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名作を読みませんかコミュの次郎物語  下村湖人  186

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   七 最初の日曜日


 最初の日曜が来た。

 開塾《かいじゅく》の日がちょうど月曜だったので、まる一週間になる。

 この一週間は、塾生たちにとっては、まったく奇妙《きみょう》な感じのする一週間だった。

 朝倉先生夫妻も、次郎も、生活の細部の運営については、自分たちのほうからは、何ひとつ指図《さしず》をせず、また、塾生たちから何かたずねられても、「ご随意《ずいい》に」とか、「適当に考えてやってくれたまえ」とか、「みんなでよく相談してみるんだな」とかいったような返事をするだけだったので、とかくかれらはとまどいした。

 中には、それをいいことにして、ずるくかまえるものもないではなかった。

 その結果、むだとへまとがつぎつぎにおこり、かれらの共同生活のすがたは、見た眼《め》には決していいものではなかった。

 時には、不規律と怠慢《たいまん》だけが塾堂を支配しているのではないか、と疑われるような場面もあり、もし学ぶことよりも批評することにより多くの興味を覚えている参観者がたずねて来たとしたら、その人は、批評の材料をさがすのに、決して骨は折れなかったであろう。

 朝倉先生は、しかし、どんな悪い状態があらわれて来ても、すぐその場でそれを非難することがなかった。

 すべてをいちおう成り行きにまかせ、行くところまで行かせておいて、あとで、――たとえば食後の雑談や、夜の集まりなどの際に、――それを話題にして、みんなといっしょに、その原因結果をこまかに究明し、その究明をとおして、共同生活の基準になるような原則的なものを探求する、といったふうだったのである。

 塾生たちのある者にとっては、朝倉先生のそうしたやり方が、非常に皮肉に感じられた。

 「気がついているなら、すぐそう言ってくれたらよかりそうなものだ」

 と、そんな不平をもらすものもあった。

 また中には、「先生は要するに指導者でなくて批評家だ」などと、したり顔に言うものもあった。

 しかし日がたつにつれて、しだいにかれらの間に取りかわされ出したのは、「ひまなようで、いやに忙《いそが》しい」とか、「しまりがないようで、変にきびしい」とか、そういったちぐはぐな気持ちをあらわす言葉だった。

 かれらの大多数は、まだむろん、人間生活にとっての自由の価値や、そのきびしさについて、ほんとうに目を覚《さ》ましていたわけではなく、友愛塾というところは一風変わった指導をやるところだぐらいにしか考えていなかった。

 しかし、それにしても、そうした言葉が、しだいにかれらの間にとりかわされるようになったということは、たしかに一つの進歩であり、混乱と無秩序《むちつじょ》の中で、不十分ながらも、何か自主的創造的な活動が始まっている証拠《しょうこ》にはちがいなかったのである。

 日曜日は、特別の計画がないかぎり、朝食後から夕食前まで自由外出ということになっていた。

 東京見物を一つの大きな楽しみにして上京して来た塾生たちは、最初の夜の懇談会《こんだんかい》で、ほとんど議論の余地なく、満場一致《いっち》でそれを決議していたのだった。

 事務所にそなえつけてあった何枚かの東京地図は、すでに二三目前から各室で引っぱりだこだった。

 土曜日の晩には、炊事部《すいじぶ》はみんなの弁当の献立《こんだて》をするのに忙しかった。

 次郎が道順の相談のために、各室に引っぱりこまれたことはいうまでもない。

 そして、いよいよ日曜の朝食がすむと、二十分とはたたないうちに、塾内はもの音一つしないほど、しんかんとなってしまったのである。

 みんなが出はらってしまうと、次郎も一週間ぶりで解放された時間を持つことができた。

 いつもだと、さっそく読書をやるか、空林庵《くうりんあん》に行って、朝倉先生夫妻とゆっくり話しこむかするはずだったが、今日は、事務室の隣《とな》りの自分の部屋で、机によりかかったまま、ながいことひとりで考えこんでいた。

 机の上には、二三日まえ、兄の恭一《きょういち》から来たはがきが、文面を上にしてのっていた。

 それには、

 「朝倉先生にもしばらくお目にかかっていないので、
  近いうちに、ぼくのほうから訪ねたいと思っている。
  塾がまたはじまったそうだから、
  先生も君も日曜でなければひまがないだろうと想像《そうぞう》して、
  だいたい今度の日曜を予定している。

  ぼくのほうはたぶん変更《へんこう》の必要はあるまいと思うが、
  君のほうでさしつかえがあったら、すぐ返事をくれたまえ。
  さしつかえなければ返事の必要はない。」

 とあった。

 次郎は、その中の「ぼくのほうはたぶん変更はあるまいと思うが」という文句が気になった。

 もし恭一だけの考えで日取りがきめられるものだったら、そんなあいまいな言いかたをするわけがない。

 これはだれかほかの人の都合を念頭においてのことらしい、もしそうだとすると、それは道江《みちえ》の着京の日取りにちがいないのだ。

 では、なぜそれならそれとはっきり書かないのだろう。

 道江の名を書くのがきまりわるくて、暗々裡《あんあんり》にそれをほのめかしたつもりなのだろうか。

 あるいは、予告なしに道江をつれて来て、自分をおどろかすつもりなのだろうか。

 いずれにしても、自分にとっては、あまり愉快《ゆかい》なことではない。

 何といういい気な、甘《あま》っちょろい兄だろう、と軽蔑《けいべつ》してやりたい気にさえなる。

 もっとも道江にたいして自分の抱《いだ》いている気持ちに、兄がまだまるで気がついていないらしいのは、ありがたいことだ。

 しかし、だからといって、二人がむつまじくつれだってやって来るのまでを、ありがたく思うわけにはいかない。

 痛いきずは、どんなに用心ぶかくさわられても痛いのに、まして、そのきずに気がつかないで、無遠慮《ぶえんりょ》にさわられては全くたまったものではないのだ。

 しかし、兄はおそらく道江をつれて来る。

 いや、かならずつれて来る。

 そして、無意識な残酷《ざんこく》さで自分の痛いきずにさわろうとしているのだ。

 二人はあらゆる好意にみちた言葉を自分になげかけるだろう。

 二人のむつまじさを三人にひろげることによって、二人は一そう深いよろこびを味わおうとつとめるだろう。

 二人はいろいろと過去の思い出を語るにちがいないが、その思い出の愉快さも不愉快さも、三人に共通するものとして語られるにちがいない。

 自分は、二人のそうした無意識な残酷さにたいして、いったいどういう態度をとればいいのか。いや、どういう態度をとりうるというのか。

 かれには、まったく自信がなかった。

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