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舞鶴市コミュの故郷の記事を見つけました

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コミュの新人ですが、年はいっています。
今朝の新聞で舞鶴の小さい記事が目に留まりました。

私の思い出おも含め紹介します。私の今日の日記のコピーです。悪しからず。


我が故郷、舞鶴が記事になることはめったにない。
今朝、開けるなり新聞の片隅に目がいった。戦後の引き揚げに関する故郷の記事を見つけた。

菊池章子の『岸壁の母』は余りにも有名だが、『引き揚げの母』なる人が存在していた。『田端ハナさん。7日、老衰で死去、99歳。』とある。ご冥福を祈ります。

『舞鶴港で戦後、同市連合婦人会長として多くの引き上げ船を出迎えたことから、「引き揚げの母」と呼ばれた。』と新聞には書かれてある。

私も子供の時その場所にいた。紙で作った日の丸の旗を新聞社の叔父さんにもらって、霧の深い舞鶴港を出港する興安丸を見送った事を思い出した。

興安丸と言っても引き揚げ船をイメージする人は少ないだろう。その船の末路をとんでもない所で見つけた。広島県の三原だ。15年も前になるだろうか、出張でよく出かけた町だ。その日は早く着いたので町を散策した。

港の公園に「潮風につぶされた哀れな・・・」と言っても大きな錨が置かれていた。案内板にはこの『興安丸の錨』とある。なぬ、興安丸の錨がこんな所に・・・・。

子供の時の思い出が・・・、戦後のこの船の働きが・・・。この有様だ。何とかならないものかと考えたが、それなりの結果であろう。「朽ちてまた、生まれ変わるこの儚さ。」

思い出にと拾った『鉄屑』が真ん中の写真だ。私には平和を祈る象徴だ。友達にも見せた事はあるが、「又この物好きが・・・。」の印象だった。

誰も見向かないものに興味が湧く。困った習性の持ち主だ。
 

コメント(12)

舞鶴に生まれ育った者ですが、恥ずかしながら引き上げについていまひとつ理解しておりません。
そういえば舞鶴のそういう歴史を学校で教えてもらうなんてことは無かったような。。
「岸壁の母」が有名な歌だってことは良く知っていますが、今の高校生たちはどうなんでしょうかね〜。

小学生のころ、母に連れられて引き上げ記念公園に出向き、資料館を見学しました。歴史の説明パネルを読んでいた母が泣いていたのが、とても印象的に覚えています。
また同時期、引き上げについて当時の超・アイドルのマッチこと近藤真彦主演のNHKドラマが放映されたこともあったと思います。
ロケを見に行ったような気がする(笑)

約10年近く前、進学で大阪方面に出てきた際に「舞鶴出身です」というと、いろいろ世代から「あ〜、岸壁の母ね」と言われることが多かったのですが、今はあまり言われなくなりましたね。。。
時間がたったのでしょうね〜

せめて舞鶴にかかわりのある私たちは、しっかり覚えておかなければなぁ〜なんて、このトピを見て考えさせられました。
私は引き上げの地「大浦」が地元です。
小学生のとき引き上げ記念館が出来、無料だったので良く行きました。(今は有料)
舞鶴を離れ大阪に行き、今は豊岡で暮らしていますが、もっともっと自分の原点舞鶴の歴史について知っておくべきだと痛感しています。

尚、マンガ「サラリーマン金太郎」にも引き上げの地が描写されています。
ほんの数コマですが大切な歴史なんだと感じました。
私は記念館には「話の種に・・・・。」と一回だけ行った事があります。2度と行きたくありません。父も戦争に行きましたが、話はしてくれませんでした。

経験した人は思い出を話したくないようですが、それ以上の経験した人は『語りべ』として次に伝えているようです。

古いことに興味が湧く人と湧かない人がいます。
私は前者です。それでは前者の人だけに・・・・。

『東舞鶴の通りの名前、朝日、浮島、八島・・・・等、戦時中の有名な戦艦の名前を拝借した。』そうですよ。やはり、軍港の町なのですね。何かの本で読みました。
私もこの公園は結構近所です。
父は大工なので、この公園の改築?にも携わったたしい。
小学生の頃は写生遠足に出掛けたものです。
確かに【舞鶴=岸壁の母】で通じる人は、年々減ってきた気がするなぁ…

通りの名前が軍艦から取られていたなんて、全然知りませんでした。
ちょっと複雑な感じですね。
引揚記念館は小学校のころ社会見学で何度か行きましたが、
気分的には「お化け屋敷」的な気分でした。
(事実なんですけど)辛い・怖い思い出ばかりが展示されてて、
それに共感することを強いられる感じで。

ですが、引揚体験者の方の講演会が昨年4回ほどありまして、
そのテープ起こしをやらせてもらう中で、
ちょっと考えが変わりました。

満州に行った人たちは確かに希望を胸に大陸に渡り、
最終的には辛い逃避行になったけれども
そこでの生活でよい思い出もあったこと、
辛い拘留生活でも(部隊によるようですが)
ロシア人との信頼関係や交流もあったこと、
そして、大変な思いをして帰国した方々を
暖かく迎えた「舞鶴」というまちがあった、ということを
知ることができたので。

戦争が嫌なものなのは確かなんですが、
そういう歴史があった、ということは忘れてはいけないな、
と思います。

特に最後の印象は、学校の「平和教育」ではあんまり
触れられてなかったので、そういう面をもうすこしPRする
べきじゃないかと思ってます。



ちなみに、通りの名前が軍艦から、というのは
かなり有名なお話だと思ったんですが知らない人多いんですね。

まち中央部は海側から当時の造船順古い→新しいものの順に
ついてます。
東郷さんの乗った「三笠」が当時の最新艦で、
その道は東駅すぐの道となってます。
三条通を歩く時に、交差点付近の柱に注目してみてください。
軍艦のシルエットと名前とが、ちゃんと書いてありますので。

舞鶴(特に東舞鶴)は当時とことん「海軍のまち」でしたし、
それを誇りに思って、胸を張ってつけた名前ですので、
その当時を偲んでいただいたらいいかと。
そうか〜、そういう時代になったのか・・・・

今から25年前、俺が舞鶴を出た頃は「出身どこ?」「京都の舞鶴です」って言うと年配の方は殆ど「引き揚げの街」「岸壁の母」の話題をだしました。有名なんだな〜って思ったものです。

「飢餓海峡」という映画知ってます?
引き揚げとは関係ないですが、昭和39年の舞鶴市(東舞鶴)が出てきます。当時の三条通りも写るので機会があれば見てみてください。(少しですけどね)
母に話をしてみると、知ってました!
各小学校で婦人会を作って色々助けてあげてたみたいだそうです、
だから 知らない人はいないくらいだったみたい
私も、RAKUさんの見つけた新聞記事読み、
ついつい、切り抜きをしていました。

私は舞鶴へ嫁に来て10年ほどしかたちませんが、
祖父は満州で亡くなり、
母は舞鶴港ではありませんでしたが、
命からがら引き揚げてきた者だからです。

縁あって、舞鶴へ嫁に来たので、
実母を引き揚げ記念館へ連れて行くことができました。

母は、ただ泣いていました。

また、シベリアの抑留生活の展示を見て、
小学校の担任の先生がシベリアに抑留されていたころの話を
を授業の中でよくしてくれていたことを思い出しました。

私も含めてですが、体験者の話を
普段の生活の中で見構えずに聞く機会が
本当に少なくなっていますね。

戦後60年を超えても
語りついでいただく人や機会は大切にしたいですね。
そういえば、逆に朝鮮半島などに帰ろうとした人達の話も知ってますか?

うる覚えなのでおかしいところもあるかもしれませんが指摘お願いします。

沢山の人を乗せた浮島丸が舞鶴市佐波下沖で沈没したのです。
色んな話を聞きましたが、最も多かったのは
「沈没させたのでは?」という話。
いわゆる「死人に口無し」ではと言う話。
魚雷や機雷によってと聞きました。

引き揚げをすると同時に起きてしまった事故。

これも知っておきべきことだと思います。

ググってみたら出てきましたので乗せてきます。

http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-ukisima.htm

大変切ない歴史です。
浮島丸のお話、確かに痛ましいお話です。

でも、当時の舞鶴湾内は魚雷だらけだったという話も聞きますので(引き揚げの船も、非常に注意しながら入港されてたそうですし、今もよく見つかってます)、断定はできないと思ってます。

あと、佐波賀の方が救助活動に尽力されたというのも、覚えておいてもらいたいです。
子供の頃、海に出てマストだけの沈没船を見た覚えはあります。その時はそんなに沢山の人が乗っていたこと、問題のある船だと言う事は知りませんでした。

舞鶴を離れてから新聞で問題になっている事を知りました。私はその場所は板ガラスの近くのように記憶していましたが。佐波賀というともっと湾口に近いようですね。

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