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栃木県の廃線コミュの東武佐野線 佐野連絡所〜越名河岸

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1882年(明治15年)9月21日、馬門ー佐野間に鉄道馬車開業を計画
1887年(明治20年)4月、「葛生鉄道」が計画。葛生ー佐野ー渡良瀬川越名河岸。
1887年(明治20年)9月23日、葛生鉄道は大幅な見直しがされ「安蘇馬車鉄道」として再出発
1889年(明治22年)6月23日 安蘇馬車鉄道 葛生〜(旧)吉水間が開業。
1889年(明治22年)8月10日 安蘇馬車鉄道 (旧)吉水〜(旧)佐野町間が開業。
1890年(明治23年)1月25日 安蘇馬車鉄道 (旧)佐野町〜越名河岸間が開業。
1893年(明治26年)4月13日 安蘇馬車鉄道が佐野鉄道に社名変更。
1894年(明治27年)3月20日 葛生〜(旧)佐野町〜越名河岸間の鉄道開業。
 葛生〜越名河岸間の馬車鉄道廃止。
1903年(明治36年)6月17日 佐野連絡所(吉水〜佐野町間)〜佐野間が開業。
 両毛線(当時日本鉄道)佐野駅に連絡。
1912年(明治45年)3月30日 東武鉄道が佐野鉄道を合併。佐野線とする。
1914年(大正3年)8月2日 館林〜佐野町(現・佐野市)間が開業。
1914年(大正3年)8月19日 (旧)佐野町駅廃止認可。
1914年(大正3年)10月16日 佐野〜(旧)吉水間を新線に切り替え。
1915年(大正4年)2月1日 (旧)吉水駅を堀米駅に改称。
1915年(大正4年)7月1日 (新)吉水駅開業。
1915年(大正4年)7月5日 佐野町〜越名河岸間旅客営業休止。
1917年(大正6年)2月16日 佐野町〜越名河岸間廃止許可。
1927年(昭和2年)12月16日 館林〜葛生間が電化。渡瀬駅開業。
1943年(昭和18年)4月1日 佐野町駅を佐野市駅に改称。
1972年(昭和47年)5月1日 渡瀬〜田島間に北館林荷扱所開業。
2006年(平成18年)3月18日 普通列車でワンマン運転開始。


左画像:右へカーブする地点
旧線はこの辺りで右へカーブし、佐野駅の西側を通っていきます。

中画像:朱雀駅があったと思われる地点
この辺りの住所が朱雀になるので、この辺りに駅があったと思われます。
歴史は「掘米ー朱雀ー佐野連絡所」ですが、これは時期やルートから考えてもありえない。
この辺りの路線変更の歴史を見ると、現在の堀米駅から朱雀地区へ通るルートはなく、
堀米駅は以前「吉水駅」だった事を考えると、秋山川手前の吉水地区に当初の吉水駅があり、
ルート変更された大正3年〜大正4年の歴史を見てみると、
佐野〜(旧)吉水間を新線に切り替え吉水駅を掘米駅へ改称、新吉水駅が設置、
と、なっているので、新線上への旧吉水駅が移設されたと考えるのが、一番納得がいく。
旧吉水駅を移設したものの住所が堀米の地区になったので、堀米駅と改称され、
田沼駅との間隔が長いため新吉水駅を新設したと考えられます。

右画像:路線変更の歴史
路線変更は佐野鉄道時代に計画されていた部分を東武鉄道になってから、
施敷工事が行われたもので、JR佐野駅への乗り入れの利便性を考慮し、
現在の蛇行するルートに変更されたものと思われます。

コメント(10)

左画像:佐野堀米西郵便局
朱雀駅からのルート上にあると思われる地点。
ちょうど玄関辺りがルートだと思われます。

中画像:郵便局の先
佐野駅方面へと向かっていきます。

右画像:左へ行くルート
踏み切りは現在の東武佐野線。
左画像:佐野連絡所があったと思われる地点
ここから左へ少し行くとJR佐野駅があります。

中画像:路線があったと思われるスペース
左カーブしてJR佐野駅へ向かっていると見えます。
こちらに佐野鉄道から佐野駅への連絡ルートがあったと思われるスペースです。

右画像:JR佐野駅へ向かう
鉄路の台頭から、越名河岸から船での運搬を断念し、佐野駅へと乗り入れし、
木材や石灰を鉄道での運搬へと移行していったのでしょう。
左画像:両毛線とのクロス地点
佐野鉄道は高架でオーバークロスしていました。
正面両側の建物の高さくらいあったのかもしれません。
路線は、この先の信号あたりから左カーブしていきました。
区画整理され住宅などが建っているため、当時の面影は全くありません。

中画像:佐野町駅があったと思われる地点
JR佐野駅のすぐ東南辺りに佐野鉄道の佐野駅がありました。
どの辺だったかは、詳しい場所は特定できませんでしたが、
たぶん、この辺りか少し駅よりの位置にあったと思われます。

右画像:仮連絡点
大正3年、現在の佐野駅へのルートが仮設されると、仮連絡点として設定され、
現在のルートへの線が敷かれました。
その後、ここからの越名ルートは一部廃線となりました。
※このトピックトップの路線変更の歴史参照
左画像:分岐点
仮連絡点からの佐野鉄道乗り入れと、越名河岸までのルートへの分岐点です。
仮連絡点と越名河岸への新連絡点を暫定的につなぐルートだったようです。

中画像:仮連絡点方面を望む
現在は佐野女子高が隣接しており、面影はありません。

右画像:新連絡点方面を望む
柵に囲まれた部分があり、その先が新連絡点へのルートだったようです。
大正3年10月16日に切り替わった新線から大正6年2月16日の廃止までは、
越名河岸ルートへ向かっていたようです。
左画像:新連絡点
佐野鉄道時代は左奥から斜めに延びてきた路線が右下へと進み、越名河岸へと向かう。
路線変更されると、仮連絡点はらこの辺りの新連絡点までは廃線となり、
左横から路線が延びてきていたようです。

中画像:佐野警察南の信号から斜めに進むルート
最初は、このルートが良い具合に越名河岸へと向かっている道路だったため、
この道路が佐野鉄道のルートだと思っていましたが、
「郷愁の野州鉄道」に掲載されていた明治40年の路線図を見て、
この道路より東を通っていたことを確認しました。

右画像:諏訪神社
この神社の東側を佐野鉄道は通っていたルートでした。
この神社の道路向かい辺りから住所が高荻なので、高荻駅があったと思われます。
左画像:国道50号
この辺りが佐野鉄道のルートと思われます。

中画像:越名河岸直前の地点
佐野鉄道の分岐地点でもあります。
越名河岸の直前で4本に別れ、それぞれが越名河岸へ向かっていました。
ここから西へ向かった所にある、越名児童遊園地入り口に掲示されている、
「越名馬門河岸復元図」にも載っています。

右画像:終点駅地点
繁栄していた当時は、この辺から川沿いに問屋が立ち並んでいました。
そこへ路線が到着し、船へ積み込み、東京方面へと運搬していました。
左画像:越名馬門河岸復元図
ひっそりと越名児童遊園地入り口に掲示されています。
越名河岸は、江戸時代に1kmに渡る秋山川改修を行い回漕問屋が開かれたのが始まりで、
18世紀には各問屋も自分の船を持ち、200隻もの船が停泊し、繁栄を極めたといいます。

中画像:繁栄を極めた時代の石積み

右画像:秋山川
佐野地方の産業・文化を支え発展させた、越名馬門河岸跡
興味深く拝見しました。特に越名の構造は空中写真だとはっきり分からなかったもので、現地調査の看板で膝を打ちました。

ただ、浅沼八幡宮付近のルートについては異なる見解を持っています。び〜ちゃんさんは浅沼八幡宮の南西を通過していたと推定されていますが、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で空中写真を見ると、浅沼八幡宮の東までうっすら痕跡が見えます。

したがって越名方面から浅沼八幡宮の東を通り、浅沼八幡宮の北に今もある旧家の北東ギリギリをかすめ、さらに大雲寺の南西ギリギリをかすめ、佐野町駅に至っていたのではないでしょうか。

こう考えると現在の佐野線がこの付近で若干不自然なカーブをしていることも納得がいきます。
>>[9] ありがとうございます。遠くてなかなか行けないので、簡単な調査しかしていませんので、だいぶ憶測な部分があるので、助かります。

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