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従軍慰安婦Q&Aコミュの【資料】ミッチナ捕虜尋問調書A

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安禅不必須山水より
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/177835/

アジア女性基金−歴史の教訓とする事業
http://www.awf.or.jp/program/index.html

『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第5巻p.177-179。
*日本語簡訳はp.113-115(いずれもAcrobat Readerのページ表示)

【文書Aの表題】
ATIS Research Reports No. 120 Amenities in the Japanese Armed Force, Nov. 15, 1945,
連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー
 1945年11月15日

b. ビルマ

(1) 捕虜、1944年8月10日ワイモウ付近で、その妻および従軍売春婦20名とともに捕獲された売春宿経営(民間人)の供述

【応募した業者】

 捕虜、その妻、および義理の姉妹は、朝鮮の京城にて食堂経営者としてそれなりに稼いでいたが、客足は減ってきていた。彼らはより多く稼ぐ機会を得ようと、京城の陸軍司令部に応募して、「慰安婦」を京城からビルマへ連れて行く許可を求めた。捕虜によると(応募して許可を求めるようにという)示唆は、もともと陸軍司令部から出たもので、同じような多数の日本人「業者」にもそれは伝えられていた。

【慰安婦の徴募と軍の支援】

 捕虜は朝鮮人女性22名を買った、女性の性格、容姿、年齢に応じて300〜1000円を彼女の家族に支払った。これら22名の女性の年齢は19〜31歳であった。女性たちはこの捕虜の占有財産となり、陸軍は彼女たちから儲けを得なかった。朝鮮の日本軍司令部は、(経由地)全ての陸軍司令部宛てた書簡を捕虜に与え、移送、食糧、医療など、捕虜が必要とした場合の援助は全て提供するよう要請した。

【釜山からラングーンへ】

 食堂を続けるために義理の姉妹を残して、捕虜とその妻は22名の女性を連れ、全員が朝鮮人からなる女性703名、および全員が捕虜と同じ類の者たちからなる日本人男女およそ90名の団体の一員として、1942年7月11日に釜山を出航した。7隻からなる船団の中で、一行は4000トンの旅客船に乗って航行した。陸軍司令部からは無料乗船券が提供されたが、航海中の食事は捕虜が全額支払った。台湾に寄港した際、シンガポールへ向かう女性22名が新たに乗船した。その後シンガポールに寄港した際に、一行は別の船に乗り換え、1942年8月20日にラングーンに到着した。

【ラングーンから任地配属】

ラングーンで、一行は20〜30名ずつのグループに分けられ、ビルマ各地へ分散配置された。各グループがさまざまな連隊、部隊、もしくは中隊に配属された結果、各グループがそれぞれの売春宿を持つこととなった。

【ミッチナの慰安所】

 捕虜のグループは歩兵第114連隊に配属された。タウングー、メイクテーラ、およびメイミョーで数ヶ月を過ごした後、同業者のあとを追って(1943年1月ごろ)ミッチナに到着した。すでにミッチナには売春宿2軒が設置されていたので、売春宿は3軒、女性は総計63名ということになった。内訳は、捕虜の売春宿であったキョウエイが朝鮮人女性22名、キンスイが朝鮮人女性20名、そしてモモヤが中国人女性21名であった。この中国人女性たちは、韓国人女性たちと同じようなやり方で広東で購入された。また、たとえばメイミョーでは8軒の慰安所のうち2軒が日本人慰安婦で成り立っていたように、後方地域の慰安所には日本人女性がいたが、(ミッチナのような)前線地域には日本人慰安婦はいなかった。

 「慰安婦」はみな、次のような契約条件で雇用されていた。慰安婦は自分の水揚げの50%を受け取り、無料の通行、無料の食事、および無料の治療が与えられる。通行と治療は陸軍当局が提供し、食糧は、陸軍の酒保の支援を受け、売春宿経営者(以下「楼主」)が購入する。
 楼主たちは、衣類、生活必需品、および贅沢品を女性たちに法外な値段で売り、そこからも利益を得ていた。家族にたいして支払われた合計金額とその利子を返済したときは、女性たちには朝鮮までの無料帰国通行券が与えられ、その後の身分は自由ということになっていた。しかし戦況悪化のために、捕虜(楼主)の慰安婦たちの中には、帰国を許可された者はいなかった。1943年に、第15師団司令部が借金がなくなった女性は帰郷させようと措置したのだが、これらの条件を満たして帰国を希望した1名の慰安婦は、即座に、留まるよう説得されてしまった。
【収入と支出】

 捕虜(楼主)の慰安所では、慰安婦の一人の最高総売上は1ヶ月あたり1500円前後、最低総売上は1ヶ月あたり300円前後であった。けれどもこの慰安所の規定により、女性は最低でも1ヶ月あたり150円を慰安所の楼主に支払わなくてはならなかった。

【料金と時間帯】

 料金と時間帯は軍の指導で決められていた。時間帯は非常に巧妙に練られており、将校、下士官、および兵卒、同じ時間帯に違う階級が顔を合わせることはなかった。スケジュールは厳格に順守されていた。下士官と兵卒は週1回しか売春宿に行くことができないものとされた一方で、将校は望むだけ行くことができた。支払いは(前払い)チケット方式であり、女性がチケットを持っていた。チケットは2インチ四方の厚紙で、慰安所の名前、師団の印、およびチケットの料金が書かれていた。捕虜(楼主)の慰安所では、当初、以下のようなスケジュールが定められていた。
  兵卒    10:00〜15:00  料金   1円50銭
  下士官   15:00〜17:00   料金   3円
  将校    21:00〜23:59  料金   5円
  将校    23:59〜朝     料金  20円

【丸山大佐の命令で変更】

しかし、後に、丸山大佐の命令で、時間帯は以前のまま、料金は以下のように減額された。
  兵卒    10:00〜15:00  料金   1円50銭
  下士官   15:00〜17:00   料金   2円
  将校    21:00〜23:59  料金   5円
  将校    23:59〜朝     料金  10円

【慰安所の監視監督】
 この慰安所は、歩兵第114連隊が管理しており、連隊司令部の永末大尉が連絡将校の任に就いた。常時、慰安所常連客を誰何人定するために連隊司令部より2名が慰安所に派遣されていた。他の連隊の兵士であっても、歩兵第114連隊と共同作戦を組んだときには、その兵士が慰安所を訪れることは許可されていた。また、憲兵1名も慰安所の巡回任務に就いていた。捕虜の慰安所における1日あたりの来所者数は、下士官および兵卒が80〜90名、将校が10〜15名であった。
【酒類】

 慰安所では、酒類(地元産)は制限なしに利用者に販売されていたが、過度の酔っ払いや喧嘩がないよう憲兵が目を配っていた。この取締りにも関わらず、飲み過ぎる者が出た場合、憲兵はその者を慰安所からつまみ出すことが常であった。喧嘩も起きたが、同様に鎮圧された。

メイミョーでも、同じような規則が実施されていたが、多くの部隊が駐留していたため、部隊ごとに日を決めていた慰安所もあった。例えば、日本人慰安婦がいる慰安所、ダイイチ フルサのスケジュールは以下の通りであった。
  日曜日  第18師団 司令部スタッフ
  月曜日  第18師団 騎兵連隊
  火曜日  第18師団 工兵連隊
  水曜日  昼間−検査、後自由時間 夜間−将校のみ
  木曜日  第18師団 衛生隊
  金曜日  第18師団 山砲兵連隊
  土曜日  第18師団 輜重兵連隊 

もうひとつの日本人女性の売春宿、水滸苑は将校専用であった。

【避妊具と性病】

避妊具の使用については厳重な命令があった。そのため、捕虜(楼主)の言によれば、性病は兵士自身の不注意によるもののみであった。一年半に渡り、捕虜はミッチナで慰安所を経営していたが、性病は6例しかなく、患者は、治療のため、第18軍の第2野戦病院の軍医将校のもとに送られた。歩兵第114連隊の兵士の中にも性病は数例みられたが、この点に関して捕虜(楼主)と連隊司令部との間にいかなるトラブルも起きなかった。

【機密保持】

慰安所にいる間、兵士たちは軍隊について話をすることは稀で、自分たちが置かれている日々の軍隊生活からむしろ逃避したいようであった。捕虜(楼主)は、興味を引くような軍事機密を偶然耳にすることもなかった供述し、それは憲兵の存在によるものだそうだ。また、兵士たちはたとえ言うべきことがあったとしても、自由に話すことを恐れていたとも供述している。兵士たちの間でよく口にのぼる愚痴の内容は、将校に対する批判、補給物資の不足、それに、郷愁の想いであった。

【連合国側宣伝の受け止め】

 女性たちは連合国側の宣伝ビラを幾枚かは見た事はあるが、読んだことはない。ただし、ひとりがミッチナの絶望的な状況についてのビラは覚えていたが、彼女は、当時その内容を信じることができなかったそうだ。女性たちはForward Broadcastsも一度も聞いたことはなかったが、兵士たちが「ラジオ放送」についておおっぴらに話し合っていたことを覚えていた。

【戦闘と避難】

7月31日、真夜中ごろ、ミッチナにある3軒の売春宿から63名の女性たち、売春宿の経営者たちなどから成る一団が、ミッチナからの避難を開始した。女性たちは、民間人の服の上に深緑色の陸軍の衣服をまとっていた。一団は、小船10艘でイラワジ河を渡った。残っていた軍隊の大部分はすでにミッチナから退去していたが、傷病兵たちは置き去りにされた。

 この点について女性たちは次のように言っている。「傷病兵に川を渡らせても無駄でした。渡れたとしても歩くことができなかったんですから。生き残るかもしれないという望みを託して、傷病兵を川に流したほうがマシだった。」 

 一団はワイモウの北に着岸し、8月4日までジャングルの中に留まっていたが、その後、撤退した軍隊の跡を追って何とか歩き始めた。8月7日、一団は小戦闘に巻き込まれ、混乱の中、バラバラになってしまった。

 中国人女性20名はジャングルに留まり、その後中国軍に保護された。30名ほどから成る朝鮮人女性の一団は、日本軍の跡を追い続けた。8月19日に、さらに後を追っていた絶望に打ちひしがれた小集団(彼らも捕虜となった)に目撃された。捕虜(楼主)がいる一団は現地住民がうち捨てた家に避難し、そこに2日間とどまった。その間に、かれらはいかだを組もうとした。また、日本軍傷病兵が1名一緒にいた。8月10日、その家は、イギリス人将校指揮下の多数のカチン族に取り囲まれ、一団は捕獲された。もとの女性63名のうち、移動中に4名が死亡し、2名が日本軍兵士と誤認されて射殺された。
(SEATIC Interrogation Bulletin No.2, dated 30 November 1944, page 10-13)

【丸山大佐の評判】

(2)(教養のある23歳男性、公称は通信軍曹、5年間の大半を調理場と訓練に費やした、という捕虜の手紙からの抜粋

「戦友たちへ ミッチナではいまだ戦闘が続いていたというのに、丸山大佐は避難豪でほぼ毎日、慰安婦たちといちゃついていた。 その後、丸山大佐は傷病兵より先に慰安婦たちが渡河するよう段取りしたのだ。 これは嘘ではない。」

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