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名作を読みませんかコミュの次郎物語 182

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 塾長室の掃除は、朝倉先生夫妻が、空林庵の掃除をすましたあと、給仕の河瀬《かわせ》に手つだってもらって、自分たちの手でやることになっていたが、次郎も、都合がつきさえすれば、手つだうことにしていたのである。

 中にはいって見ると、もう掃除はすっかりすんでおり、河瀬がストーヴに火を入れているところだった。
 夫人は炊事場《すいじば》のほうにでも行ったらしく、朝倉先生だけが、まだあたたまらないストーヴのそばの椅子にかけて、手帳に何か書き入れていた。

 「どんなふうだね。」
 先生は、次郎の顔を見ると、手帳をひらいたまま、たずねた。
 「はあ――」
 と、次郎は笑いながら、
 「例によって、指導者がいるようですね。」

 「飯島なんかも、そうだろう。」
 「ええ、とくべつ露骨《ろこつ》なようです。」
 「田川はどうだい。」
 「ちょっとその気があるようですが、軍隊式ですから、飯島とは質がちがいます。
  気持ちはあんがい純真じゃないかと思いますが……」

 「そうかもしれないね。
  それで、べつにこれまでと大して変わったこともなかったんだね。」
 「ええ――」
 と、次郎はちょっと考えていたが、
 「今のところ、平木中佐の影響《えいきょう》でどうこうというようなことは、
  全然ないように思います。」

 「そりゃあそうだろう。
  それがあらわれるのはまだ早いよ。」
 それから、朝倉先生は、何かおかしそうにひとりで笑っていたが、
「 それに、今朝はすいぶん寒かったし、平木中佐どころではなかったんだろう。」

 次郎は、すぐには、その意味がのみこめないで、きょとんとしていた。すると、先生は、
 「こんな寒い朝に、死ぬ気になってみんながはね起きてくれると、
  平木中佐に感謝してもいいんだがね。」
 二人は声をたてて笑った。

 次郎は、しかし、すぐ真顔《まがお》になり、
 「けさの板木《ばんぎ》の音、どうでした?」
 「最初の朝にしては、めずらしいことだったね。
  時刻が非常に正確だったし、それに、打ち方がちっとも寒そうでなかった。」

 「先生もそうお感じでしたか。」
 「感じたとも。
  あんな落ちついた打ち方は今日のような寒い朝には、なかなかできるものではないよ。」
 「僕もそう思って、わざわざ廊下に出て見たんですが、当番は大河君だったんです。」

 「なるほど。
  そうか。
  しかし、大河にしちゃ惜《お》しかったね。
  おしまいごろにはかんしゃくをおこしていたようだったが。」
 「はあ――」
 次郎はぎくりとして、うまく返事ができなかった。

 大河のにっと笑った顔と、その時言った言葉とがあらためて思い出されたのだった。
 かれはしばらく眼をふせていたが、
 「おしまいのほうは、実は僕が打ったんでした。」

 それから、ちょっと柱時計をのぞき、
 「その時、実は大河君にいわれたこともあるんですが、
  あとでゆっくり先生に教えていただきたいと思っています。」
 かれは、そう言うと、すぐおじぎをして、塾長室を出た。

 朝倉先生は無言のまま、かれのうしろ姿を見おくっていた。
 もうそのころには、塾生たちは、室内の掃除整頓をすべて終わって、最後に、廊下や、玄関《げんかん》や、そのほかの出入り口の掃除にかかっているところだった。
 むろんそうした掃除も、分担《ぶんたん》は一通りきまっていたが、厳密には境界が定められないために、塾生たちはかなり入りみだれていた。

 次郎は、すぐ、事務室の前から玄関にかけての掃除を手伝った。
 朝倉先生も、そのうちに塾長室から廊下に出て、みんなの様子を見ていたが、それもほんのしばらくで、すぐまた塾長室にもどり、椅子に腰《こし》をおろすと、そのまま何か深く考えこんでいた。

 掃除がすっかりすみ、洗面その他を終わると、みんなは広間に集まって朝の行事をやることになったが、それまでには、起床からたっぷり四十分ぐらいはかかっていた。
 次郎が、これまで毎朝、空林庵の寝ざめに親しんで来た雀《すずめ》の第一声がきこえるのは、ほぼその時刻だったのである。

 朝の行事は、まず室内体操にはじまった。
 それは友愛塾のために特に考案されたもので、その指導も指揮《しき》も次郎の役割だった。
 体操がすむと、朝倉先生の合い図で静坐《せいざ》に入った。
 これは就寝前の静坐にくらべると、いくぶんながかったが、それでも、せいぜい十四五分ぐらいだった。
 次郎は、今朝も足音をしのばせながら、塾生たちの姿勢を直してやった。

 静坐のあとは遥拝《ようはい》だった。
 これは皇大神宮《こうたいじんぐう》と皇居《こうきょ》に対する儀礼《ぎれい》で、その当時は、極左《きょくさ》分子や一部のキリスト教徒以外の全国民によって当然な国民儀礼と認められ、集団行事においてそれを欠くことは、国民常識に反するものとさえ考えられていたのである。

 遥拝がすむと、おたがいの朝のあいさつをかわし、そのあと、もう一度静坐に入った。
 そして、それが三分もつづいたころ、朝倉先生は、自分も静坐瞑目《めいもく》のまま、おもむろにつぎのような話をした。

 越前永平寺《えちぜんえいへいじ》に奕堂《えきどう》という名高い和尚《おしょう》がいたが、ある朝、しずかに眼をとじて、鐘楼《しょうろう》からきこえて来る鐘《かね》の音《ね》に耳をすましていた。

 和尚は、今朝の鐘の音には、いつもにない深いひびきがこもっているような気がしたのである。
 やがて、最後のひびきが、澄《す》みわたった空に消え入るのを待って、和尚は侍僧《じそう》を呼んでたずねた。

 「今朝の鐘をついたのはだれじゃな。」
 「新参《しんざん》の小僧《こぞう》でございます。」
 「そうか。
  ちょっと、たずねたいことがある。
  すぐ、ここに呼んでくれ。」

 間もなく、侍僧に伴《ともな》われて、一人のつつましやかな小僧がはいって来た。
 和尚は慈愛《じあい》にみちた眼で、小僧を見ながらたずねた。
 「ほう、お前か、今朝の鐘をついたのは。
  で、どのような気持ちでついたのじゃな。」

 「べつにこれと申す心得もございません。
  ただ定めに従いましてつきましただけで……」
 と、小僧はあくまでもつつましくこたえた。

 「いや、そうではあるまい。
  世の常の心では、ああはつけるものではない。
  わしの耳には、そのまま仏界《ぶつかい》の妙音《みょうおん》ともきこえたのじゃ。
  鐘をつくなら、あのようにつきたいものじゃのう。

  何も遠慮《えんりょ》することはない。
  みんなの心得にもなることじゃ。
  かくさず、そなたの気持ちをきかせてはくれまいか。」

 「おそれ入ります。
  では申しあげますが、実は国もとにおりましたころ、いつも師匠《ししょう》に、
  鐘をつくなら、鐘を仏と心得て、それにふさわしい心のつつしみを忘れてはならぬ、
  と言い聞かされておりましたので、今朝もそれを思い出し、ひとつきごとに、
  礼拝《らいはい》をしながらついたまででございます。」

 奕堂和尚は聞きおわって、いかにもうれしそうにうなずいた。
 そして、まだどこかに漂《ただよ》っていそうな鐘の音を追い求めるように、ふたたびしずかに眼をとじた。
 この妙音をつきだした小僧こそは、実に、後年の森田悟由《ごゆう》禅師《ぜんじ》だったそうである。

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