まず、世界の効用(Utility; Not happiness)は、時代に伴って単調に増加すると仮定する(歴史上の類似則)。この仮定が正しいとすると、将来の世代は、我々の世代より【必ず効用が増大するのだから】、我々の世代は、自身の効用が最大化するための合理的行動を伴って生きていけばよいことになる。すなわち、
U(Present Gen)≦Max(U(Present Gen))
が導ける。これに従えば、我々には【好き勝手】が認められるのである。
?.上記の反論として有名なのが、アメリカの法哲学者 Ronald Dworkin(1931〜)による『Responsibility and Compensation』である。これは『We should insure for next generation』の言葉に集約されるとおり、『責任と保障』を行う手段として、将来の世代に対して『保険』をかけようというものである。しかし、ここで重大な問題が発生する。これは、将来の世代に対する一般的な言い訳としては有効だが、いったい、いつの世代までに対して誰が保障すればよいのであろうか?
ここで命題となるのは、『Next generation can assert their right?』である。すなわち、【将来の世代は(今の世代の)我々に権利を主張できるのかどうか】という問いである。ここで肝心なことは、将来の世代が今この時空に存在しないという普遍的事実である。タイムマシンがあれば非常に都合がよいのだが、残念ながらそれはドラえ●ん卿の所有物であり、さすがに私もまだ命を落とすわけにはいかない。したがって、以降この議論ではタイムマシンが実在しない世界について考えていく。 さて、上述したやり取りでの●太氏はドラえ●ん卿の逆鱗に触れその天命を全うした訳なのだが、ここに重大な法則が隠れていることを見落としてはならないのである。 仮に、仮にである。の●太氏が何かの間違いでしず●嬢とゴールインしたとする。いくらへたれのの●太氏でも、まあ、やることやって子孫が繁栄したとする。そして突然変異のある優秀な彼の子孫が、ドラえ●ん卿を創造したとする。たまたま、そのドラえ●ん卿は、現在の時空にやってきて、ヘタレのの●太氏が最悪のシナリオを辿る事のないように、アドバイザーを勤めるのである。そして、彼の未来が紡がれるのである。 しかしながら、先ほど例に挙げたの●太氏は、ドラえ●ん卿の逆鱗に触れてしまって、最悪のシナリオを辿ってしまった。したがって、原理則に従えば、その世界にドラえ●ん卿は存在しないはずであるが、ここでは、彼はプログラムを書き換え、自律進化を遂げた、絶対的な存在になったとしよう。結果的に、の●太氏は道半ばに途絶えてしまったのである。 そして彼の子孫は存在しないことになり、その未来が消えてしまった。絶対神ドラえ●ん卿の逆鱗に触れたが故に。
〜Best Answer is The Worst Answer〜 〜U(Present Gen)<U(Future Gen)は成り立つか?〜
先の件ではの●太氏の非業な死を例に挙げたが、我々はU(Present Gen)<U(Future Gen)の関係が如何にSustainable Developmentに寄与するかについて論じていかなければならない。 さて、Brundtland CommissionはSustainable Developmentについて以下の定義を発表している。 『Sustainable development is that which meets all the needs of the present without compromising the ability of future generations to meet their own needs.’” (The U.N. Brundtland Commission 1987)』 直訳すれば『持続可能な開発は、将来の世代の能力を、自分たちのニーズを満たすために妥協する(用いる)ことなく現在のすべてのニーズを満たす』とでもなるのであろうが、大変定性的でわかりにくい。単純な例を挙げてみよう。
では、実際はどうなのであろうか?(なにもアキバのことに言及しているのではない!世界全体の広範な領域について論じているのである!アキバでの繁殖現象についてはスレ違いである!) 結論から言うと、No!であることは明らかである。詳しく見ていこう。 先の定義で、meets all the needs(present needs)をαとする。そして、meet their own needs(Next generation’s)をβとおこう。ここで問題となるのは、future generations=∞となっていることである(Dworkinに対する反論)。これにしたがってしまえば、 Basic needs(α)=α×∞=∞ の関係が成り立ってしまい、大量生産・大量消費の生活スタイルは無限大まで許容されてしまうことになる。あるいは、Next generation’s needs(β)に着目すると、個々の世代において β=α/∞≒0 となり、持続可能性の欠片も見られなくなる。
では、どうすればいいのか?我々はの●太氏の二の舞を踏むわけにはいかないのである。
Sustainabilityには、大別して二つの概念がある。Strong SustainabilityとWeak Sustainabilityである。 まず、Strong Sustainabilityであるが、これはアメリカの環境経済学者Herman Daly(1938〜)によって提唱された概念であり、一般則として以下の関係が成り立つ。 〔Renewable resource〕; Rate of use < Regeneration 〔Non- Renewable〕; rate of use < Rate renewable resource substitute for it
⇒Emission rate of pollutant<Rate of process on absorbed by environment
次に、Weak Sustainabilityである。これはHartwick’s rule(ハートウィックのルール)として知られている。Hartwickは、枯渇性資源の利用の下に持続可能な開発を行うための必要最小限の条件について、 『We can replace natural materials and services with manufactured goods and services』 と述べている。つまりNatural(自然)あるいはCapital(資本)を用いて得た製品やサービスをArtificial Capital(人工資本)として将来世代に残そうという考え方である。これは、経済成長の論拠に基づくものであり、 「枯渇性資源所有者の利潤をすべて資本投資に向け、人工資本を蓄積し、生産能力を補わなければならないこと」であると定義される。 これは要するに『Ego』が大切であるということである。
我々はSustainabilityの世界観について論じてきたが、ここでWorld viewについて改めて考えなくてはならない。 我々の問いは、【What is our world?】から始まった。 世界は教会が十字架を神にしてから、Dark age(暗黒時代)に突入した。かつて議論されたMetaphysicalが再び勃興するまでには、ルネサンスを待たなければならなかった。そして、それと同時にMathmaticsを駆使したPhysicalによって世界のベールが序序に剥がれていき、これによる金儲けを企む者達によって支配されるようになっていった。 そして我々は今、自身の運命を決めるための最適解を求めようとしている。 しかし、そのためのBoundary Condition(境界条件)は必要十分なのか?『Optimation is based on expression』は真であるとしよう。 しかし、そのBoundary Conditionは果たして U(Present Gen)<U(Future Gen) で必要条件を満たしているのか? 我々は、いまだに境界条件の議論の最中なのである。