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言語学コミュの「は」と「が」:新情報/旧情報説批判

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コミュ内全体

 先のTopiで「は」と「が」の本質を明らかにしましたが、残念ながらこの成果は学会からも無視されたまま、放置されています。このため、現在の現象論的な諸説と突き合わせることにより、その意義を明かにしたいと考えます。
 
 「新情報と旧情報」という区分はよく挙げられ、判り易くもあり、もっともらしく語られています。下記のような、もっとも
らしい回答もあり、きちんと批判しなければと考え提示するものです。野田尚志(1996)の5つの原理の最初に挙げら
られているものですが、ある意味で筋の悪い原理と言えます。

  しかし、これがすべてのケースに当てはまるか、どうかはまだ徹底的に究明されていません。たとえば、No.2の方
 の例です。しかし、この例は少しおかしくて、「君の嫁さん【は】私【が】見つけてあげるよ。」では、「嫁さんは」は一回
 しか出ていないので、新情報・旧情報説の否定にはなりません。「君はまだ嫁さんがないのだろう。嫁さんは私が見
 つけてあげるよ」であれば、新情報・旧情報説の例文になります。「君の嫁さん【は】私【が】見つけてあげるよ。」の例
 は、「君の嫁さん」を主題化したという説の例文として適していますね。
  https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10886112.html   No.3 の回答

 この回答では、「これがすべてのケースに当てはまるか、どうかはまだ徹底的に究明されていません。」などとされていますが、三浦つとむ(1976.5))『「は」と「が」の使いわけ』で、「徹底的に究明され」、批判、否定され破産宣告しています。もっとも、これは吉本隆明主催の雑誌『試行』に発表されたもので、学会とは無縁であり著書にも収録されていないため現在簡単には参照できず、已むを得ない面はありますが、同様の主旨は先の『認識と言語の理論 第二部』『日本語はどういう言語か』『日本語の文法』他で展開されており、これらを理解すれば明らかなのですが。

 野田の説く原理は広く参照されており、次のような論考にも引用、利用されています。
ペトロヴァ・ユリア『「ハ」と「ガ」 の使い分けの問題について―ロシア語母語話者の場合―』
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/29804/1/7_86-103.pdf#search='%E3%80%8C%E3%81%AF%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E3%81%8C%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%BD%BF%E3%81%84%E5%88%86%E3%81%91%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86'

 これを利用させていただくと、次のような内容です。

1)新情報と旧情報の原理―新情報には「ガ」、旧情報には「ハ」
   野田(1996)では「新情報と旧情報の原理」と呼ぶのは、主格名詞が、話の現場や文脈とどのような関係をもっ
 ているかによって「ハ」と「ガ」の使い分けを説明するものであ る。つまり、主格名詞がまだ知られていない新情報の
 ときはその主格に「ガ」がつき、主格名詞がすでに知られている旧情報のときはその主格に「ハ」がつくという原理で
 ある。

   (機法〇笋狼氾弔反修靴泙后社長にお取次をお願いします。
   (供法〇笋先日履歴書を差し上げました吉田でございます。

 先のTopiで本質を明らかにしたように、助詞「は」と「が」の相違は話者の判断の相違であり、そこから考えれば新情報と旧情報というのは、本来話者による新旧の判断でなければなりませんが、「主格名詞がまだ知られていない」というのは、誰に知られていないのかが曖昧な既定であり、このため、既知/未知ともされますが、これは視点のスリカエで、所詮「は」と「が」の使い分けの根拠になどはなりません。

 (供砲蓮屬」が使用されており、「私」が新情報ということになりまし。しかし、その人の採用を検討しようとしている履歴書を受け取っている担当者にとっては既知の旧情報でしかありません。もっとも初対面であればどんな人間かは新情報と言えなくもありませんが、それはどんな風貌と名前の組合せが未知であるに過ぎず、吉田という人間が来ることをあらかじめ知っていなければ、何しに誰が来たのかと問い返すしかありません。

 会話の上でなく、文脈上の新情報というのであれば、観察者、読者にとっての新情報ということになりますが、この文の話者がそんな第三者を意識し「は」と「が」を使い分けすべき理由は全くありません。

 おとぎ話『桃太郎』の場合の「おじいさんとお婆さんが」の場合は、読者に対し新情報というのは文脈上ということにはなっても、それと、(供砲鯑韻幻桐で論じようとすること自体が全く筋違いと言うしかありません。

 では、この(機法◆吻供砲痢屬蓮廚函屬」は何かといえば、先に述べたように「は」は特殊性の認識を表わす副助詞の「は」で、他の人ではなく「私」という意味になります。「が」は個別性の認識を表わす格助詞の「が」で、「これがインコで、これがオウムです。」という説明の意識と変わりありません。要は、話者による対象に対する判断が異なるということです。

 他に、次のような解説もされていますが、大同小異で、使い分けの原理などにはなりません。
 
(1)新情報か旧情報かによって使い分ける方法。
  会話の中や文脈で、主格となる名詞が未知(=新情報)の場合は「が」を使って表し、既知(=旧情報)の 
 場合は「は」を使って表すという基準である。

    ・鈴木さんは校長です。(「鈴木さん」のことは「既知」なので、「 は」を付けて表す)
    ・鈴木さんが校長です。( 校長が誰であるのか、「未知」なので、「鈴木さん」に「が」を付けて表す) 

  『総記の「が」 』
    https://yousei.arc-academy.net/manbow/index.php/term/detail/727

 この、新情報/旧情報の区分は既知/未知の区分とも呼ばれ、国語学者の大野晋は既知未知論として1975年9月号の雑誌『文学』に「助詞ハとガの機能について―現代日本語の基本構文の意味」を発表しています。これに対し、先の三浦つとむ(1976.5))『「は」と「が」の使いわけ』が発表されているので、この論考の「三 チェイフ=大野説―既知未知論」を参考のため、次に引用しておきます。■

コメント(2)

 「三 チェイフ=大野説―既知未知論」
を以下に引用しておきます。

 大野の五一年の見解が、いま吟味したように、「が」についても「は」についてもまとはずれだとすれば、それらを肯定した上で展開される「は」と「が」の使い分けの見解も、やはりまとはずれであることは、はじめから予想されることである。とはいえ、これはアメリカの言語学者 L.W.Chaef の見解に援助を受けて、チェイフ=大野説ともいうべき国際的な正確を持っているだけに、その点は注目する必要があるだろう。
 チェイフは、その著作『意味と言語構造』の中で、「古い情報」と「新しい情報という概念を持ち出すのだが、「日本では表層における助詞のハが古い情報を、ガが新しい情報を反映している。」と述べている。表層は例のチョムスキーの表層構造の意味である。大野がチェイフの見解に援助を求めたのは、このように日本語の<助詞>をとりあげているのを「日本人によるいくつかの論考を参照してのことであろうと思う。」と、その日本語研究を評価してのことであるが、チェイフは世界的に大もての新しい学派の言語学者(もっともこのごろは、海外でも、チョムスキー理論を観念論的傾向や言語理論の不当な普遍化と否定的に批評する文献がふえているらしいが)だということも、理由の一つであろうと思われる。大野はチェイフのいう「古い情報」と「新しい情報」を、【既知の情報】と【未知の情報】と受けとって「が」と「は」の区別を論じていく。

 こうした(チェイフの―引用者)新しい情報、古い情報ということの適切な例として、次の民話をあげることができるだろう。
   昔々、オ爺サントオ婆サン【ガ】アリマシタ。オ爺サン【ハ】山ヘ柴刈リニ、オ婆サン【ハ】川ヘ洗濯ニ行キマシ 
   タ。
 はじめてオ爺サンとオ婆サンの提示される時は、ガが使われ(未知の情報)、一度提示された後は、オ爺サンとオ婆サンは既知の情報となったからその下にはハが使われ、ハの下に未知の情報として説明と叙述が加えられる。

  ここで、実は一つのスリカエが行われる。チェイフが「新しい情報」とか「古い情報」とかいうのは、【表現された文章の上のこと】で、だからオ爺サンとオ婆サンはまず「新しい情報」として扱われ、つぎに「古い情報」になる。ところが、大野は「未知」と「既知」に書き変えることで、表現された文章ではなく、【聞き手の対象認識における】未知と既知の区別にスリカエてしまう。彼が「ハが既知の物事を提示するに対して、ガは未知の物事を提示する。」と定式化したのも、スリカエであるが、これを【既知未知論】と名づけて、スリカエたものの検討に入っていこう。

   私ハ 大野デス。
   私ガ 大野デス。
 この二つの文を比較すれば、私ハ大野デスという文は、アナタハドナタという問いに対する答えである。相手にとってアナタなる存在、「私」という存在は、【話の場で既に確実に存在しているものとして知られ、話手聞手の共通の認識のもとにある。従って話の場に提示されたこの「私」なるものは、既知のものであり】、それはハによって表現される。それに対して未知のことを追加する部分が、「大野デス」にあたる。ところが、
  私ガ 大野デス。
という表現は、「大野サンハドナタデスカ」という問いに対する答えである。ここでは既に知られているのは「大野」である。つまり、「【大野】」は【既知】であり、「【私ガ】」【が未知の部分である】。

 チェイフは、表現で【まず述べられる】のを新しい情報とよんでいるから、「私【ハ】」も「私【が】」も【どちらも】新しい情報になる。だから、「【ハ】が古い情報を、【ガ】が新しい情報を反映している。」という彼の区別は、この例だけでふっ飛んでしまう。大野はそんなことに頓着なく、話しの場で聞き手が既に認識しているから、「従って」既知だと、表現から対象へと観点をスリカエて、【チェイフが「新しい情報」とよぶものを既知にしてしまった】。そしてここにはいま一つトリックがある。「大野サンハドナタデスカ。」という問い手にしても、「私」についてまったくの未知ではない。「『私」というのは話し手が自分自身をさす言葉で、自分のさがしている「ドナタ」がこの場にいるらしいこと、いればその「ドナタ」が自分のことを「私【ガ】」と表現して教えてくれるであろうこと、【を知っている】。大野はこれを未知だというが、それなら「大野」についてもまったく同じことがいえよう。「大野」がどこの教授かどんな本を書いたか何歳でどんな顔をしているか、そんなことは全然未知なホテルや会館の女の子が「大野」を単なる<固有名詞>として扱って、この未知の人間によびかけることもある。→
 「三 チェイフ=大野説―既知未知論」
引用の続き。

つまり、大野は、「私」が未知だというときには【既知を具体的なものとして扱い】、「大野」が既知だというときには【彼のいう未知に相当する抽象的なものまで密輸入している】。こうしないと既知未知論とくいちがってくるだけでなく、五一年の見解の「が」の説明まで危うくなるのである。
 既知と未知とは認識の問題であるが、認識は具体的なものから抽象的なものへ立体的な構造をもって成立するから、既知か未知かとあれかこれかの発想で形而上学的に割切るわけにはいかない。【抽象的でよければ何でも既知になる】。新しい素粒子もブラック・ホールも雪男も新聞雑誌で知ったから既知であるが、具体的にはどれも未知としかいいえない。長唄の『月の巻』に

 鎌倉見たか江戸見たか、江戸【は】見たれど鎌倉名所【は】まだ見ない。

とあるように、話し手は自分にとって具体的に既知であろうと未知であろうと、聞き手にとって具体的に既知であろうと未知であろうと、そんなことに関係なく同じように、「は」を使うのである。また、【具体的には既知】であっても、概念として正しく把握できず、いわば【正体が不明だという意味での未知】もあって、経験の浅い子どもに多い。これでは<名詞>に表現できないから、<代名詞>を使って表現する。

 【これは】お父さんが買ってきたものだ。
 あすこに【これが】落ちていたよ。

 話し手は「これ」に「は」や「が」を使っているが、「が」を使えば聞き手にも未知、「は」を使えば聞き手に既知になるのだろうか?はじめて物事を提示するときには「が」が使われるといいながら、はじめに「は」が使われるときにはこれは問答だと別の原理を持ちだすなら、スリカエである。

  天【は】自らたすくる者を助く。
  縁【は】異なもの味なもの。
  玄宗【は】なきなき耳のあかをほり。
 一文文章にも具体的な未知ではじまるものがある。「玄宗」について具体的に既知の読者など、数えるくらいしかいまい。また

  この道【は】いつか来た道。
    ああ、そうだよ
  あかしやの花【が】咲いてる。
                     (北原白秋『この道』)

  雨【は】ふるふる
  城が島の磯に
  利休鼠の
  雨【が】ふる 
                     (北原白秋『この道』)
  
  おれ【は】五十人余りを相手に約一時間許り押問答をして居ると、ひょっくり狸【が】やって来た。                   (夏目漱石『坊っちゃん』)
  
  東京六大学野球リーグ戦第五週三日目の立大―早大三回戦【は】七日、神宮球場で行われ、早大【が】勝って二つ目の勝ち点をあげた。  (『朝日』一九七五年一〇月八日)

等々、大野の示した民話の例とは逆に、まず「は」が使われその叙述を受けて「が」が使われる例がいくらもある。新聞のスポーツ欄を見ればすぐわかることだが、野球ばかりでなくラグビーでもゴルフでもこの種の形式で書かれている。「十年目を迎えた日本アイスホッケーリーグ【は】二十六日、東京・品川スケートセンターで開幕。国土計画―古河、西部鉄道―十条製紙の二試合【が】行われた。」(『朝日』一九七五年一〇月二七日)と、二つの文を組合わせてもいる。
 もしこれらの例を十分説得的に説明できないなら、チェイフ=大野の既知未知論は破産の宣告を受けよう。独身の男性に向かって
  きみの嫁さんは私が見つけてあげるよ。
と友人がいうときに、聞き手にとって自分の「嫁さん」は既知で、「私」は未知だとは、どんな鉄面皮な学者でも主張できまい。                         
                             (『「「が」と「は」の使いわけ」』より;『試行』NO.45 1976.4.)■

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