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将門公の首塚コミュの人工中絶

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コミュ内全体

すさまじい水子霊の怨念

水子も、かならず位牌をつくって、その親が一生懸命供養しなければいけない。流産は別として、人工中絶で子どもを堕ろした場合、世間体などを気にして、人工中絶したことをかくすことが多い。そのため、水子の位牌をつくって供養するという大事なことをしない人がいる。なかには、水子供養で有名な神社仏閣でお祓いしてもらったから大丈夫だ、などという人がいるが、それは大変な間違いである。お祓いをしてもらって、その時は水子の霊がとれたかもしれない。しかし、霊というのは、取り払えばそれで終わりといったものではない。成仏しないかぎり、すぐまたとりつくのである。
この世に生を受けるはずだったのに、親の都合で処分されてしまっただけに、水子霊の怨念はすさまじいものがある。少しばかりのお祓いで成仏することはありえない。

(守護霊をよぶ先祖供養の方法/池口恵観)


五歳になっても夜尿症が治らない子どもとその母親の例(守護霊に会うと幸せになる/小峰有美子)


「いつか自然に治ってくれるまでと思っていましたが、五歳以上は精神的弊害をも考えて夜尿症を治療の対象としているのだそうです。孝のためにも、そろそろきちんと治してやらなければならないと、ご相談に伺いました」


私を訪ねてこられた孝君のお母さんは丁寧な口調でおっしゃいました。


「わかりました。先日も嫁ぎ先から夜尿症のために離縁になった娘さんがいらしたけど、放っといていいものではありませんからね。ところで、お母さんには“水子さん”はいらっしゃいませんか」


「あの……、実は、お恥ずかしいのですが、主人と結婚をする前につきあっていた人との間で一度子どもを堕ろしています」


「そのお子さんのご供養はどうされましたか」


「どうしたらいいのかわかりませんので、何もせずそのままです。今の主人に知られたくないことでもありましたので……」


「そのお子さんが孝君に嫉妬しているのですよ。戒名を作ってさしあけますから、一緒にご供養しましょう」


その後孝君が元気に臨海学校に行ったことはもちろんです。 お母さんも長い間心の底で気にかけていた水子の供養をすることができ、罪は消えないまでも、心の重荷が少しはおりた思いでした。




…水子の祟りは迷信ではありません。水子のいる人は誠心誠意水子の供養をしましょう。私の母親には水子がいます。

コメント(20)

この話の夜尿症の孝君の場合はそれでもまだ本人の症状も比較的軽かったので、一家の大きな悩みという程のものではありませんでした。が、しかし事が“積木くずし”という言葉に象徴される「子どもの非行による家庭崩壊」となると、これは想像を絶する地獄になりかねません。

「いい子だったのに、悪いグループに入ってから急に不良になった」

そうおっしゃる親御さんがいらっしゃいますが、はたしてそれはお友だちのせいでしょうか。もう一度、胎児の頃からの育て方や、水子の霊とがその原因となって、お子さんをダメにしてしまっているかもしれないことを、反省してみてはいかがでしょう。
(守護霊にあうと幸せになる/小峰有美子)


…私に言わせれば、人工中絶は立派な殺人である。胎児だからといって人間でないはずはない。その子が生まれ、成長し、やがて結婚して、また命を伝えていく事を考えると、中絶というのは、未来永劫にわたってつづく、ひとつの命の体系を切る事になるのだ。人を殺すというのは地獄界に堕ちる最大の罪である。そんな罪深い事を、どうして簡単にやってのけるのだろう。

〜〜成仏できず、凶悪霊となった水子霊は、自分を殺した両親はもちろん、兄弟姉妹、祖父母、叔父叔母、さらにはなんの関係もない人にまでとりついてしまう。

〜〜水子は、現世に生を受けた兄弟をみて、「親がちゃんと産んでくれたら、自分もあんなふうにかわいがってもらえたのに」と思い、その子にとりついてくるのである。本来なら、その水子も他の兄弟と同じように、この世に生を受け、親の愛情を一身にあびて楽しく生きることができたはずだ。それなのに、親の都合でそれができなくなってしまったのである。こんなかわいそうなことがあるだろうか。
「自分だけ、どうしてこんな暗いさびしいところにいるんだ」という水子の怨みは深く激しい。
水子霊に取りつかれた家族の行く末は


子どもが水子霊に取りつかれると、それまで何の問題もなかった子が、突然非行に走ったり情緒不安定になったりと、親に心配ばかりをかけるようになる。また、健康を害し、原因不明の高熱を出して苦しんだり、ときには不慮の事故にあったりする。また、母親にとりつくと、気持ちが高ぶりやすくヒステリーがどんどん昴じ、自分でもそれを止めることができなくなる。(私の母親はヒステリックに息子(私)を虐待するのが好きな人です。現に今もケンカ中で、もうケンカ状態になって 3ケ月以上になります。部屋の中はぐちゃぐちゃ)
よく育児ノイローゼから母親が子どもを殺してしまうという痛ましい事件があるが、その場合も、母親に水子霊がついている事が多いといっていい。
父親の場合もやはり健康がすぐれず、内臓の病気に悩まされるようになる。(私の熟年離婚した父親は、今、心臓の疾患を患っています)
仕事に対しても一生懸命とりくむことができなくなり、マジメいっぽうだったような人が酒やギャンブル、女にのめりこんでしまう。

(私の父親は証券関係の仕事をやっていましたが、約20年程前に破産しています。その後、職と住居を転々とし、家賃が払えなくなっては転居する、という人生を歩んでいます。未だに借金だらけの家計です。口癖は「金、金、金、…ゼニ、ゼニ、ゼニ」です(笑)。


しかし、何をやっても満たされる事もなく、ズルズルと落ちていくだけである。
そもそも、子どもを中絶したという事は、大宇宙の大霊=大日如来にたいして大きな罪を犯しているのだから、その罪のつぐないをしなくては心が満足するはずがない。
殺人というのは地獄界へ堕ちる大罪であり、中絶も同じだと前に述べた。

(私の母親は地獄に墜ちますね。間違いなく)

したがって、心あたりのある人は、親の身勝手でこの世での可能性を断たれた子どもに対して、お墓にまつることはもちろん、きちんと位牌もつくって、水子霊におわびし、成仏できるよう一生懸命拝まなければならないのである。そうでないと、いつまでも成仏できない水子霊がとりつき、あなたやあなたの家族の人生を暗いみじめなものにしてしまう。父親や母親はいざしらず、水子の兄弟にあたる子どもにはなんの責任もない。親の不始末の為に、子どもに水子霊がついてしまった例を、私はいやという程見てきているが、本人にはなんの責任もないことだけに不憫でしかたが
なかった。そのためにも、水子の供養はしっかりおこなっていただきたいのである。



位牌から水子の話になってしまったが、これは非常に大事な事なので、よく心しておいていただきたかったからである。再び話を仏壇にもどそう。

(守護霊をよぶ先祖供養の方法/池口恵観)

水子の祟りは物理的な事実です。

池口氏は山口大学医学部名誉博士の方ですよ。

水子にまつわる考え方は、キリスト教(カトリック、プロテスタント)にはない、キリスト教の限界を証明しているとも言えるかも知れませんね。
受胎するということは肉体に魂が宿るという事です。そして、宿った魂というものは、形はないけれど、神さまに命をもらって喜び勇んでお腹に宿るわけです。ですから必ずこの世に生まれたいという意志を持っています。それを途中で堕ろされてしまったのでは、怨みたくもなるではありませんか。 たとえば、結婚前に子どもができてしまったとします。でも、世間体があるからとりあえず堕ろしてしまおう、という事になりがちですね。ところがその後、あなたはその人と無事結婚までこぎつけることができたとします。すると、今度は誰にもはばかることがないので、次に授かった子はみなさんから祝福されて生まれてくるわけです。 そこで堕ろされた水子の霊は親を恨んで、幸せそうに育っている子どもにたたるのです。

ですから親は必ず堕ろした子どもに、

「事情があってあなたのことあの世に送り返してしまったけれど、本当にごめんなさい。それに、あなたのこと忘れて、今の子ばっかり可愛がってしまって。悲しかったでしょうね」

と語りかけて“お詫び”をすべきなのです。

そうでないと、いつまでも兄弟になるはずだったその子への“いじめ”は続きます。

守護霊に会うと幸せになる/小峰有美子
この水子に関する考え方は、宗教、国、地域によって様々な考え方が生じる部分だと思いますが、こうやってトピ立てしておけば、水子供養というテーマに関して深く考える良いきっかけになるかも知れませんのでね。
迷信か、真実か、…真実だとすれば、それはどれ程の悪影響があるものなのか、少なくとも、池口恵観さんと小峰有美子さんのお二人は、水子供養はその家族、一族を繁栄、幸福にする為には絶対に必要な事、だと力説されている訳ですから、お二人の水子に関する考え方が正しければ、私がこうやって水子供養というテーマに関してトピ立てするのは無駄ではなかった、という事になりますしね。
もし水子の祟りが真実ならば、社会全体にて真剣に取り組んでいった方が日本社会の為になる、という事ですよ。
また、こういう状態の丸児喜代吉、丸児貞子、丸児清太佳によって構成された丸児家が、嫁を迎えられる筈がないし、また、迎えてはいけないですよ。(笑)

犬神家の一族、ならぬ丸児家・圓城寺家の一族並みの怪奇現象にて、嫁に来た女性が苦しむだけになるのは目に見えていますからね。みすみす不幸になる人生を選択する事もないという事です。
私はそれまでどちらかというと、キリスト教(プロテスタント)偏愛傾向の強い人間だったのですが、池口恵観氏の「守護霊を呼ぶ先祖供養の方法」に20代後半に、偶然仕事の関係にて立ち寄った池袋の町の、とある書店にて出会い、御先祖供養をモーセの十戒の一つの「あなたの父と母を敬え」、「あなたの父と母(のそのまた父と母、そのまた父と母、そのまた父と母、そのまた父と母……、即ち御先祖様)を敬え、つまり御先祖供養をしなさい」という重要戒律の日本仏教的な改良型、と肯定的に解釈して、真剣に日本仏教の視点から御先祖供養というものを考察するようになる、という思想的遍歴を経てきた人間なのですが、その際、キリスト教には全く存在していない水子の祟り、水子の供養の重要性、という概念にも出会って、それを前に書いたように福音書の「最も小さい者の一人」と解釈して、もしうちにいるのなら是非とも御供養したいと考え、ものは試しと父親に、うちには水子はいないかどうか尋ねてみて、初めてうちに水子(私ら双子の後に一人、あと私ら双子の前にいる姉の前に戸籍上の長男にあたる嬰児、つまり生まれて1週間程ですぐ亡くなってしまった兄、弘之が一人の計二人)がいる事を知ったのですが、その時に母親にあまりにも軽々しく「あらやだ、そんな(つまらない)事をきよたか(=私)に(父親)は教えたんだ」とか言われて、思わずカッとなって


「ふざけるなむかっ(怒り)!…自分の子どもを締め殺しておいて何ヘラヘラ笑っているんだ!!」


と母親を本気で怒鳴り飛ばしてしまった事があったのですが、その時の何とも説明のしようのない激しい怒りの感情の発露は、今にして思えば、それこそ私に何かの霊が憑いていたとしか考えられないような感覚でしたよ。
つまり、あまり使いたくない表現なのですが、私に水子の霊が憑依して、私の身体を使って水子(なんとなく私の本能では女の子、つまり妹のような気がするのですが…)が母親に訴えた感情、と言いますか、ね。本当にそういう感覚がありましたね。あの時は。
それからその後、母親にしつこくしつこく食い下がって「水子の供養をしてくれ、水子の供養をしてくれ…」と何度も何度もお願いしてみたのですが、母親は頑として受け付けなかったんですよね。あんまり私がしつこいので、母親もさすがに腹がたったらしく


「もう、いい加減にしてっっっっ!!!…水子なんて、水子の祟りなんてある筈が、いるはずがないじゃないの!!」

と、ちょっとヒステリック気味に私を怒鳴ったのですが、今でも忘れられないのですが、その時母親の顔色が突然サッと悪くなって、本当の話なのですが母親は


「あっ…、ちょっと気分が悪くなったわ、ちょっと横になるから」


と言って横になって苦しそうにしていたんですよ、しばらく…、あの時の苦しそうにしている母親の表情を見ていて、はっきりと私は「あぁ、水子の霊っていうのは本当にいるのだな」と確信したんですよね。あの時の何とも言えないもの悲しい確信は、ある意味残念な事に、今でもほとんど変わっていないですよ。こればかりはまさしく本能的な感覚ですからね。どうしようもない、という事ですよ。やはり今でも私は水子の霊、というのはいると思いますね。



「信念とは恋愛のようなものである。強いられる事はできない(ショーペンハウエル)」
私が行の真っ最中の池口恵観氏を撮影したつい最近の写真も投稿しておきますね。

このトピにリアリティを持たせる為ですね。
私は今つくづく思っているのですが、その家、一家、一族の雰囲気、命運というのは、やはり最終的にはその家の男親、即ち“親父”が握っているな、親父がキーになるのだな、と、つくづく思っていますね。

私の父親は、とにかく宗教“的”な事(宗教そのもの、ではありませんよ)を、或いは冠婚葬祭“的”な事、例えば初詣に行く、とか、お盆お彼岸にはお墓参りに行く、或いは、キリスト教に興味を持って日曜礼拝に参加する、などといった事に本当に全く、と言っていい程興味のない人、そういう事は迷信だ、と頭から決めつけて小馬鹿にするタイプの人、でしたからね。

私の小中高校時代に、ただの一度でさえ、御先祖のお墓参りにでさえ行った事がなかったのですからね。私の家は…(ため息)。

(代々の親の、御蔭忘るな代々の親は、おのが氏神、おのが家の神/本居宣長)

私が私の父親の事で特に印象に残っている事は、その水子(=妹)の供養の件にて、母親に激しく突っぱねられた為に、母親が駄目なら今度は父親だ、とばかりに、当時、中央区新川の高級賃貸マンションに入っていた父親の部屋に(家賃が払えなくなって叩き出された部屋ですが(笑))、ごくごく常識的な仏壇を整えて、御先祖の御供養と、水子の供養をしてくれませんか?、と新川のマンションにお願いに行った時の父親のリアクションも、今でも非常に強く印象に残っているんですよね…。

父親は、しばらく私の顔を、本当に心底落胆、失望した、というような表情をしながらくたびれたように除き込み、しばらく本当に哀れな白痴な人を見つめるような表情で私の顔を除き込みながら、次の瞬間、激しくカッと目を見開きながら、私を怒鳴りつけるように、恫喝するようにこう叫んだのですよ。

ハァ〜〜(ダメだこりゃ、という表情をしながら)


「…断る!!! 〜〜〜頼む、頼むから、お願いだから俺の所でそのチンチンジャラジャラっていうのだけは止めてくれ…。」

(頼む、という表情をしながら)



私が心から失望したのは言うまでもありませんでしたのでね。

…父親がこれでは母親が水子の供養をしてみようという気持ちなる訳がない、という事ですよ。

母親もかわいそうな人なんですよ、ね。
やはりなんだかんだ言って、やはり私は母親には同情的、ですよ。
ただ、妹を人工中絶する決断を父親に一言の断りもなく、自分一人の判断にて勝手にしてきたのは母親ですから、妹の件に関しては、やはり母親が悪いと私は思いますけどね。子どもを殺害する事を、子どもの父親に一言の断りもなく自分一人の判断で勝手にしてきた(と父親が悲しそうに言っていましたから)のは、はっきりと母親に非がありますが。
12〜3歳位の子どもの上に夜中に馬乗りになって、じわじわとその首を絞めて殺し、その後その遺体を、電気ノコギリにてバラバラに切断し、それをビニール袋に入れ、夜中に密かに山奥に捨てに行く女、母親を想像してみてください。そしてその後なんの気なしに涼しい顔をして日常生活を送る母親を、その殺害された子が死後幽霊に、怨霊の幽霊となって、その自分を殺害した人物に呪い付く事など、普通に考えて全然不自然な事ではないでしょう。私はそれが水子霊の心理状態なのではないか、と思いますね。将門公の首塚の心霊現象と同じ理屈だ、という事ですね。

私の母親は、何故か大手町の首塚には絶対に行きたがらない人なのですが、案外その理由はそういった所にあるのかも知れないな、と私は密かに思っていますね。

やはり自分の非を素直に認めて、母親は罪の償いをするべきでしょう。

そうしなければ、殺人犯人として、死後地獄に堕ちる可能性が出てきてしまう、という事です。
人工中絶というのは、私は言い方を変えれば、肉親による



「営利誘拐殺人」



だと思う訳ですよ。だって、母親が妹を堕胎した理由は、おそらく「もうこれ以上、子供の頭数が増えると、丸児の家がリッチな生活をおくれなくなる、生活が苦しくなり、一人一人がより豊かな生活を送れなくなる」だったはずですから。
そういう動機で子どもを堕胎する行為を、「営利誘拐殺人」と言わずして何と言うのか、という事ですね。

ただ、強姦、性犯罪に巻き込まれた女性が堕胎する行為まで営利誘拐殺人と断定してしまうのはあまりにもむごいとは思いますがね。




堕胎罪(刑法第212条)という刑法もある事ですし、妹が母親によって


殺害


された約40年前に、この刑法がどうなっていたのかは知りませんが、堕胎は刑法によって制限された行為、即ち法律の上では完全な犯罪行為な訳ですからね。


殺人罪(刑法第199条)「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する」



この「営利誘拐殺人」に対して言及した記事が丹波哲郎氏の本に出てきますので、それも抜き書きしておきます。


〜たとえば誘拐して、1億円ぐらい身代金をとって、面白おかしく暮らして捕まらなかった。これはよかったなんて本人は思う。ところがどっこい、霊界に行った日には身の毛がよだつような事が待っているんだな〜、これが。

〜89年は本当にたくさんの誘拐事件があった。しかし成功したものはない。誘拐して、追いかけられて、“殺して”埋めた事件も最近あったけれども、そういうような者は霊界の存在を知らないからやる。


〜従って、犯罪者の多くは、いかに刑務所に入ろうが、あの世でキッチリ罰せられる。
ましてや、最近(多分25年位前)も新聞紙上をにぎわせた名古屋の女子大生殺しのような“営利誘拐殺人”犯となると、あの世でどんな刑罰を受けるか、考えてみるだけで身の毛もよだつ懲罰を明らかに食う事になる。とにかく、


“ありとあらゆる人間が犯す犯罪の中で、これが最も重いのでないだろうか。営利誘拐殺人以上に、あの世で厳罰を受ける行為はない”
つい2〜3年前に私が父親の永山団地の近所に住んでいた時、また父親が年金を担保に借金を繰り返し、その金を博打(株)に注ぎ込んでしまって、滞納した家賃が払えなくなって団地を出て行かなければならなくなった時、 私が電話にて父親に「少し気分転換にでも、初詣にでも行こうよ。神社に行ってお祓いを受ければ事態は好転するかもしれないよ」

みたいな事を言った時の父親のリアクションもまた、何故父親が無様な失敗を繰り返すのかを説明しているように思えてならなかったですね。

例によって父親は、突然爆発したように私を怒鳴って、恫喝、叱り飛ばしたのですからね。


「バカむかっ(怒り)むかっ(怒り)むかっ(怒り)!!!」



「……いい加減にしろむかっ(怒り)むかっ(怒り)!!」


「ガチャン!!(電話を切る)」


何で宗教“的”な事をそこまで頑なに拒絶、バカにするのか?……極端に宗教に懲りかたまられるのももちろん大いに問題ですが、私の両親のように、それらを余りにも軽んじすぎるのも絶対に問題ですよ。



私はそう思いますがね。

墓参りに行くなどは宗教というよりは、人間としての最低限の倫理、モラル、道徳でしょう。私はそう思いますがね。
私の母親は、6人兄弟の末っ子(圓城寺家)なのですが、その母と父によって構成される(されていた、ですね。約20年前に父親が破産した時に、二人は熟年離婚していますから(母から父への三下り半という形にて)それ以降、うちの両親は、弟の結婚式の時(姉の結婚式は両親が離婚する前に挙行されています)と姉の義母の御葬式の時の2回だけ顔を合わせていますが、その2回とも、会話はもちろんの事、目も合わせなければ、顔も合わせなかったですからね。二人は。特に母親が父を毛嫌いして、徹底的に父を無視していましたよ(笑)、ただ父も母もその後再婚している訳ではなく、つまり独身のままですので、どうしても私はかつての家族の単位にてうちの両親を見てしまう癖がありましてね)丸児家は


「兄・弘之(嬰児)」、「姉(2児の母)」、「私(独身)」、「弟(2児の父)」、「妹(人工中絶)」


…の計5名の5人兄弟であった、という事になりますよね。

私は、母親は自分だって6人兄弟の末っ子なくせに、なんで自分と同じ立場であった妹に、あそこまで冷たくできるのか不思議で仕方がないのですよ。もし、母親の息子という立場の私から言わせてもらいますが、母親の母親、つまり私の祖母が、母親が生まれて12〜3歳になった頃のある晩に、すやすや眠っている子どもの母の上に馬乗りになってじわじわと首を絞めて殺害し、その後母親の遺体を電気ノコギリにてバラバラに切断し、それをビニール袋に入れて山奥に捨てに行き、その後何の気なしに涼しい顔をして普通に暮らしていたら、祖母を殺してやりたい位の憎悪を祖母に対して抱きますけどね。当然でしょう。

私の父親の仕事が最悪だった頃、つまり私ら一家5人の生活を、母親のパートタイマーから得られる収入に頼っていた頃、今でもその事に対しては強く感謝しておりますが、丁度私は中学から高校生位の年齢だったのですが、その頃、家の中の雰囲気はまさに最悪で、既に両親は“家庭内別居”状態となっていて、その影響もあって、私と弟の二人は少しグレかかってしまって(弟は今はもう完全に立ち直って、今それなりの立派な仕事で自分の家族をキチンと養う、模範的な父親になっていますが)(姉だけは偏差値68位の県立高校から現役で東京女子大へ進学するという、グレない全うな人生を歩んできてくれましたが)、学校の成績は最悪、私は視線恐怖、顔面神経痛(顔面の筋肉がピクピクと痙攣する難病)、どもり、超強度近眼、などの難病と必死になって戦っていた時期だったのですが(更には越境入学という不正、マルコという名前から来る外国人かもしれないコンプレックス、激しい罪悪感を伴いながらもやってしまっていたオナニーに対する激しい罪悪感、大学受験に対する激しいプレッシャー)、 その頃、よく母親に浴びせられた罵声が、何故か今でも非常に印象に残っていましてね…。 それは




「丸児の男3人に“殺されるわ”むかっ(怒り)!!」



だったのですが、もちろん基本的には母親のその苦情は全くの正論(特に私と父に対しては)なのですが、そういう視点は当然極めて自然な視点なのですが、たまには以下のような視点も持ち出してみるべき、みた方が上手くいく、いったのではないか、と感じますね。


「丸児の男3人を殺“した”わ ドクロ、そして末の子は本当に殺したわむかっ(怒り)!!」



私もそうですが、常に自らを加害者と被害者、その両方の視点から見てみる思考習慣というのは非常に大切な事だと思いますね。交通事故を考えてみれば分かりますが、交通事故に10対0の責任比率の事故というのはまずない、のだからね。それと同じように、この世界、現実の世の中にて起こる様々な出来事、事件にも、まず絶対に10対0の事件、出来事というのはないのだから。また、そういう視点を持つ事が、この世の中の様々な問題を解決させるのには非常に有効な視点だと私は感じますけれどね。
この「輪廻転生」という考え方は、私が父親から教えてもらって知った、2004年に出版されてその後一大ブームを日本に巻き起こした成功哲学の本


「ツキを呼ぶ魔法の言葉/五日市 剛」


の中に出てくるこの本の中の鍵となる非常に重要な人物である「イスラエル人のおばあさん」も以下のように述べて肯定的に捉えている考え方でもある訳ですし、ね。




〜おばあさんの家に泊めていただいた最初の晩、おばあさんと二人きりで話をしていたとき、一方的にいろいろな話を伺ったのですが、いくつか強く印象に残っていることがあるんですね。例えば、

おばあさん「五日市さん、運命というのはね、あるのよ。私達の人生はね。最初からほとんど決まっていたのよ」

僕は、その類の話にはあまり興味がないので「まぁ、あるかもね」と相づちを打ちました。続いて、




おばあさん「私、ユダヤ教徒の人間だけど、


“『生まれ変わり』を信じてるの”。


過去世や来世というのはあると思うわ」





このことについても、あまり関心がなかったので、「うん、あるかもね」、すると、おばあさんは〜
13ページ


とまあ、こういう感じですね。ユダヤ、イスラム、キリストなどいわゆる一神教というものは、もちろんエドガー・ケイシーのような例外の人もいますが、基本的に輪廻転生という考え方一切認めていない、訳ですからね。

この五日市さんの御本に出てくる比喩や例えには、他の箇所に出て来る例えにも、私には実に考えさせられる、不思議な因縁を感じる例えが多いのですが、ね。

ただ、正直にいって、実は私はこの本にそれ程の魅力は感じてはいないのですが、ね。(だからいつまでたってもうだつが上がらない人生なのかも知れませんが(笑))
他の私が管理人をしているコミュニティから取ったこの写真をここに貼っておきます。向かって右側の、肩のところにある、赤ん坊の顔のように見えるもの、ですね。恐らく水子霊ではないか、と私は感じますよ。

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