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俳諧師:近江不忍コミュの二十二、「行春を近江の人と惜しみける」の句に於ける『振る・振れる』の問題 『發句雜記』より

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コミュ内全体

この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の

 『Motion1(Cembalo)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
映像は服部緑地にある、

『天竺川堤防』

へ出かけた時のものです。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。






二十二、「行春を近江の人と惜しみける」の句に於ける『振る・振れる』の問題 『發句雜記』より



 松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の作品に、

    行春を近江の人と惜しみける   ばせを

 といふ有名な句があるが、この句は言ふまでもなく『振る・振れる』の問題でも有名で、『振る・振れる』とは、その言葉が他の言語と置換への出來るものであるかどうかを問ふものである。

 それは向井去來(1651-1704)の『去來抄』にある言葉で、

 『「先師曰く、「尚白」が難に、近江は丹波にも、行く春は行く歳にも振るべし、といへり。汝いかが聞き侍るや。」去来曰く、「尚白が難あたらず。湖水朦朧として、春を惜しむに便有るべし。殊に今日の上に侍る。」と申す。先師曰く、「しかり。古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都におとらざるものを。」去来曰く、「此の一言心に徹す。行く歳近江にゐ給はば、いかでか此の感ましまさむ。行く春丹波にいまさば、本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかな。」と申す。先師曰く、「汝は去来、共に風雅を語るべきものなり。」と殊更に悦び給ひけり」』

 といふものであるが、芭蕉の弟子の江左尚白(えさしやうはく・1650-1722)が「行春」は「行歳」でもよくてといふ件(くだり)から、「近江」は「丹波」に置換へられると非難したといふものである。


 この句は玄人が持て囃す作品だが、よく解らないといふ人もゐるやうなので少しばかり述べて見ようと思ふ。
 芭蕉の基本姿勢は「古歌や歌枕の地を訪ねる」といふ事で、その旅の途中で好意的に物心両面で支えてくれる各地の門人達との交流を深めるといふ職業的な目的もあつたのだらうと考へてゐて、この「近江の人」といふのも大津の門人達の事であつただらうと思はれ、彼の作品に紀行文が多いのはその爲で、だからこそ生國が伊賀である事も相俟(あひま)つて忍者間諜説が流布されるに到つたのではないかと推察出來る。


 思ひ返せば中學一年生の頃に貸本が流行してゐて、白土三平らによる忍者ブウ厶が起り、筆者は小學五年生から發句を始めてゐたので芭蕉は忍者に違ひないと『奧の細道』への壮大な物語を考へてた劇畫をものにしようとしたのだが、如何せん中學生には荷が重すぎて手も足も出なかつた。


 話は逸(そ)れたが、 歌枕の地として近江を愛した多くの歌人達がゐた事を意識したのは以上の事でも明らかだと思はれる。
 けれども、この句の『振る・振れる』といふ觀點(くわんてん)から見ると問題はそこにはなくて、その本質は季語がなくて困つた時はその時の季節を入れれば良いといふ事を初心者に指導する立場がある事である。


 それを聞いて、例へば夏に「夏」といふ言葉を季語とすれば句が出來るといふ安易な考へを身につけたとすれば、「夏」は「龝(あき)」でも、冬は「夏」でもといふ問題が生じて來て、それ故にこそ夏ならば夏の動きやうのない季節感が具備されて、決して他の季語と入替る事のない、所謂(いはゆる)振れない作品となつてゐなければならないといふ、そこの處を理解しなければ作句の醍醐味は諒解出來ないのではないか、と愚考する次第である。


 人生とは總て瞬間の聯續(れんぞく)でしかなく、しかも個人にとつては有限のものであると大悟した上で表現されるものだと考へれば、日本文學の基調は「ものの哀(あは)れ」といふ處に行き著(つ)くものだと思はれる。

   行春を近江の人と惜しみける

 は初案の上句が「行春や」であつたやうで、この句で有名なのは既に述べたやうに向井去來の『去來抄』にある言葉だが、ただそこには切字の「や」はなく、

 『望二湖水一惜レ春』

 といふ詞書(ことばがき)があつて、

    行春を近江の人と惜しみけり   ばせを

 と詠んでゐるのだが、下句が「ける」と「けり」の違ひがある。

 「けり」

 は助動詞の「だなあ・であつた(囘想)・たことよ(詠歎)」といふ意味で、

 「ける」

 はその連體形であるが、これだと「今まさに」といふ感がある。
 ただ、「けり」は「切字」だから「や」を使用すると「切字」が二つになるといふ禁則になるので、「や」を使つた時は「ける」とし、「けり」の場合は「行く春を」と「を」になつたものである。


 人生を旅と捉へた芭蕉は實際にも旅を栖(すみか)としてゐた。
 さうして、その旅は今日(こんにち)のやうな暢氣なものではなく、出發の時には水盃をしたといふ程の覺悟であつたといふ。
 久々に江戸を離れて、無事に訪れた近江の門人の人々と歡談し、やがて別れの時が近づき、次に生きて逢へるかどうかも解らない浮世の身にとつて、たつた今が『一期一會』と思ひ定めて、琵琶湖に船を浮べて遊び、やがて湖水朦朧として霞む背景の中で「行春を近江の人と惜し」んでゐるのである。
 この「もののあはれ」が理解出來なければ、

 「それがどうした」

 といふやうな鑑賞しか出來ないやうに思はれる。
 尤も、どんな藝術作品の大作だつてその言葉にかかれば手も足も出ないであらうが。


 因みに、「古人も此の国に春を愛すること」といふ古人の歌を調べてみたものを掲げれば、


   けふ別れあすはあふみと思へども夜やふけぬらむ袖の露けき(古今和歌集) 紀利貞

   さざ波や滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(千載集)  平忠度

   明日よりは滋賀の花園稀にだにたれかは訪はん春の古里(新古今集)  後京極良經

 勿論、これらが總てでないのは言ふまでもない事だが……。


     二〇一三年八月十三日午前二時半 店にて記す



     續きをどうぞ

二十三、『山路來て何やらゆかしすみれ草』の句に於ける『ゆかし』の問題 『發句雜記』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=74642211&comm_id=4637715


     初めからどうぞ

一、發句と「俳句」 『發句雑記』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47630390&comm_id=4637715

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