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日本神道コミュの第十二章 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)

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コミュ内全体

第十二章 大吉備津日子命 *p757

【一】大和在住時代 *p757

【二】播磨の国加古川 *p769

【三】鬼(き)ノ城(じょう)攻防戦 *p777

【四】阿曽郷(あそごう)の神官と温羅(うら) *p807

【五】讃岐の国平定 *p823

【六】但馬(はりま)の国と丹波の国平定 *831

【七】伯耆(はくき)の国平定 *839

【八】大吉備津日子命の再婚 *867

【九】吉備の国の国造り *875

【十】大吉備津日子命の子孫 *896

【十一】伊予の国の平定 *923

【十二】遣魏使(けんぎし)の派遣(はけん) *940

【十三】魏志東夷伝(ぎしとういでん) *955

【十四】大前方後円墳の出現 *1013

【1995年、安原修氏の執筆】

☆福田 扶士男☆五瀬之月☆平成三十年(2018年)

コメント(23)

第十二章 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)[p757/p757-p1034]

【一の紂杪舅尊濬算代[p757/p757-p768]

>p757-1行〜

 姉の倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)が女帝として即位した後、
比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)は妃として迎えた細媛命(ささひめのみこと)と共に今の桜井市吉備の地に屋敷を建ててそこで新婚生活を送ったのである。

そして181年に比古伊佐勢理毘古命と細媛命(ささひめのみこと)との間に長子の若日子命(わかひこのみこと)が生まれたのである。

更にそれから三年位後に次子の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)が生まれたのである。

>p758

 比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)の兄稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおほひひのみこと)は病弱な方であって子女はなかったのである。

そして姉の倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と妹の倭迹迹稚屋媛命(やまとととわかやひめのみこと)の二人は一生独身生活を送られたために子女はなかったのである。

故に孝霊(こうれい)天皇の四人の子女のうちで子女のあったのは比古伊佐勢理毘古命丈だったのである。

 倭迹迹日百襲媛命の都の所在地は歴史から消されているために不明であるが、
現在の桜井市で三輪山の近く、
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の陵

>p759

墓である箸墓(はしはか)からさほど遠くない所にあったと考えられるのである。

そして比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)は天皇にはならなかったけれども姉の女帝を佐けて日本の国を治めていたのである。

また比古伊佐勢理毘古命の子である若日子命(わかひこのみこと)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の二人は独身で子のなかった伯母の女帝から我が子同様に愛されて生長したのである。

 さて国玖琉命(くにくるのみこと)や内色許男命(うつしこをのみこと)の一族はかつての被差別階級民から解放され、
大和朝廷の宮

>p760

職にも就くことが出来る様になり、
更に比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)の親族となったこともあってそれに満足し、
大和の国の人々は平和を楽しむことが出来る様になったのである。

 国玖琉命(くにくるのみこと)の長子大彦命(おほひこのみこと)が比古伊佐勢理毘古命(いさせりひこのみこと)の妃である細媛命(ささひめのみこと)の妹伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と結婚したのが180年より少し前位であろう。

そして大彦命と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)との間に生まれた最初の子が長男の少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)であり、
二男が建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)、
三男が比古伊那許士別命(ひこいなこじわけのみこと)、

>p761

長女が御眞津媛命(みまつひめのみこと)の四人である。

だから大彦命(おほひこのみこと)の四人の子は比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)の子若日子命(わかひこのみこと)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の従兄弟となった訳である。

 また内色許男命(うつしこをのみこと)の子らは細媛命(ささひめのみこと)が比古伊佐勢理毘古命の妃となった関係で比古伊佐勢理毘古命の義理の弟妹となった訳である。

 さて女帝倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の治世二十年、
世紀200年のことである。

南朝鮮から温羅(うら)と言う人物が日本へ渡って来て吉備の国の阿曽郷(あそごう)新山(にいやま)に山城を築いて多くの手下を従(したが)え、

>p762

瀬戸内海を航行する船を襲って積荷を奪い、
更には西国から大和朝廷へ送る貢物(みつぎもの)迄奪う様になったのである。

大和朝廷へ送る貢物を奪うと言うことは大和朝廷への挑戦であるとも言えるのである。

それで大和朝廷も温羅(うら)達の海賊行為を放置することは出来なくなったのである。

 しかし温羅(うら)は優れた築城家であり武芸の達人でもあり、
その上多くの部下を従え、
険岨(けんそ)な山の上に築いた山域に立(た)て籠(こも)っているので

>p763

あるから吉備の国の豪族達では退治することが出来なかったのである。

そこで大和朝廷でも勇猛を以って知られた比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)が吉備の国へ遠征することになったのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【一の紂杪舅尊濬算代p757-1行〜p763-4行より。

☆福田 扶士男☆五瀬之月☆平成三十年(2018年)
第十二章 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)[p763/p757-p1034]

【一の隋杪舅尊濬算代[p763/p757-p768]

>p763-5行〜

 しかし比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)は吉備の国を平定しても再び大和の国へは帰らないつもりだったのである。

それは丁度二十年前、
大和の国の大乱を収拾するために反乱軍側の国玖琉命(くにくるのみこと)や内色許男命(うつしこをのみこと)らと和睦し、
内色許男命(うつしこをのみこと)の娘細媛命(ささひめのみこと)を妃に迎えて階級の差別のない、皆が

>p764

仲良く楽しく平和に暮らして行くことの出来る新しい大和の国を建設しようとした時、
兄の稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおほひひのみこと)や妃の千千速媛命(ちぢはやひめのみこと)らを始めとするタカ派の皇族らの激しい反対のために皇位を捨てた時の悲しい思い出が心の中にあったからである。

 それで比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)は吉備の国遠征を好機として吉備の国を平定した後、
皇太子時代に大和の国では実現することの出来なかった理想を吉備の国で実現しようと言う大きな

>p765

希望を持って大和の国を出発することにしたのである。

 比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)の抱負を聞いて国玖琉命(くにくるのみこと)や内色許男命(うつしこをのみこと)の同族の人々も大勢吉備の国へ同行することを願い出たのである。

それは倭国大乱の後に彼らは被差別階級民から解放され、
大和朝廷の官職にも就くことが出来る様になったけれども、
大和の国の人々は元被差別階級民であり卑しい職業に従事していた人々に対する差別をやめなかったのである。

>p766

 それでかつて被差別階級民であった人々は比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)に対しては恩義を感じていたのであり、
比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)が吉備の国を平定して階級や差別のない新しい吉備の国を建設しよと考えていることを伝え聞いて多くの人々が喜んで吉備の国へ同行し、
新しい国造りに協したいと申し出たのである。

 それで比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)は妃の細媛命(ささひめのみこと)、
長男の若日子命(わかひこのみこと)、次男の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)、
更に細媛命(ささひめのみこと)の兄樂樂森彦命(ささもりひこのみこと)の妻子、
また皇太子時代

>p767

から常に比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)の良き理解者であり協力者であった重臣犬飼建命(いぬかいたけるのみこと)の一族、
それに大和の国の政治に失望していた人々など多くの人々が吉備の国遠征と移住と言う二つの目的を持って吉備の国へ行くことになったのである。

 だから比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)と共に吉備の国へ行くことになったのは遠征軍の将兵と言うよりも移民団と言った方がふさわしい様な陣容であり、
男性のみでなはなく女性も多かった

>p768

のである。
そして昔は男軍(をいくさ)、女軍(めいくさ)と言って男子軍と女子軍があり、
女性も武器を持って兵士として従軍していたのである。

 だから吉備の国へ行くことになった人々は遠征軍であると共に、
再び大和の国へ帰って来るつもりのない移民団でもあったのである。

比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)はそれらの人々と共に、
なつかしい故郷でもあるけれども、
悲しい思い出に満ちた大和の国に別れを告げ、
紀の川を船で下り遠征の途についたのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【一の隋杪舅尊濬算代p763-5行〜p768-10行より。

☆福田 扶士男☆五瀬之月☆平成三十年(2018年)
第十二章 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)[p769/p757-p1034]

【二の紂枅屠瓩旅餡淡点[p769/p769-p777]

>p769-1行〜

 比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)を総司令官とする吉備の国遠征軍の船団は紀の川を下って瀬戸内海へ出ると一路播磨(はりま)の国加古川(かこがわ)へ向かったのである。

それは播磨の国加古川は神武東遷の時東征軍に協力して大功を立てた事代主命(ことしろぬしのみこと)の子孫丸部臣(わにべのおみ)の領土であり、
丸部臣(わにべのおみ)らは大和朝廷と極めて親密な間柄にあったからである。

 丸部臣(わにべのおみ)と言うのは船部臣(わにべのおみ)と言う意味であり、
丸部臣(わにべのおみ)はその姓の如く多くの船を持つ水軍

>p770

の將だったのである。
それで比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)は水軍の將であり大和朝廷とも親密な間柄にあった丸部臣(わにべのおみ)を頼って先ず加古川迄行き、
加古川を吉備の国遠征の前進基地とし、
更に丸部臣(わにべのおみ)の支配する水軍の協力を求める計画だったのである。

 古事記は大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)と弟の若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)が針間(はりま)の氷河前(ひかわのさき)に忌瓮(いはひへ)を据(す)えて、
針間(はりま)を道の口として吉備の国を言向(ことむ)け和(やは)したと書いてごまかし、
本当のことを消してしまった

>p771

のである。
それで古事記を信用して大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)は針間(はりま)の国迄行って氷河前(ひかわのさき)つまり現在の加古川市加古川町大野の日岡(ひをか)で神に祈り、
吉備の国を言向(ことむ)け和(やわ)した丈で実際に吉備の国へは行かなかったと解釈している人が大勢いるのである。

 更に古事記は大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は吉備上道臣(きびかみつみちのおみ)の祖、
若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)は吉備下道臣(きびしもつみちのおみ)、笠臣(かさのおみ)、
日子寤間命(ひこさめまのみこと)は針間牛鹿臣祖(はりまうじかのおみそ)、
日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)は高志利波臣(こしのとなみのおみ)、豊国国前臣(とよのくにさきのおみ)、五百原(いほはら)

>p772

君(のきみ)、角鹿済直(つぬがのわたりのあたひ)らの祖と書いているが、
大嘘である。

孝霊(こうれい)天皇皇子大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)が吉備氏の人々全体の祖であり、
若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)は大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の長男であり、
若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)の別名が日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)であり、
日子寤間命(ひこさめまのみこと)は大吉備津日子命の三男であり、
これらの人々の子孫のすべてが大吉備津日子命の子孫であり吉備氏の一族なのである。

また古事記は若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)の孫の若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)をわざと混同させて書いて同一

>p773

人物としてごまかしているのである。

 さて大吉備津日子命は播磨の国加古川で事代主命(ことしろぬしのみこと)の子孫丸部臣(わにべのおみ)の娘福媛命(ふくひめのみこと)を長男の若日子命(わかひこのみこと)の妃として迎えたのである。

比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)のことはこれより大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)と書くことにする。

そして若日子命(わかひこのみこと)は後年の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)である。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【二の紂枅屠瓩旅餡淡点p769-1行〜p773-7行より。

☆福田 扶士男☆五瀬之月☆平成三十年(2018年)
第十二章 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)[p773/p757-p1034]

【二の隋枅屠瓩旅餡淡点[p773/p769-p777]

>p773-8行〜

 加古川に滞在中に若日子命(わかひこのみこと)と福媛命(ふくひめのみこと)との間に男子が誕生した。

男子の名は福媛命(ふくひめのみこと)の祖先事代主命(ことしろぬしのみこと)のまたの名である伊狭狭辺命(いささべのみこと)に因(ちな)ん

>p774

で伊佐佐彦命(いささひこのみこと)と名付けられたのである。

伊佐佐彦命(いささひこのみこと)が生まれた年は西紀201年である。

そしてこの伊佐佐彦命(いささひこのみこと)が後年の西道將軍(せいどうしょうぐん)吉備津彦命(きびつひこのみこと)なのである。

 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)らは加古川に滞在中に吉備の国の阿曽郷(あそごう)新山(にいやま)の山城に立(た)て籠(こも)る温羅(うら)に使者を送り帰順する様に説得したけれども、
山城に籠り多くの部下を従えて勢力の盛んな温羅(うら)は帰順を拒否したのである。

温羅(うら)が飽く迄大和朝廷に反抗する気であることを確認した

>p775

上で、大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は武力を以って温羅(うら)を征伐することに決定したのである。

 大吉備津日子命らが加古川に滞在していた場所は現在の加古川市東神吉(ひがしかんき)町砂部(いさべ)であり、
砂部(いさべ)とは伊狭狭辺(いささべ)から変化した地名であり、
丸部臣(わにべのおみ)の祖先事代主命(ことしろぬしのみこと)の故郷出雲の国の五十狭狭(いささ)の浜に因んだ地名である。

伊佐佐彦命(いささひこのみこと)は加古川の豪族で事代主命(ことしろぬしのみこと)の子孫の丸部臣(わにべのおみ)の娘福媛命(ふくひめのみこと)を母として伊狭狭辺(いささべ)で生まれ、
伊佐佐彦命(いささひこのみこと)と名付けられたのである。

それで伊佐佐(いささ)

>p776

彦命(ひこのみこと)は加古川の人々にもよく知られ、
親しまれていたのである。

加古川市大野にある日岡神社の祭神は天伊佐佐彦命(あめのいささひこのみこと)となっているけれども、
それは丸部臣(わにべのおみ)の祖先伊狭狭辺命(いささべのみこと)こと事代主命(ことしろぬしのみこと)と西道(せいどう)將軍伊佐佐彦命(いささひこのみこと)の二人であり、
名が似ていることから混同させて一人にされたものであろうと思う。

 加古川滞在中に丸部臣(わにべのおみ)の協力によって吉備の国遠征の準備を整えた大吉備津日子命は遠征軍を率いて加古川を出港したのである。そ

>p777

れは201年の秋頃のことと思われるのである。

遠征軍の船団は吉備の国を目指して瀬戸内海を一路西へ進んだのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【二の隋枅屠瓩旅餡淡点p773-8行〜p777-3行より。

☆福田 扶士男☆五瀬之月☆平成三十年(2018年)
第十二章 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)[p777/p757-p1034]

【三の一】鬼(き)ノ城(じょう)攻防戦[p777/p777-p806]

>p777-4行〜

 遠征軍の船団は吉備の国の瀬尾(せのを)の明神崎(めょうじんざき)に到着した。

明神崎(めょうじんざき)と言う地名は大吉備津日子命の一行が最初にその地に上陸したことから後世に名付けられた地名であり、
その地方は瀬尾崎(せのをざき)と呼ばれていたのである。

温羅(うら)達の猛威に苦しんでいた吉備の国の人々は大和の国

>p778

から大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の遠征軍を率いて到着したことを心から歓迎したのである。

 さて鬼(き)ノ城(じょう)攻防戦を述べるに当たって先ず当時の吉備の国に就いて説明する必要があると思うのである。

現在の児島半島は当時は吉備(きび)の児島(こじま)と呼ばれる島であったことはよく知られている事実である。

そして吉備の児島と吉備の国との間は速吸門(はやすいなと)とも呼ばれてかなり潮流の速い海峡であり、
瀬戸内海を東西に往来する船にとっては重要な航路だったのであ

>p779

る。
当時の吉備の国の海岸線は現在のJR山陽線の鉄道沿線のあたりと言う説が大体正しいと言えよう。

 そして非常に重要なことは現在総社市から倉敷市水島へ向かって流れている高梁(たかはし)川が当時は川嶋(かわしま)川と呼ばれて総社市から東へ曲がり吉備津で二つに分かれ、
一つは吉備中山の西を南へ向かって流れ、
大吉備津日子命が最初に上陸した瀬尾崎(せのをざき)[現在は妹尾崎(せのをざき)]のあたりで瀬戸内海へ流れ込んでいたのである。

>p780

 もう一つは吉備津から現在の吉備中山の北を東へ向かって流れ、
備前一宮吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)の近くに河口があってそこで海へ流れ込んでいたのであり、
吉備中山と東の八坂山(やさかやま)との間は海だったのである。

また笹(ささ)ヶ瀬(せ)川の河口は現在の岡山市首部(こうべ)のあたりかもう少し北の方にあったと思われるのであり、
平津(ひらつ)、楢津(ならづ)などの地名は当時海岸の船着場のあった所であると考えられるのである。

 吉備中山の北を備前一宮吉備津彦神社の近

>p781

く迄流れていたのが川嶋(かわしま)川の本流であり、
現在のJR吉備線吉備津駅から東の一宮駅迄の鉄道沿線が丁度昔の川嶋川の川筋であったと考えてよいのである。

また吉備津で川嶋川本流から分かれて南へ向かって流れていたのが分流で昔は板倉(いたくら)川と呼ばれていたのである。

板倉川は現在の国道百八十号線眞金(まかね)十字路から南の旧国道二号線住吉口(すみよしぐち)に到る県道眞金(まかね)住吉線(すみよしせん)の西側を瀬尾崎(せのをざき)の方へ向かって流れていたのである。

>p782

 故に吉備中山と吉備中山の西に広がる吉備津の町は丁度川嶋川の川口にある島の様な状態だったのである。

普通大きな川の川口には三角洲(さんかくす)と呼ばれる島が出来るものであるが、
吉備の中山は三角洲ではなく、
昔は瀬戸内海中の島だったのである。

それが川嶋川がその島にぶつかって二つに分かれ、
島の西側に土砂を堆積(たいせき)して三角洲狀の陸地を作ったものであろう。

だから現在の吉備津の地は瀬戸内海中の島であった吉備中山と吉備中山の麓に川

>p783

嶋川が作った三角洲とが一つになって出来た陸地であり、
今から二千数百年前の縄文時代から人々が住みついていたのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命ァ攣阿琉譟杁乾両觜極廟p777-4行〜p783-3行より。

☆福田 扶士男☆五瀬之月☆平成三十年(2018年)
第十二章 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)[p783/p757-p1034]

【三の二】鬼(き)ノ城(じょう)攻防戦[p783/p777-p806]

>p783-4行〜

 そして吉備津から川嶋(かわしま)川を溯(さかのぼ)ると川嶋川の北に阿曽郷(あそごう)があり、
阿曽郷(あそごう)に新山(にいやま)と呼ばれる標高四百米位の𡸴(けわ)しい山があり、
その山の上に温羅(うら)が山城を築いて立(た)て籠(こも)り、
多くの手下を集めて海賊を働いていたのである。

新山の頂上からは瀬戸内海が一望のもとに見渡されるのであり、
瀬戸内海を航行する船が見付か

>p784

ると温羅の部下達が船で川嶋川を下って急襲し海賊を働いていたのである。

 大吉備津日子命は瀬尾崎で地元の人々から板倉川の上流に神奈備山(かむなびやま)と呼ばれる山があることを聞き、
神奈備山(かむなびやま)の麓に本陣を構えることにしたのである。

吉備中山は古来神奈備山(かむなびやま)と呼ばれ、
神の鎮まり給う山として吉備の国の人々から信仰の対象とせられていたのである。

それで大吉備津日子命は瀬尾崎(せのをざき)から板倉川を遡(さかのぼ)り、
吉備中山の麓に到着し、そこに陣

>p785

地を築くことにしたのである。

 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)が吉備中山の西の麓(ふもと)に本陣を築くことにしたのは地形上から見て重要な意味があったのである。

今の吉備津神社の北の僅か二三百米離れた当たりを川嶋(かわしま)川本流が東へ向かって流れていたのである。

そして吉備津神社から一粁程西を川嶋川の分流板倉川(いたくらがわ)が南へ向かって流れていたのである。

 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は吉備中山の西の麓に本陣を築くことによって板倉川と川嶋川本流の両

>p786

方を兵を以って封鎖し、
阿曽郷(あそごう)新山(にいやま)の温羅(うら)達の海への出口を遮断(しゃだん)しようとしたのである。

しかし大吉備津日子命は海のない大和の国に生まれて五十才になる迄大和の国に住んでいたのであるから配下に強力な水軍を持っていなかったのである。

それで大吉備津日子命は大和の国から吉備の国へ向かう途中、
播磨の国加古川に寄って事代主命(ことしろぬしのみこと)の子孫丸部臣(わにべのおみ)の支配する強力な水軍の協力を要謂したのである。

 丸部臣(わにべのおみ)は大吉備津日子命の要謂に快く応じ

>p787

彼の配下の加古川の水軍を率いて吉備の国へ従軍したのである。

瀬戸内海を航行する人々から恐れられていた海賊温羅(うら)の一味を征伐するには強力な水軍が必要だったのであり、
丸部臣(わにべのおみ)の率いる加古川の水軍の協力に依って大吉備津日子命は温羅(うら)達の海への出口を封鎖することに成功したのである。

 瀬戸内海を航行する船を襲って海賊を働いていた温羅(うら)達にとって川嶋(かわしま)川と板倉(いたくら)川を封鎖されて海への出口を失ったことは大打撃だっ

>p788

たのである。
大吉備津日子命は更に板倉川の西、
現在の倉敷市矢部の片岡山(かたおかやま)に楯築陣地(たてつきぢんち)を築き、
重臣犬飼建命(いぬかいたけるのみこと)らに守らせたのである。

川嶋川は昔からあばれ川と呼ばれ大雨が降るとしばしば洪水を起こしていたのである。

故に川嶋川や板倉川の近くの平地は危険であったから、
洪水の危険のない吉備中山の麓と片岡山に陣地を設けて洪水の危険を避けたのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命Α攣阿瞭鵝杁乾両觜極廟p783-4行〜p788-9行より。

☆福田 扶士男☆五瀬之月☆平成三十年(2018年)
第十二章 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)[p788/p757-p1034]

【三の三】鬼(き)ノ城(じょう)攻防戦[p788/p777-p806]

>p788-10行〜

 吉備中山本陣と片岡山(かたおかやま)の楯築陣地(たてつきぢんち)を以って

>p789

完全に海への出口を封鎖された温羅(うら)達は新山の山城で次第に生活に困窮(こんきゅう)して行った。

それで温羅(うら)の部下達は何とか局面を打開しようとして新山(にいやま)を下って楯築陣地(たてつきぢんち)や吉備中山本陣へ攻撃を仕掛けて来る様になったのである。

 吉備津神社の北隋神門(きたずいじんもん)の下に矢置岩(やおきいわ)と呼ばれる岩がある。

吉備津神社の社伝によれば大吉備津日子命がその岩の上に矢を置いて、
そこから阿曽新山(あそにいやま)の温羅(うら)に向かって矢を射ると温羅(うら)は岩を投げ、
大吉備津日子命が射た矢と

>p790

温羅(うら)が投げた岩とが空中でぶつかって落ちた所が現在の岡山市田中の国道百八十号線の北にある矢喰宮(やくひのみや)であると言う。

しかしこう言う大嘘の社伝などに騙されていると本当のことは判らなくなるのである。

 吉備津神社のあるあたり一帯は大吉備津日子命の築いた吉備中山本陣のあった所である。

そして矢置岩(やおきいわ)のある場所から二百米位西北が川嶋川本流の南岸だったのである。

阿曽郷(あそごう)新山(にいやま)の温羅(うら)の部下達は新山を下(くだ)って川嶋(かわしま)川を船

>p791

で下(くだ)り、吉備中山本陣の近くで岸に上り、
攻撃をしかけて来たことが度々あったのである。

それで大吉備津日子命は矢置岩(やおきいわ)の上に矢を置いて矢を射ながら応戦したのである。

 温羅(うら)の部下達は川嶋川を船で下って吉備中山本陣や楯築陣地へ何度も攻め寄せて来たのである。

それは彼らにとって海への出口を封鎖されたことは死活の問題だったからである。

それで彼らは必死になって吉備中山本陣と楯築陣地(たてつきぢんち)を攻略しようとして攻め寄せて来たの

>p792

である。
しかし必死の攻撃を何度も繰り返す度に彼らは船を失ない兵を失って弱体化し、
次第に追いつめられて行ったのである。

 大吉備津日子命は阿曽新山(あそにいやま)に対する包囲網を次第に縮めて行ったのである。

そして新山の山城へ通ずる道のすべてを封鎖し武器や兵糧などの搬入を断ってしまったのである。

それは阿曽新山は標高四百米の高さがあり、
山は𡸴(けわ)しく、
その上山の頂上には強固な山城を築いて多くの手下と立て籠(こも)っているのである

>p793

から、力づくで山城を攻略しようとすれば苦戦はまぬがれず、
味方に多大の損害をこうむることは避けられない狀態にあったからである。

それで大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は先ず川嶋川と板倉川を封鎖して温羅(うら)達の活動を封じ、
それから次第に阿曽新山(あそにいやま)への包囲網を縮めて温羅(うら)達の勢力の減殺(げんさい)を図ったのである。

 阿曽新山へ通ずる道をすべて封鎖されたことによって山上の温羅(うら)達の困窮は次第に激しくなって行った。

このまゝでは座して滅亡す

>p794

るのを待つのみと判断した温羅(うら)は遂に意を決して新山の山城を降り、
平地で大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)に決戦を挑(いど)もうとしたのである。

それは202年の夏、梅雨の頃であったと考えられるのである。

 阿曽新山を源とする血吸川と呼ばれる川があり、
当時は川嶋川の支流の一つだったのである。

そして血吸川の東には大きな湿地帯或は沼地が存在していたのである。

それは今から三千年以上昔はそのあたりが瀬戸内海の一

>p795

部であり、
川嶋川が上流から運んで来た土砂によって周囲は次第に埋め立てられて行ったけれども、
所々に昔の海の名残りの沼や湿地帯が残っていたのである。

後世の豊臣秀吉の水攻めで名高い備中高松城のあったあたりも古代の海の名残りをとどめた湿地帯だったものと考えられるのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命А攣阿了亜杁乾両觜極廟p788-10行〜p795-7行より。

☆福田 扶士男☆五瀬之月☆平成三十年(2018年)
第十二章 大吉備津日子命 (おほきびつひこのみこと) [ p795/p757-p1034 ]

【 三の四 】 鬼(き)ノ城(じょう)攻防戦 [ p795/p777-p806 ]

>p795-8行〜

 その沼地を挟(はさ)んで西側に新山から降りて来た温羅(うら)の軍勢、
東側に大吉備津日子命の軍勢が対持(たいじ)したのである。

そして双方が沼を挟ん

>p796

で激しく矢を射合ったものと思われるのである。

しかし温羅(うら)の軍勢は矢が乏しくなって石つぶてを投げて応戦したかも知れないのである。

それで大吉備津日子命の射た矢と温羅の投げた岩が空中で喰い合って矢喰宮のある場所に落ちたと言う話をでっちあげたものであろう。

そして中には実際に矢と石が喰い合って沼の中に落ちた例も一つか二つ位あったかも知れないのである。

 さて大吉備津日子命が矢を射るとその度に

>p797

温羅が岩を投げ、
それが空中で喰い合って落ちたので、
大吉備津日子命は中山主神(なかやまぬしのかみ)の教えに従って一度に二本の矢をつがえて射た所その一本が温羅(うら)の左目を射抜き、
それがもとで温羅は重傷を負い、
温羅(うら)の軍は総くずれになったと言われている。

 しかしその話はもっともらしい大嘘である。

大吉備津日子命は長子の若日子命と同時に温羅(うら)に向かって矢を射たのである。

それで大吉備津日子命の射た矢は温羅(うら)の左目を射抜き、

>p798

若日子命(わかひこのみこと)の射た矢が温羅(うら)の肩を射抜いたのである。

一度に二本の矢を受けて温羅(うら)は重傷を負い、
そのために温羅(うら)の軍勢は総くずれとなったのである。

 若日子命はその時の戦いで温羅(うら)の肩を矢で射抜く手柄を立てたから日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)と言う異名を奉られたのである。

それを後世古事記を書く時に太安万侶(おほのやすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)が共謀して日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)を別人とし、
いずれも孝霊(こうれい)天皇の皇子と言うことにし

>p800

て大嘘の系図をでっちあげた次第である。

 総大將の温羅(うら)が重傷を負ったため温羅(うら)の部下達は温羅を守って退却しようとしたけれども、
阿曽新山(あそにいやま)へ到る道はすでに大吉備津日子命の軍勢によって断たれていたのである。

それで温羅の部下達は船で川嶋川を下って海へ脱出しようとしたけれども川嶋川も板倉川も丸部臣(わにべのおみ)らの水軍によって守られていたために海へ脱出することは出来なかったのである。

 それで温羅(うら)を守って部下達は板倉川の西岸

>p801

に上陸し、
陸路を西へ落ち延びようとしたのであるが、
彼らの行く手には犬飼建命(いぬかいたけるのみこと)の守備する楯築陣地(たてつきぢんち)があり、
遂に温羅(うら)と部下達は大吉備津日子命の軍勢に包囲され、
降伏するしかなくなったのである。

温羅(うら)は大吉備津日子命に降伏した後死んだのである。

温羅(うら)が死んだ場所は現在の倉敷市矢部の鯉喰神社(こいくいじんじゃ)のあるあたりである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 三の四 】 鬼ノ城攻防戦 p795-8行〜p801-8行より。

☆ 福田 扶士男 ☆ 五瀬之月 ☆平成三十一年(2019年)
第十二章 大吉備津日子命 (おほきびつひこのみこと) [ p800/p757-p1034 ]

【 三の五、終】 鬼(き)ノ城(じょう)攻防戦 [ p800/p777-p806 ]

>p800-9行〜

 大吉備津日子命は温羅(うら)達の降伏を許すと共に温羅(うら)の妻子や部下達に吉備の国に永住する

>p801

ことを認め、
彼らに新しい吉備の国の国造(くにづく)りのために活躍する場所と機会を与えたのである。

大吉備津日子命の温情ある図らいに感激した温羅の妻子や部下達は心から大吉備津日子命に忠誠を尽くし、
新しい吉備の国の国造りに協力することを誓ったのである。

かくして漸く吉備の国に平和が訪づれて来たのである。

それは世紀202年の夏のことである。

 さて大吉備津日子命が温羅(うら)と戦っていた頃中山主神(なかやまぬしのかみ)から教えを受けたり加護を受けたり

>p802

したことが伝えられている。

中山主神(なかやまぬしのかみ)とは吉備中山の主(ぬし)なる神と言う意味である。

吉備中山の主なる神とは大吉備津日子命が吉備の国へ来る前から吉備中山に鎮(しず)まり給うて居られた天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことである。

 大吉備津日子命の陵墓のある茶臼山(ちゃうすやま)の北に天柱山(てんちゅうざん)と呼ばれる峯がある。

天柱山の頂上には古代の祭祀の跡である風化した石の祠(ほこら)があり、
磐境(いわさか)と呼ばれる三つの岩が信仰の対象となっている。

この三つの岩が造化三神(ぞうかさんしん)即ち宇

>p803

宙を創造せられた大神である天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の三柱(みはしら)の神が降りて来られる聖なる場所であると考えられるのである。

そして磐境(いわさか)の少し下、
天柱(てんちゅう)山の中腹に巨大な石碑が立てられて居り、
石碑には「天柱(てんちゅう)」の二文字が刻まれているのである。

それで山の名を天柱山(てんちゅうざん)と呼ぶのである。

 しかし吉備中山の一つの峯である天柱山の中腹にある巨大な石碑がいつ頃、
誰が、
何のために建造したのかと言うことについて知っ

>p804

ている人はいないのである。

天柱の二文字は中国の道教の聖地天柱山(てんちゅうざん)を表わしているのである。

そして道教の神が即ち天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)なのである。

天柱の二文字を刻んだ巨大な石碑は温羅(うら)の居城のあった阿曽郷(あそごう)新山(にいやま)に向けて立てられているのである。

その点から考えて天柱山の石碑は温羅を征伐するに当たって大吉備津日子命が戦勝を祈願して西北方の阿曽郷新山の方へ向けて建立したものと断定出来るのである。

>p805

 しかし三世紀初頭の日本ではまだ文字が使用されていなかったのであるから天柱の二文字を刻んだ石碑はもっと後世に建造せられたものと考える人が多いであろう。

しかし天柱の二文字を刻んだ石碑は日本人が建てたものではなく、
当時戦乱の中国を逃れて日本へ亡命して来ていた中国人の天師道(てんしどう)の布教師の如き人が大吉備津日子命の依頼によって戦勝祈願、
温羅(うら)調伏の目的で阿曽新山の方角へ向けて石碑を建てたものと断定するのである。

>p806

 そして吉備中山本陣のあたりからは西北にある鼓(つづみ)山に遮(さえぎ)られて阿曽新山は見えないのである。

それで大吉備津日子命は作戦を練るためにしばしば天柱山に登っていたのである。

天柱山頂上からは阿曽新山も新山の南を流れる川嶋川も一望のもとに見渡すことが出来たのである。

その様な関係で大吉備津日子命は阿曽新山を見渡すことの出来る天柱山中腹に戦勝祈願と温羅(うら)調伏を神に祈って天柱の二文字を刻んだ石碑を建てたものと思うのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 三の五、終】 鬼ノ城攻防戦 p800-9行〜p806-10行より。

☆平成三十一年(2019年)
☆ 福田 扶士男 ☆ 五瀬之月
第十二章 大吉備津日子命 (おほきびつひこのみこと) [ p807/p757-p1034 ]

【 四の一】阿曽郷(あそごう)の神官と温羅(うら) [ p807/p807-p822 ]

>p807-1行〜

 吉備の国の歴史では温羅は百済(くだら)の王子で阿曽郷新山(あそごうにいやま)に山城を築き、
瀬戸内海を航行する船を襲っては海賊を働いたために四道將軍(しどうしょうぐん)吉備津彦命(きびつひこのみこと)に退治せられたことになっている。

そして温羅(うら)の妻は阿曽(あそ)郷の神官の娘と伝えられているのである。

しかし温羅(うら)が百済(くだら)の王子と言うのは正しくないのであり、
温羅(うら)が垂仁(すいにん)天皇の時代に吉備の国へ来たと言うのは大嘘であり、
四道將軍(しどうしょうぐん)吉備津彦命(きびつひこのみこと)に退治せられた

>p808

と言うのも嘘である。

 温羅(うら)の妻が阿曽郷(あそごう)の神官の娘阿曽媛(あそひめ)と言うのは本当であるが、
阿曽媛(あそひめ)の父は一体いかなる素性の人であったかと言うことについては何も判っていないのである。

現在では阿曽(あぞ)と言われているけれども、
昔は阿曽(あそ)と呼ばれていたのである。

岡山県総社市阿曽(あぞ)に阿宗(あそ)神社がある。

地元の人々は阿宗(あぞ)神社と言っている様であるが阿宗(あそ)神社と読むのが本当である。

 阿曽(あそ)の地名は九州の熊本県の阿蘇山(あそざん)に因ん

>p809

でいるのである。
温羅(うら)の妻阿曽媛(あそひめ)の父阿曽(あそ)郷の神官は阿蘇山のあたりから吉備の国へ移住して来た人か、
その子孫に当たるのである。

熊本県阿蘇郡一の宮町に阿蘇(あそ)神社がある。

阿蘇(あそ)神社の祭神は神武(じんむ)天皇の孫建磐龍命(たけいわたつのみこと)と一族の人々である。

建磐龍命(たけいわたつのみこと)が神武天皇の孫であると言うことは多芸志美美命(たぎしみみのみこと)の子と言うことであろうと思うけれども、
天孫系の人々の系図は殆ど消されてしまったために明らかではないのである。

>p810

 建磐龍命(たけいわたつのみこと)は阿蘇(あそ)に住んでその地方を治め、
子孫は代々阿蘇神社の神官として繁栄したのである。

そして建磐龍命(たけいわたつのみこと)の子孫、
阿蘇(あそ)神社の神官の一族の人が吉備の国へ移住して来て、
川嶋川流域の阿曽郷(あそごう)を開いたのであり、
彼らは故郷の阿蘇(あそ)に因んで自分達の開拓した土地を阿曽郷(あそごう)と名付け、
その土地にある山の名を阿蘇(あそ)の新山(にいやま)と名付けたのである。

だから阿曽新山(あそにいやま)は「新しい阿蘇(あそ)山」と言う様な意味なのである。

>p811

 現在の岡山市加茂(かも)に上加茂神社(かみかもじんじゃ)と呼ばれる神社があり、
神武(じんむ)天皇が祀られている。

吉備の国の片田舎(かたいなか)に神武(じんむ)天皇を祀る古い神社があると言うことは不思議な気がするが、
決して故(ゆえ)なきことではないのである。

私は阿曽郷(あそごう)の神官らの祖先が神武(じんむ)東征の時八年も滞在していた吉備の国へ移住して来て、
先ず川嶋川流域の加茂の地に住みついてそこに神武(じんむ)天皇を祀る上加茂(かみかも)神社を建てたのではないかと思うのである。

>p812

 その後彼らは阿曽郷へ移住して阿宗(あそ)神社を建てたものであろう。

だから吉備の国の阿宗(あそ)神社は熊本県の阿蘇(あそ)神社の分社の様なものである。

そして阿曽(あそ)郷の神官らは神武天皇の孫建磐龍命(たけいわたつのみこと)の子孫だったのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 四の一】 阿曽郷の神官と温羅 p807-1行〜p812-5行より。

☆平成三十一年(2019年)
☆ 福田 扶士男 ☆ 五瀬之月
第十二章 大吉備津日子命 [ p812/p757-p1034 ]

【 四の二】阿曽郷の神官と温羅 [ p812/p807-p822 ]

>p812-6行〜

 次に温羅(うら)が百済(くだら)の王子と言うことは正しくはないのである。

何故ならば温羅(うら)が死んだ年は202年であり、
百済(くだら)の国が正式に成立したのは肖古王(しょうこおう)が即位した346年であり、
温羅(うら)の時代には百済(くだら)の国は存在しなかったこと

>p813

になっているのである。
故にその点では温羅(うら)が百済(くだら)の王子であると言うのは嘘であると言えるのである。

 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の時代の南朝鮮には馬韓(ばかん)、
弁韓(べんかん)、辰韓(しんかん)と呼ばれる所謂(いわゆる)三韓(さんかん)が存在していたのである。

そして辰韓(しんかん)が後世の新羅(しんら)となり、
弁韓(べんかん)が任那(みまな)となり、
馬韓(ばかん)が百済(くだら)となったと言われているのである。

だから百済(くだら)の肖古王(しょうこおう)が即位した346年以前にはそこに馬韓(ばかん)の国があったのである。

私は馬韓(ばかん)の王家の子孫の肖(しょう)

>p814

古王(こおう)が百済(くだら)の国を建てたのだと信じるのである。

だから温羅(うら)は馬韓(ばかん)の王子だったのだと思うのである。

従って温羅(うら)を百済(くだら)の王子と言うのは正しくはないけらども、
温羅(うら)が馬韓(ばかん)の王子であり百済(くだら)王家の祖先の一族であったことはまぎれもない事実なのである。

 百済(くだら)王家は北朝鮮の高句麗(こうくり)王家と同祖と言われている。

多分大和朝廷の神武(じんむ)天皇が即位した頃と同じ位の頃に高句麗(こうくり)王家の一族が南朝鮮へ移住して来て馬韓(ばかん)の国を建てたもので

>p815

あろうと思う。
だから馬韓(ばかん)の国と百済(くだら)の国との違いは倭(やまと)の国と言うのと日本(にっぽん)の国と言うのとの違いと同じで国の名は違っても同じ王家の子孫が国を治めていたのである。

 さて神武(じんむ)東遷の頃から北九州と南朝鮮とは神武(じんむ)天皇の兄稲飯命(いないいのみこと)の領土であり、
稲飯命(いないいのみこと)の子孫の人々が北九州と南朝鮮を治めていたのである。

そして後世の新羅(しんら)王家は稲飯命(いないいのみこと)の子孫であり、
任那(みまな)の諸王家の中にも稲飯命(いないいのみこと)の子孫の家系があったのである。

また馬韓(ばかん)王家は

>p816

北朝鮮の高句麗(こうくり)王家の同族であるから血統は違うけれども稲飯命(いないいのみこと)の子孫の支配下にあったことは間違いないのである。

 その様な関係から稲飯命(いないいのみこと)の子孫と馬韓(ばかん)王家との間に婚姻関係があったのではないかと私は思うのである。

多分馬韓(ばかん)の王子温羅(うら)の体内には母系を通じて稲飯命(いないいのみこと)の系統の血が流れていたのだと思うのである。

それで温羅(うら)は母系の祖先の国日本へあこがれ、
九州へ渡って来たのだと思うのである。

温羅(うら)は最初に日向の

>p817

国へ行ったと伝えられている。

それは天孫降臨の地や稲飯命(いないいのみこと)や神武(じんむ)天皇らが元住んでいた土地などを訪ねるためではなかったであろうか。

そして温羅(うら)は阿蘇(あそ)へも行って神武天皇の孫建磐龍命(たけいわたつのみこと)の子孫とも会い、
阿蘇(あそ)神社の神官から自分達の同族が吉備の国阿曽郷(あそごう)に住んでいると言う話を聞き、
阿曽郷(あそごう)の神官への紹介を受けて阿曽(あそ)郷へ訪ねて来たものであろう。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 四の二】 阿曽郷の神官と温羅 p812-6行〜p817-8行より。

☆平成三十一年一月( 2019年 )
☆ 福田 扶士男 ☆ 五瀬之月
第十二章 大吉備津日子命 [ p817/p757-p1034 ]

【 四の三、終】阿曽郷の神官と温羅 [ p817/p807-p822 ]

>p817-9行〜

 温羅(うら)は日本の国のどこかに新天地を求めてやって来たのである。

しかし日向の国には永

>p818

住するにふさわしい所が見付からなかったものであろう。

その点吉備の国は気候も温和で開拓に適した土地が多かったと言えよう。

それで温羅(うら)は日向から吉備の国阿曽郷を目指してやって来たのだと思う。

 阿曽郷の神官は同族の阿蘇(あそ)神社の神官の紹介で訪ねて来た温羅(うら)を見て、
温羅(うら)が異国の人ではあるけれども優れた人物であると見込んで阿曽(あそ)郷に住むことを認め、
更に娘の阿曽媛(あそひめ)を温羅(うら)の許へ嫁がせたものと思うのである。

>p819

 少なくとも温羅(うら)が最初から侵略者として阿曽(あそ)郷へ入って領土を奪い、
阿曽(あそ)郷の神官の娘を奪って無理に妻にしたとは考えられないのである。

温羅(うら)は吉備の国の歴史では極悪非道な鬼の様な人物と言われているけれどもそうではないのである。

温羅(うら)は優れた築城家であり武芸の達人でもあったのである。

 温羅(うら)が大和朝廷から憎まれたのは西国から大和朝廷へ送る貢物を奪ったことである。

多分温羅(うら)は吉備の国に自分達の国を造ろうとし

>p820

て軍資金集めの目的で海賊を働いたものであろう。

だから本当はそれ程兇悪な人物ではなかったのである。

それを後世吉備の国の本当の歴史を消したりごまかしたりする必要から温羅(うら)を極悪非道な人物と言うことにしたのである。

だから温羅(うら)は非常に損をしているのである。

 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)が温羅(うら)の妻子や部下を許して吉備の国に永住することを認め、
更に彼らに新しい吉備の国の国造(くにづく)りのために協力し活

>p821

躍する場所と機会を与えたことで彼らは非常に感激し、
吉備の国の発展のために大いに活躍したのである。

そして馬韓(ばかん)の国の王子の温羅(うら)の子孫や部下達が大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)に優遇せられて活躍していることが馬韓(ばかん)の国へ伝えられて、
馬韓(ばかん)の人々が希望の新天地を求めて続々と吉備の国へ移住して来る様になったのである。

 大吉備津日子命は大陸の先進文化や優れた技術などを輸入して吉備の国の発展を図ろう

>p822

と努力したのである。
吉備の国が大和の国と肩を並べる程富強であったのは、
大吉備津日子命が大和の国に先(さき)んじて大陸の先進文化や技術を取り入れるために努力したからである。

 そして吉備の国の発展のために温羅(うら)の子孫や部下の人々が果たした役割は非常に大きくその功績も大きかったのである。

またその頃の阿曽(あそ)郷は温羅(うら)の子孫や部下達の本拠となり、
鉄工業などの発展で日本の先進工業地帯として栄えていたのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 四の三、終】 阿曽郷の神官と温羅 p817-9行〜p822-10行より。

☆平成三十一年一月( 2019年 )
☆ 福田 扶士男
☆ 五瀬之月
第十二章 大吉備津日子命 [ p823/p757-p1034 ]

【 五の紂杙彰(さぬき)の国平定 [ p823/p823-p830]

>p823-1行〜

 吉備の国を平定した大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は吉備児島(きびのこじま)の南の島々の海賊を退治して瀬戸内海の航行の安全を図ると共に讃岐の国を平定したのである。

それは202年の秋から203年にかけてのことである。

讃岐の国の平定が終わると大吉備津日子命は吉備津へ帰ることになり、
若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)夫妻が讃岐の国へ残って治安を維持することになったのである。

 高松市の讃岐一宮(さぬきいちのみや)田村神社(たむらじんじゃ)には倭迹迹日百(やまとととひもも)

>p824

襲媛命(そひめのみこと)、大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、天香語山命(あめのかぐやまのみこと)、天板根命(あめのいたねのみこと)の5柱の神が祀られている。

しかしその理由について知る人はいないのである。

倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)はその当時の天皇であり、
大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は天皇の弟であり讃岐の国の賊を退治して讃岐を平定したのである。

猿田彦命(さるたひこのみこと)は天孫降臨の時代に北九州の長崎県にあった千綿国(ちまたこく)から伊勢の国へ移住する際に讃岐の国へ寄ってそこを開拓したのである。

 だから讃岐の国を最初に開拓した功労者が

>p825

猿田彦命(さるたひこのみこと)なのであり、
すでに述べた如く讃岐(さぬき)の地名そのものも猿田彦命(さるたひこのみこと)の故郷千綿国(ちまたこく)の彼杵(そのき)がなまったものである。

また天香語山命(あめのかぐやまのみこと)は猿田彦命(さるたひこのみこと)の子孫で西紀前に北九州にあった邪馬台国(やまたこく)の国王饒速日命(にぎはやひのみこと)の子であり、
饒速日命(にぎはやひのみこと)が出雲の八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)らと戦って敗れ、
河内の国へ移った時、
天香語山命(あめのかぐやまのみこと)は邪馬台国(やまたこく)を去って讃岐の国に住んでいたのである。

 天香語山命(あめのかぐやまのみこと)は神武(じんむ)東征の頃には熊野へ移住していたのであり、
熊野で神武(じんむ)天皇に協力し

>p826

た功績で葛域国造(かづらきのくにのみやつこ)に任じられ、
更にその子孫は尾張の国を領土に与えられて尾張氏として栄えたのである。

しかし天香語山命(あめのかぐやまのみこと)が讃岐の国に住んでいた期間は長くてせいぜい十年余りぐらいのものではないかと思うのである。

田村神社に天香語山命(あめのかぐやまのみこと)が祀られている理由は歴史からは消されているけれども、
天香語山命(あめのかぐやまのみこと)の子の一人が讃岐の国に住みついて大吉備津日子命の時代迄その地を支配していたからではないかと思うのである。

そして天板根命(あめのいたねのみこと)

>p827

が天香語山命(あめのかぐやまのみこと)の子孫だったのではないかと思うのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 五の 】 讃岐の国平定 p823-1行〜p827-2行より。

☆平成三十一年一月( 2019年 )
☆ 福田 扶士男 ( Fujio_Fukuda )
☆ 五瀬之月 ( Itsuse_Tsuki )☆ 苅場 ( Kariba )
第十二章 大吉備津日子命 [ p827/p757-p1034 ]

【 五の隋杙彰(さぬき)の国平定 [ p827/p823-p830]

>p827-3行〜

 さて讃岐の国に住む様になってから若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)と福媛命(ふくひめのみこと)との間に二番目の子が生まれたのである。

若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)の長男は加古川で生まれた伊佐佐彦命(いささひこのみこと)で後年四道將軍(しどうしょうぐん)吉備津彦命(きびつひこのみこと)となったのであり、
次男は鶴彦命(つるひこのみこと)で後年初代の讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)となったのである。

鶴彦命(つるひこのみこと)の妃となった女性が讃岐の国の豪族で猿田彦命(さるたひこのみこと)の子孫、
天香語山命(あめのかぐやまのみこと)の子孫と

>p827

考えられる天板根命(あめのいたねのみこと)の娘国方媛命(くにかたひめのみこと)である。

香川県には国方(くにかた)、
造田(ぞうた)と言う姓があるが、
その姓の家は讃岐の国の豪族であった天板根命(あめのいたねのみこと)の子孫であると思うのである。

そして天板根命(あめのいたねのみこと)が讃岐一宮(さぬきいちのみや)田村神社(たむらじんじゃ)に祀られている理由は、
天板根命(あめのいたねのみこと)の娘国方媛命(くにかたひめのみこと)が大吉備津日子命の孫で初代讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)となった鶴彦命(つるひこのみこと)の妃であったからである。

 若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)は阿曽(あそ)新山の温羅(うら)が退治されて間もなく讃岐の国へ渡り、
讃岐の

>p827

国を平定して数年間をそこで暮らしていたのである。

そして讃岐の国の平定には若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)が大いに活躍したのである。

それで若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)は讃岐の国の人々にはよく知られ、
また尊敬されていたのである。

讃岐の国には若日子建吉備津日子命に関する伝説が多く残って居り、
更に讃岐の国には若日子建吉備津日子命を祀る神社が何ヶ所もあるのはそのためである。

しかし若日子建吉備津日子命が吉備の国に住んでいた期間は

>p827

極く僅かであり、
温羅(うら)退治の時に活躍したこと以外には吉備の国に於ける若日子建吉備津日子命の事績は殆どないのである。

讃岐の国には若日子建吉備津日子命に関する伝説が沢山あり、
祀る神社も何ヶ所もあるにもかゝわらず、
吉備の国には若日子建吉備津日子命の伝説や祀る神社がないのはそのためである。

若日子建吉備津日子命が大吉備津日子命に会うために讃岐の国から吉備の国へ来たと言う話が僅かに伝わっているのみである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 五の 】 讃岐の国平定 p827-3行〜p830-10行より。

☆平成三十一年二月( 2019年 )
☆ 福田 扶士男 ( Fujio_Fukuda )
☆ 五瀬之月 ( Itsuse_Tsuki )☆ 苅場 ( Kariba )
第十二章 大吉備津日子命 [ p831/p757-p1034 ]

【 六の 】但馬(たじま)の国と丹波(たには)の国平定 [ p831/p831-p838]

>p831-1行〜

 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)が讃岐の国を平定し、
長子の若日子命(わかひこのみこと)夫妻を讃岐の国に残して吉備津へ帰ったのは203年のことである。

そして吉備津の宮に落付く間もなく大吉備津日子命は吉備の国の東方、
但馬(たじま)の国と丹波(たには)の国の平定のために遠征の途についたのである。

今度は妃の細媛命(ささひめのみこと)と二男の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)らが同行したのである。

 その頃は大和朝廷が成立してからやっと二

>p832

百年余り経ったばかりであり、
都から遠く離れた地方には朝廷に従わない豪族も多かったのである。

播磨(はりま)の国は加古川の豪族丸部臣(わにべのおみ)らが大和朝廷と親密な関係にあったけれども、
但馬(たじま)の国や丹波(たには)の国の西の方には朝廷に従わない豪族もいたのである。

それで大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は但馬(たじま)、丹波(たには)の遠征を決行することにしたのである。

 但馬(たじま)の国から
丹波の国へ行った道順は今は判らないが播磨の国迄は海路を船で行き、播

>p833

磨の国から陸路で但馬(たじま)の国へ入り、
但馬の国の日本海沿岸を丹波(たには)の国の竹野(たけの)迄行ったのである。

兵庫県の日本海沿岸で城崎(きのさき)の近く、
京都府との県境に近い所に気比(けひ)と呼ばれる土地がある。

気比(けひ)は本来は気比(きび)(吉備(きび)の意)と読むべき地名であって、
大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)が但馬の国、
丹波の国へ遠征した時にしばらく滞在したゆかりの土地であるから気比(きび)と呼ばれていたのである。

 気比(きび)と言う地名は日本海沿岸に何ヶ所かあ

>p834

ると思うが、
福井県敦賀(つるが)市の気比(けひ)神宮も本来は気比(きび)神宮(じんぐう)であり、
吉備氏の人々を祀る神宮であったものを、
古事記、日本書紀を書く時わざと気比(けひ)と読ませることにして吉備氏とのつながりを消してごまかしたのである。

気比(けひ)の地名は気比(きび)と読むべきものであり、
吉備氏の人々にゆかりの土地なのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 六の 】 但馬の国と丹波の国平定 p831-1行〜p834-7行より。

☆平成三十一年二月( 2019年 )
☆ 福田 扶士男 ( Fujio_Fukuda )
☆ 五瀬之月 ( Itsuse_Tsuki )
☆ 苅場 ( Kariba )
第十二章 大吉備津日子命 [ p834/p757-p1034 ]

【 六の 】但馬(たじま)の国と丹波(たには)の国平定 [ p834/p831-p838]

>p834-8行〜

 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は丹波の国竹野(たけの)で丹波(たには)大県主由基理(おほあがたぬしゆきり)の娘竹野媛(たけのひめ)を次男の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の妃として迎えたのである。

それは204年のこ

>p835

とであり、
彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)と竹野媛(たけのひめ)との間に生まれた長子が丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)と言うのは後年四道將軍の一人として丹波に派遣せられたことから付けられた尊称であって本名ではないのである。

四道將軍丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の本来は伊理泥命(いりねのみこと)と言うのであり、
誕生は205年と考えられるのである。

伊理泥命(いりねのみこと)は丹波の竹野で生まれた可能性もあるが、
大吉備津日子命夫妻と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)夫妻らが丹波の国から吉備の国へ帰って後、
吉備津の宮で生ま

>p836

れた可能性もあるけれども、
今の所はっきりとは判らないのである。

 彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)は大吉備津日子命と妃の細媛命(ささひめのみこと)との間に生まれた次男であったにもかゝわらず、
古事記と日本書紀は開化(かいか)天皇の皇子としてごまかしたのである。

そして彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の妃である丹波(たには)大県主由基理(おほあがたぬしゆきり)の娘竹野媛(たけのひめ)を開化(かいか)天皇妃としてごまかしたのである。

その上更に彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の長男丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)を開化(かいか)天皇皇子彦坐王(ひこいますのみこ)としてごまかしたのである。

>p837

 開化(かいか)天皇こと稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおほひひのみこと)は孝霊(こうれい)天皇の皇子であり大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の同母兄であったが、
病弱な方であったために子女は一人もいなかったのである。

しかるにそれを良いことにして太安万侶(おほのやすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)の二人が兇賊饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る磯城県(しきのあがた)の坐神社(にますじんじゃ)の名を取って彦坐王(ひこいますのみこ)と言う仮空の皇子をでっちあげて大嘘の歴史や系図を書いたのである。

日本書紀は垂仁紀(すいにんき)に丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)のことを「一に去はく、彦湯産隅王(ひこいますのみこ)の子なり」としてそれとなく本当

>p838

のことを書いてごまかしているのである。

 稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおほひひのみこと)が都から遠く離れた丹波の国竹野の女性を妃に迎える訳はないのであるがその様な嘘に気付いた歴史学者はいないのである。

大吉備津日子命が但馬(たじま)の国と丹波の国を平定したことによって吉備の国と大和の国の間の国々はすべて大和朝廷の支配下に入り、
秩序が保たれ、
国内が平和になったのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 六の 】 但馬の国と丹波の国平定 p834-8行〜p838-9行より。

☆平成三十一年二月( 2019年 )
☆ 福田 扶士男 ☆ 五瀬之月 ☆ 苅場
第十二章 大吉備津日子命 [ p839/p757-p1034 ]

【 七の一 】伯耆(はくき)の国平定 [ p839/p839-p866]

>p839-1行〜

 但馬(たじま)の国、丹波(たには)の国を平定して吉備津へ帰った大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)はそれからしばらくして吉備の国の北部と伯耆(はくき)の国の賊を征伐するために再び遠征の途についたのである。

今度は吉備津を流れる川嶋川を遡(さかのぼ)り、
今の岡山県西北部や伯耆(はくき)の国を平定するのが目的だったのである。

 大吉備津日子命が吉備津を出発したのは206年頃のことである。

この時の遠征には妃

>p840

の細媛命(ささひめのみこと)、長子の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)と妃の福媛命(ふくひめのみこと)、
二男の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)と妃の竹野媛命(たけのひめのみこと)らも従軍していたのである。

大吉備津日子命は川嶋川の支流小田川の上流、
今の小田郡矢(や)掛町のあたりに住んでいた賊を退治し、
更に川嶋川を遡って今の新見(にいみ)市の近くの石蟹郷(いしがごう)に住んでいた賊を退治し、
伯耆(はくき)の国日野郡(ひのぐん)、今の鳥取県日野郡地方に兵を進めたのである。

 そして伯耆(はくき)の国の各地に転戦して賊を退治したのであるが、
今の日野郡日南町宮内で大

>p841

吉備津日子命の妃である細媛命(ささひめのみこと)が死去したのである。

死去の原因は病死ではなく、
賊の奇襲による戦死と考えられるのである。

それで細媛命(ささひめのみこと)は近くの眞礼峯(まれのみね)に葬られたのである。

 その時大吉備津日子命と細媛命(ささひめのみこと)が住んでいた宮の跡に後世神社が建てられたのである。

今の日野郡日南町宮内にある楽楽福(ささふく)神社二社がそれである。

楽楽福(ささふく)神社は川を隔(へだ)てて東の宮と西の宮とがあり、
東の宮の祭神は若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)、大日本根子彦太瓊命(おほやまとねこひこふとにのみこと)、
細媛命(ささひめのみこと)、福(ふく)

>p842

媛命(ひめのみこと)、合祭倉稲魂命(うかのみたまのみこと)となって居り、
西の宮の祭神は大吉備津彦命(おほきびつひこのみこと)、大日本根子彦太瓊命(おほやまとねこひこふとにのみこと)、細媛命(ささひめのみこと)、彦狭島命(ひこさじまのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、大山祇命(おほやまつみのみこと)となっているのである。

 どの神社に誰を祀ろうとそれについてとやかく言う必要はないが、
楽楽福(ささふく)神社の祭神はどう考えても納得出来ないのである。

社伝などによれば孝霊(こうれい)天皇が皇后細媛命(ささひめのみこと)や皇子の彦狭島命(ひこさじまのみこと)と共に伯耆(はくき)の国へ行幸され、
その地方の賊を退治されたことになっているが、
孝霊(こうれい)

>p843

天皇が伯耆(はくき)の国へ行幸されたと言うのは全くの大嘘なのである。

何故この様な大嘘の社伝をでっちあげたのかと言うと、
大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の妃であった細媛命(ささひめのみこと)を孝霊(こうれい)天皇の皇后と言うことにして大嘘の系図をでっちあげたからである。

 即ち孝霊(こうれい)天皇の皇后細媛命(ささひめのみこと)の御陵が何故伯耆(はくき)の国の山の中にあるのかと言われると返答の仕様がないからである。

それで古事記や日本書紀を書いた時に孝霊(こうれい)天皇が皇后細媛命(ささひめのみこと)や

>p844

皇子彦狭島命(ひこさじまのみこと)らを連れて伯耆(はくき)の国を行幸されたと言う全くありもしない社伝をでっちあげてごまかしたのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 七の一 】 伯耆(はくき)の国平定 p839-1行〜p844-3行より。

☆平成31年2月( 2019年 )
☆ 福田 扶士男 ☆ 五瀬之月 ☆ 苅場
第十二章 大吉備津日子命 [ p844/p757-p1034 ]

【 七の二 】伯耆(はくき)の国平定 [ p844/p839-p866]

>p844-4行〜

 楽楽福(ささふく)神社の社名は大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の妃である細媛命(ささひめのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)の妃である福媛命(ふくひめのみこと)の二人の女性の名を取ってつけられているのである。

細媛命(ささひめのみこと)の兄の名が樂樂森彦命(ささもりひこのみこと)である。

だから細媛命(ささひめのみこと)も元は楽楽媛命(ささひめのみこと)と書いていたものを、
系図をごまかすために大吉備津日子命妃楽楽媛命(ささひめのみこと)を孝霊(こうれい)天皇皇后として

>p845

ごまかしたことがばれない様にしようとしてわざと字を変え細媛命(くはしひめのみこと)と読ませる様にしたものと考えられるのである。

それともう一つは大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の重臣樂樂森彦命(ささもりひこのみこと)が細媛命(ささひめのみこと)の兄であることを判らなくするために楽楽媛命(ささひめのみこと)の名を細媛命(くはしひめのみこと)と変えたのである。

それで楽楽福(ささふく)神社の社名の意味が判らなくなったのである。

 だから楽楽福(ささふく)神社の社伝の如く孝霊(こうれい)天皇が皇后や皇子を連れて伯耆(はくき)の国へ遠征せられた

>p846

と言うのは古事記と日本書紀が完成した後にそれにつじつまを合わせるためにでっちあげた大嘘なのである。

また楽楽福(ささふく)神社には孝霊(こうれい)天皇皇子として若建吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)と彦狭島命(ひこさじまのみこと)が祀られているけれども、
若建吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)は大吉備津日子命の曽孫であり、
彦狭島命(ひこさじまのみこと)は大吉備津日子命の三男であり、
伯耆(はくき)の国遠征の時にはまだ生まれてはいなかったのである。

 大吉備津日子命と共に伯耆(はくき)の国遠征に従軍したのは長男の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)と二男

>p847

の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の二人だったのである。

しかるに若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)と稚武吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)を同一人としてごまかし、
彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を開化(かいか)天皇皇子としてごまかし、
その代わりにまだ生まれていなかった彦狭島命(ひこさじまのみこと)を孝霊(こうれい)天皇皇子としてごまかしているのである。

 次に楽楽福(ささふく)神社に合祭されている倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は古事記で須佐之男命(すさのをのみこと)の子とされている宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一人物である。

しかし宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は大吉備津日子命の時代の人ではなくず

>p848

っと昔の人である。
それにもかゝわらず楽楽福(ささふく)神社に祭られているのはそれ相応の理由があるからである。

 大吉備津日子命が伯耆(はくき)国日野郡内で転戦した土地は上菅(かみすげ)、
生山(しょうやま)、湯原(ゆばら)、鬼林山、大倉山などである。

そして当時の伯耆(はくき)国は須佐之男命(すさのをのみこと)の子孫の人々が支配していたと考えられるのである。

それは出雲の国は大国主命の子孫ではなく、
天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫出雲臣(いづものおみ)が支配していたことから考えて、
伯耆(はくき)の国は須佐之男命(すさのをのみこと)

>p849

の子孫が支配していたと断定出来るのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 七の二 】 伯耆(はくき)の国平定 p844-4行〜p849-1行より。

☆平成31年2月( 2019年 )
☆ 福田 扶士男 ☆ 五瀬之月 ☆ 苅場
第十二章 大吉備津日子命 [ p849/p757-p1034 ]

【 七の三 】伯耆(はくき)の国平定 [ p849/p839-p866]

>p849-2行〜

 日野郡日野町大字金持(かもち)に国引神話で知られた八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)を祀る金持(かもち)神社がある。

それは八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)が後年その地に移り住んだか、
八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)の子孫の人々がその地に移り住んで祖先の八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)を祀る神社を建てたかのいずれかであろう。

宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は須佐之男命(すさのをのみこと)の子とされて居り、
八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)も須佐之男命の子と言われているけれども全く時代が違うのである。

須佐之男命

>p850

の子と言うのは第何世の須佐之男命の子と考えるか、
須佐之男命の子孫と言う意味に解釈すべきものである。

そして宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)の何代か前の祖先と考えてもよいと思うのである。

 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が楽楽福(ささふく)神社に合祭されているのは、
大吉備津日子命が伯耆の国へ遠征した時に須佐之男命の子孫の人々が協力したからであると考えられるのである。

しかし大吉備津日子命に協力した須佐之男命の子孫の名を消

>p851

して、祖先の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の名を出したものであろうと思う。

また楽楽福(ささふく)神社(じんじゃ)に大山祇命(おほやまつみのみこと)が祀られているのも同じ理由からであろう。

 ところで古い記録に伝えられている日野郡の地名の中で上菅(かみすげ)、
生山(しょうやま)、鬼林山、大倉山などの地名は現在の鳥取県地図でも発見出来るが、
当郡笹苞山、湯原などの地名は鳥取県地図には見えないのである。

日野川の上流に湯河と言う地名がある。

しかし湯河と湯原が同じ土地とは考え難いのである。

では湯原と言

>p852

う地名は昔はあったが、今は地名が変わっているのであろうか。

 また笹苞山と言う山は何と読むのかよく判らないが、
地図にも載らない様な小さな山であるか、
昔はあったが今は名が変わっていると考えるべきであろうか。

それについて私の意見を述べて見たいと思うのである。

 現代では伯耆(ほうき)の国と言えば鳥取県の西部と言うのが常識である。

しかし古代の伯耆(はくき)の国は現在の岡山県の阿哲郡、真庭郡、それに上

>p853

房郡の一部も含まれていたのではなかろうか。

それは日本書紀の応神紀(おうじんき)に応神(おうじん)天皇が吉備の国の葉田葦守宮(はたあしもりのみや)に来た時、
吉備の国を分割して吉備氏の人々に与えたのであり、
その時武彦命(たけひこのみこと)の子である吉備鴨別命(きびかもわけのみこと)には葉区芸県(はくきのあがた)を与えたと書かれていることである。

しかし鴨別命(かもわけのみこと)が与えられた葉区芸県(はくきのあがた)がどこであったかと言うことは判っていないのである。

 或る人は葉区芸県(はくきのあがた)は川嶋川(かわしまがわ)の河派(かわまた)と言われていることから、
現在の高梁川と小田川の合

>p854

流点と考えて居り、
或る人は鴨別命(かもわけのみこと)の子孫の笠臣(かさのおみ)が現在の岡山県笠岡市を領土としていたことから、
葉区芸県(はくきのあがた)を笠岡地方と考えているのである。

しかし葉区芸県(はくきのあがた)は高梁川と小田川の合流点のあたりでもなく、
笠岡市のあたりでもないのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 七の三 】 伯耆(はくき)の国平定 p849-2行〜p854-6行より。

☆ 平成31年2月( 2019年 )
☆ Fujio_Fukuda ☆ Itsuse_Tsuki ☆ Kariba
第十二章 大吉備津日子命 [ p854/p757-p1034 ]

【 七の四 】伯耆(はくき)の国平定 [ p854/p839-p866]

>p854-7行〜

 葉区芸県(はくきのあがた)のあった川嶋川(かわしまがわ)の河派(かわまた)とは高梁川と小田川の合流点のあたりではなく、
ずっと上流の高梁川(たかはしがわ)と宇漢川(うかんがわ)の合流点のことである。

宇漢川(うかんがわ)を遡って行くと宇漢(うかん)町があり、
宇漢(うかん)

>p855

町を更に北へ行くと上房郡(じょうぼうぐん)北房町(ほくぼうちょう)がある。

北房町には古代の古墳群があり、
その中の一つが最近発掘されて有名になっている。

それらの北房町の古墳群が吉備鴨別命(きびかもわけのみこと)の子孫の人々の墓であり、
北房町のあたりが葉区芸県(はくきのあがた)を支配する鴨別命(かもわけのみこと)の子孫の本拠だったのである。

 葉区芸県(はくきのあがた)は伯耆県(はくきのあがた)であり、
岡山県西北部は古代には伯耆(はくき)の国に属していたものと考えられるのである。

そして岡山県側にある伯耆(はくき)の国を吉備鴨別命(きびかもわけのみこと)の一族に与えたから伯耆(はくき)の国

>p856

と言わずに伯耆(はくき)の県(あがた)と言ったものであろう。

そして伯耆(はくき)の国の岡山県側は吉備氏の領土となったから吉備の国に属する様になったものと考えられるのである。

だから現在の岡山県阿哲郡、
真庭郡、上房郡の一部などは四世紀頃迄は伯耆(はくき)の国の一部だったのであり、
それが吉備の国に属する様になったのは五世紀以降のことではないかと思うのである。

 伯耆(はくき)の国日野郡のすぐ南が岡山県の阿哲郡であり、
東が真庭郡である。

真庭郡には湯原

>p857

町があり、
湯原町の西の美甘(みかも)村には笹ヶ山と呼ばれる山がある。

古代には今の岡山県真庭郡のあたりは伯耆の国日野郡だったのではなかろうか。

そして日野郡の笹苞山が今の真庭郡美甘村の笹ヶ山で、
日野郡の湯原が真庭郡の湯原だったのではなかろうか。

しかしこの仮説は現在の鳥取県日野郡に笹苞山と呼ばれた山や湯原と言う土地が実際に存在するのであれば即座に撤回するものである。

 また伯耆(はくき)の国日野郡から須佐之男命の本拠

>p858

であった出雲の国の八束(やつか)郡へは近いのであり、
更に岡山県真庭郡八束村も日野郡から近いのである。

私は出雲の国の八束郡や八束町の地名も岡山県真庭郡八束村の地名も同じ起原や意味を持ち、
真庭郡八束村もまた須佐之男命(すさのをのみこと)の子孫八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)の子孫の人々の領地だったのだと思うのである。

 また岡山県西北部には昔から伝わる備中神楽(びちゅうかぐら)がある。

備中神楽は須佐之男命の八岐大蛇(やまたのおろち)退治を表現しているが、
すでに何度も述べた

>p859

如く八岐大蛇(やまたのおろち)と言う大蛇がいた訳はなく、
八岐大蛇(やまたのおろち)の正体は北九州邪馬台(やまた)国の製鉄技術者の集団であり、
彼らが出雲の国の山の中で砂鉄を採集して鉄を造っていたのであり、
彼らが出雲の国の里へ出て来ては暴虐行為をしたために須佐之男命(すさのをのみこと)の子孫八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)に攻められて出雲の国を追い出されたのである。

 神楽(かぐら)と言うものは神に奉納して喜んで頂くためのものであり、
日本の神社では祖先の神々に対して子孫の人々が奉納していたのであ

>p860

る。だから八岐大蛇(やまたのおろち)の神楽は須佐之男命(すさのをのみこと)の子孫の人々が祖先の須佐之男命の功績を讃えるために奉納していたものである。

故に備中神楽(びちゅうかぐら)は須佐之男命の子孫が引き継いで来たものと言えるのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命
【 七の四 】 伯耆(はくき)の国平定 p854-7行〜p860-5行より。

☆平成31年3月(2019年)
☆福田扶士男(Fujio_Fukuda)☆五瀬之月(Itsuse_Tsuki)
☆苅場(Kariba)
第十二章 大吉備津日子命 ↓ [ p860/p757-p1034 ]

【七の五、終】伯耆(はくき)の国平定 [ p860/p839-p866]

>p860-6行〜

 しかし出雲の国で須佐之男命の大蛇退治の神楽が伝えられているのであればともかく、
備中の北西部にその様な神楽が伝えられていることは重要な意味があると言わねばならないのである。

岡山県西北部の阿哲郡、真庭郡、

>p861

上房郡北部などがかつて伯耆(はくき)の国であり、
須佐之男命の子孫の人々が大勢住んでいたからこそ備中神楽が現代迄伝えられて来たのだと思うのである。

 八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の真相が知れて困るのは八束水臣津努命(やつかみずおみつぬのみこと)の子孫ではなく、
饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫なのである。

だから饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫らが自分達の悪事がばれるのを防ぐために事実をゆがめた神楽を後世に伝えさせたのだと思うのである。

>p862

 さて伯耆(はくき)の国と言う名は掃(は)く木(き)つまり庭や座敷などを掃除(そうじ)する箒(ほうき)の意味である。

箒(ほうき)と言っても伯耆(はくき)の国の名の場合、
厳密に言えば掃除道具としての箒(ほうき)のことではなく、
葬祭の場で用いる道具であり、
古代には葬儀の時に掃木(はくき)を持つ人のことを掃持(ははきも)ちと呼んでいたのである。

葬儀の時に用いる掃(は)く木(き)とは庭や座敷を掃く様な箒(ほうき)とは全く違うのである。

 古代の日本人は死をけがれと考えていたのである。

それでけがれを払い除けるための道

>p863

具を持ってけがれを払っていたのである。

こう言っても現代人には理解出来ないであろうけれども、
現代でも神社へ参拝すると神主が御幣(ごへい)を振ってけがれを払い清めて呉れるのである。

つまり神社で神主がけがれを払うために用いる御幣(ごへい)もけがれを掃(は)き清めるための道具であり掃(は)く木(き)の一種なのである。

葬儀の時に用いる掃(は)く木(き)、
掃持(ははきも)ちの人が持っていた掃く木と言うのは木か笹の小枝に鈴(すず)を沢山つけ、
それを振ってにぎやかな音を立

>p864

て、けがれや邪気を払い清めていたのである。

それで葬儀の時に用いる掃(は)く木(き)は鈴を沢山つけた木であるから鈴木(すずき)と呼んでいたのである。

神武東遷の時に東征軍に反抗した饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫は被差別階級民に堕とされ、
葬儀を仕事とする葬儀部(もののべ)にされたのであるが、
葬儀部(もののべ)の中にも様々な仕事の役割りがあり、
故人の遺体を安置したもがりの宮で掃(は)く木(き)を持ってけがれを払うことを専門の仕事としていた掃持(ははきも)ちの人々は葬儀用の掃く木つまり鈴をつけた

>p865

木を振って音を出していたから鈴木持(すずきも)ちとも言われていたのであり、
それがもとで鈴木(すずき)と言う姓が出来たのである。

 饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫には鈴木(すずき)の姓を名乗る人が多いと言われているが、
それは饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫は被差別階級民で葬儀部(もののべ)に属していたから物部(もののべ)や鈴木(すずき)の姓の人が多いのである。

 古代には庭や部屋のごみを掃除することも、
神前でけがれを払い清めることも、
葬儀の場でけがれを掃き清めることもすべてが掃除と

>p866

考えられていたのである。

だから庭を掃く箒(ほうき)も神社でけがれを払う御幣(ごへい)も葬儀の場でけがれを掃き清める鈴木(すずき)もすべてが掃(は)く木(き)だったのである。

 大吉備津日子命の妃細媛命(ささひめのみこと)が伯耆(はくき)の国遠征で死去したのは大体二0八年であり、
それから間もなく遠征軍は吉備津へ帰還したのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命 ↓
【七の五、終】伯耆(はくき)の国平定 p860-6行〜p866-8行より。

☆平成31年3月(2019年)
☆福田扶士男(Fujio_Fukuda)☆五瀬之月(Itsuse_Tsuki)
☆苅場(Kariba)
第十二章 大吉備津日子命 ↓ [ p867/p757-p1034 ]

【八の上】大吉備津日子命の再婚 [ p867/p867-p874]

>p867-1行〜

 伯耆(はくき)の国遠征で妃の細媛命(ささひめのみこと)を失い淋しく帰還した大吉備津日子命の許へ大和の国の女帝から悲しい知らせが届いた。

それは女帝倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の兄である稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおほひひのみこと)の死去の知らせである。

大吉備津日子命は若日子命(わかひこのみこと)や彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)らを連れて急いで大和の国へ行ったのである。

姉の女帝倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)とは久し振りの対面であった。

>p868

 稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおほひひのみこと)は病弱な方であったから一人の子女もなく、
四人の兄弟姉妹の中で最も若くして死去したのである。

しかし稚日本根子彦大日日命(わかやまとねこひこおほひひのみこと)の死は倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)にとって大きな不安を感じないでは居れなかったのである。

それは倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と妹の倭迹迹稚屋媛命(やまとととわかやひめのみこと)は共に独身であって子女がなく、
大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)が都から遠く離れた吉備津にいるために、
女帝の身辺には頼りになる様な心強い身内がいなく

>p869

なった訳である。

 それで倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)は協議の上で若日子命(わかひこのみこと)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を女帝の側近として都に居らせ、
政治を補佐させることになったのである。

若日子命(わかひこのみこと)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)は二00年に吉備の国遠征に出発すら迄は都の近くの桜井市吉備に住んでいて、
女帝の甥であることから子のない伯母の女帝から我が子同様に愛されて成長したのである。

 その様な間柄であったから女帝倭迹迹日百(やまとととひもも)

>p870

襲媛命(そひめのみこと)にとっては大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)の子の若日子命(わかひこのみこと)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)が都にいて側近として政治を補佐して呉れることになったと言うことは何よりも心強いことだったのである。

若日子命(わかひこのみこと)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)はそれから四十年後に女帝が死去される迄ずっと都にいて側近として政治を補佐し活躍したのである。

故に若日子命と彦湯産隅命の二人は大吉備津日子命の子でありながら吉備津の宮で暮らした期間は極く僅かだったのであり、
そのために吉備津には若日子

>p871

建吉備津日子命と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を祀る神社もなく伝説も残っていないのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命 ↓
【八の上】大吉備津日子命の再婚 p867-1行〜p871-2行より。

☆平成三十一年三月(2019年)
☆福田 扶士男(Fujio_Fukuda)
☆五瀬之月(Itsuse_Tsuki)
☆苅場(Kariba)
第十二章 大吉備津日子命 ↓ [ p871/p757-p1034 ]

【八の下】大吉備津日子命の再婚 [ p871/p867-p874]

>p871-3行〜

 さて伯耆(はくき)の国遠征で妃の細媛命(ささひめのみこと)を失い、
更にまた若日子命(わかひこのみこと)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)らを大和の国の女帝の許に派遣したことによって大吉備津日子命の身辺は一挙に淋しくなってしまったのである。

それで人々のすゝめもあって、
吉備の国大井郷の豪族百田大足命(ももたおほたりのみこと)の娘百田弓矢媛命(ももたゆみやひめのみこと)を後妻として迎えることになったのである。

 それは210年頃のことであり、
大吉備津

>p872

日子命が五十八才位の時のことである。

故に大吉備津日子命の妃は先妻の細媛命(ささひめのみこと)と後妻の百田弓矢媛命(ももたゆみやひめのみこと)の二人だったのである。

しかるに古事記と日本書紀を書く時細媛命(ささひめのみこと)を孝霊(こうれい)天皇皇后としてごまかし、
大吉備津日子命の妃を百田弓矢媛命(ももたゆみやひめのみこと)と吉備高田媛命(きびたかたひめのみこと)の二人と言うことにしてごまかしたのである。

しかし吉備高田媛命(きびたかたひめのみこと)は大吉備津日子命の妃ではなかったのである。

それについては後で述べよう。

 大吉備津日子命と百田弓矢媛命(ももたゆみやひめのみこと)との間に生

>p873

まれた子は彦狭島命(ひこさじまのみこと)、吉備津媛命(きびつひめのみこと)、武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)の三人である。

彦狭島命(ひこさじまのみこと)はまたの名を日子寤間命(ひこさめまのみこと)とも言い、
212年頃に生まれたのである。

吉備津媛命(きびつひめのみこと)は215年頃に生まれたのであり、
末子の武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)は諡(おくりな)を三井根子命(みゐねこのみこと)と言うのであり、
218年の生まれであると思うのである。

だから彦狭島命(ひこさじまのみこと)、吉備津媛命(きびつひめのみこと)、武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)の三人は異母兄の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)よりずっと年下だったのであり、
若日子建吉備津日子命の子である四

>p874

道將軍伊佐佐彦命(いささひこのみこと)、
讃岐国造祖(さぬきくにのみやつこそ)鶴彦命(つるひこのみこと)、
彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の長男丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)らよりも年下だったのである。

 しかるに彦狭島命(ひこさじまのみこと)は孝霊(こうれい)天皇皇子としてごまかされ、
吉備津媛命(きびつひめのみこと)は歴史や系図から消され、
武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)は景行(けいこう)天皇皇子としてごまかされたのである。

大吉備津日子命の子は五人だったのであるが、
五人とも系図から消されたりごまかされたりしたのであり、
正式に大吉備津日子命の子と認められてないのである。

【1995年、安原修氏の執筆】
《日本の歴史と最後の審判》
第十二章 大吉備津日子命 ↓
【八の下】大吉備津日子命の再婚 p871-3行〜p874-10行より。

☆平成31年3月(2019年)
☆福田 扶士男
☆五瀬之月
☆苅場

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