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生活保護者の集いコミュの釜ヶ崎(新今宮)とは何か?木賃宿から日雇い労働者の寄せ場、福祉の町まであいりん地区の歴史

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コミュ内全体

https://www.theheadline.jp/articles/439


目次
釜ヶ崎、あいりん地区、西成区
基本データ
釜ヶ崎前史
釜ヶ崎の誕生
戦後、ドヤ街としての釜ヶ崎(戦後~1960年)
第1次釜ヶ崎暴動(1960年代)
寄せ場としての釜ヶ崎(70-80年代)
バブル崩壊と寄せ場の消失(90-2000年代)
「福祉の町」の誕生(2000年代)
「バックパッカーの町」へ?(10-20年代)
釜ヶ崎は、どんな人も「排除しない」「多様性と包摂的」な町か?
4月7日、大阪市の「新今宮エリアブランド向上事業」の一環として、ライターのしまだあや氏が電通関西支社から依頼を受けた記事「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」を公開した。しかし本記事は批判を集め、しまだ氏は謝罪記事を公開して、今後の対応を検討中だと明らかにした。

今回問題となったのは、大阪市西成区に位置する通称「釜ヶ崎」と呼ばれるエリアだ。この地域を訪れたしまだ氏は、大衆酒場の男性から奢ってもらったことで、街に「借りを返す」ために、様々な人と出会う様子が描かれる。

記事の問題点については様々な指摘があり、例えば「ホームレスとデートの記事の残酷さ〜貧困消費と感動ポルノ〜」や「『新今宮のホームレスとデートする』記事は何が問題なのか」などがあるが、そもそも発注者側の行政やPRを請け負った電通側の姿勢こそが問題化される必要があるだろう。

どんな人も排除しない街?
しまだ氏の記事に限らず、今回行政によっておこなわれたPR案件(本事業)は幾つかの問題をはらんでいる。その1つに、本事業により釜ヶ崎という空間が、行政と市民社会、NPOなど民間セクターとの緊張関係の中で存在し続けてきた事実が見えづらくなることが挙げられる。

しまだ氏の記事やウェブメディア「ジモコロ」のPR記事には、新今宮(釜ヶ崎)について「新今宮という街は、『助け合いの街』で、そして、『信じる力が潜む街』だった」や「どんな人も排除しない町」、「多様性と包摂的なまちづくりをとっくにやってた」などの記述がある。これらは一面的には正しいかもしれないが、今回のPR費用の出し手である行政が、歴史的に排除と周縁化を続けてきた経緯を見えづらくする危険性が強い。(*1)

こうした問題を念頭に置きつつ、新今宮(釜ヶ崎)という空間を理解することは決して容易ではない。釜ヶ崎とは、そもそもどのような空間であり、何が議論となっているのだろうか。

(*1)これは水野阿修羅氏ら西成を案内した人々ではなく、メディアや編集側の問題であると考える。メディアとして本空間を扱う場合、特に行政から費用を受けてコンテンツを作る際には、そのことに自覚的になる必要があるだろう。

釜ヶ崎、あいりん地区、西成区
現在、大阪には「釜ヶ崎」という行政区は存在しない。この地域を「あいりん地区」と呼ぶことがあるが、いずれも行政区としては大阪府大阪市にある「西成区」に該当しており、特に同区萩之茶屋の一部をこのように称する。

そもそも釜ヶ崎とは、1922年(大正11年)まで存在していた行政単位であり、大阪府西成郡今宮村に存在していた。その頃には、木賃宿が立ち並び、貧民が暮らすエリアだった。町名変更によって、釜ヶ崎の名前が無くなった後も俗称として残り、現在まで続いている。

またあいりん地区とは、この土地で生じた暴動などによるイメージ低下を受けて、1966年(昭和41年)に大阪府・大阪市・大阪府警の「三者連絡協議会」が、釜ヶ崎に代わって決定した地区の名称だ。行政と報道機関もこの名称を使用することとなり、現在でも「釜ヶ崎」と「あいりん地区」が併記されることもある。

本記事では便宜上「釜ヶ崎」に統一するが、必要や文脈に応じて「あいりん地区」を使用していく。

基本データ
まず釜ヶ崎についての簡単なデータを確認しておこう。前述したように、大阪府大阪市西成区の一部地域をこのように呼ぶが、西成区についての基本データは以下のようになっている。(いずれも令和2年12月末時点、推計)

人口 10万5,586人
65歳以上人口 3万9,995人(37.8%)
世帯 7万2,602世帯
面積 7.37平方キロメートル
下記の地図の中央に位置するのが西成区であり、市の南西部に位置しており、天王寺区や浪速区、阿倍野区などと隣接している。


画像中央に位置するのが西成区(Google Map)

前述したように、このうち萩之茶屋1丁目・萩之茶屋2丁目の一部を釜ヶ崎と呼ぶのが一般的だ。萩之茶屋1丁目は、人口3,751人・3,671世帯で、2丁目は人口3,308人・3,279世帯となっており、両者をあわせると7,059人・6,950世帯となる。ただし後述するが、釜ヶ崎には歴史的に日雇い労働者や野宿生活者など流動性の高い生活者が多く、国勢調査で補足できない人が相当数いる。

また生活保護受給者が多く、2019年の平均としては西成区で受給者数は2万5,007人・2万3,159世帯で受給率は23.00%となっている。これは大阪府の保護率の5%程度や全国平均の1.64%を大きく超えており、4人に1人が生活保護を受けている状態だ。

ホームレスの人々も、釜ヶ崎周辺に多く暮らしている。厚生労働省の調査では、全国に3824人のホームレスの人々が確認されているが、大阪府は990人となっており、東京都の864人を上回って全国最多だ。このうち西成区周辺に暮らす人々は多いと考えられており、コロナ禍においても「衛生環境の悪さから医療関係者は深刻化を懸念」している状況だ。

進む再開発
この地域は、繁華街のすぐ側にある。たとえばあべのハルカスまでは車で10分もかからない場所であり、周囲には通天閣や天王寺動物園などが位置する。天王寺駅までは電車で2分ほどだ。


あべのハルカス(Wikipedia)

その他にも、星野リゾートや南海電鉄、JR西日本、大阪市高速電気軌道(大阪メトロ)が連携した再開発が進む。釜ヶ崎には、JR大阪環状線と南海電鉄が乗り入れる新今宮駅があるが、その北側には星野リゾートによるホテル「OMO7 大阪新今宮」が予定され、南海電鉄などによる訪日客向け施設「YOLO BASE」もある。2031年春に向けて、駅南側を含む街づくりビジョンが策定される予定だ。

新今宮ワンダーランド
そして、釜ヶ崎および西成区のイメージを転換しようと生まれたのが、今回問題となった大阪市による「新今宮ワンダーランド」という事業だ。新今宮駅を中心とした半径約1キロメートルのエリアを「新今宮」と呼び、「来たらだいたい、なんとかなる。」というキャッチコピーとともに「イメージ向上を図る」プロジェクトを進めている。

同プロジェクトでは釜ヶ崎を「労働福祉の聖地・萩之茶屋」と位置づけて、町の象徴的な存在である、あいりん総合センター(あいりん労働福祉センター)について「半世紀にわたり労働者を支えてきた。建て替え予定なので今のうちに目に焼き付けておこう」と紹介している。

冒頭で述べたように、直接的に批判されたのはしまだ氏の記事であるが、本事業についても批判は根強い。なぜ、釜ヶ崎のイメージ転換を図り、そしてこの場所を観光地として消費することが問題なのだろうか?

釜ヶ崎前史
こうした問題意識から、以下では釜ヶ崎の歴史的位置づけ、および現在までの系譜を概観していく。その歴史を紐解くことは、「どんな人も排除しない町」や「多様性と包摂的なまち」という呼称の問題点、あるいは妥当性を明らかにしていくだろう。一体、釜ヶ崎とはどのような空間なのだろうか?

江戸時代から明治初期まで
現在の大阪市中央区と浪速区にまたがる町名となっている日本橋は、江戸時代には長町(ながまち、名護町とも呼ばれていた)と呼ばれていた。

元々は豊臣秀吉が大坂から堺へ通う便宜のため開発した町とされ、現在の西成区のすぐ北側に隣接する地域だ。江戸時代前期の寛文年間(1661-1673年)には、大坂と和歌山を結ぶ紀州街道の宿場町として栄えると同時に、貧民が集まり木賃宿(きちんやど)が立ち並ぶエリアとしての記録が残っている。

木賃宿とは、最低限の宿代である薪代(木賃)のみで宿泊できる江戸時代の宿を指す。巡礼や遍路、参詣、見物を目的とした旅行者のため街道沿いに立ち並ぶ宿でもあるが、都市の下層民(貧民)が暮らす空間でもあり、江戸から明治期にかけて広がりを見せ、明治期になると「ヤスヤド」や「アンパク」などと呼ばれた。


現在の日本橋エリア、西成区のすぐ北側に位置する(Google Map)

「江戸期から明治初期まで『貧民窟』として知られていた長町」だったが、「近代化とともに大阪の市街が膨張していく過程で」、「長町の南、かつては町はずれであった『釡ヶ崎』の形成と並行する、あるいは帰着する」と言われる。すなわちドヤ街としての釜ヶ崎の源流は、長町の木賃宿にある。

江戸時代から100棟前後の木賃宿が立ち並んでいた長町だったが、その景色は明治10年頃まで変わらなかった。

1880年代(明治初期)
長町に変化が生じたのは、1880年代だった。その1つの契機となったのは、コレラの流行だ。

現在、先進国では稀な病気となったコレラだが、明治期においては世界や日本で幾度となく大流行が繰り返された。神奈川や神戸、長崎など外国人の流入が激しい地域で生じた1877年(明治10年)の流行に端を発して、1882年や1890年には全国で3万人以上の死者、1895年には4万人の死者を記録している。

このうち、大阪でコレラが猛威を奮ったのは1885年頃だった。この年、府内では1818名のコレラ患者死亡(致死率83%)が確認されており、翌年には1万9768名のコレラ患者が確認、うち1万6013名の死亡が確認されている。


当時の内務省衛生局がコレラ関連の記録をまとめた史料『虎列刺病流行紀事』

コレラの猛威に対して、明治政府は様々な対策を講じた。検疫や隔離など現代に通じる感染症対策が講じられたが、中でも衛生や感染症に関する民衆への啓蒙が重要だと考えられた。「誤解」や「妄説」を取り除き、同時に「自治衛生」への意識を高めるという、新型コロナ禍における現代の景色を見ているかのような取り組みが進められた。実務レベルでは、警察が中心となり隔離や消毒を実施して、それに対する反発などから各地で「コレラ騒動」が頻発した。

当時の国民には、まだまだ衛生観念は浸透していなかったが、政府レベルでは重要な感染症対策として位置づけられていたのだ。

この衛生観念の成立と、下層民(貧民)が暮らす「不衛生」な長町(日本橋)エリアへの眼差しが合わさり、「日本橋筋の住民=乞食=コレラの媒介」という図式が生まれる。こうして大阪府や警察などの公権力(行政)は、「貧民(貧戸)の大々的な移転計画」を推し進めようとする。

明治中期の下層社会への眼差し
補足をしておくと、明治25年から30年にかけての明治中期は、下層社会への注目が高まった時期でもあった。幸徳秋水『東京の木賃宿』、横山源之助『日本の下層社会』、松原岩五郎『最暗黒の東京』など当時のジャーナリストは、下層社会の実態を次々と良質なルポルタージュとして書き表していった。

世界的に見ても、『クリスマス・キャロル』や『二都物語』の作家チャールズ・ディケンズが描いたロンドンの景色のように、近代化・工業化する街中に、多くの貧民が溢れていることは注目を集めた。下水の汚臭に包まれていたパリは、ナポレオン3世による上下水道の整備などの大改造によって生まれ変わったが、それでも都市の人口増によって貧民も急増していた。

日本と欧州において貧民や下層社会への注目が高まったこの時期、大阪に着目した叙述も存在する。たとえば鈴木梅四郎による「大阪名護町貧民窟視察記」は、1888年に『時事新報』で連載され、コレラ流行にあわせてこの地域の様子を描いている。鈴木が大阪をルポルタージュの対象と選んだのは、流行にともなう長町の移転・取り払いの議論が沸き起こっていたためと推測されており、当時から長町の下層社会に注目が集まっていたことを伺わせる。

釜ヶ崎の誕生
いずれにしても、こうした社会的背景などもあり、貧民が暮らす長町への行政介入が進んでいく。

1886年5月、「長屋建築規則」という建築に関する規則が公布され、老朽化した不衛生な建物などが違法となる。この法的根拠を受けて1891年(明治24年)、長町の木賃宿などの家屋が取り払われた。貧民9126人が立ち退かされ、2410戸が取り壊し・改築を命じられる。

また1898年には「宿屋取締規則」が定められたことで、大阪市域で木賃宿が禁止される。

最終的に、1903年の第5回内国勧業博覧会が大阪で開催され、長町の「整備」や「改良」という名の行政介入はますます進んでいったと考えられる。内国勧業博覧会とは、明治時代に開催された博覧会で、現在の天王寺公園で開催された。530万人の観覧人を集めたとされ、海外からも出品があつまる盛況ぶりとなった。明治政府や国家の威信をかけた博覧会であるため、老朽化した建物や貧民が集まる長町の体裁が問題視され、行政が対処を進めたことは容易に想像できる。

こうして長町を追いやられた貧民は周囲に流出しはじめ、1900年頃には釜ヶ崎が新たな「貧民窟」として形成されはじめた。一連の長町をめぐる動きは、日本初の「スラムの一掃 = スラム・クリアランス」と言われており、これが釜ヶ崎誕生の契機とみなされている。(*1)冒頭で述べた「行政による排除と周縁化」のプロセスは、釜ヶ崎が誕生した経緯から密接に関わっていたのだ。

(*1)ただし、釜ヶ崎の成立の歴史については不明な点も多い。長町の取り払いにより釜ヶ崎が生まれたという一般認識はあるものの、「具体的な資料はまったく存在して(発見されて)いない」。具体的な出来事を契機とするのではなく、「1900年代の都市政策が複雑にそして時に偶然的に絡み合うなかで創出された」空間だという指摘もある。

ドン底生活
大正から昭和にかけて、長町から貧民を集めた釜ヶ崎は、新たな「貧民窟」となっていく。1918年(大正7年)に出版された大阪毎日新聞社のジャーナリスト、村島帰之による『ドン底生活』はその様子が克明に記録されている。

村島によれば大阪には、貧民14万人と極貧者1万8000人が暮らしており、「富の都」である大阪の反面に「貧」があると指摘する。中でも、北は日本橋筋東1、2丁目から東関屋町から広田夷(ひろたえびす)にかけて、東は下寺町、西は木津北島町西浜、南は飛田から今宮村釜ヶ崎(いずれも当時の呼び名)までが、貧民窟だったと記述される。

またこうした貧民の職業として、靴直し・皮革職・タバコや硝子の職工・屑拾いなどが挙げられている。ただし東側エリアと西側エリアで主要な職業が異なっているとも記され、西側に多く集まる皮革職人は第一次世界大戦などによって需要が高まり、好景気を享受していると記されている。


1925年の釜ヶ崎(釜ヶ崎資料センターより)

また同書には、釜ヶ崎に多くの児童がいたことも記されている。戦後は単身男性が大半を占めるドヤ街として生まれ変わっていく釜ヶ崎だが、戦前には女性や子供が多数確認できた。そのため徳風小学校と有隣小学校という2つの学校が存在しており、これらは株式会社クボタの創業者である久保田権四郎や、サントリーホールディングス株式会社の創業者である鳥井信治郎など、地元の篤志家から支援を受けていた。

新世界や飛田新地
この時期の釜ヶ崎は、隣接エリアの新世界や飛田遊郭が興隆したことも忘れてはならない。

新世界が誕生したのは1912年(明治45年)だ。1903年の第5回内国勧業博覧会で会場として使用された天王寺公園の西側が払い下げられ、大阪の新名所として通天閣とルナパークが誕生した。

「中央に通天閣というエッフェル塔を模したタワーを置き、そこから北半分はパリ風に放射状に道路が延びる商業街区が、南側はルナパークというニューヨークはコニーアイランドの遊園地を模したアメニティーパークが配されて、その周囲を興行街が取り囲む配置」で計画された町は、大きな賑わいを見せて、道頓堀や千日前(現在のなんばグランド花月周辺)に次ぐ繁華街となった。


1920年頃の通天閣(Wikipedia)

飛田新地も、同時期に生まれている。1912年(明治45年)、現在の中央区難波にある妓楼(遊女を置いて客を遊ばせる店)の遊楽館から発生した南の大火が、それまでの花街・難波新地に甚大な被害を与えた。これによって1916年(大正5年)に移転が決まり、現在の飛田新地が誕生する。

その後、飛田新地は日本最大級の遊廓となり最盛期には200軒の妓楼を抱え、戦後には半公認で売春がおこなわれる赤線地域となり、1958年に売春防止法が施行されてからも「料亭での客との自由恋愛」という名目で売春が続けられている。現在では「飛田新地に女を買いに来る釜ヶ崎の人間はほとんどおらず、町として隣り合っていながら、両者は今ではほぼ断絶した関係にある」2つのエリアだが、「最初に飛田側に立地した木賃宿が、その後、電光舎の工場の敷地になかば発展を阻まれるかたちで、街道西側の東入船町に集積していった」というほど密接な関係にあった。

釜ヶ崎の直ぐ側に2つの繁華街・歓楽街が誕生したことで、貧民窟の周囲に多くの人が溢れるようになった。

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