ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

言語学コミュの夏が来れば

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  夏が来れば 思い出す
  はるかな尾瀬(おぜ) 遠い空
  霧のなかに うかびくる
  〜〜

と始まる中田喜直;作曲/江間章子;作詞の良く知られた唱歌があります。
 この「夏が来れば」は「夏が来たら」にはできません。助詞「ば」をテーマにした下記ブログ

goo コメ回収 「雨が降れば ずっと家にいようと思います。」について、地方によっては揺れがある
2025-09-01 07:35:39
テーマ:日本語アレコレ
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12923948828.html

では、

>>迷ったら「〜たら」にするべき、と書いている人もいます(下記参照)。庭先生も〈「〜たら」にすれば問題ないことは明らかです。〉と書いています。//

などと、滅茶苦茶なことを宣っています。要は、「ば」と「たら」の本質的な相違が何処にあるかが全く理解できないために、単に感覚的な感想と無批判な受け売りでしかないことを露呈していまず。ここで取上げられている日本語教師のコメンントも、

蓮沼・有田・前田(2001)『セルフマスターシリーズ7 条件表現』くろしお出版

の解説も、単に現象を取上げ、「難しい問題です」と投げ出しているのが現状です。話者の認識という問題を扱うことのできない現在の言語論、日本語文法論の限界を露出しています。

 さて、上記「夏が来れば」を「夏が来たら」に変えた場合、どのように続けるのが適切でしょうか。例えば、

 夏が来たら、尾瀬へ行こう。
 夏が来たら、遥かな尾瀬へ行き、水芭蕉(みずばしょう)の花を見に行きなさい!

で、あれば適切な用法と言えます。このように見てくれば、「ば」と「たら」の相違と関連が明らかになります。「夏がくれば」の場合、話者は観念的に想定の世界へ移行し「夏がくる」と仮定し、即現実の現在の立ち場に戻り、「はるかな尾瀬を思い出す」ことになります。「まなこつぶれば なつかしい はるかな尾瀬 遠い空」と思い出を辿っています。

 これに対し、「夏が来たら」の場合は話者は「夏が来た」という仮定、想定の世界へ観念的に即移行してしまい、それを前提に次の思考に進みます。「夏が来た」のだから、「尾瀬へ行こう」と勧誘したり、「遥かな尾瀬へ行き、水芭蕉(みずばしょう)の花を見に行きなさい!」と命令することになります。「たら」は過去の助動詞「た」の仮定形「たら」から接続助詞に転成したもので、過去について語る場合には話者は現在のままでは過去の事態、事象に直接対峙することはできないために、観念的な話者を分離して過去に移行し現在としての事態、事象と対峙しなければなりません。この話者の観念的な分離、移行という認識上の同相性が仮定、条件を表す「たら」を生んだものです。
 
 「ば」の場合は、現実と異なる仮定のために一旦想定の世界に移行しますが、その後、観念的な話者は速やかに現実に戻り現実の世界に戻ります。このような話者の主観である認識の移行、即戻りという過程の相違が「ば」と「たら」の意義の本質的な相違です。これを捉えられない形式主義、機能主義的な現在の日本語論、文法論では単に表現の結果としての現象、機能を捉え、「バには次のような制限がある。タラにはこのような制限はない。」などという表面的な相違、制限を述べるしかなく、何故そうなるのかを明らかにすることができません。

先のブロガーが問題にした、

>>(私は、これらの例文は誤用とまでは思いませんが、しっくりときません)

 雨が降れば ずっと家にいようと思います。
 雨が降れば 家にいてください。
 雨が降れば 家にいた方がいいです。
 雨が降れば 外に出ないでください。
 雨が降れば 外に出てはいけません。

質問は、なぜ誤用とまでなるのでしょうか?//

に対しても

>>OKと言う人がけっこういるようですが、私には?です。
言われてわかるし、「間違いだ」とは思いませんが、自分ではそう言わないな、と思います。‣//

と単なる感想を述べるだけで、何が問題なのかを明らかにすることが全くできていません。これらが、「しっくりときません」と感じるのは、これらが如何なる場面、文脈で使用されているのかが示されておらず、唐突な論理性を掴めない表現になっているからということです。

 「雨が降れば」という仮定、条件自体はべつに誤りではありません。そのため、「これらの例文は誤用とまでは思いませ」ということになります。しかし、一体何故、何のためにこのような仮定をし、結果を導き出すのかが見えないところに「しっくりときません」ということになる原因、理由があります。言語表現は話者が場面を構成し、それを表現します。前提が明確でない唐突な表現は聞き手に困惑を招きます。上記例文では次のような状況、場面であれば何ら違和感のない表現になります。


 (明日は遊びに行く予定ですが、)雨が降れば ずっと家にいようと思います。
 (駅で待ち合わせたいと思いますが、)雨が降れば 家にいてください。
 (公園で待っていますが、)雨が降れば 家にいた方がいいです。
 (車で迎えに行きますが、)雨が降れば 外に出ないでください。
 (公園へ遊びに行ってもかまいませんが、)雨が降れば 外に出てはいけません。

のように、具体的な条件、場面が明確であれば違和感の無い、適切な表現になります。この「ば」と「たら」の相違について、今井幹夫(*)は次のように述べています。

 「AたらB」は話し手の現在の立場から、観念的に未来(未完了)のことがらに移行し、それが完全に終了(成立)したと想定し、次のことがらに言及します。AからBへは、敏速・強制的・必然的に移行します。いわば、話し手は「たら」を使って次の段階(観念的世界)へ【押し上げている】とも言えます。「ば」のように、話し手の立ち場に戻らないで、つまりブーメラン用法ではなく、【その新しい段階でことがらを想定していきます】。ですから、「ば」はそうした新しい段階を作らないから、「卒業すればどんな仕事につきますか」とは言えないのです。「たら」を使って「卒業したら、どんな仕事につきますか」と言わなければなりません。もちろん、「いい大学を卒業すれば、いい会社に就職することができると考えている人が多い。」と言えますが、「たら」を使った文とはとらえかたが異なっています。//

 このように、「たら」は強制的に新たな場面、段階を設定しますが、「ば」は元の現実の場面に即戻るために、その現実の場面が明確でない場合には論理的な繋がりが見えなくなるために聞き手は違和感、齟齬を感じることになります。

 この表現過程の相違を正しく捉えない限り、「ば」と「たら」、「と」と「なら」など仮定、条件を表す語の意義を理解することはできません。現在の文法書、辞書を頼りに解釈の受け売りをしても単に主観的な感想を並べる他ないのは論理的必然ということです。



 * 今井幹夫 『非常識の日本語——三浦つとむ認識論による日本語解明』株式会社 社会評論社 2015年3月25日 初版第1冊発行 

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

言語学 更新情報

言語学のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング