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水源禅師コミュの水源禅師法話集 1‐6

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http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=59522228&comm_id=5396321の続き。

―学問としての、難しい大乗経典―

【参加者】
先生のように修行体験を踏まえた上で般若心経が判ったということは凄いと思いました。華厳経でも一微塵(カラーパ)に宇宙があるって教えなんですが、私たちが仏教を勉強したときには先生のような基本的な修行体験無く、日本は学問として仏教を摂取してきたので、華厳経とか法華経とか、物凄く難しい大乗経典を学理学問として、個人的な気づき体験の無いままに築き上げた仏教、権威の仏教としてきてるんです。
ですから人々の意識の中では、先祖供養等とかと、難しい大乗経典との分離が物凄く激しいのですが。
【水源師】
なぜかといえばね、結局、ニッバーナ・ジャーニーの後にそれが出てくるんですよ。一即一切。一念無量劫。一塵十方世界。
それを観た人がいるんですよ、アラハト(阿羅漢)が。
だから書いて、法句偈という風にロード・マップをちゃんと私たちに残してくれてます。
もちろん禅定で飛びます。バーンと。それが観えるから。でもそこに行く前に私は南方禅、お釈迦様のパオの手法のニミッタで、ダーっと心の旅をして行った時にカラーパは幾つ観えましたか、と。無量でしたね。数えることも出来ませんでした。現すこともできないですね。
あのカラーパの一塵に、本当にスッポリ、全宇宙が入ります。だから、それを観ないで理論化したときにおかしくなります。想像で理論的に高い所に据わるから、本当にみんなをおかしくしてしまう。理論、理論、理論で。で、おかしな現象が起こってしまう。グルグル、グルグル回って・・・いくらでもグルグル回って。
それだったらね、アインシュタインの相対性理論を勉強したほうがもっと早いですよ。
だから結局、瞑想すればそれも観えます。めげずに、どんどん、それを観たかったら瞑想して、まず「空(くう)」を観てください。どの手法を使ってもいいです。禅法を使っても、何の手法でも。で、それから私が説きます。
そのときに問題になるのがエネルギーです。チャクラの動き。ここでまたピタリ、と高野山の真言、ヴァジュラヤーナ(金剛乗)、マハーヤーナ(大乗)、テーラワーダ、ピタッと、この三つが一致してしまいます。それも本当です。
だから私たちは今、テーラワーダの「ここ」のことをバーっとやっているけど、まだ「ここ」も在るし「ここ」も在るんですよ。だからあんまり「ここ」(先のほうまで)まで行ってしまったら、さっき言ったような状態が起こるわけです。本、本、理論、理論で。
まあいいんですよ、そんなものは。そんなものよりもまず禅定に入る方法とか、それによって本当に心が明るくなってくるから。到達しなくとも、本当に「そこ」に近づけばね、行動も全部、変わってきます。それを「ここ」(頭を指す)だけでやったときにおかしな現象が起こります。
・・・それで宜しいでしょうか?

【参加者】
今、日本では「般若心経は間違い」という本が出版されていますが・・・。
【水源師】
まあ、いんじゃないんですか。頭の世界じゃ「空(くう)」はできないんですよ。じゃあ、みなさんに実に簡単な質問をします。みなさん「無」というのを知っていますよね。「無」、「無し」、「無明の無」。じゃ、これを説明してくだい(禅師はグラスに水を注ぎ、半分だけ飲み干した)
私がこれを飲みました。無くなりました。ここだけ「無」になりました。・・・という風に理解してるでしょ、みなさん。私に誰か本当に「無」ということを説明してください。この減った部分はここ(お腹を指す)に在って、減ってはいません。体の中に入ってます。だからそこが問題なんですよ。
般若心経が出鱈目というのもいいでしょう。まあ、そういうことで論じ合うんだから、こういう結果になります。私がわざわざ、そこに突っ込んで行くのも馬鹿らしいし、それなら山でジッと坐った方が幸せです(笑)。

【参加者】
日本では仏様の生まれ変わりが日本人になっているというのを聞いたのですが・・・。
【水源師】
誰ですか、それは?私にはわからないし、まあ、あんまりそんな出鱈目言わないほうが良いですね。結局、「仏罰」ということを知らないんですよ、みなさん。仏罰、Punishment by the Buddh Law。恐ろしいんです、一厘の間違いもなく起こりますからね。
昔、その昔、真面目に仏法を教えていた比丘がいたんですよ。真剣に。彼はひとつも嘘をついていない。ところがこの世で、もう一回比丘になったときに、おかしな現象が起こり始めた。修行のときに、ある程度までは行くけれども、先生から教えてもらった間違ったことを他人に教えてしまったが故に、この現象が起きたわけなんです。
そして私が「じゃあ、こう、こう、こうしなさい」とアドバイスしたんですけど、その彼は、本当に先生から教えられたとおりのことを言っただけで、嘘ひとつ言ってない。でも、教えられたものが嘘である、それを他人に教えたが故に修行中に大変なことが起こったわけですよ。
だから、そう軽々しく本を読んで言うのでなく、自分の中で体験で成就して、確信があって言うのならばいいけれど、「本に書いてあったから」といって確信することなく発表した場合には、全カルマがブワーッと行くから、それは想像を絶しますよ。見ない時は言えます。
「Law of Buddha」って言いますよね。仏は一人じゃありません。無量の仏で、ディーパンカラ仏から28代、今、わかっている繋がりがありますけど、その前にもブワーッと居ます。それどころか、この地球上に限って28代の仏だけど、宇宙を観てください。無量の仏が居ます。
だから「私は仏に生まれ変わった」とか、恐ろしいことを・・・。まあ、いいでしょう。私は聞かないし、本人の問題だから放っておけばいいんです。
全宇宙はこうですよ。パーッと、一瞬の間違いも無く。地球だけが生きてるんじゃないんです。

―この世は苦であるか、素晴らしいか―

【参加者】
ものの見方の話だと思うんですが、「この世は素晴らしい」というポジティブな見方と、怨憎会苦のように「こんな世の中はどうでもいいから逃げ出そう」というネガティブな発想があります。私が上座部仏教を見る限りにおいては「この世はしんどいから早くニッバーナに入っちゃおう」という風に教えていると受け取りがちなのですが、実際には、その先があって、大乗的にいうと素晴らしいものがあってと、楽しいものの見方なんですか?
【水源師】
いや。どちらも正しい。まずニッバーナ(涅槃)に行ってください。本当に・・・、早く行ってください。本当に素晴らしい(笑)。
絶対、私は否定しない。もしあなたが到達したならば、「よし、よくやった!」と手を叩きます。だって、行けないのよ、なかなか。・・・だから、まあ、どちらも良いところがあるんですよ。
まあ、教条的に考えずに。良いじゃないですか、もう苦しみから逃れられれば、最高ですよ。一人でも救われて行っちゃったんだからさ。
【参加者】
先程ちらっと出たんですが、時間は幻想という表現があったんですけど・・・
【水源師】
その奥義は、あなたが修行して文殊菩薩から聞いてください(笑)。文殊菩薩が綺麗にあなたに教えてくれます。

―ホスピタリティとリバティー―

【参加者】
さきほど「律」のお話が出ましたが、日本の社会を見渡すと、やっぱり自分を守りたいし、他人から何か言われたくないから、関わらないようにして「知らない」という感じになっています。
“ホスピタリティ”という英語を調べると「もてなし」と書いてあるんですが、その“ホスピタリティ”というものがレストランに行っても、どこに行っても、この日本には欠けているように感じます。
料理をオーダーしても、マニュアル通りには出てきますが、なにかトラブルが起きたときには態度も豹変してしまいます。“ホスピタリティ”というものが、日本には無いような気がするのですが。
【水源師】
実は、私たち小さいときは“ホスピタリティ”の塊。私は名を「つねお」と言いますが、「つねちゃん、つねちゃん、おいで、おいで!」、「つねちゃん、これ食べて!」、「お友達も一緒にどうぞ!」、「お腹すいたでしょ」、「お菓子あるよ」・・・と、実に“ホスピタリティ”の塊。
ところが結局、デモクラシーという名において、「子供を叩いちゃいけない」とか。昔はちょっとでも変なことを言ったらバーンと殴られていたのに、そういうことも出来ないような世の中にしてしまって。昔は、それが「律」だったんですよ。当然のことだったんですよ。大人だって骨を折るくらい叩くわけです。ゴツンと叩かれて・・(笑)。
で、みんな「これは悪いことなんだ」って教えられるわけなんですよ。西洋でもね、黒板に棒を置くんですよ。バーンと。日本も無くなったけど、西洋からもなくなりました。だから結局、社会的なコモンセンスの「律」ね。「これしちゃいけない」、「大声出しちゃいけない」。
それを結局、間違った奴隷化、日本の軍国主義によって全て統一的に「全力で働くことは素晴らしいことだ」、「それやれ!」、「金を貯めろ!」、「何も考えずにやれ!」・・・となったが故に自由であるというこの国も、自由も投げ捨てて・・・。
自由というのは何しても良いと思ったら大間違い。「リバティー」、アメリカの最高の格言が「リバティー」。なぜかと言ったら「自由、自由には責任在り」。責任とって、私は、この自由を勝ち取ってイギリスに対抗して、結局、独立したわけなんです。
このリバティーというのがただで出来たわけではないんですよ。何をしても良いという自由ではないんです。世を助け、人を助け、未来に生きるためのリバティーなんですよ。罪を犯すためのリバティーではありません。
そういうことを、デモクラシーもはっきり日本では教えてもらっていない。だから何がなんだか、ゴーっとしているけど、日本には、さっきも言ったけど、何千年も続いた素晴らしい仏法、神道、儒教というものがあって、他には要らないんですよ。これだけで十分やっていけます。
リバティーというのは、昔は、貧しい農村の人たちが飯も食べられず娘を売って糧に変える、こういうことをやめさせるが為にデモクラシーのリバティーを持ってきたんですよ。それを間違えないでください。
これは、仏性一切平等なり。日本ではちゃんと前から実践してるんです。それを曲げたが故に、鎌倉時代の殺戮、戦国時代、豊臣秀吉、織田信長、明治維新・・・ダーっとカルマを持ってきたけども、さっき言ったように変えるチャンス、平安時代の平安な、世界に冠たる時代。実証したんだから、できないわけがない。

―在家生活と出家―

【参加者】
先生のお名前はなんとお呼びするんですか?
【水源師】
「すいげん とくしょう(水源 徳性)」です。
テーラワーダ名は「グニカ」です。

【参加者】
結婚して、子育てして、仕事をして、それからお坊さんになるのと、独身で一念発起してお坊さんになるのとは、先生の人生から見て全然違いますか?
【水源師】
私はやっぱり、あの・・・恋愛して結婚したほうだからね(笑)。妻に「カナダに行くから日本におれ」って言ったら、「絶対にカナダに一緒に行く」と言うでしょ。しょうがないから働いて、働いたら、子供できて。子供できたら責任があるから、仏教は好きだけど、しょうがないから立派に最後まで育てなければいけないでしょ。
で、幸い、私の会社では自由に時間も取れるし、自由に休みも取れます。だから私は土日の休暇は一切取らずに、火曜、水曜を休みにして他人に会わないようにしてました。
私にはレイク・ハウスと言って、街の家の他に湖の傍に家があるので、そこで一切を断って瞑想してました。もっと良い時には仕事の時間帯も16時〜24時に終わる時間帯を選択して、大体1時〜2時まで沐浴して、食事して、そして2時から5時まで瞑想タイムに入ります。で、以降は街が騒がしくなるので寝て、起きて会社。そういう風に時間をアジャストしながらやってました。
3時くらいから街のバイブレーションが止まるんです。スーッと。それでもガーっとうるさいけれども。やっぱりその時間帯が私が一番好きなので、そういう時間割で最後の数年間はやってました。
【参加者】
カナダは修行しやすいところですか?
【水源師】
いや〜ぁ、どうなんでしょう。日本に居たらどうなってたかはわからないですが、そういう風に生活と修行が両立できました。ただ奥さんが文句言わずにね。あっちこっちへ連れて行ってくれとも言わないし。私はケチケチだからさあ。坐禅が一番安いし(笑)。
【参加者】
家族の理解(サポート)って凄く大事ですね。
【水源師】
まあ今まで、あんまり家族に対して悪いことしたこと無いから「何してもいいでしょう」ということだったのではないでしょうか(笑)。
【参加者】
素晴らしい証明ですね。奥さん居て、子供さん居て、一通り瞑想終えられて。比丘至上主義にあって、これは在家の皆さんにとっては大変な自信になりますね。
【水源師】
そうですよ。ただ法衣を纏(まと)ったからには、テーラワーダのお坊さんにも悪いし、大乗の方にも悪いし。比丘の戒をとったからには、やっぱりそういう方向で進まなきゃ悪いなと思ってます。

【参加者】
ヨーガとかヒンドゥ教のほうでは「四住期」という考え方がありますが、南方仏教では11歳くらいから沙弥(見習い比丘)になってしまいます。日本の場合は世襲制度のようになっていますが。
一通りの人生を終えた後、わだかまりもなくなった後に出家するという考え方はどうなんでしょうか?
【水源師】
それも、それぞれに状況によりますからね。「これだ」とは言い切れないんじゃないですか。たまたま私はスムーズなパターンの中で、結局「リバティー」の中で生活できたもんで、「自由」の中で。で、自然にそういう形態になりましたね。だけど社会体制が違えば、また違う方向でなっていくのかなと思います。
【参加者】
そういう生き方もありということでしょうか?
【水源師】
そうですね、そういう生き方もありということです。生きるということは全て素晴らしいことですから、「これ」、「あれ」と決められることではありません。同等です。

―裁判員制度―

【参加者】
日本で裁判員制度というのができて、私たちが選ばれて、呼ばれて、他人の判決を決めなくてはいけないという制度ができたのです。それが、死刑も決めなくてはならない、ということで今議論になっているのですが、こういう、人の判決を決めるというのは、仏教的にはどうなんでしょう?
【水源師】
まず一番大変な方は、死ぬ人ではないのです。法務大臣が大変なことですよね。最終的に彼が決定して、執行させるから。まあ、法務大臣にはならないほうが良いという(笑)。
それで、陪審員で・・・これは結局クリスチャンの制度でね、出来上がったもので、告白ー皆の前で「私は、これこれをしました」と言って、許されるということになるのですけれども、そういう告白の歴史は、私が追跡した限り、チベットから出たのです。1603年と言えば、戦国時代が終わる頃でしょう。1550年あたりにマリオ・何とかという神父を広東から中へ送っているのです。
と言うのはチベットは世界最高の宗教国家であるから、バチカンもそのノウハウを持っていなかったのです。日本はもう明智光秀や織田信長の戦乱の頃、バチカンは知っていて、使節を送るくらいだから。
告白に戻ります。そういう 育ったものだから、アメリカ的なプロテスタント的な、最後の審判を受ける前にもう1度ここでチャンスを与えてあげましょうと言うことなのです。
最後の審判は、1回しか命がなくて、この一生で起きたことによって、永遠に天国か地獄に決まると。そういうところに直接送る前にここでチャンスを与えて、悔い改めると言うような慈悲の心が根底にあるのです。
ところが日本にはクリスチャン的なホスピタリティとかメッタとか愛というものは近世において失われているから、機械的にやった場合にはあまり良い結果を出さないのではないか。
特に人の命とか 例えば、朝から晩まで旦那に叩かれて、旦那は酒で酔っ払って、ひどいところをついに耐えられずグサリとやったとかいう時に、人を殺したからと言って死刑というわけには行かないし、いろいろな事例を勉強された方が決定するのならいいけれども、ただ私がパッと行って常識論でやった場合には、インフォメーションの理解度が少ないから、最初に流された、記事などを見て、それが本当の話であれば良いけれど、理解できないでしょう。
だからアメリカでもずいぶん無実の人が牢屋に入ったり殺され。たりしています。そういう陪審員制度であっても。だから私はどうしろこうしろと言うんじゃないけれど、もっと深く法律家が透明度のしっかりしたことを示してくれなければ非常に危険ではないかと。
カナダでも陪審員制度でジャッジによっては、人を殺しても少年刑務所に2年入っておしまいとか、大変なことが起こっているのです。親としては最愛の息子が殺されて、ガーッとなっているところへ2年後に出てくる。それで、さっきの仏罰ですね。出てきた人が今度は地下鉄のところでバーンと撃ち殺されて、というようにそう簡単ではありません。
私は法律家ではないけれど、非常に深く勉強して、日本の風土に合った陪審員制度にすることは一里あり、今まであまりにも裁判官が偏った、水俣病でも長い間苦しんだ、被爆者でも認めない、過労死も認めない、ということがようやく最近になって問題にされるほど時間がかかるから、そういうことが曲げられずにどんどん出てくるなら良いけれど、今の国家体制では、・・・お金を払いたくないから、陪審員が決定したからこれで打ち切り、という風になったらこれはまた大変で。
だからこれは皆さんがこれからどういう風に行くか、勉強しなければならない課題ではないですか。私は勉強していないから、今あれ、これというような知識はありません。ただ、その陪審員制度の中で、ほんとうに被害者に対しても、犯罪者に対しても公平な愛の目で見られるような、メッタの力で決定していくという方向付け、いかに社会を正しくするかというそういう方向で行くのが、正統ではないかなと思います。

―慈悲と瞑想―

【参加者】
メッタ・スッタ(慈経)があります。その内容を読むと、素晴らしい人格者のことが書いてあるんです。誰に対しても慈しみの心を持って素晴らしい人格者になりなさいと、書いてあるのですが、瞑想だけしていれば人格的に磨かれるのでしょうか?
【水源師】
瞑想プラス、アクション。メッタはあるのです。あなたの中にあるのです。そのチャネルを取り出すために瞑想ではっきり確認するわけなんです。それで、そのチャネルで外に接して行かせるというのが、本来のお経だと思います。
【参加者】
普通に考えると在家で働いて、家庭を持っていろいろな経験をつんで、苦労して苦労して人格的に磨かれていくと、70,80歳になって円満な人格になっていくのかなと思うのですが・・・。
【水源師】
メッタは皆持っています。メッタ、カルーナ、ムディター、ウぺッカー。光の状態のように入っています。それが瞑想によってちゃんと確認できます。はっきり言って宇宙の力なんです。考えじゃないんです。だからはっきり見たときに、メッタの行が何を目指しているかと分かります。

【参加者】
キリスト教の中でも「汝の敵を愛せよ」、仏教の慈悲の瞑想の中でも、敵に対して慈悲をビジュアライズして送るのですが、敵というのは自分の心が作り出している妄想なんでしょうか。
【水源師】
やっぱり叩かれたら痛いし、意地悪されたらいやだし、それは心の中でくすぶっていると思います。
【参加者】
一番初めに会ったときは、その人に対して何も悪い感情は持っていなかったんだけど、その人との間にいろいろなことがあって、何か言われるのではないかと、ちょっと嫌悪感みたいなのが出るようになって・・・。
【水源師】
それは当然だと思います。ただしその時に「敵を愛せ」という行があります。その時にジャーナに入っていってほんとうに愛することができなかった場合は、突っかかって上手くいかないのです。やったとしても、天界も見えないし地獄界も見えない、ただやったというだけ。だから大変だけれどもそれを通過しなければ、慈悲の世界へ入っていけない。
だから、慈悲、慈悲というけれど愛も実践できなければカルーナ(悲)はもっと難しい。確かに苦しいけれども心から抜き去る。そのための行が、メッタなんです。悪いドロドロしたものが次の行に障害になるから、その時になったらやれば良いし、あまり深く考えないでできることをやれば良い。
【参加者】
仕事をしていくと、自分とこう、なんだかんだ・・・。
【水源師】
私もそうだった。いやな思いをさせられて・・・。仕方ない、これは。なんとかそれをどういう風に解決していくか。皆一緒です。
【参加者】
それに立ち向かっていくということですか。
【水源師】
立ち向かうこともあるし、横から離れることもあるし(笑)。上手くやるしかない。それぞれ、臨機応変で。

水源禅師法話集 1‐7(完)へ
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