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津留晃一を噛み砕くコミュの少林窟道場坐禅体験記 2

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■■■■少林窟道場坐禅体験記 2■■■■




・・・・少林窟道場坐禅体験記 1 からのつづき
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31672219&comm_id=2845888



【少林窟4日目】
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ここまで分かったら、何だかもうここに居る必要がないように感じてきた。この少林窟の事を知った体験記の著者が9日間の体験であったために、私も23日から9日間を初めの予定にしてありました。そこで明日帰ることを老師に話してみようと考えた瞬間、心が揺らぐのを感じました。「あっ、こんな事でも未来に意識が向いたらもう意識は揺らいでいるんだ」そんな事に気付きました。これまでの娑婆の生活だったら気付かないほどの心の揺れでした。そこですぐこの件は放っておくことにしました。「帰ることになっているならその時そうなるだろう」と思ったからです。

これは後から分かったことなのですが、私のこのときの「帰りたい」という気持ちは、前夜の方丈と女性参禅者のやりとりにうんざりして、その僅かの感情を未処理であったためにそのエネルギーブロックからわき上がってきた想念でした。「ここまで分かったのだからもうここに居る必要もない」とても正論に思えます。ですがこのときのこの想念はうんざり感に対する自我の正当な意味づけにすぎなかったわけです。自我はとても巧妙に自己を正当化します。こんな時こそ自分の細やかな感情にそって行動して下さい。帰ることを告げようと思ったときのストレス感があったからその感情に従って帰ると言いませんでした。

実際は7日目に帰りましたから、翌日帰ることを告げたのですが、このときにはすがすがしく告げることが出来ました。心の中に満足感があったからです。ぜひ思考によらず感情の導きに従って下さい。

坐禅の度に中心がハッキリしてきました。全ての雑念が瞬間に関知できています。雑念と自分のコントロール想念が同じに扱えています。そして今まで内側からのメッセージとしてありがたく受け取っていた想念までも雑念として処理できるように変わってきました。只私が居るだけです。全て言葉で関知する想いは雑念にすぎません。言語に置き換わった時点で既にそれは戯言です。どんな物も放って置いてさらに前に向かって進んでいきました。叡智と思われる情報ももはや重要ではありません。だってそんな物はいつだって受け取れることが分かっているのですから。今は大切な坐禅の時間。さらに中心に向かって進むことにだけ専念しようとしたわけです。

と、その時です。大我と小我がひっくり返っていることに気付きました。「やったー、とうとう入れ替わった」と大感激している私を、静寂の中で私は静かに見つめていました。皮肉なことです。あれほど待ち望んでいた瞬間に出会ったというのに私には何の感動もありませんでした。考えたら当たり前ですよね。だからこそ我々は人間をやっているわけですから。

私は意識の反転を体験しました。自分がハイヤーセルフそのものであるという実感を肉体を持ちながら。一日中呼吸と共にあればその人はもはや神である。こんな事を聞いてはいましたが、それを実体験する事が出来ました。また私に起きることはみんなにも起きると言われました(5年ほど前に)。どうぞ今を楽しんでいて下さい。貴方も必ず体験します。1998年12月26日の事です。今年の冬至は、12月22日でした。春分、夏至、秋分、冬至、この4ポイントがエネルギーの変換点です。この坐禅に参加する日時が12月23日から(冬至の翌日)であったので、きっと何かあるのだろうと思っていました。

どうして呼吸に意識を合わせるのでしょうか。それは呼吸をしているのがハイヤーセルフであるからです。ハイヤーセルフは24時間100%意識的に呼吸を司っています。ですから我々がそれをやりさえすればいいわけです。呼吸に意識を合わせる。これは何も坐禅をしなくても出来ることです。日々の努力で可能です。どうぞ実践してみて下さい。

只この100%の意味について補足しておきます。残念ながら自我意識で思う100%はハイヤーセルフから見ると穴だらけのようです。それは我々の意識が揺らいでいるからです。波打っているわけです。ですから最低半分は中心から自我よりにあります。ここに呼吸に対する集中が必要となってくるわけです。その訓練が坐禅でありました。これは今回ここでやって実感したことです。

「今、ここ、この瞬間」に意識が集中できるようになればなるほど、心の位置、魂の指定席である「今、ここ」の心の位置が明確になってきました。それは未知の場所なんかではなく、お馴染みの場所でした。呼吸に意識がある状態そのものだったのです。自分のこれまでやってきた方向は間違っていなかったのだと実感しました。

「今、ここ」の指定席に心が座っているときの様子を少し書いておきます。瞬間に自分にやってきた想念に気付いています。ちょうど耳を澄ませば今貴方の周りにある全ての音を聞き取ることが出来るように。自分にやってくる想念が、ちょうど3次元的に言えば自分が聞いている音のような感覚です。貴方が音を聞いたとき、それを自分の物と感じないように、「今、ここ」にいると、そこにやってくる全ての想念を自分の物とは感じません。自分はそこにいて聞いているだけです。自分の物では無いという100%の自覚がありますから、それにこだわる事がありません。さらさらと流れて行くわけです。

全ての想念が重要ではなくなると言った表現もできます。ですから全てが戯言です。どうでも良いことをのたまわっているといった感覚です。自我の私は驚きました。「えー、俺が今まで偉そうに4年間書いていたことはみんな戯言ではないか」と。でも面白い物で、自分の想念全てが戯言(たわ言とは枝葉末節的であり、ほとんど重要性が無いという意味で使っています)であるなら。人がしゃべっている言葉も全て戯言として聞き取ることが出来ます。ですから人が何をいっても気になりません。「それは聞き捨てがならない」的発想が消滅してしまいます。どんな言葉ももはや重大事ではないからです。

これは大いなる力です。後から分かったことですが、私はこのためにとても日常が楽になりました。老師の語る大真理も、フムフムと言って聞けるし、老師の教育論的私見にも引っかかることなく聞けるようになりました。それまでは老師の教育者的こうあらねばならない論に若干引っかかっていたからです。

ここに来るまでの私は、感情的になることはなくなったものの、人が我見を主張してきたとき、瞬時にその対抗意見が私の脳裏をよぎったものです。瞬間に反論が頭の中に生起していました。それが起こらなくなったわけです。どんな人のどんな意見にも、フムフムと言って聞けるようになってきたと言うことです。即ちこれこそが今回私がここで達成すべき課題であったようです。このために私は自動的にここへ導かれてきた模様です。

実は、人の話にすぐに「対立意見が心に生まれない」とは、古く固まった思考回路がいったん崩壊したことを意味しています。この古い論理回路を破壊することが実は禅の目的なのです。人は言語を学び、概念を心の中に構築します。概念が生まれると次にはすぐにその対立概念が自動的に生じます。これが意識の働きだからです。これが心の自然法則です。そしてこの反対概念が対立を生むわけです。「ああ言えばこう言いう」と言った心の対立関係はこうして生まれてきます。誰の中にも「ああ言えばこう言いう」的要素があるはずです。言わなくても言うのを我慢しているだけではありませんか。いずれにしてもやっかいな心の働きです。この辺の詳しい心の仕組みは今後アネモネ誌で語られていくでしょう。





【少林窟五日目】
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もうすっかり落ち着き、座ること事態が楽しみとなっています。上半身が上に持ち上げれれていく。マリオネットの人形のように天井からツルされているようだ。おかげで背筋がまっすぐに伸びている。上半身のどこにも力が入っていないというのに。

どんどんエネルギーブロックが消えていっているのが判ります。私がこれまでやってきた浄化ではブロックを一つ一つ順に外していくというものだが、坐禅は全ブロックから均等に1%1%と消しているようだ。

老師は「一呼吸に徹しろ」と言う。一呼吸で良い。一呼吸、一呼吸。そして一歩一歩。一掃き一掃き。一動作一動作だ。「それで全て終わっていて何もないからだ」と言う。この感覚が今一歩解らない。そこで昼食後方丈に聞いてみた。「痛みも連続していないのですか」と。

「おう、そうじゃ。痛みも瞬間瞬間切れておる。終わっている。だから痛みも楽しむことが出来る」とおっしゃられた。

「うーむ、いったいどんな感覚なのだろう」。

また例の女性参禅者がやおら我見を披瀝し始めた。「おっといけない、この話に引っかかってしまいそうだ」と、さっと呼吸に集中力を与えた。ゆっくりと全神経を一吐きに集めていく。また一呼吸。只彼女の話を聞いている自分がいる。惑わされることがない。これが只聞く力だ、と実感した。四日間の成果の結晶だ。

途中の話は省かせて戴くが「じゃあ、無関心になると言うことですか」と、彼女はさらに老師につっかっていった。その時さっと言葉がでてきた「それは単に選択の問題と捉えてみたらいかがですか」と。彼女はなるほどと納得したが、老師は私に向かってニヤッとしながら「と、私見を披露しましたね」とすかさずおっしゃった。これは私がこんな修行の席では私見を挟む物では無いという想念が現実化しているわけである。我見を言う彼女に私も我見を言っているわけです。彼女のやっていることと内容は同じです。でも心に一物も無く只出てきた言葉はさっと消滅して後に何も残りません。

3日目の時、言いたいことを我慢したときには夜寝るときまでその件に関して残尿感が残っていました。が、この時は言ったことによって、前回との感情の残り方の違いをハッキリと自覚できました。心に引っかかった状態で相手に言った場合、咎めのエネルギーが入ってしまいますから跡を引きます。心が無の状態での発言はさっと消滅してしまうというわけです。言わなければ言わなかった体験があり。言えば言ったなりの体験があったわけです。

午後の坐禅の時、飛行機の爆音が聞こえてきた。その音に集中してみた。「ぶーん」だった音は、「ぶっぶっぶっぶ」だった。確かに連続していないのだ。でも不思議なことは、まだこれは不完全な分かり方であるのが判るのだ。「よしもっと極めよう」と思った瞬間「まだ早い」という想念がやってきた。これは過去にもよくあった事だ。先を急ぐなということなのだ。シナリオ以上に進もうとするといつもこのようにストップがかかる。今回ここへやってきた目的をちゃんとやり遂げたのだ、という事を理解しました。

みんな一緒に、と言うことなのだ。一人でいってはいけない。みんなで一斉に覚醒するのだ。私は只その一歩前を先導者として歩くだけだ。ここでいったん立ち止まり、この心の位置からしか眺めることの出来ない風景を体験していくのだ。この心の模様を話していくのだと判りました。これまでの5年間も一貫してそうでした。判ったことを話し、話したらまた次が判ってきたわけです。私はそろそろ帰るときが近づいている事を感じました。

その日の夕食後、お世話係の観石さんに「明後日帰ろうと思っています」と告げた。前日「帰ろう」と思ったときとは明らかに違い、すがすがしいものだった。「帰ろう」と言う想いがやってきたとき。それがどこからやってきたもの(ハイヤーセルフなのか自我なのか)であるかを見つけることは出来ません。私たちの体は、ラジオのような受信機です。ラジオが自分の受信している電波がどこから来ているか判らないように、我々もどこからやってきた想念かを判別することは出来ません。ですから想念を受信した事だけをその瞬間に只気付いていることです。今回あえてその辺の感覚を判ってもらえるようこの件を話題にしたわけです。「帰ろう」という想念を受信した時点では判らなくても、帰ることを告げようとしたときのハートの感覚で判別が付くわけです。これが瞬間瞬間自分の感覚に従って生きるということです。帰った方が良いのか、それとも残った方が良いのか、といった事を頭で考え、判定を下そうとする必要がないということですね。「さぼり心が出てきているのではないか」とか、考えれば迷ってしいますから。





【少林窟六日目】
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少林窟の朝は5時から始まります。合図はすべ拍子木で行われ、5時から坐禅開始ですが、もちろんそれより早いのは何時でもかまいません。6時からは勝運寺というお寺での朝のお勤めを参禅者全員の出席で行います。方丈にあわせてお経を読みながら、初めは「何でこんな事やってんだろう」といった雑念がちらほらありましたが、もうちらりとも雑念はかすめず、自分の出すお経の声に集中できました。いつの間にかこんなところでも今に集中できている自分を発見いたしました。この調子なら実生活に戻っても、もう退屈をするといった感覚には縁が無くなりそうに感じました。いつでも、どこでも、今この現実に只居られるからです。その事の意味を考えずに、意義を求めず、この現実の流れの中を泳ぎ渡っていけそうです。

朝食は7時半過ぎにやはり拍子木の合図で始まります。一噛み一噛み噛みしめながら食べる食事のおいしさは格別です。実生活の中でのこれまでのどんなご馳走よりもおいしく毎回戴きました。そこへ一匹の蠅が飛んできて食卓の上に止まりました。方丈が「その蠅を成仏させてあげなさい」と威厳のある声で一声言いました。その確信に満ちた老師の声に反応した私の手は、ゆっくりと伸びていき3本の指で蠅をつまみ上げました。

季節はずれの死にそびれてしまった蠅なのでしょう。私も、その蠅がもうあちらの世界へ帰りたがっているように感じました。私は老師の声を聞いた瞬間、昔映画で見たシーンが脳裏をかすめました。宮本武蔵だったか、塚原朴伝だったかは忘れましたが、お箸で蠅をぱっとつまむシーンがです。

食事は普段の10分の1のスピードで食べるように言われています。ですから蠅をつまむのもそのスピードでした。私は自分の左手に、あの蠅をつまむと命令しました。ですから腕が動き始めたときには既につまみ上げているイメージが脳裏にありました。結果の方が先にありました。そしてゆっくりと、ゆっくりと腕は動き、当然のごとく蠅は3本の指の間に収まっていました。全員(この時は7名だった)何事もなかったかのように食事を続けました。

これが宇宙の縁の流れの中に生きていくときのありようです。全てが自然にためらい無く流れていきます。普段であったら、汚いとか、こんな蠅いったいどうやって捕まえるのだ、といった想念が手よりも先に来ていたはずです。ゆっくり食べるのは「今、ここ」を逃さないためです。そして「今、ここ」に居るとは、そのまま宇宙と繋がっていると言うことです。この出来事でそれが実証されています。元々蠅にしろ人間以外の生き物は、自然と繋がって生きています。蠅がそろそろ死にたいと思っていたため方丈の口から成仏させてあげなさいと言う言葉が出てきます。その言葉を聞いた瞬間に私の腕が既に動き始めていました。これが全てが一つであるという根拠です。一呼吸の中に全宇宙が畳み込まれているわけです。呼吸と一つにいるという事は、即ち宇宙と繋がっているということです。

この話を聞いて自分もやってみようと思う人もいるかもしれません。ですがそんな事は無駄だから止めることです。「試してみよう」という想念には確信はありません。ですから想っている通りに失敗します。これはたまたまその時に起こったことです。私が今度蠅を見たときに、あのとき出来たのだからもう一度やってみようと思ったとします。出来ると思いますか、絶対に出来ないでしょう。自我のやろうとすることは旨くいかないわけです。「今、ここ」という指定席に座っているときには試してみようなどといった想念は起きてこないのです。そこは絶対の世界ですから、試してみる必要など無いからです。試さなくとも必要があるときには今回のように出来るのです。

食後はお許しが出て作務をやらせてもらえる事になりました。ここでは意識が中心に定着するまでは禅以外はやらせてもらえないのだ。坐禅、歩行禅、寝禅、食事禅初めはこれだけです。

私は外に出て周りの清掃を仰せつかった。庭先に出てみるとゴミといっても落ち葉ぐらいしかない。箒で掃いてみたが風が舞ってはかどらない。そこで一つ一つ手で拾うことにした。やはりいつもの癖で、「どういう手順で」、「何時までに」とか「どの程度まで」といった想念が次々と脳裏をかすめる。そんな雑念を払いのけ、一枚一枚、落ち葉を拾い上げる手に意識を集中させることにした。一枚、また一枚、そしてまた一枚、雑念が減ってきた。一枚、また一枚、手が動く、その手に足腰が着いていく。もう何も考えていない。只一枚一枚と単純に一つ作業へ集中していった。

はっと想念が飛び込んできた「そうなんだ初めは一つだったんだ。元々この宇宙は一つしかないんだ。それが全てなんだ。一から始まったんだ。そうだだから一つに集中していたら宇宙と繋がるのだ。元々一つだから」

それが判ったら今度はその一つが二つに分解した。それぞれがまた二つに分解している。ああそうか、これが原初の運動だ。「一つが二つに分かれる」宇宙はこの単純な運動の繰り返しなんだ。細胞が分裂しながら複雑に複雑に変わっていく様が映像として現れてきた。宇宙の初めには目的意識があったんだ。これが一の始まりだ。目的を持ったとたんに、その始まりと終わりという2の数が生じる。そうか、それでは3は、3はどういう意味だ?おっと、また雑念の中に遊び始めてしまった。

ふと気付くとすっかり太陽が昇り、日溜まりの中にのんびりとしている私が居た。ふと目が止まった枯れ枝には既に次の蕾が芽を出そうとしていた。そのあまりの可愛らしさに我を忘れて見入っていた。これが自然なのだ。只宇宙と共にあること、これが人間の至上の歓びなのだ。

自分が今生、ここに居る役割が見えてきた。この現象世界は心の世界の投影ではないか、だとしたらこれまで人類が馴染んできた物理理論はそのまま心の法則のはずではないか。心の世界を語るには、我々はまだその言語を持っていない。しかしこれだけ研究し尽くされた物理の法則を使って説明すれば人々の脳に簡単に新たな心の世界の概念が構築できるはずだ。そう言えばコンピューターも心の働きを物質化させたものにすぎない。だからコンピュータ理論を使えば正確に心の中を説明し尽くせるはずだ。そうすれば抽象的心の世界を、確かな客観性のあるものとして人々の脳で理解できるではないか。物理理論とコンピュータの仕組みを組み合わせればきっと誰にでもわかりやすい心の構造を図解してあげられるはずだ。

現代人は誰でも地球が太陽の周りを回っていることを知っている。実際は見たこともないというのに。肉眼で見る限り、どう見ても、誰が見ても、地球は止まっていて、太陽が動いているというのに。我々は太陽が地球の周りを回っているとは思っていない。それはその仕組みを小学生の時、先生に絵で描いて教えてもらったからだ。地球はこのように太陽の周りを一年かけて回っている。という図解された絵を見て納得しているのだ。我々は絵に描いて見せてもらえば納得がいくのだ。

そうだ物理は本来心の法則を表現するために何百年もかけて発達してきたのだ。そして我々はやっと全ての物理理論を今完成しようとしている。これからその理論を使って心の仕組みを解き明かすために。そうだだから私は大学では物理を学び、ずっとコンピューターの仕事に携わってきていたのか、そうだったんだ。

私の肉体の全細胞が歓びに震えていました。歓喜が体を痺れさせていました。恍惚として立ちすくんでいました。解った解ったという悦びです。中学生の頃初めて射精したときのエクスタシーと同じものでした。

午後からは方丈に頼まれて風呂の薪造りを手伝いました。ここではお風呂は薪で沸かします。なんと贅沢なことでしょう。我々新米は毎日坐禅さえしていれば古参の参禅者が我々のためにお風呂を沸かしてくれるのです。やっとそのご恩返しをさせていただけるわけです。薪材は古い「とうば」です。ご存じでしょうかお墓に立ててある戒名とかの書かれたあれです。それを電動鋸で細かく切断していくだけの単純作業です。

電動鋸は初めて使いましたが、その快適な事。おがくずだらけになりながらも楽しい作業でした。それは余分な想念がなかったからでしょう。今までの私でしたら。作業をやりながらその意義をを考えてみたり、もっと効率的にとか、先々を考えながらやっていたことでしょう。でもこの時は違いました。只単純に材木を一切り一切り、只やることが出来ました。何でも只やる、そのものに成りきって只やるというのが、禅の極意です。自我の余念のない状態、それがいかに素晴らしく快適であるか実際に体験することが出来ました。

これを作務禅というのだそうです。坐禅が只道場の中だけのものであって実生活に活用できないのであれば意味がありません。坐禅と作業禅をつなげる目的でここでは一呼吸する度に腰を捻るように言われます。坐禅中に腰をひねろと言うのはここだけだそうです。

一切り一切りしている内に山のようにあった材木があっという間になくなってしまいました。その日はぽかぽか陽気、日溜まりの中での快適な作業を終えたのは四時過ぎでした。ちょうど夕日が瀬戸内海に落ち始めていました。山の中腹にある少林窟から見る瀬戸内の海と島々、満ちあふれた心で夕日見物をすることにしました。お墓の方に歩いていくと真正面に太陽が落ちていきます。絶妙の雲のグラデーションが、赤く染まる夕日に神秘的な模様を描き出し始めました。私一人への宇宙からのビッグプレゼントでした。太陽、山、空、海、島、絶景が私一人のものでした。「全てを手放す者に全てが与えられる」大自然がそう言いながら私へ動く絵画をプレゼントして下さいました。真っ赤に焼けた雲と太陽が怪しく波打ちこの世の物とも思えない妙なる光の調べでした。私は生涯これ以上の夕日を目にすることはもうないでしょう。

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・・・・少林窟道場坐禅体験記 3 につづく
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【総合目次】
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