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言語学コミュの「100円しかない」の「しか」と「ない」 : 形式主義文法論の混迷

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この文は、100円は「ない」のではなく、「ある」ことを表している。この、「ない」と言っているのは何なのかが不明で、疑問視され次のような質問が繰り返されている。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10254668555?notice_type=ba
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10246905655?__ysp=44GX44GL
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1183847026?__ysp=44GX44GL

しかし、適切な回答がなされていない。辞書類もこの点を明らかにしていない(できない)ことが、現在の形式主義/機能主義的な言語論、日本語論の限界を露呈している。

辞書類は、この「しか」を<係助詞>、または<副助詞>とし(*1)、意味を、

打消しの語を伴って、特定の事柄以外のものを全く否定する意を表す。
【大辞泉】

下に打消の語を伴う。肯定し得るものをそれだけと限定し、それ以外のものを否定する。
【精選版 日本国語大辞典】

と非存在ないし打消しの「ない」で、「特定の事柄以外のもの」「肯定し得るものをそれだけと限定し、それ以外のもの」を否定するとしている。

では、この文の「特定の事柄以外のもの」、「肯定し得るもの」とは一体何なのであろうか?「100円しかない」で、「特定の事柄以外のもの」、「肯定し得るもの」とは一体何なのであろうか?

「特定の事柄以外のもの」、「肯定し得るもの」とは「100円」を云うのであろうが、10円や50円、90円は存在しているのであり、「特定の事柄以外のものを【全く否定】」などしていないのは明らかであり、全く説明にはなっていないのである。

単に結果としての現象を解釈しているに過ぎず、なんら「しか〜ない」の説明になっていないということである。問題は、何故このような、もっともらしい説明しかできないのかであろう。

これは、自立語/付属語などという語の意義ではなく形式による品詞区分をしている形式主義的な言語観では言語表現の過程的な構造を捉えることができない現在の言語論の欠陥といわなければならない。

ここで否定されているのは、「数百円あると思ったが」という話者の思い込み、観念的な前提である。

ある事物のありかたが観念的な前提と相反し、前提を拒否し排除する場合に使われるのが「しか」である。

(数万円あると思ったが)千円【しか】ない。
(誰も知っているという話だが)私【しか】真相を知らない。
(ほかに能力があると当人はいうが)食べて寝る【しか】能がない。
(あちこちへ行くとみんな思っているが)京都へ【しか】行かない。
(昼から来てくれというが)夕方から【しか】出かけられない。

非存在ないし打消しは観念的な前提に対するものであって、現実は「千円ある」「私は真相を知る」「食べて寝る能がある」「京都へ行く」「夕方から出かけられる」のである。

時枝誠記は言語過程説を提起し、表現過程の相違に基づき語を詞と辞に区分した。助詞、助動詞などは主体的表現の語である辞に区分される。辞は、

話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接に表現した語

である。しかし時枝は、「しか」を「限定を表す」助詞という機能的な分類をし、「しか〜ない」という表現の過程的構造を明らかにすることができていない。これを明らかにしたのは、時枝の機能主義的な限界を訂正、発展させた<三浦つとむ>で次のように述べている。

 百円【しか】ない。
 彼は臆病もので【しか】ない。

「ない」を使う対象が、この話し手の頭の中に存在しているところの【先入見】ないし【予想】であり、あるいは客観的に存在している【誤解】のたぐいである。話手の漠然とした期待であろうと、あるいは「千円ある」とか「勇敢な人間だ」とかいう具体的な予想であろうと、多くの人びとに信じられている評価であろうと、それらの観念的なものが現実によってくつがえされ、現実によって否定されているところから、それを認める話し手の「ない」が生まれたのである。//

このように、「しか〜ない」と呼応するところから係助詞とするのが適切な品詞区分である。

現実は先入見や予想や評判とはかならずしも一致するわけではなく、現実をとりあげるときにこの観念的なものとの差異を強調することが必要な場合もある。これは特殊性についての判断を下すことに他ならない。「しか」が観念的なものとのつながりで現実をとらえていることを表現し、「ない」が観念的なものを扱っているのである。

*1
しか
[一][係助]名詞、名詞的な語、動詞の連体形、形容詞・形容動詞の連用形、一部の助詞・助動詞などに付く。打消しの語を伴って、特定の事柄以外のものを全く否定する意を表す。「この道を行く―ない」→きり →だけ◆近世以降用いられ、限定の助詞に付けて「きりしか」「だけしか」「ほかしか」「よりしか」の形で、「しか」を強めていう場合もある。
【大辞泉】

しか (係助)
体言またはそれに準ずるもの,動詞の連体形,形容詞・形容動詞の連用形,格助詞などに付き,下に常に打ち消しの語を伴って用いる。特定の事柄・条件だけを取りあげて,それ以外のものをすべて否定する意を表す。また,「だけしか」の形で一層強い限定の意を表す。「その事を知っているのは彼―いない」「正解者はたった一人だけ―おりませんでした」
〔くだけた言い方では「っきゃ」となることがある。「ぼくがやるっきゃないだろう」〕
【大辞林】

しか
 〘副助〙 《「…しか…ない」の形で》ある物事を取りあげて、それ以外をすべて否定する。
【明鏡国語辞典】

しか
㊀《副助詞》口語。{体言または体言あつかいのもの、動詞の連体形、形容詞・形容動詞の連用形、格助詞などにつき、いつも打ち消しの「ない」を伴い「AしかBしない」の形で用いられる}
【学研国語大辞典】

コメント(170)

>>[127]

>限定という概念が機能を表しているということです。

まったく誤りです。

限定という概念【を】語【が】表しているということです。根拠はここです。

> (三浦、レーニンから疑え、言語はどんな矛盾を含んでいるか、1963年) 言語は概念を表現します。





改めて言いますが、

>「しか」を「限定を表す」助詞という機能的な分類をし

まったく誤りです。

語は概念を表し、認識を表しません。根拠はここです。

> (三浦、レーニンから疑え、言語はどんな矛盾を含んでいるか、1963年) 言語は概念を表現します。

係り助詞と呼ばれるものが一体どんな概念を表しているかですが、限定です。ただ、認識で判断と結びつきます。ですので、判断限定辞と呼ぶのが正しいです。ちなみに、副助詞と呼ばれるものは、前提限定辞と呼ぶのが正しいです。限定辞の下位分類に前提限定辞と判断限定辞があります。
[1] で取り上げた

鄭 恩朱
 とりたて詞「しか」の表現機能について : 否定的陳述と肯定的陳述の観点から

https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1907&item_no=1&page_id=33&block_id=46
では、

 (1) (全員がくると思っていたら) ?花子【だけ】が来た。
 (2) (全員がくると思っていたら) 花子【しか】来なかった.

と「全員がくると思っていたら」という前提を取上げながら、「しか」がその前提に対する打消しであることを理解できずに、「花子」という客体と結び付けて理解する他ない混乱した機能主義的な誤った解釈、議論を展開している。

これは、「だけ」を「とりたて詞」と「とりたて」という機能で捉えるしかないところにも明らかである。

このような機能主義的な発想では話者の認識を捉えることができず、「しか」が「ない」と関係づけられていることを全く理解できないことを露呈している。■
>>[134]

>「とりたて」という機能で捉えるしかないところにも明らかである。

1点目、三浦が「とりたて」や「限定」を機能だと言っている箇所を引用してもらえませんか?何ページかではなく、文字で引用してもらえませんか?

2点目、【語は認識ではなく、概念を表します。】あなたの意見は認識内容の説明でしかなく、概念内容の説明がありません。語がどんな概念を表しているのですかの問いに答えていません。時枝は限定を【表している】と言っています。あなたは限定は誤りだと言いますが、であれば、副助詞や係り助詞と呼ばれるものは一体どんな概念を表しているのでしょうか?確認ですが、概念と認識は当然別物です。

> (時枝、日本文法、2020年、225ページ) 限定を【表はす】助詞
>>[135]

>>三浦が「とりたて」や「限定」を機能だと言っている箇所を引用してもらえませんか?

わざわざ言うまでもないことです。「語」が一体どうやって何かを取り立てることができるのですか????
金貸しでもあるまいに!!!


>>副助詞や係り助詞と呼ばれるものは一体どんな概念を表している

何を今更!!!

そもそも、語が概念を表すと喚いているのは君じゃろうが!!!
違うのかな?????


三浦『日本語の文法』の当該箇所を良く読んで理解してから出直して下さい。
話者の認識を捉えられない発想では、当然ながらこのような疑問が生じることになります。
しかし、現在の日本語論、日本語文法論ではこれに適切に答えることができないというのが実状です。


簡単な料理しか作ることができない。
という文で、なぜできないになるのでしょうか。
最初見た時は違和感がなかったのですが、見続けているとだんだんわからなくなってきました。ಠ_ಠ
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11295307886?post=2
下記のような疑問に明確に答えることができないのが現状です。


〇〇しか△△ない(否定)
って否定してるのに否定してなくて変じゃないですか?

500円しかもってない→500円もっている
あと5分しかない→5分ある
こういう構文って「しか」でしか成立しませんよね?
例えば「のみ+(否定)」だのそのまま否定文になりますよね。

これってなぜですか?
そういうものだと言われればそれまでなのですが…
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14279485829?__ysp=44GX44GL44CA44Gq44GE
日本語教育では、下記のような意味不明な説明がされていますが、全くの誤りであることは明らかです。「ない」と否定している対象が何であるのかが理解できていません。


「Aしかない/Aという・よりほかない」は「A以外の選択肢・可能性はない。」「Aしなければならない」と言う意味です。

https://chiyo-sampo.net/grammar-jlptn2-shikanai-yorihokanai/
>>[139]

>しかし時枝は、「しか」を「限定を表す」助詞という機能的な分類をし、

まったく誤りです。

限定は意義で機能ではありません。時枝が誤りなのは、認識構造の理解がないことです。

「しか」は、観念的前提を伴い、認識で判断と結合し、【限定を表します。】観念的前提を伴うことや認識で判断と結合することが機能です。根拠はここです。

> (三浦、レーニンから疑え、言語はどんな矛盾を含んでいるか、1963年) 言語は概念を表現します。

語は概念を表すからです。副詞と同じで、副詞の意義は属性ですが、副詞は従属機能が語の定義の中に含まれています。係り助詞と呼ばれるものも、意義は限定ですが、観念的前提を伴う機能と認識で判断と結合する機能が語の定義の中に含まれています。ちなみに、私は判断限定辞と呼んでいます。限定辞を普通限定辞と判断限定辞に分けています。普通限定辞が副助詞と呼ばれるものです。普通限定辞は観念的前提を伴うだけで、認識で判断と結合しません。
>>[141]

まあ、言われていることは全くの誤りです。

根拠はここです。


 時枝は助詞を五種に区別して、山田が係助詞とよんだものを「限定を表はす助詞」と名づける。そして口語についてはつぎのような説明を与える。

 例へば、甲が勉強してゐるとする。この事実の表現は、ただこの事実そのものが表現を成立させるばかりでなく、周囲の事情によつて話手の事実に対する認定に相異があり、従つて表現も異る。その事情といふのは、甲の外(ほか)に、乙も丙も勉強してゐる場合、甲以外は乙も丙も勉強してゐない場合、怠者である甲が勉強してゐる場合、優等生である甲が勉強してゐる場合等によつて、この事実そのものの認定のしかたを異にする。従つて次のやうな表現が成立する。

   甲が勉強してゐる。
   甲も勉強してゐる。
   甲でも勉強してゐる。
   甲は勉強してゐる。
   甲だけ勉強してゐる。
   甲ばかり勉強してゐる。
   甲まで勉強してゐる。

 右の表現に対する助詞には、話手に甲に対する期待、評価、満足等が表現されてゐることが分る。(時枝誠記『日本文法・口語篇』)

 ここでは二つのことに気づく。第一は例の「しか」についてであって、時枝はこれをこの種の助詞としてあげてはいるものの、「甲しか勉強していない」というかたちでここに入れて説明を加えてはいない。これは「包む」という辞の機能の解釈に禍(わざわ)いされて、「しか」が「ない」と関係づけられている事実を説明できなかったように思われる。

第二は限定ということが特殊性を意味することである。甲の勉強の例にも見るように、この種の助詞はいづれも特殊的判断の場合の表現であるから、限定を表現する助詞だけをまとめたのでは普遍的判断の「は」の居(い)どころがなくなってしまう。事実時枝の分類では、格を表現する助詞のほうへ入れられてしまっている。
(三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部』 p.478)
>>[142]

いやですから、私はまったく正しく、あなたはまったくの誤りです。「しか」を限定を表す助詞に分類することが機能的で誤りなのではなく、辞が詞を包むことが機能的で誤りだと三浦は言っているのですよ。






改めて言いますが、

>しかし時枝は、「しか」を「限定を表す」助詞という機能的な分類をし、

まったく誤りです。

限定は意義で機能ではありません。時枝が誤りなのは、認識構造の理解がないことです。

「しか」は、観念的前提を伴い、認識で判断と結合し、【限定を表します。】観念的前提を伴うことや認識で判断と結合することが機能です。根拠はここです。

> (三浦、レーニンから疑え、言語はどんな矛盾を含んでいるか、1963年) 言語は概念を表現します。

語は概念を表すからです。副詞と同じで、副詞の意義は属性ですが、副詞は従属機能が語の定義の中に含まれています。係り助詞と呼ばれるものも、意義は限定ですが、観念的前提を伴う機能と認識で判断と結合する機能が語の定義の中に含まれています。ちなみに、私は判断限定辞と呼んでいます。限定辞を普通限定辞と判断限定辞に分けています。普通限定辞が副助詞と呼ばれるものです。普通限定辞は観念的前提を伴うだけで、認識で判断と結合しません。
>>[163]

いやですから、私はまったく正しく、あなたはまったくの誤りです。


>>根拠はここです。

何の根拠にもなっていません!!!

どういう関係があるのですか????

もう少し、意味のある、真ともなコメントができるようになりましょう!!!


ねっ!!!!!
 ■
>>[164]

ですから、お馬鹿なあなたのためにわかりやすくまとめると、

・「は」は限定を表しませんが、認識で判断と結合する認識辞です。
・「も」は限定を表し、認識で判断と結合する認識辞です。





改めて言いますが、

>しかし時枝は、「しか」を「限定を表す」助詞という機能的な分類をし、

まったく誤りです。

辞が詞を包むことが機能主義であって、限定を表すことで分けることは機能主義的分類ではまったくありません。「しか」は限定を表す認識辞です。
>>[165]

>>「しか」は限定を表す認識辞です。

ほほう!!!!!!

で、「しか」は何を限定し、「ない」は何を否定しておるのかな?????

お馬鹿な君のために判り易く纏めたTopiの内容が全く理解できておらんようじゃが???
ある日本語学習の説明に以下のような解説があります。


V辞書形・N+しかない

意味
今の状況では、これ以外に方法・選択がない。

「しょうがない」という気持ちがあります。

例文
バスもタクシーもないので、歩いて帰るしかない。
冷蔵庫に何もないので、何も食べないか、買い物に行くしかない。
どこを探しても家の鍵がないので、あきらめるしかない。新しい鍵を作ろう。
このパソコンは修理しても直らなかったら、捨てるしかない。
この仕事をする人がいないので、私がやるしかない。
もし薬で治らなかったら、手術しかない。

〔【N3文法解説】〜しかない|用法・例文〕
https://tanosuke.com/shikanai/

こんな気持ちを説明されても学習者は何のことやらという他ありません。先ず、説明する当人が本質を全く理解できていないのでは如何ともしがたいということになります。■
>>[167]

>で、「しか」は何を限定し、「ない」は何を否定しておるのかな?????

例えば、

・100円しかない。

「しか」は「100円」を限定していて、「ない」は1000円あることを否定しています。根拠は、ここです。

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、478ページ)「甲しか勉強していない」というかたちでここに入れて説明を加えてはいない。これは「包む」という辞の機能の解釈に禍 (わざわ) いされて

三浦が言いたいのは、辞が詞を包まないことを時枝は理解していれば、時枝は限定辞に「しか」入れたということです。ちなみに、「しか」は係り辞ですよ。

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