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苫米地式ディベート研究会コミュのカント『純粋理性批判』

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純粋理性批判とは何かと言う疑問に対してカントは本書の序文で
「私がここに言うところの批判は、書物や体系の批判ではなくて、理性が一切の経験に関わりなく獲得しようとするあらゆる認識に関して、理性能力一般を批判する事である。」(同書岩波文庫版16ページ)と述べている。

 そもそも経験を超えた認識(知識)とは何か。

例えば「神は世界を創った」と言う知識に関してだが、誰もがその瞬間を見たものは居ないわけである。

このような命題に関して、その正しさや誤りを何によって判定する事が出来るだろうか。経験を超えているのだから、経験によって証明する事は出来ない。
ならば、理性(超経験的な推論能力)によって証明できるのか。プラトン以来、形而上的(超物理的)な命題に関しては理性によってのみその正しさが認識可能であるという観念が西洋にはあり、中世の神学者などは延々と神の理性による存在証明を試みて来た。
カントは、「そもそも理性による神の存在証明は可能なのか。そもそも理性にそんな能力はあるの?」と言う根源的な問いを投げかけたのだと思われる。


「・・ただ私の場合は、経験の提供する素材と援助とが私から全て取り去られたら、理性を用いて一体どれだけの事を成就する望みがあるかと言う問題が生じる訳である」(同書18ページ)

例えば、目の前にコーヒーカップがあるとする。
コーヒーカップに関する一切の経験が排除された場合、そこに残るのは何であろうか。
そこに残るのは「空間」であるとカントは言う。

私が0歳の赤ちゃんだとしても、それが何かは分からないが、何かが”ある”ことはわかるからである。
このことによって、空間的認識はアプリオリであるとカントは主張するのである。

要するにだ、啓蒙主義者は、超経験的な存在者―神について、我々がコーヒーカップについて分析したりするようにして、それについて論じることが出来ると考えている点で誤っている。
一方で、神学者も、数学の証明の如く、純粋に思弁によって神の存在を証明できると考えている点で誤っている。何故なら神はあらゆる原理や原則を超えた存在と定義されるからである。


※カントの言う純粋理性とは「経験のサポート無しに働く推論能力」と言い換えても良いかもしれない。経験という女房なしに、亭主(本人=理性)のみで働いた場合に、どんだけの事が出来るんだよ。女房と協働すれば出来る事。亭主だけでも出来る事。女房と協力しても出来ない事。亭主だけならなおさら出来ない事について思索したのが本書であるとしたら、あまりに安直なまとめだろうか。

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