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長井勝一コミュの ■人物■

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1926年に宮城県から東京荒川区南千住に移住。1939年、早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)採鉱冶金部卒業。満州に渡り満州鉱山や満州航空に勤務。終戦前の1945年、日本へ戻る。終戦後は義兄の古書店を手伝う様になる。そんな中、義兄が簡易製本の漫画を売りさばく姿を見た長井は、漫画の出版を志すようになる。

しばらくして『大和書店』を開業し赤本漫画の出版を手掛けるようになる。結核を患った後、特価本卸『足立文庫』を姉と始めるも再び結核を患う。数年後貸本向け出版社『日本漫画社』を設立し、白土三平の漫画の出版中心に活動する。その後半年間浅草でバーの経営をしたのち、更に青林堂の前身となる『三洋社』を友人と設立し、白土三平や水木しげるの作品をヒットさせた。しかし2年後に三度結核を再発させ解散する。その際に、片肺の切除手術をした影響で声がかすれてしまったが、この声が長井の「トレードマーク」の一つとなってしまう。

1960年代なかばには、貸本漫画が衰退し貸本漫画家の活躍の場が減っていた。「彼らが何の制約もなく活躍出来る場を自分が提供しなければ」と、病気療養中にも関わらず『青林堂』を設立。長井の妻である香田明子が実務を担当しその活動を始めた。白土三平の作品を中心に単行本を出版し、1964年に白土の連載『カムイ伝』のために『月刊漫画ガロ』を創刊。当初は8千部であったが、漫画マニアはもちろん、全共闘の大学生を中心に人気が出て、最盛期には8万部を超えた。1971年に『カムイ伝』が終了した後は部数が徐々に低迷するが、長井の座右の銘「継続は力なり」をモットーに、新人発掘の場として出版は細々と続けられた。

1990年になり、PCソフト開発会社『ツァイト』に経営を譲渡。その後編集長、社長職を退き会長へ就任。1995年に第24回日本漫画家協会賞選考委員特別賞を受賞。

1996年1月5日に逝去。享年74。

■ウィキペディアより転載■

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