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SWEET GEORGIE FAMEコミュのGeorgie Fameの下積み時代の手記翻訳 1/4

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4部に渡る翻訳は1965年の英国のある雑誌に出ていたジョージィ・フェィムによる一応手記で、「Yeah, Yeah」大ヒットまでの彼の下積み時代の「涙なくしては読めない」(大げさか?)物語。

内容からしてかなり正確と思われます。音楽活動を始めて60年近くになっても第一線で現役でやっているのは、星の数ほどスターになっては消えて行った他のイギリスのミュージシャンに比べることは出来ません。

これは4〜5年前に載せる話をこのコミュニティでしてからやっと実現しました。

セコンド・アルバム”Fame At Last”の録音風景写真もご覧下さい。しかしそのLPタイトルの意味がこれを読むと実感出来ます。LP裏にも録音時の一部写真はありました。バック・コーラスのBreakawaysのお姉さんたちの写真ありますよ。
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〜どん底はつらいよ〜成功までの道のり  byジョージィ・フェィム       1/4

俳優でも歌手でもショー・ビジネスでの成功とは、彼等の若い頃の希望の夢がかなうことである。最近では私はそれなりの分け前を得ているし、それを確かに味わっている。しかしそこに行き着くのは本当につらいことだった。

どん底では「人生が厳しい」なんて言っても、それじゃあしばしば言い足りないくらいだ。自分のやっていることが好きではなく十分な自己信頼がなければ、ショー・ビジネスでのキャリアは選ばないほうがいい。

私がようやく音楽で自分の足がかりを見つけるのには長い時間がかかったが、そうなった時は何かいいことをして、何かが起こるまでそれにかじりつくよう決めていたものだ。

それは私がランカシャー州のリーで日中は綿加工工場で働き、週に2晩、毎回10シリングでピアノでブギウギを弾き出していた頃に遡る。そして自分のバンドをやっていたロリー・ブラックウェルに出会ったバトリンのホリデー・キャンプで3週間の仕事をするようになった。彼はショー・ビジネスでの私の最初の本当の友達だった。あくせくしながらも15ポンドを何とか貯め、契約終了後は、金、自分用の衣服、そして仕事のないミュージシャンと共にロンドンに辿り着いた。

当時を振り返るたびに私は大声で笑い出したくなる。我々には何の仕事もなく、バンドのどれかのメンバーがその日に自分に親切にしてくれるかによって、毎晩違った家に寝泊りしていた。 午前中は地下鉄でウェスト・エンドに向かい、誰か仕事をくれないかと祈りながらコーヒー・バーでうろついたものだ。まともな食事は何か特別な機会の時だけで、それを払うのは普通はローリーだった。結局はローリーがグループをイズリントンのダンスホールに連れて行き、ポスターを自分たちで描いてそこに3か月間滞在した。それは大失敗だった。ほとんどは10シリングになり、自分の日々の稼ぎは2シリングだった。

当時の毎日の食べ物は6ペンス・バッグのイモだった。ホールのオーナーは上の階の部屋に私を居させてくれたが、想像するだけでももっとうんざりするような所だった。追加された家具は小汚いベッドと椅子1つまでだった。正確には贅沢とはいえないが。自分は当時かなり必死な気持ちで、かつそれがどのくらい続くのかと考えていたことは認めざるをえない。

それでも状況は少しでも上向きになり始めた。ライオネル・バートがある晩ローリーに会いにきて、私を聞いてからラリー・パーンズによく伝えてくれたのだ。そのうち私はマーティワイルドのパッケージ・ショーのオーディションを受けた。ニワトリの数を数えないで、実家に一時帰宅する手はずを整えていた。ラリーが翌晩にウォーセスターに居るよう私に言ったときは驚いたが、ちょっと振り向いてそれは無理だと言っただけだった。家に帰るつもりだったので、それっきりになったわけだ。「うーん、それなら戻ったら電話をくれ。」とラリーは私に言ってくれたが、とんでもない失敗を自分は犯してしまったわけだ。

私はロンドンに戻り、彼から仕事を回して貰えるように試みたが、彼はあまりに忙しく、そのことは完全に忘れてしまっていた。金もなく、住むところもなくj、私は落ちぶれ果てていた。やがてパブで演奏する仕事があったのでローリーの元を去り、そのパブで住み込むようになり、毎晩ドラマーとロックン・ロールをがなりたてていた。気が滅入るような気持ちだったが、それにしがみつくように決めたのだ。ロンドンのショー・ビジネスについてのこの手の話にはどれも何かがあるとは思えてはいたのだ。

コメント(4)

Georgie Fameの下積み時代の手記翻訳 2/4

                           2/4

何かいいことが起こらないかと願いながら街に出て行った。金なんて冗談で、どこかで聞いたことがあるけどそれほど目にした事がない何かで、時々バスの無賃乗車をして後になってひどく罪悪感を感じたものだ。ある日、もう必死の思いでライオネル・バートに電話をしたら、ラリー・パーンズのところのグループのバックをやる仕事を何とか与えてくれたのだ。これdちゃんと食えるだけの金をやっと稼げるようになったわけだ。ラリーのところではプログラムに出ているほとんどの出演者のバックで2年間演奏した。私は唯一のピアニストだった類の話で、ツァーが終わるまではそれほど悪くはなかったが、その後の2ヶ月間はずっと失業している自分がいたものだ。

ブラックプールでの夏の間、40ポンドを貯めたことがあった。私はあまりの世間知らずで、うちの30ポンドをよく知らない誰かに貸してしまい、それはもう戻ってこなかった。

やがてビリー・フューリーのバック・バンド参加に選ばれた。それがオリジナル・ブルー・フレームズの始まりだ。

ビリーとは1年間国内中をツァーし、まともな場所で演奏することもあったが、薄汚いダンス・ホールの方が多かった。金払いはそこそこでそれなりに楽しんだものだが、音楽的には大分不満が溜まりつつあった。自分には練習が必要だったし、自分で歌いたいという気持ちをひそかに持ち続けていた。

毎晩同じ曲をやっていたので、次第にかなり苛立ってきてもう辞めることを決心した。しかしそれらの経験にはとても感謝しており、私が当時のことをけなしているとは考えてほしくない。単に自分のキャリアがその手の音楽とは合わなかったということだ。

そのグループを去り、ロンドンに戻ったら、一文無し、家無し、職無しになってしまった。幸いなことに旧友のマイケル・ニールにばったり会い、彼は当時はネロとグラジエィターズというグループを率いていた。彼とは同郷で、かってはライバルのピアニストだった。

マイクはロンドンには少し前に着いたばかりで、ソーホーの小さなフラットを持っていた。彼は私に憐れを掛けてくれ、それからは彼の家は自分の家にもなった。外に出るなんて事はほとんどなかった。それは仕方がない、なぜなら金が無いのだから。友達が食事に連れて行ってくれなければ、自分では食べるなんてことなかった。実際のところ誰がか床屋にも連れて行ってくれた。

でもそのずっとひどい時でも、自分の人生では一番大切な時期だった。マイクには最高のジャズ・レコード・コレクションがあり、チャーリー・パーカー、ルイ・プリマ、キャノンボール・アダリー、そしてジャズのソロを取り上げ、それに自分の歌詞を当てはめたキング・プレジャーのような人たちのLPから何時間も学んだものだ。自分にとってはそれは究極の音楽の能力だ。それが自分が探していたものだと気がついたのだ。もっとも、もし自分がバンドを持って普通の連中に対してブルーズやジャズをわからせるようになればだが。

考えるヒマはいくらであり、事態はそれほど混乱していないようだった。チャーリー・パーカーの本を借り、1ページ1ページ苦労しながら何日掛けてタイプした。もうごちゃごちゃだ!自分は世界で最悪のタイピストの一人だったけど、他には何もすることがなかったので、夢中になっておれた。フラットから夜に出て鍵を中に置き放すようなまったくバカげたクセを当時するようになっていた。どこも行く所がなく、しばしばロックアウトされた時はバークリー・スクェアをグルグル歩き回って一晩過ごしたことになる。それがなぜバークリー・スクェアなのかは聞かないでもらいたい。
Georgie Fameの下積み時代の手記翻訳 3/4

この業界で名を上げようとしている時って悪運しかないというのは信じられないかもしれない。ザ・チェロキーズというかなり人気の出たグループがかって私に彼等の運の悪さを話してくれたことがあった。800ポンドとほとんどの衣装を自宅から盗まれたことがあり、家賃未払い300ポンド、光熱費未払いで呼び出しをくらい、ロンドンに来てからは、郊外の通りに止めたバン車で2週間住んでいたという。しまいには文無しになり、パン、ジャム、コーンフレーク、そして彼等の間だけで10本のタバコだけで生きていたらしい。ある夜、彼等がバン車で寝ていると、警官が窓をノックして彼らに何をしているのか聞いてきた。説明するとその警官は彼等に地元のダンス・ホールでの仕事をオファーしてくれたが、彼等の悪運とは、そこでの仕事がキャンセルになって何もかもダメになったことだ。

ボビー・ライデルが売れる前の苦労話を聞いたことがある。ボロ車で町から町に旅をして、夜はそこで寝泊りし、ハンバーガーで生き延び、しばしばガソリンの金が無い時はいつも車を何マイルも手で押していくというようなことをしながら彼は自分のマネージャーと何ヶ月も旅を続けていた。ボビーのもっとも大事な財産である最高の背広スーツは極端なまでに保護されて守り抜かれていたはずだ。結局はプロモーターは彼に仕事を入れ始め、彼はアメリカで最も成功した若い芸能人の人になったのだった。

私の親友のジ・アニマルズもやはりひどい時期を過ごしていた。彼等がロンドンで始めた時は、ノルウェーの男爵が高級フラットを彼等に借りてやったが、家具もカーペットもないところだった。一本の熱線の電気ヒーターがあり、キャンプ・ベッドか寝袋で彼等は寝ていたのだ。食事は食器戸棚の棚から食べなくてはならなかった。エリック・バードンは一番暖かい部屋であるバス・タブで眠り、友達がパーティーに来た時は、レコードプレイヤーをバスルームにつなげて、そこでパーティーは行われていた。

さて自分の話に戻ると、ある晩友人がロンドンのフラミンゴクラブに連れて行ってくれたのだ。そこはノリのいいR&Bバンドで踊る幸せいっぱいの連中がいるようなクレージーなところだった。自分にもそこでチャンスがあると思ってしまった。ある日曜日、そこに行ってみるとバンドで欠員が出来たらしい。そこで「私にやらせて下さい。」と聞いてみた。そのバンドとしてはよくまとまって爆弾を落としてしまったのだ。実はリック・ガンネルはクラブのオーナーで後に私のマネージャーになるのだが、かなり気に入ってくれ、レギュラーで雇ってくれるようになった。それはそんなにたやすくはなかったのはわかってもらえるはずだ。新入りとしても、そのうち最初に逆戻りするかもしれないと考えるとぞっとする時間にまみれていたが、ブルー・フレイムズと共に我々のR&Bとジャズへの支持者を増やし始めていた。私はハモンド・オルガンへグレードアップし、本当のスィングする音を創り出していた。
Georgie Fameの下積み時代の手記翻訳 4/4

事態は良くなりつつあった。週に一晩だけから金曜のオールナイト・セッションにまで発展していった。眠らない分を補うのは絶対無理だったので頭にはきていたが、それもしまいにはどうでも良くなってきた。そして土曜と月曜もやるようになり、自分のやっている音楽をより多くわかるようになってきた。我々が惹きつけているお客のサイズからして、自分はこのタイプの音楽にピッタリ落ち着き始めているのを気づき始めていた。ファンたちもそれでいいことを知っていたのだ。

それで金がすぐに舞い込むようになったとは思ってもらいたくない。オールナイトで4ポンド、それ以外はおそらく3ポンドか2ポンド10シリングだったが、自分のフラットも手に入れたし、暮らし向きはもっと良くなり始め、居心地は良くなってきた。

アメリカのGIたちがクラブに来るようになり、モーズ・アリスンやオスカー・ブラウン・ジュニアのようなレコードを持って来てくれた。いつも学ぶことばかりだった。ジョージィ・フェイムとブルー・フレイムズは狂ったようにスィングしていたんだ。

私はそのグループはそこからどこへ向かうのだろうと考えるようになった。いろいろなスケジュールが舞い込み始めた。口コミで話は広がり、多くのジャズ・クラブと契約が決まり出した。ダンス・ホールではみんなは(我々がやろうとしていた音楽を)最初は知ろうとすらしなかった。「一番流行っているポップスをやってくれ!」と彼等は叫んでいたものだ。私がやつらにその手の音楽はやらないことを伝えると、彼等は不快な態度になったが、自分の好きなスタイルの音楽をずっと続けることを自分は決心した。自分が正しいのはわかっていたからだ。

1964年初めにはレコードを作り始めた。我々の最初のLPはうまく行き、ヒットはなかったけど、それには元気付けられた。「Yeah Yeah」が我々の最初のヒットで首位に輝いたレコードになったのはレコーディングを始めてほとんど1年経ってからだ。成し遂げたものとマッチするのに何日もかかったとは思えない。

ポップ・ミュージック分野をその時まで長きに渡って占めていたギター・サウンドから離れて自分が演ってきた音楽と自分自身を、世間はついに受け入れてくれたのだと知ったのだった。これによってみんな誰もがジャズやR&Bに夢中になると自分が信じているとは言うつもりはないが、この手の音楽が一般的に好まれるようになったのは自分には嬉しいことなのだ。

あっという間に売れてしまう連中のことをたまに羨ましくなることがある。どん底では私は飢え死しそうだったし、こすり合わせる1/2ペニーすら持っていなかったので、どん底というのはいかにキツイ処だと自分でもわかっている。しかし不思議なことに止めるなんてことは考えたこともなかった。(完)
おー!!ありがとうございます。これは貴重な当時の手記ですね。しかしビリーフューリーのところを次の仕事の当てもないまま あっさり辞めちゃうって、若さでしょうか(笑)
ホントはいろいろ他にもごたごたあったのかな。
フラミンゴクラブとそこに通うGI達がGFのスタイルを完成させたんだな、と改めて確認しました。
面白い!

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