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安倍政権 VS中共 byみっちゃんコミュのまほろば 、、 44代までの天皇の命名は、奈良時代の後期 大友皇子の、、しんせきこうか した ひとにより なされた

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歴史とともにたどる歴代天皇。初代から現在まで128人を一挙紹介


日本の歴史を見守ってきた歴代天皇。その総数は128人となり、途絶えることなく現在まで続いています。さて、128人もの天皇、全員ご存知ですか?おだやかに生きられた天皇もおられれば、波瀾万丈の人生を送られた天皇もおられます。ここでは、日本最古の神武天皇から現在の今上天皇まで、歴史の流れとともに歴代天皇をたどっていきます。時に簡潔に、時に深く掘り下げつつ、すべての天皇をご紹介しますよ。
神の時代から人の時代へ〜飛鳥時代以前の天皇〜
神の時代から人の時代へ〜飛鳥時代以前の天皇〜

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実在したのかが曖昧な天皇

初代天皇である神武(じんむ)天皇から第25代天皇である武烈(ぶれつ)天皇までは、実在だったのか伝説もしくは架空の天皇なのかがたびたび議論されています。大きく4つの説があり、神武天皇以降全員が実在する天皇であるとする説、そして、第10代崇神(すじん)天皇以降が実在、第15代応神(おうじん)天皇以降が実在、第26代継体(けいたい)天皇以降が実在とする説です。
神武天皇から武烈天皇までが実在の天皇ではないとされるのは大きな理由があります。一つに古事記と日本書紀を史実に基づく歴史書ではないとする考え方が一般的だからです。そのため、第25代武烈天皇まではあくまで伝説上の天皇であったとされがちなのですね。

ただし、現在最も有力な説は第10代崇神天皇以降が実在であるというものです。これは、初代神武天皇と第10代崇神天皇が同一人物であるという考え方に基づいています。死後に送られた諡号(しごう)が同じであった、など共通する点が多いことからです。そして、初代神武天皇からあとの、第2代綏靖(すいぜい)天皇、第3代安寧(あんねい)天皇、第4代懿徳(いとく)天皇、第5代孝昭(こうしょう)天皇、第6代孝安(こうあん)天皇、第7代孝霊(こうれい)天皇、第8代孝元(こうげん)天皇、第9代開化(かいか)天皇までは、実在しない、すなわち欠けた8代として欠史八代と呼ばれています。

第1代神武(じんむ)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:神武天皇元年1月1日 – 同76年3月11日
実在したか不明だが、10代と同一人物であるとする説が有力
第2代綏靖(すいぜい)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:綏靖天皇元年1月8日 – 同33年5月10日
実在したか不明。欠史八代と呼ばれる
第3代安寧(あんねい)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:綏靖天皇33年7月15日 – 安寧天皇38年12月6日
実在したか不明。欠史八代と呼ばれる
第4代懿徳(いとく)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:懿徳天皇元年2月4日 – 同34年9月8日
実在したか不明。欠史八代と呼ばれる
第5代孝昭(こうしょう)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:孝昭天皇元年1月9日 – 同83年8月5日
実在したか不明。欠史八代と呼ばれる
第6代孝安(こうあん)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:孝安天皇元年1月7日 – 同102年1月9日
実在したか不明。欠史八代と呼ばれる
第7代孝霊(こうれい)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:孝霊天皇元年1月12日 – 同76年2月8日
実在したか不明。欠史八代と呼ばれる
第8代孝元(こうげん)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:孝元天皇元年1月14日 – 同57年9月2日
実在したか不明。欠史八代と呼ばれる
第9代開化(かいか)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:孝元天皇57年11月12日 – 開化天皇60年4月9日
実在したか不明。欠史八代と呼ばれる
大和政権最初の天皇、そしてだれもが知っている古墳を墓に持つ天皇

3世紀から4世紀に即位していたとされるのが第10代崇神天皇です。前項でもお話ししましたが、初代神武天皇と同一人物と考えられ、日本において実在する最初の天皇という説が有力とされています。日本各地にそれぞれ王朝があり、独自の政治が行われていた大和政権初期でしたが、崇神天皇の時代に初めて全国が統一される形になったという説が有力です。まだまだ統治の行き届かない日本全域に人を遣わし、さまざまな地域の農業を発展させ、人々の暮らしが豊かになるよう努めたすばらしい天皇であったと記録されています。
崇神天皇以降、第11代垂仁(すいにん)天皇、第12代景行(けいこう)天皇、第13代成務(せいむ)天皇、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇、第15代応神天皇へと続いていきます。この第15代応神天皇から実在する天皇とする説もあります。

続いて天皇となったのが、第16代仁徳(にんとく)天皇です。この仁徳天皇、天皇としてというよりもお墓となった古墳が非常に有名なので、みなさんもご存じなのでは?誰もが社会や歴史の教科書・参考書で一度は目にする前方後円墳、そのもっとも有名なものが、この仁徳天皇の陵。現在の大阪府堺市にある大仙陵古墳で、地元の人々には「仁徳さん」という名で親しまれています。

仁徳天皇の前代である応神天皇までは奈良県に都を置いていましたが、応神天皇もしくは仁徳天皇のときより大阪府中央区に難波宮が置かれたとされています。どちらの天皇が遷都したのかは、はっきりとした記録が残されていません。仁徳天皇は難波宮から近い河内平野の水害を治めるため、堤防を作ったり、大きな水路を作り上げたとされています。ほかにも近畿地方のさまざまな地域の水に関する土木工事を多く取り扱われたようです。

第10代崇神(すじん)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:崇神天皇元年1月13日 – 同68年12月5日
実在したか不明だが、10代以降は実在した説が有力
第11代垂仁(すいにん)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:垂仁天皇元年1月2日 – 同99年7月14日
実在したか不明
第12代景行(けいこう)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:景行天皇元年7月11日 – 同60年11月7日
実在したか不明
第13代成務(せいむ)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:成務天皇元年1月5日 – 同60年6月11日
実在したか不明
第14代仲哀(ちゅうあい)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:仲哀天皇元年1月11日 – 同9年2月6日
実在したか不明
第15代応神(おうじん)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:応神天皇元年1月1日 – 同41年2月15日
実在したか不明。15代以降実在したとする説もあり。
第16代仁徳(にんとく)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:仁徳天皇元年1月3日 – 同87年1月16日
実在したか不明。教科書にでてくる前方後円墳として有名
初めて有力王族からの出自となった天皇

第16代仁徳天皇以降、第17代履中(りちゅう)天皇、第18代反正(はんぜい)天皇、第19代允恭(いんぎょう)天皇、第20代安康(あんこう)天皇と続きます。続く第21代雄略(ゆうりゃく)天皇に関しては、考古学を根拠として実在を証明できる最初の天皇と考えられています。埼玉県行田市にある稲荷山古墳から出土した考古品の中に、雄略天皇の諡号と考えれられる文字が記されていたからです。
続いて第22代清寧(せいねい)天皇、第23代顕宗(けんぞう)天皇、第24代仁賢(にんけん)天皇、第25代武烈(ぶれつ)天皇まで、子息もしくは兄弟に天皇が受け継がれていきます。しかし、第25代武烈天皇には、後継ぎとなる子どもや兄弟がおらず、武烈天皇自身も後継ぎをだれにするのか決めずに崩御してしまったため、第26代の天皇はすぐに決まりませんでした。

そこで、第26代天皇として白羽の矢が立ったのが、第15代応神天皇の5代あとで遠縁にあたる継体(けいたい)天皇でした。この継体天皇後遠縁から天皇を迎えるということはなく、現在の天皇家の礎は継体天皇であるという考え方もあります。第26代継体天皇の後、第27代安閑(あんかん)天皇、第28代宣化(せんか)天皇、第29代欽明(きんめい)天皇、第30代敏達(びだつ)天皇、第31代用明(ようめい)天皇まで古墳時代と呼ばれる時代が続きます。

第17代履中(りちゅう)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:履中天皇元年2月1日 – 同6年3月15日
実在したか不明
第18代反正(はんぜい)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:反正天皇元年1月2日 – 同5年1月23日
実在したか不明
第19代允恭(いんぎょう)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:允恭天皇元年12月 – 同42年1月14日
実在したか不明
第20代安康(あんこう)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:允恭天皇42年12月14日 – 安康天皇3年8月9日
実在したか不明
第21代雄略(ゆうりゃく)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:安康天皇3年11月13日 – 雄略天皇23年8月7日
実在したか不明だが、考古学を根拠として実在を証明できる最初の天皇
第22代清寧(せいねい)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:清寧天皇元年1月15日 – 同5年1月16日
実在したか不明。21代から子息もしくは兄弟に天皇が受け継がれる
第23代顕宗(けんぞう)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:顕宗天皇元年1月1日 – 同3年4月25日
実在したか不明。21代から子息もしくは兄弟に天皇が受け継がれる
第24代仁賢(にんけん)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:仁賢天皇元年1月5日 – 同11年8月8日
実在したか不明。21代から子息もしくは兄弟に天皇が受け継がれる
第25代武烈(ぶれつ)天皇
在籍:西暦不明。日本書紀によると:仁賢天皇11年12月 – 武烈天皇8年12月8日
実在したか不明。21代から子息もしくは兄弟に天皇が受け継がれる
第26代継体(けいたい)天皇
在籍:507年 2月4日〜531年 2月7日
25代目に後継ぎがなく、第15代応神天皇の5代あとで遠縁だった継体(けいたい)天皇に白羽の矢が立つ
第27代安閑(あんかん)天皇
在籍:531年 2月7日 〜 535年 12月17日
古墳時代と呼ばれる時代。
第28代宣化(せんか)天皇
在籍:535年 12月〜539年 2月10日
古墳時代と呼ばれる時代。
第29代欽明(きんめい)天皇
在籍:539年 12月5日 〜 571年 4月15日
古墳時代と呼ばれる時代。
第30代敏達(びだつ)天皇
在籍:572年 4月3日 〜 585年 8月15日
古墳時代と呼ばれる時代。
第31代用明(ようめい)天皇
在籍:585年 9月5日 〜 587年 4月9日
古墳時代と呼ばれる時代。
優れた女性天皇が多くいた時代〜飛鳥から奈良時代〜
優れた女性天皇が多くいた時代〜飛鳥から奈良時代〜

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公正な判断で統治した日本最初の女性天皇

飛鳥時代に入り、第32代崇峻(すしゅん)天皇が即位していましたが、当時権力を持ち大臣の座についていた蘇我馬子(そがのうまこ)により暗殺されてしまいます。長い日本と天皇の歴史の中で、天皇が臣下の命令により暗殺されるのはこの崇峻天皇だけであるとされています。
その後第33代天皇に即位したのが、推古(すいこ)天皇です。日本で初めての女性天皇とされており、甥である厩戸皇子を皇太子としてそばに置いていたことでもよく知られています。この厩戸皇子が私たちもよく知っている聖徳太子。推古天皇と言うと、そばに仕え、十七条の憲法や冠位十二階など、さまざまな制度を整えた聖徳太子に注目が集まりがちですが、聖徳太子がそれだけの力を発揮できたのは、推古天皇の治世であったからと言えます。

当時、天皇の外戚に当たる権力者が政治に口出しすることも少なくなく、何かと便宜を図ることも多かった時代ですが、推古天皇は身内だからとひいきせず、公平にするのが国のトップである自分の姿勢であるとしていたのです。そのような推古天皇の時代であったからこそ、それほど力があったわけではない聖徳太子が自分の意見を通し、制度を整えることができたと言えます。

第32代崇峻(すしゅん)天皇
在籍:587年 8月2日 〜 592年 11月3日
臣下の命令により暗殺された唯一の天皇とされる
第33代推古(すいこ)天皇
在籍:592年 12月8日 〜 628年 3月7日
日本で初めての女性天皇
飛鳥時代から奈良時代にかけての天皇は三分の一が女性

飛鳥時代から奈良時代にかけては、日本の歴史において、女性天皇が最も多かった時代です。18人の天皇が即位したこの間、そのうちの8人が女性天皇でありました。中には再任という形で2回天皇となった方まで。順に名前をあげていきますと、第33代推古天皇、第35代皇極(こうぎょく)天皇、第37代斉明(さいめい)天皇、第41代持統(じとう)天皇、第43代元明(げんめい)天皇、第44代元正(げんしょう)天皇、第46代孝謙(こうけん)天皇、第48代称徳(しょうとく)天皇です。
このうち、第35代皇極天皇と第37代斉明天皇、第46代孝謙天皇と第48代称徳天皇は、重祚となっています。重祚(ちょうそ)とは一度即位した天皇が退位後に再び即位することです。第35代皇極天皇は、日本で初めて重祚した天皇でした。それまでの天皇は現在の日本と同じで亡くなるまで天皇であり続けるのが通常でありました。ですから、皇極天皇は日本で初めて位を譲った、すなわち生前譲位した天皇でもあるのです。

それぞれ即位の理由はさまざまでしたが、我が子に天皇を継がせるため、夫の政治を受け継ぐため、世を良くするためなど、確固たる意志を持って即位していたようですね。この時代の女性がパワフルであった様子がうかがえます。

第34代舒明(じょめい)天皇
在籍:629年 1月4日 〜 641年 10月9日
第35代皇極(こうぎょく)天皇
在籍:642年 1月15日 〜 645年 6月14日
女性天皇
第36代孝徳(こうとく)天皇
在籍:645年 6月14日 〜 654年 10月10日
第37代斉明(さいめい)天皇
在籍:655年 1月3日 〜 661年 7月24日
第35代と同一人物。女性天皇
第38代天智(てんち)天皇
在籍:668年 1月3日 〜 671年 12月3日
大化の改新を行った
第39代弘文(こうぶん)天皇
在籍:671年 12月5日 〜 672年 7月23日
第40代天武(てんむ)天皇
在籍:673年 2月27日 〜 686年 9月9日
第41代持統(じとう)天皇
在籍:690年 1月1日 〜 697年 8月1日
女性天皇
第42代文武(もんむ)天皇
在籍:697年 8月1日 〜 707年 6月15日
第43代元明(げんめい)天皇
在籍:707年 7月17日 〜 715年 9月2日
女性天皇
第44代元正(げんしょう)天皇
在籍:715年 9月2日 〜 724年 2月4日
女性天皇
第45代聖武(しょうむ)天皇
在籍:724年 2月4日 〜 749年 7月2日
国分寺や東大寺の建立を進めた
第46代孝謙(こうけん)天皇
在籍:749年 7月2日 〜 758年 8月1日
女性天皇
第47代淳仁(じゅんにん)天皇
在籍:758年 8月1日 〜 764年 10月9日
第48代称徳(しょうとく)天皇
在籍:764年 10月9日 〜 770年 8月4日
第46代と同一人物。女性天皇。
第49代光仁(こうにん)天皇
在籍:770年 10月1日 〜 781年 4月3日
改革や歴史に残る大きな建造物も作られた時代
改革や歴史に残る大きな建造物も作られた時代

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女性天皇の活躍の間にも、功績を残した天皇がさまざまいらっしゃいました。第34代舒明(じょめい)天皇、第36代孝徳(こうとく)天皇、第38代天智天皇は男性天皇でした。天智天皇と言えば、社会科、歴史を通して誰もが知る大化の改新です。実際は、蘇我入鹿暗殺は乙巳の変(いっしのへん)、その後の政治制度の改革を大化の改新と呼びます。前項にも出た皇極天皇の譲位は、乙巳の変を原因としました。その際、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は皇太子の座に就いたのですが、孝徳天皇、斉明天皇の即位を経て、第38代天智天皇となられたのです。
その後、第39代弘文(こうぶん)天皇、第40代天武(てんむ)天皇、第42代文武(もんむ)天皇と男性天皇が続きます。次に即位したのが、第45代聖武(しょうむ)天皇です。聖武天皇が即位していた時代には、疫病や災害が多く、多くの死者が出ました。仏教を深く信仰していた聖武天皇は、仏様の力を借りて世の中を救おうと、国分寺や東大寺の建立を進めました。東大寺といえば、現在でも多くの人が観光に訪れる「奈良の大仏」です。聖武天皇は生涯をかけてこの奈良の大仏建立に努め、開眼法要の2年後崩御されました。

聖武天皇の後、第47代淳仁(じゅんにん)天皇、第49代光仁(こうにん)天皇と続き、時代は平安へと入っていきます。





貴族文化が栄え、天皇も雅な生活を送っていた平安時代
貴族文化が栄え、天皇も雅な生活を送っていた平安時代

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平安京遷都で歴史の舞台は京都へ

794年といえば、小学生でも暗記する平安京遷都です。日本史の区切りではここからを平安時代ととらえることがほとんど。ここから約400年にわたる平安時代の始まりです。平安時代の天皇は、親兄弟、外戚などさまざまな血脈や思惑が入り乱れ、400年の中におおよそ30人もの天皇が即位しました。
まず、平安京への遷都を行ったのが、第50代桓武(かんむ)天皇でした。桓武天皇は当時の天皇にしては珍しく、自分自身で政治を行う親政を行った天皇でもありました。軍備を整え、まだ統治の手が届いていなかった東北を制圧するために遠征を行ったり、唐から持ち帰られた仏教の新しい考え方を取り入れ、政治面文化面において日本を発展させた天皇とも言えます。

桓武天皇の後、第51代平城(へいぜい)天皇、第52代嵯峨(さが)天皇、第53代淳和(じゅんな)天皇と、桓武天皇の子どもたちが続いて天皇を継いでいきます。第54代仁明(にんみょう)天皇、第55代文徳(もんとく)天皇、第56代清和(せいわ)天皇、第57代陽成(ようぜい)
天皇があとに続きます。清和天皇、陽成天皇はこののちに台頭してくる武士のさきがけであった清和源氏の祖であったとする説があり、どちらの天皇の血統であったのかが未だに議論され続けています。

第58代光孝(こうこう)天皇、第59代宇多(うだ)天皇、そしてその次の代である第60代醍醐(だいご)天皇の時代に大きな事件が起こりました。醍醐天皇が右大臣であった菅原道真(すがわらのみちざね)を大宰府へと左遷されたのです。道真はその後大宰府の地で亡くなりますが、天皇の周りでは大臣が死に、天皇自身も体調を崩し、住まいが落雷で焼けるなど、道真の祟りとされてもおかしくないことがたくさん起きました。醍醐天皇は文芸にも秀で、優秀な天皇とされていたのですが、この道真を大宰府に左遷した昌泰の変は、失策ととらえられています。

第50代桓武(かんむ)天皇
在籍:781年 4月3日 〜 806年 3月17日
平安京への遷都を行った。自分自身で政治を行う。
第51代平城(へいぜい)天皇
在籍:806年 3月17日 〜 809年 4月1日
第52代嵯峨(さが)天皇
在籍:809年 4月1日 〜 823年 4月16日
第53代淳和(じゅんな)天皇
在籍:823年 4月16日 〜 833年 2月28日
第54代仁明(にんみょう)天皇
在籍:833年 2月28日 〜 850年 3月19日
第55代文徳(もんとく)天皇
在籍:850年 3月19日 〜 858年 8月27日
第56代清和(せいわ)天皇
在籍:858年 11月7日 〜 876年 11月29日
第57代陽成(ようぜい)天皇
在籍:876年 11月29日 〜 884年 2月4日
第58代光孝(こうこう)天皇
在籍:884年 2月5日 〜 887年 8月26日
第59代宇多(うだ)天皇
在籍:887年 8月26日 〜 897年 7月3日
第60代醍醐(だいご)天皇
在籍:897年 7月3日 〜 930年 9月22日
右大臣であった菅原道真を大宰府へと左遷。歴史的な失策とされる
天皇を支える藤原氏の権力が最盛期を迎える
天皇を支える藤原氏の権力が最盛期を迎える

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第61代朱雀(すざく)天皇、第62代村上(むらかみ)天皇、第63代冷泉(れいぜい)天皇、第64代円融(えんゆう)天皇、第65代花山(かざん)天皇ののち、即位したのが第66代一条(いちじょう)天皇です。一条天皇の時代には、清少納言や紫式部のような女流作家が多く才能を開花させました。華やかな貴族文化が栄えていたからでもありますが、一条天皇自身が文芸や音楽に強い関心を寄せていたことも一つの要因であったのでしょう。温厚な性格で、学問にも秀で、政治にもよく取り組まれたということで、周りの人々から愛された天皇であったようです。
一条天皇の在位中から、摂関家としての藤原氏の力が強くなり、第67代三条(さんじょう)天皇、第68代後一条(ごいちじょう)天皇、第69代後朱雀(ごすざく)天皇、第70代後冷泉(ごれいぜい)天皇までは藤原氏が政治を取り仕切っていたような時代が続きました。第71代後三条(ごさんじょう)天皇は、藤原氏を外戚に持たない天皇でした。摂関家のみが権力や財力を持つ当時の政治システムを大きく改革し、天皇家が国のトップとして政治を取り仕切ることができるように努めました。

第61代朱雀(すざく)天皇
在籍:930年 9月22日 〜 946年 4月20日
第62代村上(むらかみ)天皇
在籍:946年 4月20日 〜 967年 5月25日
第63代冷泉(れいぜい)天皇
在籍:967年 5月25日 〜 969年 8月13日
第64代円融(えんゆう)天皇
在籍:969年 8月13日 〜 984年 8月27日
第65代花山(かざん)天皇
在籍:984年 8月27日 〜 986年 6月23日
第66代一条(いちじょう)天皇
在籍:986年 6月23日 〜 1011年 6月13日
清少納言や紫式部のような女流作家が多く才能を開花した時代
第67代三条(さんじょう)天皇
在籍:1011年 6月13日 〜 1016年 1月29日
藤原氏が政治を取り仕切る
第68代後一条(ごいちじょう)天皇
在籍:1016年 1月29日 〜 1036年 4月17日
藤原氏が政治を取り仕切る
第69代後朱雀(ごすざく)天皇
在籍:1036年 4月17日 〜 1045年 1月16日
藤原氏が政治を取り仕切る
第70代後冷泉(ごれいぜい)天皇
在籍:1045年 1月16日 〜 1068年 4月19日
藤原氏が政治を取り仕切る
第71代後三条(ごさんじょう)天皇
在籍:1068年 4月19日 〜 1072年 12月8日
政治のトップを藤原氏から上皇へ移るよう努力
政治のトップが藤原氏から上皇へと変化

後三条天皇のはたらきにより、次の第72代白河(しらかわ)天皇ののち、天皇が退位したあと上皇として再び政治を行う院政の時代がやってきます。白河天皇が譲位し、第73代堀河(ほりかわ)天皇が立てられます。しかし、堀河天皇が即位時まだ8歳であったこともあり、白河上皇が政治を行い続けました。白河上皇が政治を行う中で、自分専属の武士集団を集めたことにより、平氏などの武士が力をつけていきます。こののち、政治の世界にもどんどんと武士が介入し、貴族が政治をする時代から武士の時代へと変化していきます。
第74代鳥羽(とば)天皇も、第75代崇徳(すとく)

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(参考)



歴史おたくの歴史日記

2011-06-04 04:04



偉大なる社畜、偉大なる老後、淡海三船の生涯。Add Star

俺ペディア

f:id:kuzuhiro:20110604040122p:image:w360
!!!OHMI-NO-MIFUNE!!!

なんともさみしげな背中のこの男、名を淡海三船(722〜785)という。
天智天皇のやしゃご、大友皇子のひ孫にあたり、やったことがデカい割には知名度が低い。

淡海三船は神武天皇から元正天皇までの43人の天皇(弘文と元明は除く)に漢風諡号という中国に倣った諡号を追贈したことで知られる。もちろん昔の天皇にも"名前"はあったが、彼の手によって全員"改名"させられたのだ。今日僕たちが呼んでいる神武なり雄略なり推古なりの名称はコイツによって付けられたと考えるとその業績は凄まじく大きい。



そんな淡海三船が付けた漢風諡号を見ると妙なことに気づく。
斉明以前(〜661年)と次代の天智以後(668年〜)で諡号のグレードが変わるのだ。

斉明以前は「いい名前」で天智以後は「すごくいい名前」になっている。
もう少し具体的に言うと、諡号を構成する二文字の諡字の組み合わせが違う。「まぁまぁの字+いい字」から「いい字+いい字」に変化しているのだ。

詳しくはコチラのURLを参照→http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/sigo01-2.html


ここで一つ疑問がわく。

天智の次代の天武(673年〜)からはいわゆる「天武系」の天皇が続き皇室の血統が変わるのだが、なぜ天武の仇敵大友皇子のひ孫である淡海三船が天智系に比べ天武系に良い諡字を使ったのか? 漢風諡号の創始事業は淳仁から称徳の治世にかけて行われた(『ブリタニカ大百科事典』によると762年〜768年にかけて)。二人とも天武系である。とすると、淡海三船は天武系を持ち上げるように強制されたのではないか?



この疑問から一つの仮説を打ち立ててみた。
「漢風諡号の創始は天武系を正統化する事業の一つだった」という仮説である!どや!
(以後↑を大前提に書く)

天武系の正統化事業として国史の編纂が挙げられるが(元明の治世に『古事記』『日本書紀』として完成)、漢風諡号の創始もその一つと僕は考える。

天武天皇の代から中国に倣う政策がバンバン出されてたことは日本史上でも注目に値する。国史の編纂以外にも、律令の編纂や藤原京の造営など天武天皇を境に日本は急速に中国化していった。漢風諡号もその一環であり(漢風とは当然ながら中国風を意味する)、血統の正統化が目的と考えるのが自然であろう。

なぜならば、そもそも前代全員の諡号を与えること自体が「俺たちは前代全員に影響を及ぼすほどの力を持っているんだぞ」と主張していることに変わりないから、というのが一つ。さらにそれだけでは飽きたらず、天武系を相対的に持ち上げる諡号を制定したことは正統化の決定打と言えよう(これが本国中国ならば紂王や霊帝などあからさまな諡号となるが、日本は天皇による万世一系の統治であり放伐という思想自体がないため相対的な持ち上げ方となっている)。



しかし、またもや疑問がわく。二点わく。
一つは、なぜ天武が皇統を簒奪した天智天皇には「天智」というすごくいい諡号が与えられたのか?
二つは、なぜ天武の仇敵の子孫である淡海三船にこの大事業の責任者としたのか?

一つ目の疑問に関しては、天智=悪い諡号という説もある。しかし、どちらの説を採るにせよ僕が導き出したい結論は同じなので、せっかくだから一応そちらも紹介しておく。ということで、善or悪かで場合分けして考えたい。


天智=善 説
天智は先に引用したリンクによれば良い諡号ということになっている。

ではなぜ天武系が天智天皇にいい諡号を与えた理由を、天智と天武で対にさせ「あたかもスムーズに皇統が変わったと見せかけるため」「簒奪の事実を隠すため」と僕は考える。つまり、天智は特例でありフェイクなのである。

反逆者一族という看板を背負い肩身の狭い思いをして生きてきた淡海三船は、この二枚舌に義憤を感じたことだろう。時は淳仁の治世、672年の壬申の乱から100年近くが経っている。もうあの出来事の記憶は薄れている。その時になって天武系はあたかも皇統の簒奪など無かったかのようにしたのだ。それでも自分には敗れ去った一族の血が流れている。こう考えると、「天智」という"素晴らしい"諡号を思い付いた時にあっても、淡海三船の心の奥底では激しい怒りがこみあげていたに違いない。

天智=悪 説
この説は森鴎外が『帝諡考』の中で取り上げている。以下かいつまんだ引用。






















天智=悪 説


この説は森鴎外が『帝諡考』の中で取り上げている。以下かいつまんだ引用。


(詳しく知りたい方は井沢元彦『逆説の日本史2古代怨霊編』を参照して下さい。鴎外をさらに詳しく引用してます。)



天智と天武は対になっている。

天智の智は確かにいい諡字ではあるが殷の紂王ゆかりの字であり、対する天武の武は紂王を滅ぼした商の武王に由来するものである。

よって天智は悪い諡号、つまり天武系の正統性のために付けられた諡号である。

とするならば、天智という諡号は歴代屈指の悪い諡号ということになる。



そんな名を天智天皇のやしゃごである淡海三船が付けたとなると、ここまで行くと「淡海三船による一括ネーミング自体が嘘」という線も出てくるが、これを採ると今まで書いたことを全て吹き飛ばしてしまうので、僕としては別の考え方を採り話を進めていく。



それは、「淡海三船は先祖を貶める事業を無理やりやらされた」という解釈である。


淡海三船は無理やりひぃひぃじいちゃんの天智を貶める作業をさせられたのだ。さぞかし辛かったであろう。

以上、天智が善であろうが悪であろうが、漢風諡号の創始事業は淡海三船の本意とするところではなかったということだ。

しかし、朝廷の命には逆らえない。

やりたくないことを仕事だからと割り切って仕方なくやる、彼は現代で言うところの社畜のような存在と言えよう。






少し長くなってすみません。正直大したことではないのだが、次の疑問を見ていこう。

なぜ淡海三船が漢風諡号の選定者に選ばれたのか?



「諡号事業=天武系の正統化」という仮説を元にするならば、何も彼でなくてもよかったのではという疑問が残る。

その答えとして以下の二つが考えられる。



一つは、淡海三船に"転向"を迫るため。天智系の直系である彼を無理やり寝返らせるために起用したのではないか。

二つは、淡海三船以外に適任者がいなかった。彼は我が国最古の漢詩集『懐風藻』の編者とも言われ、中国の故事に精通していたと言われる。となると三船より他に"漢風"諡号を選ぶ適任者はいなかったのではないか。



一つ目を採るならば、正統化事業は人選においても正統化の目的があったことになる。

二つ目を採るならば、淡海三船は"敵"にすら認められるほどの才覚の持ち主だったことになる。

まるで戊辰戦争で賊軍として戦った榎本武揚や立見尚文が、その才能を惜しまれ維新政府から異例の抜擢をされたような格好だ。




ぶっちゃけ、どちらであろうと、どちらでもなかろうと、どちらでもあろうとよい。

繰り返すが、淡海三船が漢風諡号の選定を引き受けたのは、天武系政権下で生き残るためには仕方なかったことだからだ。





彼の苦悩はこの事業以外でも見て取れる。たとえば事業着手の約6年前、三船は朝廷を誹謗したとして禁固刑を受けている。

とすると「これ以上天武系には逆らえまい」として、漢風諡号の制定という本意ではない仕事を引き受けたのではないだろうか。

というより引き受けざるを得なかった。

やはり、生き残り策だったとしか考えられない。なんて不憫なんだ…!







しかし、突如として淡海三船の逆運の人生が一気に開ける。

770年称徳天皇が後継者がいないまま急逝し、天智系の光仁天皇が即位した。


予期せぬ政局の変化に三船は歓喜したことであろう。

ようやく自分の血統にスポットがあたったのだ。





ここから天智系の巻き返しが始まる。まず注目したいのが、光仁の光。


後漢の創始者光武帝を見れば分かるように、光の諡字には「新たな正統性」という意味が込められている。

つまり、"天智王朝"の復活を高らかに宣言したのだ。





淡海三船の巻き返しも特筆すべきだ。

彼は光仁天皇の下で新たな国史の編纂に取り組む(後の『続日本紀』とされる)。


今度は打って変わって天智系の正統性を訴える事業に乗り出したのだ。さぞ痛快だったことだろう。

天智系なばっかりに才覚があったばっかりに、世知辛い渡世を強いられた淡海三船は、その晩年にようやく"正統性"を得た。まさに人生9回裏の名誉挽回。素晴らしい老後だったに違いない。781年に逝去。


















天武天皇 系統を 御輿に かついで の 、 豪族たち と 、 天智天皇 系統を かついで 、 あるいは 天武天皇の系統ではあっても 聖武天皇の例のように 幼少の頃より 藤原の 家に取り込み 藤原の 家の 娘と 結婚させ て

藤原の 政治支配を 固めよう と したり




生き馬の 目を抜くような 、、




そんな あらそいに 桓武天皇は 嫌気が さして か 、 京都に 逃げ出した?









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