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日向ひまわりを勝手に応援するコミュのMAMMO.TVより

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#163 人生いろいろありますが、おもしろおかしくお伝えいたします。神田 ひまわり さん(講談師)
国内各所で開かれる寄席の舞台に引っ張りだこの講談師、神田ひまわりさん。ひとりでも多くの人に講談を聞いていただきたい。その純粋な思いを胸に、黒紋付袴姿でしゃんと背筋をのばす彼女は、講談界の古き良さと新しき良さを絶妙のバランスで開拓しようとしています。普通の高校生だった彼女が、寄席演芸の世界に入り現在に至るまでを、今回は特別に「おはなし」していただきました。

どうもはじめまして。講談師の神田ひまわりと申します。みなさん、落語はご存知かと思いますが、講談というものを耳にしたことはございますか? え、ない? そうでしょう。ほとんどの方がその存在すら知らないといったお顔をされます。
講談は落語と同じ「話芸」ではありますが、読む芸です。釈台という机の上に本を置いて読んで聞かせていたからなんです。江戸時代文字が読めない庶民の人に、昔、こんなことがありました、今こんなことが起こってますよって、読み聞かせるレポーターであり、キャスターでありまた解説者でもあったわけです。それが娯楽に変わっていったというわけです。つまり歴史上の人物や実際にあった事件事柄を、おもしろおかしくふくらませてお客様に楽しんでいただく、それが講談です。

数多い講談の読み物(演目)の中に、昔の戦さ話、合戦物を独得な口調で読み上げる芸「修羅場」とおいものがあります。この修羅場には、メリハリや緩急、呼吸、間など、講談の基礎といわれるいろんな要素が入っています。「それを身につけることで、時に自然とメリハリがついていく。修羅場が読めなければ講談は読めない、だから修羅場を毎日、5分でも10分でも腹から声を出して読みなさい」と言われています。
講談は一席が、短くても30分はあります。長いものになると40分、50分、1時間はあっという間。今まで私が覚えた話は4、50席あるんですが、自分には合わないと感じたものや、今はまだ早いなと思うもの。そうやって考えていくとすぐこの場で、言われて読めるのは10席くらいでしょうか……少ないですね。
落語や講談の世界は、まず前座修行という期間があります。だいたい3年から4年。そのあと「二つ目」に昇進し、さらには「真打ち」になっていきます。前座修行中、弟子は師匠の体の一部みたいなものです。昔は住み込みでしたが、今は師匠の家の近くにアパートを借りて、元旦から暮れの31日まで、毎日通うという弟子がほとんどです。そんな講談の世界に入ったきっかけは、二代目神田山陽との出会いでした。
高校を卒業して、広島から東京の専門学校に出てきたんですが、毎日がアルバイト生活。そんなときにたまたま足を運んだ講談の会。
舞台で、当時すでに80才を越えていたおじいちゃん講談師、神田山陽が元気にしゃべっている、そのなんとも愛らしく魅力的な姿。「自分は講談師になれて本当に幸せですね。大好きな講談をこうやって読めることがなによりの生き甲斐です」そう語る山陽の純粋な目の輝きに完全にやられてしまいましたね(笑)。そんなに講談って魅力があるものなのか、って。それまでは演芸というとテレビで笑点を見るくらい。この世の中に講談という芸があることすら知らなかった私が、この山陽をもっと知りたい、山陽のそばにいたいと感じた、それが私の弟子入りのきっかけだったのです。
とはいえ、何も知らない世界によく飛び込んだと思います。まだ若かったですからね、もし合わなかったらやめて帰ればいいという気持ちもありました。今思えば勢いだけだったな、と。私って、グジグジ悩むタイプなんですが、そのうちに悩むことに疲れちゃう性分でもあるんです。どうせ悩んでいても変わらないだろうから、だったら行っちゃえ、って。基本的には思い立ったら吉日人間なんですね。

私は、学生時代、いたって普通の子どもでした。暗いわけでもなければ、みんなの前で先頭に立って何かをやるタイプでもなく、成績も中の下。これといって特徴のない生徒だったと思います。先生に「どんな子だったか覚えていますか?」と尋ねても首をかしげてしまうような、印象に残っていないタイプ。友達は話す間を与えてもらえないようなパワーのある人たちばかりで、私はいつもニコニコただ笑っているばかりでした。
高校2年の終わりぐらいに、これからどうするか進路を考える時が来た。ずっと広島の山の中の、駅もない町で育ちましたからね、いろいろと考えました。このままだと、ここで一生が終わってしまうかもしれない。でも私、育った町が大好きだったんでそれはそれでいいかなと。でもやっぱり、それではあまりにもおもしろくない。一度は町を出よう。そう思ったんです。
大学、短大、専門学校への進学、あるいは就職と選択肢はたくさんありましたが、どうもやりたいことがハッキリ見つかっていなかったんです。そんな時に、小さい頃から宮崎駿さんの作品が大好きだったことを思い出して、アニメの仕事に携わる仕事ができないかなあと考えたんです。でも、絵は描けない。そうだ、声優がいい。声優なら簡単そうだし(今思うと恥ずかしいかぎりです)、何とかなるんじゃないかなあ、と。
こうして私が選んだ道は、声優の専門学校への進学でした。どうせ出るのだったら大阪ではなく、東京まで出てしまった方が、広島から遠いし逃げて帰る確率も少ないだろう。行っちゃえ,行っちゃえ、と。勢いで願書を取り寄せ、勝手に受けてしまったのです。親は広島市内の学校に進学して、卒業したら実家に戻って来ることを期待していましたから、大反対。優しい父親が口をきいてくれなくなりました。実家はパン屋。特別裕福な家ではありませんでしたし、そんな中よく出してくれたと思います。
しかし、親の反対を押し切って入った学校も半年で行かなくなってしまいました。上京した年の秋に山陽と出会い、寄席へ1年ぐらい通って、正式に入門し芸人になってしまったわけです。親は驚いてました。芸人になるまでを説明するのにすごく時間がかかりました。本当に、親不孝ものです。
芸人になると決めた時から、親からの仕送りにはいっさい手をつけませんでした。両親が一生懸命働いて送ってくれているお金で芸人にはなれないって、思ったんですね。親に対して、それが、講談師になりたいと思った私にできる唯一のけじめだった。親に一円でもお金を出してもらったら、芸人をやめて帰ろうと。
前座修行はだいたい4年間一日も休みがなく、当然その間実家に帰ることもできません。それを広島の友達に話したら、仕事だったら田舎に帰れるのか、よしわかった。といって、同級生が企画して町で寄席をやってくれたんです。300人も入る会館を満員にしてくれました。そこで両親にもようやく講談師としての姿を見せることができました。だけど、すごく照れましたね。舞台に上がった瞬間、感極まって泣きそうになりました。本当にままならない芸だったんですが、みんながあたたかい拍手で迎えてくれて、嬉しかったです。入門して3年目、一日だけの里帰りの思い出です。

4年の修行が終了して、二つ目に昇進した時小さなお披露目の会を開いて、改めて両親に東京での姿を見てもらったんです。父親はその時も連れて帰るつもりだったらしいのですが、後から聞いたら、私が舞台へ出ていくときの拍手が、すごくあったかかったって言うんです。その音を聞いた時に、これだけのお客様が娘の後押しをしてくださっている、芸人として歩み、生きていこうとしている娘を引っ張って帰ることはできないと思ったそうです。だからがんばれって言ってくれた。たぶんそこが、ひとつの区切りだったんでしょうね。好きなことをしなさいってはじめて言ってもらえました。講談師神田ひまわりとして、やっと歩いていける。そう思いました。
自分で言うのもおかしいのですが、私はこの世界が向いていたのだとつくづく思います。前座修行の間、ふつうはみんなやせるのです。つらいし、精神的にもまいりますから。それが私の場合は10キロも太った。入って半年もしないうちにぶくぶくと(笑)。というのも、縦社会が厳しくて上が絶対的な存在である分、下の面倒はきっちりと見てくれるんです。ごはんも食べさせてくれるし、お供をすれば交通費から何から全部面倒を見てくれる。また私がなんでもニコニコ、おいしく食べるので、ごちそうのしがいがあったようで、ありがたいことに毎日誰かがごはんを食べさせてくれました。当時収入もなく、家賃5000円の風呂なし4畳半に住んでいましたが、食べるのに困ることは一度もありませんでした。師匠も「お前はよっぽどこの世界が向いているんだなぁ」って言ってました。
個人差はありますが、私にとって修業時代はたいへんじゃなかったです。あっという間の4年間。もちろん悔しくて涙がこぼれたことも多少はありましたが、今となってはいい思い出です。
師匠山陽に惚れ込んで入ったこの世界でしたが、講談という芸そのものに目覚めるまでには時間がかかりました。入門して3年経った頃、ふっと「私のやっている芸はちゃんと講談になっているんだろうか?」と不安になったんです。それもそのはずです。私は、講談の基礎をしっかり身につけていなかったのです。
そんな時に出会ったのが所属する協会も一門と違う宝井琴柳という当時47、8の中堅どころで、脂が乗っていて、とにかく勢いのある芸を持った大先輩でした。その先生の芸に触れた時に、「あぁ、講談ってこんなにもおもしろいのか」と激しい衝撃を受けました。とても心地のよい芸で、自分の波長にぴったりと合いました。私もこういうふうに話が読めるようになりたいと強く思ったのです。

幸いなことに山陽から了解をもらい、琴柳先生のところへ稽古に通えるようになりました。しかし、稽古のお願いにあがっても、琴柳先生がなかなか首を縦に振ってくれません。それでもしつこく半年近く頼み込んで、やっと稽古をつけてもらえるようになりました。先生は、辛抱強く一から鍛え直してくださいました。夜討、朝駆、必死(?)の稽古の甲斐あって、講談の要とも言える「修羅場」を、もちろんまだ十分ではありませんが、ほんの少しは体に染み込ませることができるようになったと思います。
私には師匠山陽という講談師になるきっかけと、琴柳先生という講談を続けていきたいと思うきっかけ、2つの転機がありました。自分のめざす、やりたい芸に出会うまでにずいぶんと遠回りをした気もしますが、このきっかけが逆であったら講談師になることさえなかったと思いますし、やはり、私の道はこれでよかったんだと思っています。
二つ目に昇進して3年目、私がこの道で生きていこうと覚悟ができた頃、山陽は亡くなってしまいましたが、芸人として独り立ちできない私をありがたいことに現在の師匠痴楽が引き取ってくれました。
基礎さえきちんと身につけていれば、何をやっても講談になると思っています。今は古典しかやっていませんが、新作をやらないというつもりはありません。どちらかと言うと、なんでもやりたいと思っている方でしょうね。
きっちりと講談を読みたい。でも、今の若い人にも楽しんでもらえるように変えていかなきゃならない。そのバランスをどうとるかが難しいです。全部ごちゃごちゃにしてしまったら、講談でなくても良くなってしまいますから、講談の良さを残しつつ、なんとか新しい客層をつかめないものかと考えています。
絶対にしたくないのは、博物館に飾るような芸ですね。箱の中に飾られて、あぁこんな芸もありましたねぇ、となつかしまれるような芸はいやです。21世紀の娯楽として、きちんと講談を読んでいきたい。でも、守りたいものは守りたい。その両方を、宮本武蔵の二刀流のようにできたらいいなぁって思いますね。講談って、じっくり聞かせるところもあれば、叩き込むところもある、いろんなわざのある幅広い芸ですから、基礎がないと絶対にできません。新作をやるにしても、懐刀はいつも忍ばせておいて、いざという時、「こういう手もありますよ」という余裕を持ちたい。それができたら、講談がもっといろんな形で多くの人に伝わっていくと思います。

以前、ロックのライブとクラシックのコンサートと、小芝居と講談っていう組み合わせの企画に呼んでいただいたことがあります。クラシックのあとの出番だったんですが、「意外性があって良い、全体にメリハリがついた、和物が一本入ると違いますねえ」と好評でした。最近は学校で一席やらせていただくこともあります。若い人たちが集まるところへもどんどん出向き、講談の楽しさ、魅力を知ってもらうこともとても大切だと思います。
女の芸人というだけで得な部分はたくさんあると思います。もちろん、その逆もありますが、今は色変わりになりますし、気軽に声をかけていただく機会が多いです。ただし、長い目でどうでしょう。4、50代からは厳しいと思います。じゃあ、私の売りは何だろう?
私の今の武器は、黒紋付袴姿で本寸法の講談をきっちり読みたいというその姿勢かもしれません。女でそのタイプは少ないですから。他の人と同じではおもしろくないと思いましたし、それに、黒紋付袴姿で髪の毛をびしっとひっつめると、お客様が話を聞いていろいろと想像するのにじゃまにならないのです。その理由から今のスタイルにしましたが、やってみたら、自分にぴったりはまりました。でも、「かわりもん」って言われるんです(笑)。「おまえ売れたくないのか?」って。「赤やピンクの明るい着物を着て華やかにすればもっと仕事が増えるのに」「お前がきっちち講談を読みたいのはわかるが、逆に使いにくい時がある」と言われたこともあります。売れたくない芸人なんていないです。私だってもちろん少しは売れたいです(笑)。でも、その思いの中、「これだけは」というものがなくては。それが「個性」だと思うんです。
男女関係なく私にも、私だから読める講談が必ずあると思います。講談師神田ひまわりが読む講談、描く世界が、一人でも多くの人に楽しんでいただけるよう、これからも精進していきたいと思います。ぜひ、寄席へおいでくださいませ。


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