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クンダリーニとチャクラの真実コミュの止観の瞑想

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心を寂静にして、観察をする。
シャマタ、サマタ、シネー、止これらは言語は違うけど、言っている意味は同じです。

 心を止めることです。
 実際には止めることは出来ないので、静寂の状態に留める。
 落ち着かせることを指しています。
 心を静寂にする方法は幾つもあります。

 方法はどんなものであれ、鎮める。

 そうすると、観察、観照、正知、一体化、客観視と不二(別ではない)状態にもなり得ます。
 「観」にも色々な方法があるのです。

 この様々なヴァリエーションがそれぞれある「止」と「観」を合わせて「止観」と言います。

 これが「智慧」の基です。

コメント(15)

『中辺分別論(チュウヘンブンベツロン)』という弥勒(マイトレーヤ)の教えの中で、瞑想への取り組みの中で、五つの過失を克服する八断行(ハチダンギョウ)によって心の安定状態を得られると言います。







これは簡単に言うと、「止の瞑想」の秘訣です。

心を集中させ、静寂の境地に至る為の秘訣とも言えます。



私たちの集中を妨げ、励めない状態になるには、「五つの過失」があるのです。その五つを挙げます。

1、怠惰(タイダ、懈怠)―――なまけ、励まないこと
2、教えを忘れること、集中すべき対象を忘れること
3、心が過度に暗くなったり、明るくなったりすること
4、心が過度に暗くなったり明るくなっても、対抗手段を取らない事。
5、心が過度に暗くなったり明るくなった時に極端な対抗手段をとるこ  と。



この五つの過失に対し、八つの対抗手段が定められています。
怠惰に対し、対抗手段が四つあります。
解りやすく言い換えると、すぐ眠くなったり、眠いダルイ、何もしたくないという状態です。

これの対抗手段が

1)信頼(信)
2)欲求(欲)
3)努力(勤)
4)柔軟性(軽安(キョウアン))

この四つが沈み込みに対する対抗手段です。

これらを流れで説明すると・・・

瞑想修行というのは、心の安定を得られるという「信頼」が生まれます。 これによって、もっと安定した状態や、開放される状態を求める「欲求」が生じ、更に「努力」するようになります。 それによって「軽安(キョウアン」という柔軟な状態に至るのです。


5)次に対象を忘れるということに対し、「記憶保持(念)」が必要になります。 この記憶を保持する対処法は、心が過度に暗くなったり明るくなっりすることの対処法としても機能します。

6)心の浮き沈みに対する中心的な対抗手段は「監視作用(正知[ショウチ])です。」細かく正確に認識しようという観照することです。

7)そして、心が過度に暗くなったり明るくなっても、対抗手段を取らない事に対しては、ちゃんと対抗手段を取らなくてはならないという理解と、ちゃんと対抗手段を取ろうと、意思することです。

8)最後に極端に対応し過ぎてしまうことに対しては、冷静に対処しようという前もって決意することです。



以上八つが、瞑想する時の障害となるものに対する対処法です。
本人が、最近アクセスしていない様だし、自分で纏め切れない部分もあると思われるおで、代わりに報告を兼ねて書き込みします。

その内、本人からの体験談もあると思いますが、先行してお伝えします。

本人は、自分の注意力や集中力が低下、もしくは元々、幼い時から無いと思っていたので、どうすれば良いのかを良く聞いていました。

僕はその人のポテンシャルの高さを知っていたので、その能力を阻害している要因を取り除けば良いだけなので、気にしなくて大丈夫と言い、気になるなら日頃の気付きに対して注意深くあるようにしたらいいよ・・・ヴィパッサナーの瞑想は、有効な手段だから機会があったらやった方が良いよ・・・と言っていたのです。

本人は余程危機感があったのか、地元の近くで、ヴィパッサナーのリトリート(合宿)が行われるので参加することにしたのです。




主催はゴエンカ師で、ミャンマー出身のヴィパッサナー瞑想の在家指導者です。
 パオ式が出家向け、マハシ式が出家・在家両方向けであるのに対し、
ゴエンカ式は在家向けであると言えるでしょう。


・最初に10日間の合宿に参加することが必須。
・最初の3日間ほどはサマタ瞑想である、呼吸を見つめる瞑想アーナパーナ・サティを行う。
・残りの7日間ほどは主に体の感覚を観察するヴィパッサナー瞑想を行う。
・歩行禅はなく、座禅のみ。
・瞑想中にテープによる指導が行われる。
・合宿中は完全な沈黙行を行う。

この方法は実に理に適っていて、サマタ瞑想と言うのは、「止」の瞑想でヴィパッサナーは「観」の瞑想です。

 これはあくまで集中力を付けるのに有効な手段で、思想そのものはパーリ上座部の教えを基に構成されているので、大乗思想に注目されている方は精妙な注意が必要です。

 大乗か小乗かを吟味するのは、日記には適さないので、ここでは割愛しますが、興味ある人は、「空」に対する認識の違いを学ばれるのが良いでしょう。
呼吸を意識する数息(アーナパーナ・サティ)をやっていると集中力が付いてきてニミッタが出現してきます。

ニミッタとは光や色が見える様になってくるのですが、見えるものに気を囚われてはいけません。 全てを無常の現れと認識し、心を平静に保つのです。 それが止観の止の部分ですが、認識が粗雑な分別と。精妙な吟味といったように、意識の進化の状態によって同じものの認識でも、把握の仕方が変わってくるのです。 ですから日常の認識でも「分化と未分化」の違いを明らかに把握出来るようになるのです。


話は脱線しましたが、この友人は10日の合宿に参加したのです。 元々クンダリーニの覚醒体験はしていたので、管の浄化は早く進み、クンダリーニの覚醒は頻繁に起こる様になって、それは恒常化します。 クンダリーニの管の状態は管に穢れがあると自覚しますが、上がるたんびに浄化が進ので、その内感じなくなります。 その時感じているのは、スシュムナー(中央脈管)の管の太さの拡大と、結節の詰まりです。

 この辺になってくると、幻身(変化身)が動くようになって、輪廻のカラクリが明白に解る様になってきます。


気を付けなきゃなんないのは、テーラワーダは、存在の核心に変滅することは理解していますが、極微の分子や原子の存在を有ると見るのです(刹那滅理論)。 空の思想は、それさえもあり得ないと否定するのですが、名称が与えられたものは、その瞬間は「有る」と見るのか、「それもあり得ない」とみるかで、大乗と小乗の分岐点になるのです。


 ですから、クンダリーニの覚醒自体は、正しいアプローチならば、当然の現象であって、占いや霊気がどうのとかとは関係ない話なんですよ。  ってことです。
<シネペリ>

三乗≪声聞乗・縁覚乗(独覚)・菩薩乗(仏乗)≫の功徳の全ては止観の直接的或いは間接的な結果であると『解深密経』には説かれています。



「止」を達成した暁には、沙門はどんな行いをしたことよりも優れた力を持つこととなる等、その功徳と効果は極めて大きく、解脱を求める瑜伽行者は、止を達成することが大事であると言われています。


『中辺分別論』を引用して止の六種の資糧が謳われています。 「懈怠と教誡を忘れることと、沈み込み及び昂ぶりと、すべきではない時に行を行わない等の五種の過失をよく理解してそれぞれの対処法をここに著わす。」


世間では、「ヴィパッサナー」という「観」の瞑想が独立して賞賛される傾向もありますが、「止」を欠いた「観」のみでは、瑜伽行者の心は対象の上で散乱する。 風の中の灯篭の様に堅固でなくなる。 それ故、智慧の輝きが極めて明瞭なものにはならない。
 なので、初めに「止」の修習をすべきです。

 ただし、心を所縁に固定した後に行うべきであるという。



これはとても大切で、簡単に言うと、意識の方向性をどこに向かわせるか? ということです。 それを「所縁」と言います。 煩悩を浄化するための所縁は「浄惑所縁」と言うのですが、心をどこに結び続けるのかとことで、欲界の貪欲を離れたいと願うならば、欲界の粗野さと色界の静寂さに心を固定します。
 そして色界の精妙さに慣れ親しんで色界より離貪したいと欲するならば無色界の更なる静寂さに心を固定し、一切の有身見を厭離し、解脱したいと思うならば、苦諦と集諦と滅諦と道諦とに心を固定するのです。




ボーディバドラ(覚賢)は、「止」には二種あって、内に見たものによって得られる止と、外に見たものを所縁とするものがあるとしている。

 『三昧王経』に説かれる臨終の際に仏を念ずることから退失しない等の功徳や、密教の主尊瑜伽(グルヨーガ)にとって極めて有益なものとして仏身を所縁としたものの功徳も止の修習に有効な方法として挙げられています。

『修習次第』には、「止」の方法や、注意点や留意すべきことも沢山記されているのですが、唯識瑜伽行派の根本論書や経典を論拠として大乗の瑜伽行の集大成みたいに膨大な経典の引用が沢山なされています。


 師の教誡を聴聞する力によって第一の心の安住を達成し、
思惟の力によって第二の心の安住を達成し、憶念(心が生き生きし意識が行き渡っている様)の力によって第三と第四の心の安住を達成し、正知の力によって第五と第六の心の安住を達成し、精進の力によって第七と第八の心の安住を達成し、串習(習慣)の力によって第九の心の安住を達成するのです。

(この部分が大切で、沈み込みと昂ぶりの対処法でもあります。)





シネペリ(止の修習図)の簡単な解説(上の図)を少し。

?登場する行者は、左手に念の綱を、右手に正知の鈎を持つ
?道の六つの湾曲が六種の力に関連し
?象は心を、黒い色は沈み込みを現す。
?猿は、散漫を、色の濃い猿は昂ぶりを表す。
?ウサギは微細な沈み込みを表す。






(1)心を安住させる
(2)心を続けて安住させる。 明瞭さ安住の側面が増えていく
(3)心を引き戻して安住させる。 微細な沈み込みを理解するようになる
(4)心を身近に安住させる。 正知の力が発揮されだしてくる。
(5)心を調御するようになる
(6)心を鎮めるようになる。 精進の力が発揮される。
(7)心を極めてよく鎮める。 意思の力を必要とせず念と正知の力で三昧に入れるようになってくる。
(8)心を集中する。 習慣の力によって安住が達成される
(9)心を平等に安住させる。 身軽安、心軽安、止の得とく、空性の体得が得られる。


 これに加え、過去に僕が数々のラマ達に教えられた秘訣があるのですが、今回は、シネペリの紹介です。

以前にシネペリという、「止」の修習図の話を、2012年12月30日に、『クンダリーニとチャクラの真実』のコミュニティーの中のヨーガチャーラのトピックと、日記にアップしましたが、



 全ての仏道では「止・観」が最も大事です。 止観の大切さは、仏教だけでなく、人生の全てに通じていて、世界のあらゆる宗教、哲学、心理学にも繋がっています。

日常を振り返っても、人生上の重要な選択、そして失敗や後悔なども意識の動揺や抑圧された怒りによって判断を誤ることが多くあります。

なんであの時にあのような判断をしてしまったのか?

そんな事は沢山ありますが、それをさせているのが抑圧された感情や人に悪く思われたくないという無知の意識による欲求や、性的なリビドーが大きな原動力となって余計な事をしてしまうのです。

この様に日頃、私達を突き動かす衝動は沢山あるのですが、自分自身が抑圧された感情が沢山有るほど、自分が意図しないのに、状況にさせられることになって、流される人生になってしまいます。

これも、自分自身が解らなくて起こる事象です。

覚醒というのは、目覚めた状態であって、神秘体験をすることが目的ではありません。 自分自身と向き合うことで、自分自身の抑圧し、歪めてしまった感情や知覚の歪みを正しく知ることなんです。

自分では視たくない、受け入れたくないことが沢山あります。

このように、自分に取り組むことが重要な「修行」であって、有難いとされている教えを受けるとか、秘技を伝授されることが一番大事であると勘違いする人がいますが、一番大事なのは、自分自身と向き合うことです。

心と取り組む為に、心をリアルに感じ知る必要があります。
観念的に把握しても意味ないんです。 今の心を知覚して、取り組む為にも心を止める必要が出てきます。

心を静寂の状態にすると、止める事に近づくので、それに向い努力するのです。 ただし、気絶やボーっとした状態は止まっているのとは違うのです。 例えば眠っている時は、空無に対して集中している状態で、止まっている訳ではないのです。 無意識(潜在意識)の活発な活動下にあるので、止まっては居ないのです。 ボーっとした状態も曖昧で混沌とした意識状態で、明晰で安らかな心が止まる状態とは全く違って、不鮮明でどんよりとした、欲求に支配されやすい状態です。
『修習次第』とはラマ・ミパムが記したものでしょうか?
>>[5]

もっと前の人で、カマラシーラ(蓮華戒)の著作、インド仏教導入時のことです。
カマシーラともいうのですが、それをミパムが注釈を書いたことはあり得ますが。
>>[7]
ありがとうございます。
アマゾンで検索したらミパムの注釈版が引っ掛かりました。
>>[8]

それは原典よりも、ジローさんにとっては良いかも。
ロンチェン・ニンティクを学ぶものとしては最高ですよ。

カルマさん
ありがとうございます。
取り組んでみます!
ヴィパッサナー(観)をするには、心が静寂の状態にならないと、観照することは出来ませんよ、という極めて当たり前の指摘があって、心を止める(サマタ)という取り組みが薦められています。

このシャマタ(サマタ)に取り組んだことがあるという人は少なくないのですが、これには幾つかのコツがあるのです。

一番セオリーに則っていると感じるのは、五蘊に合わせて心理作用を分別して、「行」と「想」の二つを理解するようにすれば、比較的簡単に心を止める事が出来るようになります。

「行」蘊に注意深くあるようにするのは、繊細な注意力をもて「想」を見るためです。

注意深く読んで下さい。

「想」とは、イメージのことで、記憶や印象の事を指しています。
そのイメージの連結が「思考」の事です。 判りますか?

「あれこれ色んな事を考えた」というのは、イメージの連想を沢山やったということなのです。

なので思考は「想蘊」のことです。

問題はここから。
イメージの形成を停止させることが、「止」なのです。
どうやったら止める事ができるのかと言うと、これがコツなのですが、「能動的に注意を向ける」のです。 

 つまり受動的な視点を持つ限り心は散動してしまいます。 つまり落ち着かない意識になるのです。

 様々な状況にあっても、「聞いてあげるから話なさい」というようにちょっと上からの視点でもありますが、これは観照する視点にも繋がるのですが、傍観する視点で注意深く見ていると、あらゆるイメージ作用が停止するのです。

仏教の伝統的では、ある意味当然のことですが、仏教以外でもシュリ・ラマナ・マハリシやクリシュナムルティもこれは絶対にそうだよ、と断言しています。

これは「止」のコツの話です。

注意深くあること‥‥


今まで述べた、止の瞑想が出来ない要因は「不注意」によるものです。


 これについて疑問点や反対意見があれば是非伺ってみたいものです。

 不注意であることが大量のイメージを生産し、じょう挙(落ち着きの無い精神状態ー高ぶり)を生む根本ですから、注意深く知覚を研ぎ澄ましていると、感覚が鋭くなります。

何となく伝わりますかね?

知覚を研ぎ澄ます為に、前提として向上心が有ることを前提としたならば大切なコツがあるのです。

それは「疑念」です。
疑念は自己を守る為の防衛本能でも生起するのですが、探究心を前提とした疑念は注意力を増大し、古来から禅の老師達が「不滅の剣」にたとえ重視してきました。

疑念は宗教団体の中では破滅の思いでタブー視されていす。 この疑念の思いは一度芽生えると強力な破壊者になり全てを破壊し、人格や人生までも破壊する力を持っていますので、抑圧される代表格とも言える疑念ですが、疑念は知性の裏返しなので疑念を抑圧せずに疑問として表面化させると、その集中したハテナが自我が絡むと疑念になり、意識が自分に拘っていなければ単なる疑問になって知性的な疑問になるのです

これは自分自身を無為の状態に明け渡すのではなく、または空想(イメージ)の想像力を働かせるのでもない、完全に対照と自分が別物ではない一体化することに努めるのです。

こういったアプローチは「禅宗」の使った方法です。 それが「公案」として伝わっているのです。
公案は課題について考えたら答えは出ないんです。その問と一体化すると自ずと解答が出ると言います。

疑念は非常に苦しい心情ですが、視点を大きく広げると、非常に有効な活力になることが示されているんですよ。
江戸時代以前にあった果たし合いを思い起こして下さい。

日本刀を腰に携え、いつでも刀を抜けるようにして、相手や周りの状況に気を配り、注意深く緊張して、辺りに気を配り警戒心が張りつめています。

 もしも他の事に気を取られ警戒心を怠れば、一瞬の内に貴方は切られ絶命してしまう緊張感。

 その緊張の中にあって、貴方はの感覚は研ぎ澄まされ、聴覚は総ての音を聞き分け、色んな物を視る。

 しかし貴方は五感で感じる全ての感覚に囚われない唯、相手を感じている。
 この時には、思考は生じない、あれこれとは考えず、能動的に注意深く有るようになるのです。
これは昨日の「聞いてやるから話なさい」という態度で俯瞰していながら能動的な自覚へと導いてくれます。 このように注意深く観察していると、受動的ではない積極性を持つ観照という視点が働くのです。

これが「シャマタ(サマタ)」の秘訣です。 「止」のことです。
掉挙(ジョウコ)ということ。


これは意識の高ぶった状態のことで、落ち着きの無い散動して物忘れやうっかりミスの多い意識状態を指していますが、エネルギー的に体質で言うと、アーユルヴェーダで言うところのピッタ、ヨーガで言うとラジャス(熱)の事を指していて、活動的だけれども注意力が無く、怒りっぽい状態を指しています。

この「じょう挙」は唯識における二大障害があるのですが、細かく言うと、「大随煩悩(ダイズイボンノウ)」の内の一つなんです。 

「じょう挙(ジョウコ)」と対になるのが「昏沈(コンジン)」で大随煩悩には、他にも「放逸」「失念」「不信」「不正知」「散乱」等があるのですが、上に挙げた心理状態は略、じょう挙に収まります。

ちょっと細かい話になりましたが、「じょう挙」は様々な問題を形成してしまうのです。



 なぜじょう挙になってしまうのか? それは重要な問で、原因があるのです。 色んな理由や条件下にあるのですが、日頃の日常の中の意識の抑圧や遮断や分離があると、状況を受け止めたくない、真っ直ぐ見たくない‥‥誤魔化したいという意識は心を散動させます。 そうすることで、自分自身の問題を他人や状況に投影するようになって、自分にとって不都合なことを、他のものに投影させて見てしまうのです。

 そうすると益々問題解決から離れてしまうのです。 これはあらゆる状況に当てはまります。

それらは、ヴィパッサナーや懺悔等のアプローチで、積極的に自分の内面を見ていこうとすると、もともと
自分自身の問題ですからハッキリと自分で認知出来るようになっていきます。
 心理学では自分自身ではそれは出来ないとされていて、他の人に指摘してもらうというのが定説になっています。 がアプローチの方法や取り組みでどうにでもなる問題です。

 今日の様に天気が良いと陽だまりが気持ちが良くありませんか?

暑すぎますかね?

 明日も蒼天の天気になるそうですから、散歩でもしてみて下さい。


 眼を瞑り、お日様を全身に感じ風も感じて下さい。
何かを意図(意欲)したら心は、ここに無い事を知ってください。


 心地良い陽だまりを堪能しましょう。
心地良い知覚に集中すると、心が動き他の沢山の欲求も自覚します。

 今は他の事は手放して、心地よさに浸り切りましょう。


 イメージ作用、他の欲求、他に気になること、気が散漫になる様々な要因に一旦、注意を向けます。 それどれをごちゃ混ぜの一緒に纏めないで、一つ一つ別けていきます。  最初は気になるやつから分化させていきます。 その仕訳作業を分化作業と言います。 色んな不安の要因がありますね。 気になることも沢山あるはずです。 後悔や反省するべきこともあるかも知れません。  そんなに深く追求する必要はないんです。

 ただ、一色淡にしないで、別ける癖を付けるんです。
騒音が気になる、目の前を通った美人さんが気になる。 仕事の事、友人の事、家族の事・・・・・一杯有るかも知れません。

 重要なのは、気になる事柄のまとまりとして認識するのではなく、一個一個別々の問題である事を別問題であると認識するんです。

 それを分別と言うんです。 
 そしてそれが識別作用と言うんです。




 つまりわたし達は識別して色んな処理をしているのですが、全部、別々に凄いスピードで処理しているんです。 総合的には、色んな情報やレヴェルの違う願望があるのを、それぞれを統合して処理するのですから、その情報処理能力は高性能のコンピューターを凌ぐ能力を皆が持っているのです。

 ただこれらを一個一個別々に処理すれば良いのですが、これらをまとめて混乱したまま捉えるので、未分化の状態のまんまになってしまうのです。



 話は戻って、分別することは習慣付ける様に意識して、ここでは、放置します。 心地良い日差しを味わいましょう。


 心地良い知覚を味わっていて、その心地良さと一つになります。

色んな思考が出てきますが、囚われず、無視もせず、ただ流します。

 ただ心地良い知覚と一体となります。 そう一味です。

 そうすると思考は止まります。 ただ気持ち良い知覚だけです。

 これが一番簡単な「止(シャマタ)」です。


やってみて下さい。

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