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石原莞爾平和思想研究会コミュの天下分け目の関ヶ原

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1600年9月15日は天下分け目の関ヶ原の戦いが行われた。私の祖先も細川方について参戦していたので負けていればこの世には存在しなかったでしょう。結果は東軍の徳川家康の勝利に終わりましたが、西軍・石田三成方が勝利しても、安定した世の中にはならなかったであろう。石田三成は、豊臣家のために立ち上がった。

二代目の秀頼はまだ子供であり、官僚主義の石田三成を嫌っていた武将も多く、不安定要素はたくさんあった。恐らく三成の技量では、戦国時代はまだまだ終わらなかったでしょう。現在の世界も、同じ事がいえるのでは?アメリカ幕府による、安定した平和、強大な軍事力に抑えられた、不自由な平和ではある。

現在の日本国の運命を変えたと言っても過言でないない1600年の関が原の戦いでは、各国の武将たちの様々なドラマがあった。その戦、命のやり取りの中、決定的な勝敗に決着をつけてしまったシーンといえば、西軍に陣をはっていた小早川秀秋の裏切りでしょう。

小早川秀秋は、西軍の石田三成、大谷吉継らを焦らせ、また一方では東軍の大将、徳川家康も焦らせた。松尾山に位置づけられた小早川秀秋は、天下の戦局を握るキャスティングボード的な存在だった。小早川秀秋はたいした事はない人物だが、この瞬間では、徳川家康、石田三成などの大物および、東西両軍の武将を手玉にとっていたのである。

人間には、しばしばこのような運命的なシチュエーションが訪れて、その人を実力以上にさせる瞬間がある。あらゆる時の中で、運命はいかにも奇妙な気まぐれから、行き当たりばったり、いかにも平凡な人間に身をまかせる事が往々にしてある。そしてこれは世界歴史のもっとも驚くべき瞬間であるが、重大な運命を左右する糸が、一瞬だけまったくつまらない人間の手に握られる事があるのだ。

小早川秀秋がその機会をつかんでしまい、同時に自分自身をも高めてしまったのである。 偉大さが、つまらない者に身を委ねるのはほんの束の間だけであり、それを取り逃がすと、そんな機会には二度とめぐまれないだろう。関ヶ原では、裏切りがあり、西軍の負けが色濃くなってきた時、島津軍の陣は一歩も動かなかった。

島津が西軍についたのは豊臣家への忠義だ。石田三成の官僚的支配には我慢がならなかった。歴史にifという言葉はないが、島津義弘が西軍を率いていたら負けなかったであろう。島津義弘は西軍全滅の後、ついに東軍がいっきに押し寄せる中、後退するのではなく、自分の陣に襲い掛かる東軍に向けて中央突破を試みた。

何とその勢いは東軍の大将・徳川家康の本陣をかすめたのだ。徳川家康も本陣まで迫った時には死を覚悟したと言う。家臣は島津義久を守りながらシンガリを務めて、堺から船に乗り薩摩まで戻った。城に辿り着いた時は、30人足らずだった。島津義久は時世の句で関ヶ原の合戦を思い出しています。文章の最後に披露する。

関ヶ原の戦いでは各地で戦闘が繰り広げられていた。その中でも重要な合戦は徳川秀忠を釘づけにして関ヶ原に行かせなかったことが大きい。石原莞爾が陸大を卒業した大正7年、長引いた第1次世界大戦が終わった。この戦争は、世界の誰もが長期戦になるとは思わなく、戦争は短期間に終わると思った。関ヶ原の戦いはその逆、短期決戦で終わった。

だが、第一大戦は反して長期戦となり戦争は5年間続いたのだ。この戦争を石原莞爾が見て世界の予想を裏切った長期戦争の原因は何かと研究した。ベルギーの中立国までも侵して短期決戦を挑んだドイツが、同じように短期戦争で敗けたかを研究の対象にした。

それで石原莞爾は連合国の中でこの戦争を長期戦争と判断したものを探し求めて、イギリスのキッチナー元帥を発見した。南阿戦争で有名を馳せたキッチナー元帥だけは戦争は長期戦になると忠告していたのだ。戦争には長期戦争と短期戦争の2通りの型があると石原莞爾は第1次大戦を見つめながら陸大を卒業したのです。

関ヶ原の戦いの直前、徳川打倒の旗を会津若松に掲げて、挙兵した上杉景勝の家臣・直江兼続の配陣を日光等の関東北部から奥羽口の白河にたずねて、石原莞爾は驚嘆した。直江兼続は主戦場を白河の南にある革籠原として、軽兵を越堀と芦野に出して戦いを挑んで、敗れながら退却して、敵を主戦場に導いて主力を若松、宇都宮街道の高原に伏せて、徳川の大軍を袋の鼠にして懺滅を計ったその雄大な作戦には多大の興味をもった。

上杉討伐で江戸城から宇都宮に出陣して、上杉勢に戦いを挑まなかった徳川家康も流石であると思った。短期戦の名人は織田信長で、長期戦の名人は徳川家康である。織田信長は数多くの戦いに勝利して天下を取れなかったが、徳川家康は数多くの戦いに敗れながら最後に勝利して天下を取った。

源頼朝は自ら戦わないで天下を握ったが、源義経は短期戦で数多くの武勲を残しながら、奥州藤原家に落ちぶれて衣川にて消えた。戦いには武力戦と政治戦がある。国を守るものは、国防の大役に任ずるものは武力戦だけを心得て、政治戦を知らなければ国防の大役は果たし得ないとして政治戦もまた勉強しなければならないと石原莞爾は考え東亜連盟創始者、木村武雄に語ったのだ。

それでは最後に「春秋の花も紅葉もとどまらず 人もむなしき関路なりけり」これは、島津義弘の辞世の句です。春の桜や秋の紅葉が散ってしまうように人の一生もはかないものだ。関路という言葉には関ヶ原からの道のりという意味が込められています。自分ひとりを戦場から逃すために命を落としていった家臣たち。死の間際、義弘の心に去来したのは彼等忠義の家臣たちへの思いだったのかも知れません。

ちなみに宮本武蔵は17歳の時(1600年)に関ヶ原の戦いにおいては西軍に加わるが敗退しています。

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