、製薬、禁厭、交通、航海、縁結びなど、 世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神として 尊崇されています。
そのご神威は、全国にわたり、古くは朝廷の鎮護として尊崇され、 崇神天皇の時代には、その子供の大田田根子(おおたたねこ)をして 厚く祭らせられ、長く朝廷の加護を受けました。
平安時代には、大神(おおみわ)祭、鎮花(はなしずめ)祭、 三枝(さいくさ)祭が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、 臨時の奉幣も多く、神領を寄せられ、神階は最高位の正一位となり、 延喜の制には官幣の大社として、祈年(としごい)、新嘗(にいなめ)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)のお供物に預かり、 のちに大和国一之宮となり、22社の一社に列しました。
中世になると、神宮寺であった大御輪寺や平等寺を中心にして三輪流神道が広まり、 広く全国に普及、人々に強い影響を及ぼしました。
近世に入ると、朱印領を寄せられ、三輪山は格別の保護を受け、 その御神徳とともに広く尊信されました。
明治時代となり、神仏習合は廃されましたが、古来からの由緒によって、 官幣大社となりました。
終戦後は、国家の管理を離れ、国造りの神様、我々の生活をお守りくださる神様としての 信仰が強く、近畿地方を中心に全国からの参拝があり、またご祈祷も多く、 信仰厚い人々に支えられ、社頭は賑わい今日に至っています。
 大神神社は三輪山全てが境内であるので全てを廻るなら丸1日が必要でありましょう。

拝殿
現在の拝殿は、寛文4年(1664)徳川4代将軍家綱の造営になり、西向きに建ちます。桁行9間 (21m)、梁間4間(8m)、正面は三間一面の大向拝がつき、江戸時代を代表する 堂々とした建物で、大正10年(1921)に国の重要文化財に指定されました。
拝殿の左右には、2つの建物が付属し、向かって右に勅使殿、左に勤番所があります。(どちらも県指定文化財)
大神神社全摂末社
正面参道より北側の摂末社
   社名        祭神        備考
摂社 高宮社       日向御子神     [三輪山上にあり撮影禁止]
三輪山登拝はカメラ持ち込み禁止のため
摂社 活日神社      高橋活日命
摂社 磐座神社      少彦名神
摂社 狭井坐大神荒魂神社 大神荒魂神     式内社狭井坐大神荒魂神社
             配祀 大物主命   5座
末社 貴船神社      淤加美神
摂社 檜原神社      天照大神若御魂神  内社卷向坐若御魂神社
伊弉諾尊
伊弉册尊
末社 豊鍬入姫宮     豊鍬入姫命
末社 富士社       木花咲耶姫命
末社 厳島社       市杵島姫命
摂社 神御前神社     倭迹迹日百襲姫命
摂社 網越神社      祓戸大神      式内社網越神社

社名        祭神        備考
摂社 大直禰子神社    大直禰子
             少彦名命
             活玉依姫命
末社 御誕生所社     鴨津美良姫命
末社 琴平社       大物主神
末社 久延彦社      久延毘古命
末社 祓戸社       瀬織津姫神
速秋津姫神
気吹戸主神
速佐須良姫神
正面参道より南の摂末社
末社 御炊社       御膳津神
末社 神宝社       家都御子神
熊野夫須美神
御子速玉神
末社 天皇社       御真木入日子印恵命
            (崇神天皇)
摂社 神坐日向神社    櫛御方命      式内社神坐日向神社
飯肩巣見命
建甕槌命
末社 大行事社      事代主神
加屋奈流美神
八尋鰐
末社 春日社       武甕槌命
斎主命
天児屋根命
比売神
末社 事比良社      大物主神
末社 稲荷社       宇賀御魂神
末社 八阪社       素盞鳴命
末社 大峯社       大山祇命
末社 賃長社       磐長姫命
末社 金比羅社      大物主命
末社 金拆社       宇都志日金拆命
末社 天宮社       天日方奇日方命
社名        祭神        備考
末社 神室社       靇神
末社 大峯社       大山祇命
摂社 玉列神社      玉列王子神     式内社玉列神社
天照大御神
春日大神
末社 祓戸社       祓戸大神
末社 金山彦社      金山彦神
末社 猿田彦社      佐田毘古神
末社 愛宕社       火産霊神
奈良市内にある摂末社
摂社 率川坐大神御子神社 媛蹈鞴五十鈴姫命  式内社率川坐大神
玉櫛姫命      御子神社3座
狭井大神
摂社 率川阿波神社    事代主神      式内社率川阿波神社
末社 住吉社       住吉の四柱の大神
末社 春日社       春日の四柱の大神

境内
正月元旦の繞道祭の18社めぐり順路
神宝社→天皇社→神坐日向神社→大行事社→活日神社→.磐座神社→
狭井坐大神荒魂神社→貴船神社→.檜原神社→富士社→厳島社→神御前神社
綱越神社→大直禰子神社→久延彦社→琴平社→御誕生所社→祓戸社
 神社辞典には
 大神神社 旧官幣大社(現、別表神社)。
古くは大神大物主神社、通称三輪明神という。当社は神体山三輪山、神奈備のみもろ山そのものを信仰してきたものであり、従って社殿がなく拝殿、
神門だけがあり神社の原初的型態であるとも考えられる。
禁足地である山中には巨石群、磐座等祭祀遺跡が散在するという。また、ミワ神婚伝承として大神が美女に通ったとする神話もよく知られている。
崇神紀7年に、伊香色雄に命じて、大田々根子を大物主の大神を祀る主とし、翌8年高橋邑人活日を大神の掌酒となし、冬12月乙卯の日をもって太田々根子に大神を祀らせ、天皇も行幸した記事がある。貞観元年(859)9月奉幣して風雨を祈り、同9年2月、先月の五穀を祈った賽として奉幣のことがみえる。
宮中で行われる灌仏の儀を停止して大神祭神事を行ったという貞観18年(867)元慶4年(880)の記事からも、その尊崇ぶりはうかがえよう。
嘉祥3年(850)正三位に叙せられたのを初めとして、仁寿2年(851)従三位、貞観元年(859)従一位勲二等、同年2月正一位に昇階した。大神氏の同族は各地に存在して活躍したことは国史によって知ることができるが、天平神護元年(765)9月8日符に、神封160戸のうち大和35、摂津25、遠江10、美濃50、長門30と、諸国に神封を得ていることからも、各地にミワ神社の祀られている理由がうかがえよう。寛平9年(897)勅して大神、狭井の両社を祀ることがみえ、この大神祭は西宮記、北山抄等に詳しい、昌泰元年(898)3月勅して夏冬の祭を行わせられ、内蔵寮馬寮官人をして幣帛、走馬12疋を奉じられ、延喜の制名神大社、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨の祭に幣に預かる。
中世には、大和国一の宮として、また22社の一に数えられ朝野の尊崇をうけた。長保2年(1000)713日大神社宝殿鳴動により、21社に奉幣の行われたことを知る。神宮寺大御輪寺は既に奈良朝より知られるが、僧慶門を初めとして鎌倉中期から両部神道が形成され、若宮の別当平等寺とともに、いわゆる三輪流神道の流布に努め、古来の自然崇拝的要素に、組織と神学を付与した。
摂末社は40を数えるが、とりわけ、『延喜式』の神坐日向神社は若宮として、大田田根子命を祀る大直禰子神社となり、『延喜内蔵式』には大神祭に緋帛二丈を日向王子の幣料として規定されている。摂社狭井座大神荒魂神社、綱越神社は『延喜式』以来の名社である。現在、医薬・酒業・厄除方除の神として信仰を集めている。拝殿、三つ鳥居、(三輪鳥居)大直彌子神社社殿、紙本墨書周書、朱漆金銅装楯が重文、摂社率川神社本殿聖観音毛彫御正体、高杯を県指定の文化財とされている。主な祭典には正月元旦=繞道祭(御神火まつり)、正月15日=古神符焼上祭(大とんど)、2月6日=御田植祭(おんださい)、4月9日=大神若宮神幸祭、4月18日=鎮花祭(くすりまつり)、6月17日=三枝祭(ゆりまつり)。7月30、31目=綱越神社おんばら祭(夏越祓)。とあります。
 國花記によると
三輪大明神(大神神社)三輪山〔またの名三諸山〕にある。杜領175石
 祭神 一座 大己貴尊〔一名大国主神、またの名大物主神〕
〔神主 高木左兵衛〕〔別当 平等寺〕
 ただ一の鳥居、二の鳥居、楼門、拝殿などがあって神殿はない。
里人が訝って造営した時、群鴉が啄き破り、かつ壊たれた木の所在が知れなかった。神は社を好まれないことが分かった〔『奥儀抄』に見える〕。
(『国花記』による)
(『日本紀』の)「神代巻」に、大己貴神の幸魂・奇魂が今日本国の三諸山に行こうと思う、とある。これが大三輪の神である。〔垂仁天皇6年(25)〕大水口宿禰に神がかりして教えて言った。太初の時に期って言うには、天照大神は悉く天原を治めよう。皇孫の尊(代々の天皇)は専ら葦原中国の八十魂神(天神地祇)を治めよう。我は親ら大地官(国魂、地主神)を治めよう、と。
(以上『神社啓蒙』による)
 倭迹(迹)日百襲姫命〔(第7代)孝霊天皇の女、(第10代)崇神天皇の姑である〕は大物主神の妻となった。ところがその神は、常に昼は現われず夜に来る。命は、君は昼は常におられない、願わくばしばらくここに留まって下さい。明朝その威儀を見たい、と言った。太神が答えて、我は明朝汝の櫛笥(櫛を入れる箱)に入って居よう。どうか我が形に驚かないように、と言った。
命は密かに怪しんで、夜の明けるのを待って櫛笥を見ると、美しい小蛇がいた。その長さは衣の紐ほどである〔蟠屈って三輪となっているので、この神は初め大和太神といったが、のちに三輪太神と号した〕。それで驚いて叫ぶと、太神は恥じて人の姿となって言った。汝は忍ばずして我を羞しめた。我は還り、汝を羞しめん、と。そして太虚を踏んで御諸山に登った。姫命は仰ぎ見て悔い、箸で陰を突いて薨じた〔そこで大市に葬った。その墓を号して箸墓というのである〕。『日本紀』(崇神10年)に見える。
(『大和名所記』による)
 大己貴神は天羽車に駕って虚空を飛び、遍く妾を求められた時、節渡県に下りて潜かに大陶祇の女、活玉依姫に通った。その往来は人の知るところではなかったが、女が初めて妊娠した。父母は怪しんで、誰が来るのか、と問うと、神人がいて屋の上から来て共に枕を並べる、と答えた。そこでこれを見顕わそうと、針を苧玉巻〔糸を巻くと玉のようなのでいう〕に着け、神人の裳に懸けた。その糸を印にして、明朝往くに従って尋ね見ると、吉野山に入り三諸山に留まった。巻いて輪にした糸が三丸(三勾。三輪のこと)なお残っていたので三諸山と号し、三輪という〔その神名を大三輪太神と名づける〕。『旧事本紀』に見える。(『大和名所記』による)〔△思うに、以上二説は少し異同がある〕
 ○印形(しるしのすぎ)  言い伝えでは、勢州奄芸郡の猟人が異女に逢って妻にし一児を儲けた。その後、母子の去った所は分からないという〔歌がある〕。
  恋しくは尋ねてもみよ我が宿は三輪山もと杉たてる門
 夫はこれを尋ね求めて神木の本で会い、三人同じく神となった。当社の祭に勢州奄芸郡の人が来て執行するのはその縁による。とあります。

三ツ鳥居(みつとりい)
 明神型鳥居を三つ組み合わせた、一名「三輪鳥居(みわとりい)」とも言われる独特の鳥居です。いつ頃どのようにして、この形式が出来たのかは不明で、神社の記録にも「古来、一社の神秘なり」と記されているだけです。
左右には、長さ16間の瑞垣(みずがき)が設けられ、ご祭神とゆかり深い動物、花鳥など、すぐれた木彫りの欄間が、はめ込まれています。三ツ鳥居、瑞垣ともに重要文化財に指定されています。

祈祷殿(きとうでん)・儀式殿(ぎしきでん)・参集殿(さんしゅうでん)
 国の重要文化財となっています拝殿、三ツ鳥居の老朽化に伴う保存修理とそれにあわせて、境内諸施設の拡充整備を目的とした「平成の大造営」事業で、平成9年5月8日に竣功しました。正面に祈祷殿、左に儀式殿、右に参集殿と3つの建物が、三輪山を背に西向きに建ちます。使用されている木材は、大部分が台湾檜で、一番太いものは樹齢1500年の原木から用いられています。

綱越神社(つなこしじんじゃ)
祭神 祓戸大神(はらえどのおおかみ)
 例祭日 7月31日
大鳥居の南側、一の鳥居にすすむ参道入口となる三輪の馬場先に鎮座します。古く延喜式神名帳に記載され、すでに貞観元年(859)には、従五位下の神階を贈られている由緒ある古社であります。
往昔から夏越の大祓(なごしのおおはらえ)が、例祭として行われ、社名の綱越は、夏越からの転訛と考えられ、通称「御祓(おんぱら)さん」と呼ばれ親しまれています。

拝殿前の巳の神杉
三輪山をはじめ境内に生い茂る杉は、神霊の宿ります神樹、神霊の天降ります霊木として崇拝されています。
その中で特に大きな杉は、古い由緒に起因して、古くから名前がつけられています。江戸時代には、「雨降杉」とあり、雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉にお詣りをしました。いつの時代からか、杉の根本に、巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と称せられるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされています。
蛇は、古来より三輪の神の化身として意識されており、『日本書紀』の崇神天皇10年9月条に、「小蛇(こおろち)」と記され、『同紀』雄略天皇7年7月条には、三輪山に登って捉えて来たのが「大蛇(おろち)」であったと伝えています。いずれも、三輪の神がその原初的形態として、蛇神であると信じられていたことを示していると考えられます。
これは、古代の人たちが、三輪山は千古鉞(おの)を入れず鬱蒼たる森林として、何がひそんでいるかわからない不気味さを覚え、そのお山から流れ出る水により、種々の農作物を作り、日々の暮らしをたて、山に立ち昇る霧や雲に神意を感得して、山内に棲む蛇を直感したものであったのでしょう。
三輪の神の原初の形とされる蛇は、水神であり、雷神ともなり、農業神、五穀豊穣の神となり、やがては国の成立とともに、国家神的な神に至ったと考えることができます。

狭井神社(さいじんじゃ)
 祭神  大神荒魂神、大物主神、媛蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多々良姫命、
事代主神 
 例祭日 4月10日 鎮花祭 4月18日
     本社の荒魂をおまつりしている、延喜式神名帳に記される古社であります。古くより、華鎮社(はなしづめのやしろ)と称され、病気を鎮める神としての信仰が厚く、ご神水の湧き出る薬井戸があります。

久延彦神社(くえひこじんじゃ)
 祭神  久延毘古命
 例祭日 5月5日 9月1日 12月第一日曜日
ご祭神の久延毘古命は、大国主神が国造りの際、多くの神がご存じなかった、少彦名命(すくなひこなのみこと)の神名をお教えになられた神様であり、知恵は世に類なく優れておられ、『古事記』には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」と記されている神様であります。
特に受験合格・入学・進学・就職等の成就安全をおまもり下さる、知恵の神様として信仰されており、社頭にはそれぞれの願い事を書いた「願かけ絵馬」が数多く掛けられています。


大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ。若宮社とも言われる)
 祭神 大直禰子命(おおたたねこのみこと)
 配神 少彦名命(すくなひこのみこと)
活玉依姫命(いくたまよりひめのみこと)
 例祭日 4月8日 10月23日
  奈良時代には、神仏習合の姿をとり、大神神社の神宮寺、大神寺(おおみわでら)として栄えました。中世には、三輪流神道がこの地より広まり、各方面に多大の影響を与えました。
明治の神仏分離までは、大御輪寺の本堂として、若宮の大神様とともに本地仏十一面観音(国宝、現聖林寺奉安)が併祀されていました。
現社殿は、昭和62年より3年間に亘り解体修理が実施され、応永19年(1412)の姿に復元されたものであります。(重要文化財)
鎮座次第
 第10代崇神天皇の時代、国内に疫病が流行し、国民の多くが死亡し、容易ならざる国状となった時、天皇の御夢に大物主大神があらわれ、「吾が児、大田田根子を以て吾を祭らしめたまわば立ちどころに平らぎなむ」とお告げになりました。
天皇は、大田田根子命を探し出され、大物主神を祀る祭主(かんぬし)とし、丁重にお祀りされると忽ちに病気は止み、国内は平安となり富栄えたと『古事記』『日本書紀』にあります。以来、本社の若宮として、この命をお祀りしています。

檜原神社(ひばらじんじゃ)
祭神  天照大御神(あまてらすおおみかみ)
社祭日  8月28日
 この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。
大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。
境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。
万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。

神楽殿

参道にある祓戸社 瀬織津姫神,速秋津姫神,気吹戸主神,速佐須良姫神

参道の木陰にある御炊社 御膳津神


参道にある夫婦岩

神仏霊場 ご朱印

拝殿右横、拝殿の続き

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