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史跡コミュの今治藩主の墓

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 愛媛県今治市古国分

 1959年03月31日、愛媛県が史跡に指定。

 瀬戸内海胡季犛津公園内。
 唐子浜に沿った県道38号線の西側の標高30mの寺山の山頂にあります。
 久松松平家今治藩の初代・第3代・第4代藩主の3基が67基の燈籠に守られて老松の中に安置されており、墓碑は何れも巨大な宝篋印塔(ホウキョウイントウ)です。最近は心霊スポットとも見做されているとか…。なお、他の歴代藩主の墓は江戸にあります。
 中央が初代久松松平定房(1604〜76)の墓で、高さは3.6mもあります。定房は徳川家康の異父弟である久松定勝の五男で、寛永2(1625)年に伊勢長島7000石に封じられ、寛永12(1635)年に兄定行が伊予松山150000石に封じられたのと同時に今治30000石に転じました。寛文5(1665)年、定房は関東で10000石を加封されて計40000石となり、延宝2(1674)年に隠居、二年後に73歳で卒去しています。なお、松山藩は御家門(ゴカモン)の親藩として遇されましたが、今治藩は譜代扱いでした。
 左側が3代定陳(サダノブ;1667〜1702)の墓で、定房の物よりやや小振りです。定陳は就封の際、弟の定昌に関東の5000石を分与、関東の残り5000石を伊予国宇摩郡の18ヶ村と交換したため、以後、今治藩は伊予国86ヶ村35000石のまま廃藩置県に至りました。定陳は農政における均田制の導入や前堀塩田の開発等を行なって藩政を確立、西山宗因に学んだ俳人としても知られました。
 右側が4代定基(サダモト;1687〜1759)の墓で、定陳の物とほぼ同じ大きさです。定基の時代には、宝永元(1704)年と宝永5(1708)年に大暴風雨によって凶作に見舞われたため、風水害防止のため蒼社川の改修工事を開始しますが、人夫を無償強制労働させる無茶をしたため工事は遅々として進みませんでした。さらに享保2(1717)年と翌年には江戸上屋敷の火災と旱魃があり、享保5(1720)年には城下の室屋町で大火が発生したため、藩財政は窮迫、享保9(1724)年には倹約令が出されています。なお、この頃、柳瀬義達が綿繰木綿の方法を考案して白木綿生産に成功し、大坂方面への出荷を始めています。
 墓所からは唐子浜の眺望が見事です。

コメント(3)

左;3代定陳墓
中;初代定房墓
右;4代定基墓
左;唐子浜遠望
中;比岐島遠望
右;国分山城遠望

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