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「英語で悩むあなたのために」コミュの日本の英語教育改革のための提言

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  これはmixiニュースに対するコメントとして日記に書いた内容なのですが、コミュとの関係も深いと思いますので、1つのトピックとしておきたいと思います。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=voice&id=3451482

 日本の学校教育における英語学習が実用的技能の習得に結びついていないという批判は、私が中学生のころから今に至るまで繰り返し行われてきて、そのたびに「実効性の乏しい」対応が幾度となく行われてきた。

 日本の学校教育では高度な英語技能は備わらないものなのか?
 しかし英語の発音さえできない教師しかいなかった時代に、海外をまたにかけて活躍した偉人が多くいたことも事実。今と違ってまともな辞書すらなかった時代に「学び方」の創意工夫と熱意によって、きわめて高い技能を備えた人たちも確かに存在した。

 国民の誰もが教育の機会を持ち、インターネットによりあらゆる情報に簡単にアクセスできるようになった現代、教材という観点からはこれほど恵まれた時代もない。にもかかわらず、日本人の平均的英語技能は、「英語というツール」を駆使してビジネス現場で活躍するには非常に心細いものがある。今後どういう角度から改革を進めていけば状況が改善されるのだろうか?

1、国語教育の内容見直し

 英語教育が話題になると決まって「英語より先に国語だろう」という批判が上がる。
 日本人が国語の能力をしっかり高めなければならないのは論を待たないが、それは決して「英語を学ぶ暇があったら日本語を学べ」という方向にはつながらない。むしろ外国語学習を通じて、日本語というものがより鮮明に見えてくることも多いので、英語学習は本来、日本語学習に対してポジティブに寄与するものである。

 しかしながら、日本の国語教育はというと「文学嗜好」に走りすぎる傾向があり、基礎的な説明文や描写・伝達文さえ使いこなせない小学生に詩(のまねごと)を書かせてみたりするし、中学・高校でもやたら文学、文学だ。
 文学というのは、その言語の特質をもっとも高度に発揮した「プロフェッショナルレベル」の領域であり、それに接することは大きな価値があるのだが、先に述べた「説明文、描写文、伝達文」という日常的使用頻度がもっとも高く、なおかつ実用性の高い技能に関する訓練がまったく不足している。その結果として「〜すぎる」の誤用が職業ライターの間で氾濫してみたり、ネットの質疑掲示板でも「質問の意図を伝えられない」稚拙な文章が目につく。

 英語でも日本語でも「言語の運用能力」という点においては共通する部分が大きい。つまり日本語の訓練はそのまま英語の技能向上につながり、英語学習は日本語の理解を深める。その意味において、「きちんと意図を伝える日本語を正しく使える技能」を国語教育で徹底してほしい。

2、他教科との連携

 日本では「英語」の教科書だけに英語が現れ、他のすべての教科書は日本語で書かれている。当然のことと思われがちだが、たとえばフィリピンでは小学校や幼稚園の教科書も「国語(フィリピンの場合はフィリピノ語)以外の教科書は英語で書かれている」のだ。これは「英語が第2公用語」であるという特殊事情にもよるが、「英語」という教科・科目で「言葉を学ぶ」のと同時に、あらゆる教科を「英語で学ぶ」ことが行われている。
 日本ではそこまで極端なことはできないが、実を言うとまったく無理なことでもない。
 これは私が高校のころ経験したころだが、たとえば世界史である内容を学んでいるとき、その一部の内容が英語の教科書の単元にも現れた。それが理科の教科書の進度と連携していることもあれば、数学など教科との連携が感じられたこともある。

 つまり「英語を学ぶ」という観点から一歩進めて「英語で何かを学ぶ」という観点で学校教科全体の有機的な連携を工夫してほしい。英語の教材も小説や論説の切り取りでなく、「自らの考え、意見を表明できる能力」として高め、そのための「発信すべき情報」をそのものを英語で学ぶようにするべきだと感じる。

3、英語発音訓練の重視

 日本の英語教育はそもそも時間数が致命的に少ない。英語ネイティブの子供が毎日英語に接して2年以上かけて「赤ちゃん言葉」をようやく発するというのに、1週間に数時間の英語授業だけで「大学入試」などという高度なレベルの英文について「読み、書き、話し、聞き取り」という4領域を習得するのは至難の技であり、授業時間以外の個人的努力に依存せざるを得なくなる。

 また英語も「言語」であり、その実体は「音」にあるので、今の一般的英語教育のような発音軽視では決して高い効果は期待できない。ただでさえ限られた授業時間数の中で発音記号や音声学を教える暇などないという現場の主張があるそうだが、それは本末転倒もはなはだしい。「読み方もわからない英単語」の「和訳」だけできて何になるというのか?
 なお、発音習得については旧来「母音、子音」といった音素の理解、習得を基礎として、音節単位の発音、さらに単語、フレーズ、文といったより長い単位を「意味に即して発音できる」能力へとつなげていくのが順序とされてきたのだが、英語圏におけるEFL(English as a Foreign Language:外国語として学ぶ英語)や、ESL(English as a second Language:第2言語として学ぶ英語)の専門家たちのアプローチは「先に文のメロディを覚えさせる」というものだ。つまり母音や子音などの音素を後回しにして、ナチュラルな発音がなされた英文を全体的にざっくりとメロディでとらえてしまう。具体的な訓練方法としては、生徒の口にカズー(という楽器)を加えさせ、母音や子音を発音したくてもできない状態にして、聞こえてきた英文を真似させる。するといやでも「メロディだけ」を模倣するようになり、文の抑揚や強弱だけを先に強く意識するようになる。そのあとで徐々に正確な母音や子音を習得させるという順序になる。
 これは絵画にたとえれば、全体的なデッサン、構図を先に考え、徐々に細かいパーツを仕上げていくことに似ている。樹木を描くとき、葉っぱ1枚1枚を丁寧に描きながら最終的に1本の樹木にするのと、先に樹木の全体像、輪郭などを捉え、あとから細部を描きこんでいくのとでは、結果的にどちらがより優れた描写となるかを考えてみるとわかりやすいだろう。

 このように「英語ネイティブの発音」そのものを全体像から習得していくことにより、聞き取りがまず飛躍的に向上する。そして自らの発音も、非常にナチュラルで通じやすい自然なものになる。


4、実用教材の大幅な導入

 インターネットという強力なツールが存在する現代において、特に英語については優良な教材が無尽蔵に、用意に手に入る。日ごろ英語ネイティブと接する機会がなくても、Youtubeなどの動画を通じて、生きた英語に接することはいくらでもできる。そういった動画クリップを素材にした優れた英語学習教材を有料、無料で提供しているサイトもたくさんある。先の「英語で学ぶ」という観点なら Khan Academyというサイトが完全無料で、小学校の算数から、大学教養の授業内容まで1回10分程度のビデオを用意しており、どんな科目でも自由に無料で、英語を使って学ぶ機会を持つことができる。
 学校現場も、旧態依然と紙媒体教材だけにしばられるのではなく、PC、インターネットを積極的に活用し、生徒が用意に上達実感と実用性を感じられる教材を工夫しなければならない。


5、EFL、ESL専門家のコンサルタント

 日本の英語教育の改革を検討しているのは「英語の話せないお偉方」ばかりだ。一部「識者」を交えているとは言え、現代英語教育の最前線で活躍している専門家がまったく含まれていない。根本的なところで「英語を学ぶとは、英文を和訳すること」という明治以来のスタンスが変わっていない。「何をすることが英語を学ぶことなのか」を根本的に理解していない連中が、教育制度をいくらいじくりまわしても改善はできない。英語圏から積極的に専門家を招聘してアドバイスをあおぐ姿勢を持ってほしい。


6、学校教育の評価基準の再考

 あと上記1から5のすべてが満たされても、実は日本の学校教育には「生徒みんなを上達へ導けない致命的欠陥」がある。それは学校現場における「評価システム」だ。
 多くは「教務内規」として学校外への情報は提供されないのだが、たとえばある高校では、「5段階評価の1と5は、評価対象人数の10%としなければならない」とか「10段階評価換算における評定値は、6.5プラスマイナス0.5としなければならない」という規則が存在する。

 つまりたとえ生徒全体がやる気に燃え、優秀な生徒ばかりが1クラスに集まっていたとしても、5段階の5(10段階の9と10)をつけていいのは、その中の10%までと決まっている。だから教員としては生徒全員ができたら困るのである。そこで成績結果が適当(教員に都合よく)ばらつくような「差のつく」問題を作らなければならないし、特に優秀な生徒だけが完全に理解でき、一部が取り残されるような授業が故意に行われている。信じられないかも知れないが、私自身が約10年、高校の学校現場にいて、複数の学校で同様のシステムが用いられていたのだ。

 つまり相対評価を義務付けているシステムそのものを変えない限り、努力が報いられるのは生徒全体の1割までなのだ。これを国全体を通じて適用できる絶対評価基準を設定し、努力に応じて何人でも好成績を取れるように変えなければならないだろう。

7、文法軽視=実用英語という誤った考え方を直す

 かつては「英文法」という独立した科目があったが、「実用技能優先」という理由から、「口語英語」という科目が追加され、そのあおりで文法だけを体系的に教える科目は消えた。そして Oral Communicationなど「名称だおれで中身のない科目」が現れては消えている。
 英語は「実技科目」なので、確かに文法という知識だけをたくさん得ても、実用的技能には直結しない。しかし、「緻密な理論」を「体系的に頭の整理ダンス」に格納していることは、技能の論理的裏づけとなるものであり、加えて「文法は、技能訓練の指針を与える」ものでもある。
 
 しかし学校で習う英文法は、まるで「英語には人為的ルールがあり、英語話者はそれにしたがって英語を話している」かのような錯覚を与えている。文法とは規則ではない。ある言語文化に属している人々が自在にその言語を用いる中で自然発生的に現れた言葉の「傾向性」を統計的に整理したものだ。学習者は文法事項を通じて、英語文化における「発想、ものの考え方、感じ方」を学ぶのであり、ルールを暗記すのではない。そして文法解説書も、人為的ルールの羅列のような記述をやめ、「なぜそのような言葉の傾向性があるのか」を英語文化に属する人々の「心理」の観点からかみくだいて説明し、「どんな訓練をつめば、英語話者同様の感覚を脳内に構築できるのか」を伝えなければならない。つまり英語という技能習得に寄与する「スポーツ理論書」のような存在であるべきなのだ。
 英単語にしても、「なぜその単語がそういう読み方になり、その意味を表すのか」には理由がある。専門的語源学までいかなくても、ちょっとした示唆を与えるだけで学習者は英単語が覚えやすくなり、単語を「実感を伴って」使えるようになるのである。

 このように日本の英語教育事情を改革するには、多くの課題があり、さまざまな角度からの分析、検討が必要だ。決して「英語よりまず日本語だろう」などという単純な問題ではないのである。

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