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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【孫崎享のつぶやき】 アーネスト・サトウと倒幕の時代 著者:孫崎享、出版社現代書館、1800円+税

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出版社宣伝ほぼ不在。自分で宣伝。『アーネスト・サトウと倒幕の時代』、サトウ軸に幕末史再検討々明天皇は暗殺されたのでないか⇔暁楼纏Δ六長側でないか9掌余詭儀豎城、西郷・勝会談前にパークス反対表明伝達し決定に影響ぁ惘儿餾論』で倒幕醸成
2018-12-16 08:58


アーネスト・サトウと倒幕の時代
著者:孫崎享、出版社現代書館、1800円+税
サー・アーネスト・メイソン・サトウ(1843年6月30日 - 1929年8月26日[1])は、イギリスの外交官、1862年9月8日(文久2年8月15日)、横浜に着任
『英国策論』:1866年(慶応2年)3月から5月にかけて週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』(横浜で発行)に匿名で論文を掲載。この記事が後に『英国策論』という表題で、翻訳出版され、大きな話題。西郷隆盛らも引用したとされる。
1.将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎない。
2.日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
本 目次
1.アーネスト・サトウの来日
2.「桜田門外の変」から「生麦事件」へ
 伊東博文、坂下門外の変に関連し、塙次郎を麹町三番町の自宅前で暗殺。
島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷した事件。
 英国は賠償金と責任者処分を求め、薩摩応ぜず、薩英戦争に。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。
3.高まる「攘夷」の動き
4.薩英戦争後、薩摩は英国と協調路線に 「尊皇攘夷」の内、「攘夷」は薩長側から消滅。
5.孤立化する長州藩、そして第一次長州征伐へ
6.薩長連合の形成と幕府崩壊への始まり
最初の三職会議、山内容堂が、『此の小会議に速やかに徳川内府を召して出席せしめ、朝議に参与せしむべし』、新体制に徳川慶喜の参加を主張。会議紛糾。休憩時、西郷隆盛、会議の事情を聴き、『得ざる時は之れあるのみ』と剣を示す。これを伝え聞いた容堂沈黙。
誰が龍馬を殺したか。圧倒的に支持を得ているのは「見廻組説」。根拠は見廻組の今井信郎が「見廻り組の渡辺吉太郎らが「龍馬を討留めた」と自供。これのみ。当時龍馬は倒幕後の新体制に慶喜を加えて新体制を作ることを主張。薩長には邪魔。
 孝明天皇の主治医であった井良子光順氏、日記をつけていた。子孫の医師、井良子光考氏は「急性毒物中毒の症状」と発表。佐々木克京大教授は自著『戊辰戦争』で「やはり毒殺であった」と記述。後、同じ本の35版あとがきには「かつての記述は誤りであったことをお断りし、読者にお詫びしたい」。この問題は極めて重要。暗殺であれば、「尊皇攘夷」の「尊皇」もない。
7.「討幕」志向の英国と、幕府支援のフランスの対立
8.江戸城無血開城:木梨精一郎 パークス公使に会う。パークス「吾々の聞く所に依ると徳川慶喜は恭順ということである。その恭順しているものに戦争を仕掛けるとは如何」。これをうけて西郷は江戸城攻撃を止める。その後に西郷・勝会談。この会談で無血開城を決定とされているが、その前にパークスの言で、西郷は江戸城攻撃を取りやめ。
追加:子孫武田久吉はサトウの子供。初代日本山岳協会会長、尾瀬をほぼ最初に日本国内に紹介。尾瀬の保護に努めたことから「尾瀬の父」と呼ばれている。

コメント(1)

面白い、歴史考察ですね。
歴史は、後人によって、書き換えられる。

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