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江戸時代が好きコミュの江戸時代はどういう時代?

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コミュ内全体

こんばんは。
江戸時代は一般的に平和な時代だと思われています。
パックス・トクガワーナ(徳川による平和)と。
最近、拙サイトの掲示板に以下のような理由で「江戸時代は平和な時代」に異議を唱える人がいました。
皆さまにはどう思われるでしょうか?。

●一揆
?1608年慶長8年山代慶長一揆
?1637年寛永14年島原の乱
?1677年延宝5年群上一揆
?1686年貞享3年貞享騒動
?1739年元文4年元文一揆
?1761年宝暦10年上田騒動
?1764年明和元年伝馬騒動
?1768年明和5年新潟明和騒動
?1771年明和8年虹の松原一揆
?1786年天明6年宿毛一揆
?1793年寛政5年武左衛門一揆
?1814年文化11年北越騒動
?1825年文政8年赤蓑騒動
?1831年天保2年長州藩天保一揆
?1836年天保7年甲斐一国騒動
?1838年天保9年佐渡一国一揆
?1856年安政3年渋染一揆
?1847年弘化4年三閉伊一揆

●暴動(打ちこわし)
都市における最初の打ちこわしは、1703年元禄16年長崎で発生、1733年享保18年には江戸においても初めて打ちこわしが発生、それ以降も飢饉や政情不安定などにより度々都市において暴動が発生、特に物価が急上昇したときの幕末に多し。

●飢饉(江戸四大飢饉)
?寛永の大飢饉 1642〜1643年寛永19〜寛永20年
被害地:日本全国(特に東日本日本海側の被害大)
人的損害:不明。全国各地で餓死者。数万人規模か?
原因:異常気象(大雨、洪水、旱魃、虫害)
   武士階級の困窮並びに農民への過酷な収奪。

?享保の大飢饉 1732年享保17年
被害地:中国、四国、九州地方の西日本各地。特に瀬戸内海沿岸は被害大。
人的損害:飢民数は、幕府直轄領と旗本領を合わせて67万人、その他大名領は約3倍     の190万人、その合計は日本全人口の1割弱に当たる265万人が飢餓に苦し     んだ。餓死に至っては96万9千9百人(徳川実記)また別の史料では、1万     2千人(日本災異志)ともある。
原因:冷夏と害虫の大量発生。

?天明の大飢饉 1782〜1787年天明2〜天明7年
被害地:東北地方。
人的損害:不明。30〜90万人とも。
原因:浅間山噴火並びにアイスランドのラキ火山の噴火により冷害が発生。

?天保の大飢饉 1833〜1839年天保4〜天保10年
被害地:東北地方
人的損害:不明。飢餓救済者は70万人を越える。
原因:洪水及び冷害。

江戸時代を通じて、百姓一揆は3000件以上発生しております。260年余で3000件以上なので、1年間に10件以上は起きていた計算となります。

飢饉は自然災害であり、政治体制とは無関係だと思うし、一揆が一年間で10件以上というのは全国でですから、無いに等しいのでは思いますが、皆様のご意見はいかが。

コメント(32)

考え方や捉え方によって、様々な解釈がとれます。

「平和」の絶対的な定義をどう設定しますか?

戦がないのが平和という事もいえます。


他と比べて「平和」なのかという、相対的な定義。
つまり江戸時代の飢饉や一揆を例にとっても、他の時代よりも多いのか少ないのかが示されていませんよね。

戦国時代は軽い氷河期のような時期、つまり江戸時代よりも冷害が多く、それが元で戦乱が続いていたと、気象学を取り入れ研究をされています。

平和かどうかはその定義をどう考えるかにもよるかと思いますが、すくなくとも江戸より前の時代よりは安定していたと思います。
パックス・ロマーナがローマ帝国によるローマ市民のみの平和であって、それ以外の諸国の犠牲の上に成り立っていたのと同じように、パックス・トクガワーナというのは、徳川幕府による徳川直轄地(とりわけ江戸市中)のみの平和だと思いますよ。

その繁栄が盛んになればなるだけ「他国」の犠牲は大きくなる道理で、東北で米が不足するまで収奪するからこそ、江戸の庶民が脚気になるほど白米を食べられた訳です。

その観点でいえば、他国の事はいざ知らず江戸は長きにわたる平和を甘受出来たといえると思います。
現代の独裁国家よりはましなのではないかと。
一揆をするだけの人間と武器は用意できるということでしょうし。
少なくとも飢饉に関して言えば、文明の発達度合いを考えると、仕方の無い面はあると考えられるでしょうね。
しかし同時代のヨーロッパでの飢饉に比べると、日本の飢饉はかわいいものだ、という話はよく見かけます。(各種資料が引っ越しの荷物に入ったままなのでどこにあるか、までは挙げられませんが……)
南部藩のように、かなり北に位置する土地では冷害の影響は大きかったでしょうから、他の土地に比べると一揆の割合は高いものとなったでしょうね。(加えて、藩そのものの力が弱ければ、それだけマイナス要素に出くわした際の対応に限界が生じるものですし)
各藩を、現在の各企業に例えると判りやすいと考えています。
中小企業、零細企業になるほど、不況の煽りは大企業以上。
わたしが現在住んでいる宇都宮などは天領だったおかげで、かなり恵まれていたようです。

わたしなりの結論から言えば、やはり江戸時代は(飢饉や一揆はあったものの)全体を通じて平和だったと言える、と考えています。
少なくとも、同時代の他の国よりも。
むしろ、日光山さんが冒頭で上げた例を見て『約250年を通じて、たったそれだけか』ということになるのではないでしょうか。
(もし、各一揆が全て全国規模だったら、それは平和とは言えないでしょうけど)
わたしの彼氏は、骨董屋というその仕事上、昔の証文等を目にする機会があるんですよ。
借金にあえいで、どうにか利息を負けて欲しいとか、期日を延ばして欲しいとか、そういう手紙などもごっそり出て来たりするようです。
そういうのは、やっぱり日本の北の地域に多いようです。
しかし『そういう地域「も」あった』と考えるべきで、『そういう地域があるから、平和ではなかった』と言うことは出来ないと思うんです。
パーセンテージで考えると、100%とはいかないまでも、世界規模で比較するとやっぱり日本は平和。
他の時代に比べても、その時代は「お国のため」だなんてお題目で徴兵されることもなかったし、外国と戦う必要もなかったし。
『南部藩のように貧困がゆえに不安定な地域もあったけど、全体的には世界の他の国よりは平和だった』という考えでよいのではないか、と思いますよ。少なくとも、実現可能な範囲に於いては。

子供が、ふらりと遠路はるばるお伊勢参りなんか出来ちゃう国は、やっぱり平和ですよ。
それは、治安の問題だけではなく、『そういう子供がいたら、助けてあげよう』という心意気があった時代&国だった、という意味でも。
国単位で全体的に生活に余裕があったとはいいがたいでしょうが、
やはり戦がなかったという考え方をすれば、平和と言えなくもないと思います。同時代の他国、他時代の同国と比較して見ると。
トピ主さんに伺いたいのですが

>江戸時代は一般的に平和な時代だと思われています。
>「江戸時代は平和な時代」

「江戸時代は平和」に対する根拠が書かれておられませんので、平和と思われる根拠を教えください。
 江戸後期になれば女性だけの旅もできた、というような事が「平和な時代」ということなんじゃないでしょうか。「危機がない」ということと、「平和である」ことは別ですし。「社会秩序が長期的に維持されてる」ということが、「平和」という意味かと。
 阪神・淡路大震災が起きたからといって現代が平和な時代じゃないと言えないのと同様、飢饉に関してはそういう判断で言えるかと思います。

 吉宗治世期には佐渡の農民の訴えで奉行が更迭されたりしてますね。それに竹内流や馬庭念流のように、農民や町人に関係なく武術を教える流派というのもありました。農民は全くの無力じゃないし、全人口の84%はいたわけですから、それなりの影響力があったかと思います。生産力がなくなっちゃうと、藩自体も疲弊してしまうでしょうし、そう無下には扱えなかっただろうと。
 そういうなかで各地の一揆、あるいは上訴のようなものがあったとしても、それが連動して広い地域全体が騒乱に巻き込まれ、無法状態になってたわけじゃないですから、大きな意味では「平和」と言えるのではないかと。つまり「社会秩序が長期的に維持されていた」と言えると思います。
 
 
 
>16

普通に考えて、戦争状態(内戦、対外戦争)がない状態を平和と指すと思います。
そういう点では江戸時代は平和な時代と言ってよいのでは。
勿論、平和でひとくくりできないことは承知していますが。
一揆と言っても、全国に敷衍したわけではない。
その点、後期(大正期)のコメ騒動と違う。
飢饉、冷害は平成でもありますからね。
飢饉まで行かなくても、コメ不足はあったし。
一揆は税金が上がるのに反対して起こるのが一番多い。
誰だって税金が上がるのはいや(現代でもそう。
現代は税金が上がっても一揆はなし。

三浦浄心の「慶長見聞集」(1614)に「さてもさても目出度き御時代かな。我ごときの土民までもあんらく(安楽)にさかへ美々しき事共を見聞きてのありがたさよ。今がみろく(弥勒)の世なるべし・・・」とあります。

もっと後代の元禄時代、松尾芭蕉は「今此御光一天に輝きて、恩沢、八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり」と日光で記述しています。
さらに後代、頼山陽は日本外史で「蓋し源・平以還、治少なくして乱多し。群雄棊峙し、分裂梗塞して、其の幾百歳を閲するかを知らず。而して緩帯垂橐、糧をもたらさずに行くは」とあります。

「緩帯垂橐、糧をもたらさずに行く」 とは衣類も荷物も無防備のまま食料を持っていくことで、泰平を表す。
こういう状態は平和と言いませんか。
 読んでいた本に南部藩についての記述があったので書き込みしておきます。今まで飢饉や南部藩というものに特に注意を向けたことはなかったのですが、このようなコミュに入り、トピを目にしたことで注意点が広がったことの一つの成果だと思いました。皆様、ご教授ありがとうございます。

 読んだのはNHKカルチャーラジオのテキスト、『歴史再発見 世直し大江戸学』という本で、石川秀輔という人が著者です。今現在なら簡単に手に入り、また結構安価な本です。

 そのなかで、日本最大の飢饉といわれる天明の飢饉で、最大の被害があったのは南部藩だと言われているということをまず紹介してます。通常、餓死者は六万四千人を超えるといわれている、と書いております。これは幕府に対する藩の報告、当時の戸籍である宗門改帳でも確認できるのだということです。
 ところが地元の郷土史の専門家が、地元ならではの資料を駆使してこれに疑問を投げかけていると言うのです。『岩手県史』によれば、「藩日誌」という南部藩の内部資料、というより「裏帳簿」というものには天明を挟んだ期間の人口の推移が記述されているといいます。

 それによると天明の飢饉の二年前、安永九年(1890)の人口が35万7705人なのに、10年後の寛政二年では人口は35万7029人だというのです。天明の飢饉は、通常、天明二年からの七年間を指します。
 つまり『最大の飢饉』といわれてる時期に、人口は6万人どころか、676人減ってるだけだというのです。この程度の増減は、毎年のように起きている、と書いています。

 また藩の人口が20%減ったということになっている1830年代の「天保の飢饉」のときも、「藩日誌」によれば、1818年に32万6262人だった人口が、1838年には35万1332人になり、なんと2万5070人も増えているのだといいます。
 では、何故、人口減少の報告を出したのか? という問いに、石川氏は(あるいは石川氏が参考にした郷土史家は)こう答えています。天明の飢饉の少し前に、南部藩は幕府に七万両の上納金を仰せつかっていて、財政危機に陥りかけていたという裏事情があったというのです。

 そこで被害を多く報告し、これ以上の上納金を仰せ付けられないように予防線を張ったのだというのである。この時期に領内の商人が、特に混乱した様子もないということを石川氏は付け加えています。

 別の箇所でちょっと興味深く思ったのは、人口に対しての米の生産量です。一般的な説として、享保の頃の総人口が約3128万人くらいなのだということです。これに対して、米の生産量は3200万石。一人が年間に食べる米が平均一石なので、米だけで十分に量があると指摘しています。
 ちなみに1800年頃には人口は横ばい、あるいは減少気味なのに対し、米の生産量は3700万石以上になっていたといいます。これは「農民は米を食えなかった」という定説に対する反論として提示されていたのだけど、雑穀を混ぜるのは農村ではごく最近まで普通のことであり、理由も「そのほうが力がつく」というくらいのことだった、としています。

 ちょっと長々と書き込みましたが、そんなところです。ちなみにこの本は当該箇所以外にも面白い点がありますので、興味のある方は一読してみるのもいいかと思います。

  
 
>土佐坊昌俊さん

 あ、本当だ、誤字ですね、ありがとうございます。

 内容的には同じと考えてよろしいんでしょうか? 以前の土佐坊さんの書き込みでは、「天明の大飢饉のときでも300人増えてる」という趣旨の内容でした。今回取り上げた石川氏のものでは、「天明→676人減」「天保→2万5千人増」ということですが。趣旨としては同じということでいいんですよね。

 いずれにせよ、僕が飢饉の記事に着目したのは主に土佐坊さんの書き込みがあったからです。どうも、ありがとうございました。借金のために、という説は初めて聞くものですね、なるほどです。
 石川氏が改めて取り上げたというのも、やはり「江戸時代は飢饉が頻発して大変だった」「百姓は自分で作った米は食えなかった」というイメージが依然として強いからじゃないでしょうかね。僕は最近になって江戸学に手を出したクチですが、正直、色んなことで驚くことしきりです。
>土佐坊昌俊さん

 あ、いえいえ、とんでもないです。と、いうか江戸に興味を持ち始めたのが、本当に去年の中頃くらいからなので、知らない事だらけなんですね。むしろ大変勉強させてもらってます。…と、いうか江戸バッシングしないと、大学教員になれないような事情なんですか? その方が感覚的には驚きなんですね。

 別トピの土佐坊さんの内部事情の話などを伺って、ちょっとビックリしてたんです。江戸をよく言うと右翼がくる、というのがどういう論理に基づく行動なのかちょっと判らかったんですね。江戸=封建・圧政、近代=解放というイメージで、江戸を擁護すると左翼が批判するというのなら判るんですが。
 お手数でなければ、その辺を少しご教授いただきたいです。

 しかし最近、ちょっと『江戸』を見直す傾向が出てきたんじゃないでしょうか。幾つかのテレビ番組なんかも、ちょっとそういう再評価的な方向で取り上げてた記憶もありますし。
 なににしろ多面的な見方が、もっと広がりをもって欲しいですね。僕は石川氏の本自体、初めて手に取ったものだったので、もっとこれから読み進めていこうと思っています。
>土佐坊昌俊さん

 返事が遅くなってすみません! いつの間にか見逃してました。大変、丁寧な解説感謝いたします。本当にありがとうございました。

 僕は今になって三田村翁に関心を持ったばかりなので、そういう境遇の方とは全く知りませんでした。地元の八王子図書館で、入り口付近の特設コーナーが設けられているのを見て、「ああ、きっと有名な人なんだろうな」などと呑気なことを考えていたような次第です。
 それに「お江戸でござる」が、それほど影響があったというのも知りませんでした。と、いうか江戸に関心をもったのが最近なので、番組自体を見たことがないんですね。惜しいなあ〜、またやってくれないもんでしょうかね。

 しかしそう考えると、「江戸検定」みたいなものが浸透してきた現在は、ようやくマシになってきたという状況なんですね。もっと公平な知識が浸透することを願ってやみません。
 大変なお手数おかけしたこと、全く恐縮の至りです。本当にどうも、ありがとうございました。

 
 山室恭子さんの快挙を見逃す訳にはいきません。

 彼女の著書『黄門様と犬公方』(文春新書)がでたとき、ちょうどボクは『忠臣蔵で江戸を探る脳を探る』と題した駄文を連載中でした(2年間・24回)。

 執筆しながら調査しているうちに、「生類憐みの令」と称されていたもの通説についての疑問点がいくつもでてきました。
 通説の根拠は、何か。当時書かれた出典があるとしたならば、信頼できる史料なのか。自分なりにいろいろ調べていたところに出たのが、『黄門様と犬公方』。

「これだ!」

 出版社を通じて山室さんを紹介していただき、自分で調べたことにあわせて山室さんの著書で初めて明らかになったことを紹介することになりました。

江戸時代が平和か平和じゃなかったかってのが
変なとらえ方のような気がしますけどね

普通は戦争(いくさ)が無い事で 平和だった。と、とらえていますけど。

それに一揆がたくさんあるように書いていますけど
その表では 100年間に7回しか書いてないですね
100年間で 7回ですよexclamation ×2 

平和そのものじゃないですか

今(1945年の戦争から2010年まで 戦争をしていない日本は
平和なのではないですか指でOK

この間にも 各地で色々な紛争はありましたよね
成田空港反対闘争の農民と国なんかもそうだし
米軍基地問題 今注目の辺野古とかもそうだし
戦後の公害問題、労働争議、
地域での紛争は 今でもたくさんありますよ

それでも 江戸も戦後の昭和、平成は 平和ですわーい(嬉しい顔)
返答になるかどうか・・・

西洋史専攻だった者ですが、
17世紀、18世紀、19世紀の中盤まで
全く対外戦争無し。攻めも攻められもせず。
こりゃ、「大平和時代」。
当たり前かも知れませんね、国民国家じゃないんですから。

300余藩の国際社会を形成していた日本。
神聖ローマ帝国状態でありますから「徳川ヤマト国」とでも
書き表しましょうかね。

お殿様が地主じゃない封建制度なんて西洋人が聞いたら腰を抜かします。

あ、本題から外れた・・

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