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認識論(epistemology)コミュの理念型という概念について

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人間・社会・文化の科学における概念の基本特性を浮き彫りにするために、M.ウェーバーが案出した用語。あい連関する二つの逆説的主張よりなる。まず第一に「理念」(あるいは「観念」)という形容にかかわるもので、「現実」を科学的に認識するには、純粋に観念的に構成された「虚構」が必須不可欠であるという主張。概念と実在との分裂を所与の前提とすると、模写や直観で現実を把握することはできない。人為的に構成された概念や仮説を導きの糸に因果帰属を行い、一歩一歩断片的現実を整序するほかない。思惟による整序は現実そのものを直接反映することなく、虚構という性質を失うことはない。とはいえそれは、特定の仮説を思いつかせ、さらなる因果帰属を必然化するという点で「発見的」意義を持つ。第二の主張は「(類)型」という用語にかかわるもので、歴史的事象の個性的特質を認識するには、抽象的概念が必須不可欠であるという逆説。質的に独自な対象を発生的に理解するには、対象を個性的に描き出すことが必要である。歴史的過程や関係をそれ自体矛盾を含まないようなひとつのコスモスとして提示するような概念を構成し、それとの比較考量によって対象の個性は明らかになる。多数の現実から帰納的に得られた「平均型」を用いて個性を浮き彫りにすることはできない。価値関心に従い特定の観点を定め、それに基づき一定の要素を選び出し、それらを論理整合的に結合して形成された概念、すなわち純粋に思惟によって構成された極限概念こそが、個性的事実の因果認識のための準拠点になる。理念型のもつ個性の普遍的把握の可能性を明らかにするために、フォン・シェルティングによって個性的理念型と一般的理念型という区別が提案された。ウェーバーが学問研究に求めた価値自由を、概念装置の面から補完・補強するのが、この理念型に関する議論である。

引用〜岩波 哲学・思想事典

またたらーっ(汗)ですが、これを踏まえて学術的な「現実の認識」とは一体、如何様なものなのでしょう?

コメント(2)

同上の事典から定義を引用すると、
理論とは…
科学において、観察可能な現象や、経験法則(経験・観察に基づいてその成立を確かめることができる法則)に対して、説明を与えるような法則の体系。
ヨーロッパ語で理論を意味することばの語源は、ギリシア語のテオリアである。このことばは、プラクシス(praxis 行為・実践)と対比され、基本的には、眺めること、観照することを意味した。(真理を〈見る〉ために)思索をめぐらすことも、実際に行動を起こすこととの対比でテオリアの側に属する。しかし現代では、理論は、基本的には経験・観察と対比される。但し今日でも、例えば理論物理学と実験物理学とが対比されるときには、現代的な対比と共に伝統的な対比も含まれている、と言ってよいであろう。
今日の用法で理論と呼ばれるものは、一般に、それによって説明される個々の経験法則よりも普遍性が高い。様々な領域における別個の経験法則(例えば、惑星運動についてのケプラーの法則や、落下物体についてのガリレオの法則)に対して、理論(ニュートン力学)は統一的な説明を与える。そのことによって理論は、できるだけ単純で統一的な形での、世界に対する理解をもたらすことを目指すのである。
理論が、個々の観察や経験法則と対比される一つの側面は、理論にはしばしば、観察不可能な〈理論的存在者〉(電子、クォーク、等々)が含まれていることである。そして、そのような理論的対象と呼ばれるものが本当ににこの世界に存在すると考えるか否か、という問題は、科学的実在論をめぐる現代の論争の中心問題である。また、理論が観察や経験法則と対比されるもう一つの側面としては、理論を構成する個々の法則は単独で経験的なテストにはかけられない(デュエム-クワイン・テーゼ)、ということがある。つまり、理論を経験的にテストするには、一般に、その理論を構成する複数の法則の組み合わせから観察可能な帰結を導き出し、その帰結を実際の観察と突き合わせることしかできない。もしその帰結が実際の観察と食い違ったとしても、前提として利用された複数の理論的法則のうちの、どれが間違っているのかは決定できないのである。
理論は観察や経験と対比されると言っても、観察や経験は理論から完全に独立であるわけではないと、多くの科学哲学者は考えている。つまり彼らは、どのような理論を受け入れているかによって、何が観察されるか、観察結果をどのように報告すべきかが変わりうる、と考えるのである。



理論はあくまで理論と…
補足で…


またまた上の事典の引用で。

道具主義
科学理論とは、現象の計算や予測に便利な道具にすぎないとする考え方。コペルニクスの『天球の回転について』にオシアンダーが寄せた序文(1543)が、道具主義の古典的形態を示している。そこでは、当時の教会の教義と衝突することを恐れて、太陽中心説が一つの仮説であり、宇宙の実在的構造の表現ではないと主張されている。また、ニュートンが重力の原因を与えていないという批判に応えて『自然哲学の数学的諸原理』の一般註の「われ仮説を作らず」という言葉で退けた「仮説」も、現象から導き出され得ないような説明原理一般のことをさしており、彼の考える実験哲学にはそのようなものの介入する余地はないとされた。19世紀にかけての、原子仮説の位置づけに関するマッハやオストヴァルトとボルツマンとの対立にも道具主義の立場が関係している。マッハは科学の目標は現象の経済的な記述(思考経済の法則)であるとし、原子仮説に関しても〈技巧的手段〉あるいは〈数学的モデル〉としてのみ科学理論に導入することを認めた。
道具主義的立場では、科学理論は現象の背後に存在する事物の本質、実在の本性を記述・説明するものではなく、現象の記述から現象の記述を計算あるいは演繹する道具であるということになる。すなわち、仮説としての科学理論は、実在の本質的秩序とはかかわりなく、感覚に与えられる現象を救うための道具なのである。例えば科学理論を一つの数学的仮説とみなしたバークリは物理的な本質を一切認めず、精神的な本質のみを認め、それは宗教によって明らかにされるとした。デュエムは、物理理論が物理的な本質を明らかにできるとは考えず、やはり宗教こそがその任にあたるべきだと考えた。マッハは本質というものを認めず、世界の構成要素である、物的でもなく心的でもない中性的な感性的諸要素の関数的関係を経済的に記述することを科学の任務とみなした。
このような立場では科学理論が実在との結び付きを持たないため、科学の進歩は道具の進歩と類比的に扱われる。そこで例えば、理論の進歩は、道具としての有用性や単純性といった基準によって測定されるといった主張が生まれることになる。結果的に、この立場は科学から自然哲学的な側面を切り離すという役割を果たし、現在の多くの科学者も無自覚的に道具主義的見解をとるようになっている。
デューイの道具主義は、このような実在と現象の緊張関係を背景にする道具主義とはやや異なり、プラグマティズムの立場から科学と価値との二元論の橋渡しを目指すという発想に基づくものである。その主張の眼目は、思考を生活の道具とみなす点にある。彼は進化論の影響のもと、生物が環境に取り組み、進化を通じて問題解決に到る際に様々な器官や能力が道具として使用されるように、思考を人間が問題状況を把握しそれを解決する探求のプロセスにおいて使用する道具とみなした。探求という点では、科学研究も社会的価値や道徳に関する議論も異なるところはなく、このような探求の一般的な構造を解明することが論理学の使命であるとする。また、デューイの論理学は実際の問題解決に到るプロセス全体を対象とする点で、発見の文脈と正当化の文脈、あるいは科学方法論と形式論理学とを区別する論理実証主義と異なっている。このような立場から科学研究も、解決すべき〈問題設定〉、解決のための〈仮説の決定〉、仮説からの〈推論〉、推論結果の実験などによる〈テスト〉、テストにより正しいと認められた〈保証つきの言明〉へと至る探求のプロセスとして把握される。また探求によって到達した〈保証つきの言明〉は絶対的真理という意味ではなく、将来の探求の道具となるとともに、その探求の結果改訂され得るものとみなされる。この点で、デューイの道具主義が、科学理論を現象の計算や予測のための道具とみなす道具主義とは異なることに注意する必要がある。

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