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九州大学もったいない総合研究会コミュの〜Energy Philosophy〜『正義論』〜U(Present Gen)<U(Future Gen)は成り立つか?〜

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〜Energy Philosophy〜『正義論』〜U(Present Gen)<U(Future Gen)は成り立つか?〜

?.20世紀を代表するアメリカの政治哲学者であるJohn Rawls(1921〜2002)は、その代表的著作である大著『正義論』において、『Maxmin Rule』という概念を提唱している。
これの概念を簡潔に表すと、以下の等式が成り立つ。

U(Present Gen)<U(Future Gen)

まず、世界の効用(Utility; Not happiness)は、時代に伴って単調に増加すると仮定する(歴史上の類似則)。この仮定が正しいとすると、将来の世代は、我々の世代より【必ず効用が増大するのだから】、我々の世代は、自身の効用が最大化するための合理的行動を伴って生きていけばよいことになる。すなわち、

 U(Present Gen)≦Max(U(Present Gen))

が導ける。これに従えば、我々には【好き勝手】が認められるのである。

?.上記の反論として有名なのが、アメリカの法哲学者 Ronald Dworkin(1931〜)による『Responsibility and Compensation』である。これは『We should insure for next generation』の言葉に集約されるとおり、『責任と保障』を行う手段として、将来の世代に対して『保険』をかけようというものである。しかし、ここで重大な問題が発生する。これは、将来の世代に対する一般的な言い訳としては有効だが、いったい、いつの世代までに対して誰が保障すればよいのであろうか?

?.ここで、我々は彼の国民的ヒーローである『ドラえ●ん』卿にご登壇いただかなくてはならない。
(の●太氏)「どらえ●〜ん(泣)!しず●ちゃんにふられたよ〜(泣)」
(ドラえ●ん卿)「大丈夫だよ、の●太くん。きみの将来なんて真っ暗なんだから(笑)」
(の●太氏)「そんな〜(泣)!!どらえ●〜ん!!なんとかしてよ〜(泣)!!!」
(ドラえ●ん卿)「権利は義務を履行したもののみ獲得できる普遍的な要請に則って存在している。何もせずに己の権利のみ主張するブタ野郎は生きる価値なし。ここに神の鉄槌を。」
(の●太氏)「うぎゃっあ〜〜!!!あ〜〜」

ここで命題となるのは、『Next generation can assert their right?』である。すなわち、【将来の世代は(今の世代の)我々に権利を主張できるのかどうか】という問いである。ここで肝心なことは、将来の世代が今この時空に存在しないという普遍的事実である。タイムマシンがあれば非常に都合がよいのだが、残念ながらそれはドラえ●ん卿の所有物であり、さすがに私もまだ命を落とすわけにはいかない。したがって、以降この議論ではタイムマシンが実在しない世界について考えていく。
 さて、上述したやり取りでの●太氏はドラえ●ん卿の逆鱗に触れその天命を全うした訳なのだが、ここに重大な法則が隠れていることを見落としてはならないのである。
仮に、仮にである。の●太氏が何かの間違いでしず●嬢とゴールインしたとする。いくらへたれのの●太氏でも、まあ、やることやって子孫が繁栄したとする。そして突然変異のある優秀な彼の子孫が、ドラえ●ん卿を創造したとする。たまたま、そのドラえ●ん卿は、現在の時空にやってきて、ヘタレのの●太氏が最悪のシナリオを辿る事のないように、アドバイザーを勤めるのである。そして、彼の未来が紡がれるのである。
しかしながら、先ほど例に挙げたの●太氏は、ドラえ●ん卿の逆鱗に触れてしまって、最悪のシナリオを辿ってしまった。したがって、原理則に従えば、その世界にドラえ●ん卿は存在しないはずであるが、ここでは、彼はプログラムを書き換え、自律進化を遂げた、絶対的な存在になったとしよう。結果的に、の●太氏は道半ばに途絶えてしまったのである。
 そして彼の子孫は存在しないことになり、その未来が消えてしまった。絶対神ドラえ●ん卿の逆鱗に触れたが故に。

 ここから導ける教訓には重大な命題がある。

『Exists or not depans on U(Present Gen)』

すなわち、将来世代が存在しているかいないかに関わらず、今の世代を中心に考えなければ未来はないのである。

?. の●太氏の失態には目に余るものがあるが、肝心なことはFeminismの視点である。Feminismの運動は今や世界の共通認識で、私もその一人なのであるが、の●太氏は男女格差の是正(Gender Equality)に寄与できなかったばかりが、何もできないまま惨殺されただけである。彼は何も遂げることができないまま、その命を無に帰したのである。

我々は、この経験則から多くのことを学ばなければならないのであるが、当初の命題であった
U(Present Gen)<U(Future Gen)

の是非について総括しなければならない。

 の●太氏の失脚が我々に伝えているところは、現在のUtility(効用)を最大化しなければ、未来は来ないということである。これに従えば、Rawlsの『Maxmin Rule』は忠実に再現されているのである。そこで問題となるのが、Next generationの権利と我々のUtilityを最大化する権利のどちらが先立つかという点である。先の例に倣えば、
  Present Right>Next generation’s
であろう。
 しかし。
果たして本当にそうなのか?
先の例は、どうしようもないヘタレを例にとったほんのミクロな世界での物語であった。しかし、世界はそんなヘタレばかりではない。世界はそんなに単純ではない。また、いつの世代までに対して誰が保障すればよいのかという問いには何も答えないばかりか、最悪の様相を呈した。

?.では我々は、持続可能な開発(Sustainable Development)は、いったいどのような概念で論じていけばよいのであろうか?



〜Best Answer is The Worst Answer〜
〜U(Present Gen)<U(Future Gen)は成り立つか?〜

 先の件ではの●太氏の非業な死を例に挙げたが、我々はU(Present Gen)<U(Future Gen)の関係が如何にSustainable Developmentに寄与するかについて論じていかなければならない。
 さて、Brundtland CommissionはSustainable Developmentについて以下の定義を発表している。
『Sustainable development is that which meets all the needs of the present without compromising the ability of future generations to meet their own needs.’” (The U.N. Brundtland Commission 1987)』
直訳すれば『持続可能な開発は、将来の世代の能力を、自分たちのニーズを満たすために妥協する(用いる)ことなく現在のすべてのニーズを満たす』とでもなるのであろうが、大変定性的でわかりにくい。単純な例を挙げてみよう。

《100体のフィギアがあるアキバを考えてみましょう。このフィギアたちは1年に20体の次世代を生むことができ、そのかわり10体は寿命で死んでしまうと仮定します(現実にはこんなことは起こりえない)。つまり、放っておくと10体ずつこのアキバにはフィギアが増えていくことになります(現実にはこんなことは起こりえるかもしれない)。
 さて、アキバに一軒の家があり、そこにフィギア狩りの好きなおじいさんが住んでいます。彼がずっとこのアキバで狩りを楽しみ、さらに息子や孫の代にも狩りを楽しんでもらうためには、1年間に狩り上げるフィギアの数を10体以内に抑える必要があります。これを超えるとフィギアたちの再生能力(reproduction)を損ない、アキバのフィギアの数が年々減っていってしまうからです。
 この、おじいさんが年間の獲物獲得数を10体以内に抑えている状態を「サステイナブルである」と言います。》

では、実際はどうなのであろうか?(なにもアキバのことに言及しているのではない!世界全体の広範な領域について論じているのである!アキバでの繁殖現象についてはスレ違いである!)
 結論から言うと、No!であることは明らかである。詳しく見ていこう。
先の定義で、meets all the needs(present needs)をαとする。そして、meet their own needs(Next generation’s)をβとおこう。ここで問題となるのは、future generations=∞となっていることである(Dworkinに対する反論)。これにしたがってしまえば、
Basic needs(α)=α×∞=∞
の関係が成り立ってしまい、大量生産・大量消費の生活スタイルは無限大まで許容されてしまうことになる。あるいは、Next generation’s needs(β)に着目すると、個々の世代において
β=α/∞≒0
となり、持続可能性の欠片も見られなくなる。

では、どうすればいいのか?我々はの●太氏の二の舞を踏むわけにはいかないのである。
 
 Sustainabilityには、大別して二つの概念がある。Strong SustainabilityとWeak Sustainabilityである。
 まず、Strong Sustainabilityであるが、これはアメリカの環境経済学者Herman Daly(1938〜)によって提唱された概念であり、一般則として以下の関係が成り立つ。
〔Renewable resource〕; Rate of use < Regeneration
〔Non- Renewable〕; rate of use < Rate renewable resource substitute for it

⇒Emission rate of pollutant<Rate of process on absorbed by environment

すなわち、自然資本は自然の恵みによって生まれたものであり、人工資本のように投資による人為的な増加には限界があると主張し、一定量の自然資本が維持されることが持続可能性の絶対的条件であるとする考え方である。
要は、『Eco』が大切ということである。

次に、Weak Sustainabilityである。これはHartwick’s rule(ハートウィックのルール)として知られている。Hartwickは、枯渇性資源の利用の下に持続可能な開発を行うための必要最小限の条件について、
『We can replace natural materials and services with manufactured goods and services』
と述べている。つまりNatural(自然)あるいはCapital(資本)を用いて得た製品やサービスをArtificial Capital(人工資本)として将来世代に残そうという考え方である。これは、経済成長の論拠に基づくものであり、
「枯渇性資源所有者の利潤をすべて資本投資に向け、人工資本を蓄積し、生産能力を補わなければならないこと」であると定義される。
 これは要するに『Ego』が大切であるということである。


我々はSustainabilityの世界観について論じてきたが、ここでWorld viewについて改めて考えなくてはならない。
 我々の問いは、【What is our world?】から始まった。
世界は教会が十字架を神にしてから、Dark age(暗黒時代)に突入した。かつて議論されたMetaphysicalが再び勃興するまでには、ルネサンスを待たなければならなかった。そして、それと同時にMathmaticsを駆使したPhysicalによって世界のベールが序序に剥がれていき、これによる金儲けを企む者達によって支配されるようになっていった。
 そして我々は今、自身の運命を決めるための最適解を求めようとしている。
しかし、そのためのBoundary Condition(境界条件)は必要十分なのか?『Optimation is based on expression』は真であるとしよう。
しかし、そのBoundary Conditionは果たして
U(Present Gen)<U(Future Gen)
で必要条件を満たしているのか?
我々は、いまだに境界条件の議論の最中なのである。

 記憶に新しいこととして、3年前、金融恐慌が発生した。派生的解釈は抜きにして、淡々と語ろう。
 金融工学は一言で表すと、『ランダムウォーク』を解析することにある。ランダムウォークはアインシュタインが理論化した『Brownian motion』であると考えてもらって構わない。要するに、未来の現象をPropability(確率)で記述しようという試みである。
 1973年にFischer BlackとMyron Scholesは、ブラック-ショールズ方程式と呼ばれるデリバティブを価格付けに用いる確率微分方程式を考案した。かれらはこの功績によりノーベル経済学賞を序章し、35年後、NASAからの転職者によりこれを弄繰り回し形作られたprogramが金融恐慌を引き起こした。
 これは1929/10/24のBlack Thursdayと基本的に同じ原理による。
ある土曜日、ウォール街で取引が終わった。投資家は皆、希望のデリバティブを購入し、月曜のマーケットでは誰もがそのデリバティブを売り払いたいと考えていた。不思議なことに、皆がそう考えていたのである。そのデリバティブは高く売れるという情報が流れていたからだ。そして、月曜の朝、悲劇が起こった。
 日曜の間に、世界が改変されていたのである。
問題は、これが『人為的(恣意的)』に引き起こされたのか、あるいは初期条件がない状態でコードを流してしまった(プログラムが最適解を導いてしまった為、すべての解が同一の『最適解』になってしまったため、世界が均一化された)かの違いによるものである。
それで世界がどうなったかは、皆さんが存ずるところである。

世界が同じ行動をとったら、世界は1時間で壊滅するのである。
これから導けるテーゼがある。

『Best Answer is The Worst Answer』

笑えてくる。我々は絶えずBest Answerを捜し求めているのではないのか??

 人はそれぞれ違う。世界はDiversityによって成り立っていることは世界の摂理である。
 世界はさまざまな思想、宗教、倫理、技術、科学、言語が交錯して日々、蓄積としての思念体を形作っている。これが仮に、長門●きが所属する『情報統合思念体』となってしまえば、我々の宇宙には終わりが来て、そこに収束してしまうということになる。

かつてレーニンは『人々にパンと自由を』を標榜した共産革命は100年を経たずして瓦解した(北の某国を除く)。
 自由主義には未来があるのか?

我々が望む『未来』は、どこに存在するのか?

 人類の旅路はまだ、始まったばかりなのである。

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