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キリスト教(聖書)への素朴な疑問コミュのリベラル(自由主義神学)万歳!

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コミュ内全体

世の中に、神学ほど役に立たないものはないといいますが、
ここで、敢えてリベラル万歳をとなえたいと思います。

初期教会に、新プラトン主義を導入した古代の教父たちを含め、
キリスト教は常にリベラルでした。

カント以来の啓蒙主義的神学は、アリストテレスの「第一原因」としての神を、
カトリックのトマシズム、スコラ哲学を経て継承してます。

進化論も旧約聖書と齟齬をきたしません。
天地創造を福音派などが牽強付会な解釈をしたのは、二千年の歴史の中ではごく最近。

バルトの新正統主義や、ホワイトヘッド哲学を取り入れたプロセス神学をリベラルに含めれば、
まさにキリスト教はリベラルなものであった、と結論できるでしょう。

何か異論・質問者があれば、どうぞ。

コメント(1000)

>>[960]

行為功利主義者と言っても、
テロリストを幸福するのは嫌なんですよ。
だから拷問の文言に限定しようとする。

つまり、行為功利主義者の幸福というのは、単なる主観なんです。
>>[959]
えっと、薬物に対する『耐性』ではなく、酩酊状態になったとき、真実を話さないようにする『訓練』です。

イリアさんは、このような訓練が実在することと、自白剤で死亡した事例かなんかをネットかなんかで見せれば、天秤の土俵にあがるのですかね?

結局イリアサンは、ww2以降の自然法だの、規則功利主義だのといいながら、極限状態の倫理的ジレンマに真正面に向き合おうとしないくせに、それと真正面から向き合い倫理的ジレンマの解消を提示したベンサムを非難する姿勢なのですよ。

そのような論法は、俺にとっては、『大和神話の矛盾』に向き合わず、最終的に『日本から出て行け』と言うネトウヨと非常に良く似た姿勢だと思います。
>>[962]

最初に倫理として間違っていると言っている。
間違っているからどうだ、という話でもある。

たとえば、戦争は一般的倫理としては間違っている。
民間人への殺傷は悪ですな。
自衛戦争だからと言って、自衛戦争と名乗れば全て正しい、とは言えない。
自分の生命と家族は戦争によって守れるとは限らない。
何万人死ぬかわからない。

しかし、自由の為に戦う、という選択肢はあり得るでしょ。
それが倫理的に正しいとは言えないかもしれないが、自分の実質合理性(絶対価値観)を倫理より優先しているわけ。

あなたの例示の場合、穴がありすぎていくらでもこちら側は穴をつける。
あなたは、穴をつく行為を、「向きあわない」と言っているだけで、
単に「自分が欲しい答え」を答えてくれなくて喚いているだけ。
話にならない。
また、大和神話なるものは、そもそも無意味。

神州不滅、という神話は確かに第二次大戦時にあったが、日清戦争、日露戦争と勝ち、真珠湾辺りで大勝していたら、有頂天には当然。
今の国民が誇るのは愚に近いが、当時の国民が誇るのはむしろ自然。
神話的に言うなら、功利主義そのものがもはや神話にすぎない。

何故なら、たとえ外見上正しいように思えても、功利主義を基準に立法を行っている国も、
快楽計算を行って社会改革をしようとしている国もない。
自由主義が戦後になって修正資本主義という形で混合経済になったのと同じで、既に終わっている思想。

規則功利主義ならまだ使える範囲があるだけで、
別に規則功利主義も功利主義の一派ということで破棄しても構わない。
功利主義というだけで倫理的に意味がないと言える。
更に言えば、何度も書くが、拷問を加えても正しい場所を言うとは全く限らない。

あなたが言う、架空の「薬物への耐性」同様、肉体的苦痛への耐性を訓練出来るからだ。
むしろ、その場合の方が期間が長く、「時間稼ぎ」になってしまう可能性の方が高い。
効用的には、薬物の方がてっとり早い。
買収や取引は、後のことを考えなければ次善の手。
拷問はまさに最悪で、爆弾が爆発するまで耐えられてしまったら終わりなんですよ。

薬物でも脳は萎縮するが、苦痛に対しても、人間は苦痛から逃れる為に脳が萎縮する。
痛ましいリンチ殺人事件などの被害者の脳などで明らかな話ですけど。
まして、数億人を皆殺しにしようとしているテロリストが、耐性のつかない薬物への対応より、必ず起こり得るだろうと思われる肉体的苦痛への耐性訓練をしているだろうということは、容易に予測出来る。

拷問が効くのは、そういう環境に慣れてない一般人で、
テロリストや軍人を捕虜にしたり逮捕にしたりして拷問を加えるという行為は、一般人相手よりは難しい。

だから、行為功利主義には矛盾があって、
明らかに「全員快楽になる」選択肢が浮かび上がるのに、ジレンマを突きつけたいが為に無茶な選択肢の制限をせざるを得なくなる、ということ。

この場合、薬物、司法取引、買収(たとえば、取り調べの際に牛丼をとるなどは、ドラマで良くあるシーンだが、買収にあたるので禁止されている)などの、
容疑者を含めた全員が幸福を追求出来る手段があるのを、敢えて防がないとジレンマとして成立しない。

一言でいうと、神学論争みたいなものです。
何度も書くが、倫理的に拷問は正しくないと考えるし、
拷問が買収や取引以上に数億人を救済する手段としては効果があるとは思えない、という立場を採る。
拷問をしないことで絶対に数億人が死ぬ、という極めて限定的な条件を出すでしょうが、
数億人が死なない可能性を含めた手を追求すべき、という考えが倫理的に正しいという立場は僕は崩すつもりはないですな。

…そして、この設問はそれが可能なので、そこで終わり。
ジレンマにならない。

小林よしのりが昔、宇宙における、自分はロケットに乗った宇宙飛行士で、地球に落ちる隕石を止める時に「自分のロケットしか止める手段はない。あなたはその場合特攻をするか」という設問をかつて自分の漫画で提示したことがあるが、
「宇宙空間なんだから慣性で飛ぶ。だから自身は脱出しつつロケットを隕石へ向かわせれば良い」みたいな話が全く出てこないようなものです。
ジレンマになってない。
従って、数億人の命に向き合った結果として提示するのは、
「容疑者と数億人両方幸福であるような手を模索せよ。しかもその手は存在する」
…でしかない。

合法的で(禁止する法律がとくにない)、更に言えば国家の主権行為であると主張すれば、訴訟されて憲法判断されない限り違憲でもなく、また近代国家として近代法体系を逸脱しない。

超法規的措置として、倫理を踏み外して拷問を加えるより、てっとり早いし、むしろ、逆に本当の事を教える可能性も拷問と対して差がない。

この程度の設問から出てくる答えとしてはこの程度。

社会の安寧と、本人の最後の感想の為だけに、アドルフ・フィッシャーを冤罪で殺すのはOKか、という話で、「そんなわけないでしょう」と答えるのと同じ。
…そういや、アドルフ・フィッシャーの件については聞いてませんでしたな。

多分、「全て功利的から外れてないので肯定される」とおっしゃるでしょうけど。
少し、トピ題に話を戻すと、
つまり、こういう感じで19世紀には、キリスト教由来の自然法思想は、妄想ないし主観扱いされたわけですな。

実証主義法学というのは、自然科学のように、体系化され完結している精緻な法体系とされ、キリスト教そのものは進化論や定常宇宙論、古典力学の決定論などで、とかく批判を受けた。
高等批評の発祥の地がドイツであったように、
まあ、理性というのは、当時は分析力と合理的思考能力に同義で、
ドイツ観念論が一世を風靡したわけです。
それに魅せられたのが明治人たちですが、それはさておき。
そして、同時に進歩が完全に信じられた時代でした。

ヘーゲルや、青年ヘーゲル派、マルクス主義はおろか、
ダーウィンを援用した、スペンサーの社会進化論など。

ところが、ここで欧米は一つの問題に直面するわけですな。
帝国主義をやって植民地を形成した時に、
現地人をどう扱うか。

ベルギーのレオポルドみたいに、コンゴを私有地たとして、無茶苦茶に扱う例もありましたが、さすがに理性的と称する文明国がそれを正当化するのは難しい。
で、考え出された理屈は文明の伝播。

そのイデオロギーは、啓蒙思想なわけです。

つまり、人間は産まれた時は白紙で、環境などで差が出るに過ぎない。
ならば、我らが文明国がちゃんと環境を整備すれば、彼らは文明人になるはずだ。

いわゆる、同化主義です。
それをやったのが、フランス植民地帝国で、
現地人に、本国風の名前を付けさせる、とかやったのは、ここが元祖。
で、フランスは大失敗します。
特にイスラーム圏で反乱が頻発するわけですな。

そこで、フランス人は考えた。
何故駄目だったのか。
民族ごとに固有性があるからだ、と。

啓蒙思想や功利主義が、余り上手くいかない状況から、とうじは、ル・ボンらによる集団心理学というのが出来始めていて、
これが「民族心理学」というのを提供した。

よーするに、西洋人以外は彼らなりの理性と集団性に、生得的に支配されているから、文明化なんか無理だ、というイデオロギーの理論的根拠になったわけです。

ここからナチズムまですぐなわけです。
で、当時欧米に評価が高かったのは、大英帝国の「自治主義」。

現地人をジェノサイドしただけとか、ボーア人を強制収容所に入れていたりとか、
無茶苦茶をやってるのですが、
フランスの同化主義よりコストが安いという理由で大評判でした。

大日本帝国が、初めて台湾という海外領土を獲得した時、
英人顧問と、仏人顧問の両者から意見を聞いているのですが、
明治政府は、後者の提案した同化主義を退け、前者の「自治主義」でやる事に決めています。
で、「民族心理学」と、社会ダーウィニズムが結びつけばどうなるか。

まあ、レイシズムが「科学的」に正当化されてしまったわけです。

反ユダヤ主義というのは、どちらかと言うとフランスやロシアの方が強かったのですが、
まあ、ヘーゲルが例によって、ユダヤ教を「遅れた」宗教と位置付けたり、
キリスト教が廃れていくにつれ、古ゲルマン神秘思想が出てくるなどして、
第一次大戦後のドイツでユダヤがスケープゴートにされていくわけです。

実は、第一次大戦当時は、ドイツのユダヤ人が一番同化傾向にあったのは皮肉な話です。
そうして、1933年から1945年まで続いたのが、いわゆるドイツ教会闘争です。

実は、萌芽は十九世紀からありました。
十九世紀初頭のナポレオン戦争の頃から、マルティン・ルターは、宗教改革の父祖というより、ゲルマンの英雄扱いされるようになって来始めていたわけです。

1848年の革命運動の時までは、近代的自由主義者を正当化するモデルとして、ルターが扱われました。

ところが、ビスマルクの帝政ドイツが出来ると、今度は完全にゲルマンの英雄色を帯びます。

たとえば、1883年の、ルター生誕四百年を記念する、トライチュケの祝祭講演では、

「この原生的なドイツ農民の子(注…ルターのこと)の深い眼差しからは、世界の目を避けることなく、
むしろ、倫理的な意志の力によって世界を支配しようとするゲルマン人の英雄的豪胆さが顔を出している」のだそうで。
当のルターが聞いたら顔をしかめてどこかに行きそうな感じの言葉ですが、こういう扱いがされていた。
トライチュケによると、「プロテスタンティズムは、全体としてみれば、キリスト教のゲルマン的形態であり」、ローマの支配から解放したルターの行為は、「ナショナルな国家権力」及び「主権を持った国家」を、「倫理的秩序」として強化するものだった、とされました。

ウェストファリア体制のどこが倫理的秩序だ、という至極もっともな突っ込みはともかくとして、
国民国家の観点から、ルターがドイツ帝国の英雄である位置付けが、プロテスタンティズムに対する一面的な見方ともにされているわけです。
第一次大戦では、ルター派の神学者や政治家、歴史家などによって、
「ドイツの剣はルターによって聖別されている」とまで言われてました。

これが、第一次大戦後、ワイマール共和国の時代には、ルターは反自由主義の象徴扱いされます。
プロテスタントの神学者などや政治家、歴史家などは、ルターを西欧的デモクラシーの理念に反対するシンボルとして喧伝しました。

当時、折しもアメリカのカルヴィンストが、「神の国はアメリカ合衆国だ」とする主張をしていたの対して、
ルター派が、「神の国は、神の恵みの領域」と反発した、神の国論争がありましたが、
基本的には、ヴェルサイユ体制に対するナショナリズムの衝突がプロテスタントにも影響していたわけです。

で、1933年に、ドイツでナチス政権が生まれたのですが、この年はちょうどルター生誕四百五十年記念の年でした。
そんなわけで、ナチスシンパでは、「ルターとヒトラー」を並べて論じる姿が見られるようになります。
まあ、神学者ハンス・プロイスの講演である、文字通り、「ルターとヒトラー」と題する祝祭講演なんかが有名ですな。

同じ年の11月に、教会史家オットー・シェールは、「ルターにおける福音、教会および民族」という題の記念講演をしてます。
シェールによれば、ルターの「奉仕」の結果、ドイツ人に対する贈り物として、「民族教会」を創設したのだとか。
ま、彼によると、「彼(ルター)のドイツ語聖書によって、主の福音はドイツ的福音となったのだ」そうで、まあ、まさに噴飯物と主張ですが、とにかくゲルマンの英雄としてのルターが、ナチズムや民族精神というヤツで色づけられてモデル化されていたわけです。

同じ年に、ナチスに反対したカール・バルトはこういう見方を批判し、
ルターは、神の「忠実な僕として、旧約および新約聖書という顕著な書物を読み、注釈した」、
「教会の教師」「福音伝道師」以外の仕方で理解し、尊敬すべきではない、と主張しました。

ま、ルター自身は欠点の多い人物なので、確かにそれ以外ではあまり弁護出来ない所もないわけではないですが、それはさておき、
10月30日に、バルトは「決断としての宗教改革」という講演をベルリンでやろうとして、まあ禁止されるのを恐れて宣伝をほとんどしなかったわけですが、それでも会場には千人余の聴衆が詰めかけました。

バルトは、「われわれは、宗教改革がまさにわれわれに語らなねばならないことによって励まされ、有機づけられ、抵抗しなければならない。まことの福音主義の名において、いつわりの福音主義教会に対して」と講演を結んでいます。
実は、ナチスシンパの宣伝とは別に、ナチスの指導者は、ルターを嫌悪してました。
ローゼンベルクによれば、ルターは「ユダヤ的・ローマ的・アフリカ的」な起源のキリスト教を離脱することはなく、ルターの宗教はユダヤ教の影響を受けていて(←当たり前だ)、
それゆえにドイツに敵対的な特徴を帯びている、という「分析」がされてます。

別トピで書きましたが、ゲッベルスは、日記の1928年9月16日の条に、「ルターは中途半端な人間だ。彼は宗教的に分裂した民族を残しただけだった。…彼は最初の宗教的リベラリストだ」と書いてます。

しかし、ローゼンベルクを含めて、ナチスはルターをゲルマンの英雄としてどんどん宣伝しました。
ところが、1933年11月12日の、「ドイツのルター記念日」大会がベルリンで開かれた時、クラウゼが、「ドイツ宗教改革の完成」によってのみ、「ナチ国家の全体主義的要求に正しく応える」
…みたいなことを言ってしまいます。
いわゆるベルリンスキャンダルと呼ばれる事件で、さすがにドイツ全土に非難が渦巻きました。
ナチスシンパの「ドイツ的キリスト者運動」の支持者たちも、このベルリンスキャンダルを切っ掛けに、大量の離脱者が出ます。

その後も、宣伝そのものはされますが、ナチスの指導者のルターへの無関心ぶりは相変わらずのままでした。
記録に残っているのは、第二次大戦中、東部戦線の大本営で、ヒトラーが、
「ルターは教皇と教会のシステムにあえて反逆した。それは最初の革命だった」、分裂していたドイツの「諸国民は、教皇の願いに反して民族となった」(1941年7月21日)みたいな、「ゲルマン精神」を評価する程度の話です。

ヒトラーによれば、ナチス式の敬礼は、ルターがウォルムス国会で歴史的証言をするために大広間に入場したとき、また証言後に退席したとき、列席したドイツ騎士たちが行ったのだとそうで。
官房長ボルマンは、「その挨拶の仕方を伝えた当時の記録を総統は所持しているらしい」と書いています(1942年5月11日)
そして、連合国は、ナチスの全体主義の起源をルターに求める見方も強まりました。

1941年に、アメリカの歴史家マックガバーンが、「ルターからヒトラーへ」と題する本を出版してますし、
1945年には、ヴィーナーが「ヒトラーの精神的父祖マルティン・ルター」と題する本を出してます。
こうした動きに油を注いだのが、バルト。

実は、バルトは、1939年のフランスへの手紙で、ドイツ人は「とくに深い、それゆえとくに野蛮で賢明でない、しかも生命を無視する異教主義の遺産」と、
「偉大なキリスト教的ドイツの遺産、すなわち、律法と福音、この世の権力と霊的な権力とに関するマルティン・ルターの誤り」に災いされているとしてます。
「ドイツ人の自然的な異教主義は、制限されたり限界づけられたりされないで、むしろ、イデオロギー的に栄光化され、確証され、かつ強化された」とし、直接的に、
「ヒトラー主義とは、ドイツ的異教がルター的な形態においてキリスト教化されたもので、その現在夢みられている悪夢なのである」とまで主張しています。

バルトは、ドイツ的キリスト者運動に反対して、バルメン宣言を出したのですが、
これに対して、ルター派のアルトハウスやエーレルトは、「アンスバッハの勧告」という、反対宣言を出していたので、それが念頭にあったとも言われてます
(注:バルメン宣言に参加したルター派キリスト者も多数います)。

で、ゲーリングが「我々の反ユダヤ主義はルターの教えをやっているだけだ。裁くならルターの墓を暴いて死体を罰してこい」みたいな、牽強付会な主張をニュルンベルク裁判で主張するなど、
とにかく第二次大戦直後には、ルターは批判の対象でした。
ルターが農民戦争で領主側に立ったことをエンゲルスは批判しているのですが、東ドイツではその考えを継承して、ルターに否定的な評価を与えています
(ただし、末期には、「最初の近代人」として評価している)
で、戦後。

「ルターとヒトラー」を講演したプロイスなどは、「1946年のドイツ人に対するルターの訴え」と題する書簡式小冊子で、ルターの発言として、
「汝(=ドイツ人)の罪、汝の処罰、汝の苦難、しかし、もしかしたら汝の救い」と書き、何故神がドイツ人を打ったのかについては、
「汝の預言者たちがその説教によって汝をたぶらかし、汝が彼らに抵抗しなかった」とまで書いてます。

…呆れてものが言えないとはこの事ですが、とにかく、プロイスにとって、1946年のドイツ人は、
「哀れで、悲惨な、見捨てられ、軽蔑され、裏切られ、売り渡されたドイツ」ということで、しかし、ドイツ人は、変わることなく神によって選ばれた「聖なる残りの民」でありつづけるが、それはルターの遺産に基づくものである、ルターを軸にドイツ人は再び前進出来るのだ、と主張してます。

で、ルター派のアルトハウスは、1946年のルター没後四百年記念講演で、
「われわれドイツ人の頭上に今下された神の裁きの中で、ルターもまた何らかの形でともに審判されているのだろうか」とし、
ドイツの伝統である領邦教会がルター主義にも影響したことは認めるが、国家理性を発見したのはルターではなくてマキャヴェリであって、
マキャヴェリズム的思考がドイツの国家哲学に入ってきたのは三十年戦争後の影響であって、ルター主義に帰することは出来ない、としてます。

アルトハウスによると、「われわれの眼前で恐るべき帰結をもたらした近代政治の自律性は、ルターとはまったく何らの関わりもない」、「ルターは、キリスト教をこの世のデーモンに対して裏切るようなことは決してなかった」とし、
ドイツ人に全体主義運動や国家理性への絶対的服従のメンタリティを生み出したのは、思想家の名前を挙げるとしたら、

「ヘーゲル」

だろう、と言ってますな。

ヘーゲルにそのような心性を誘発するイデオロギーの提供要素があったとしても、「アンスバッハの勧告」を出したのは彼自身だったことは事実でした。
ちなみに、バルト側に立った告白教会に参加したリッターなどは、近代の世俗化された思考はルターとは無関係で、それは「ルネサンスの哲学と神学」が由来であると言い、ルターを弁護してます。

実際の所、北欧、ノルウェーがナチス・ドイツに占領された時、「教会の根拠」という信仰告白を1942年に出してまして、マルティン・ルターの神学を支えとしてドイツ的キリスト者運動に抵抗した事実があります。

まあ、ゲッティンゲン大学教授のエルンスト・ヴォルフが「ルターの遺産」(1946年)で主張するところによれば、「ルター的遺産の継承にたいして、繰り返し批判を遂行する」ことこそ、ルターを「誤解と乱用とから守る」のに役立つとしてますな。

全ての権威を疑う、というプロテスタント原理と同じようなものですな。

結局、理性であろうが先駆者だろうが権威だろうが伝統であろうが幸福であろうが何であろうが、
疑って「繰り返し批判」し、自省することを忘れた時代が、十九世紀から第二次大戦終戦までのキリスト教圏なのかもしれません。
>>[963]

イリアさんの文章を読んでいてなんとなく分かったことがあります。
イリアさんは哲学的な言葉を使って語っているが、哲学してはいないということです。

初めから『善』とか『倫理』と言う言葉の持つ意味が独善的に規定されていて、そこに疑う事をしないで『共感と反感の原理』に溺れ、メタ倫理学上の思考が出来ない。

だから、ハーバードの倫理学の設問がまるで意味を成さないのです。
そういう学生をたまに見かけます。





アドルフ・フィッシャーの件は、冤罪と決定されているんですよね?
冤罪なら、行為功利主義から見て『冤罪』なので、否定されるべきでしょう。
本人が最後に『幸福だ』といったから、彼の人生は幸福だったとするのは、一体何なのでしょう?
そんなのは、規則功利主義が云々、行為功利主義が云々ではなく、信仰みたいな不合理な物を信じる行為じゃないですか?



岡田の件も、心が折れたときに口を割るのは人間の常識です。
拷問してでも、何とかしてテロリストの心を折り、核爆弾を除去しようと試みるのは『人間の理性』です。
そして、どんな風に自然状態を想定しても『理性』は『善』と同値ではありjません。
理性と悟性を明確に分けて考えてみてください。


しかも、規則功利主義は『例外』という論理を持っています。
何度もいいますが、規則は『絶対』であると言うなら、イリアさんは言い訳せずに尻に突っ込まれるのを容認しなければならないし、規則は『例外』があり、自然法が上位にあるからだとか、規則より功利が圧倒的に上回る場合は規則に従わなくていいとか、何かしらの理由をつけて、個別に事例に当たり『例外』を作るなら、行為功利主義と等価になるという議論はごく当たり前に存在していて、規則功利主義が行為功利主義より優れているなんて言えません。

そしてもうひとつが、規則で決まっていることを守らない人がいるという事実。
功利主義的観点から規則を決めても、利己主義的に規則を守らない人が存在する可能性を勘案していない。
『万人が規則Aを守る』と『誰も規則Aを守らない』と言う論調で語るのは、論理上功利計算が不合理になるのに、その点を全く視野に入れていない。
規則功利主義は『例外』を作り、規則を守らない人を想定していないのだから、ここ個別に事例に当たり功利計算をするので、行為功利主義と等価になるのです。

イリアさんは規則を守る時もあれば、守らない時もある人なのです。
ベンサム流に言うならば、イリアさんは尻に突っ込まれそうになったとき、規則功利主義よりもww2以降の自然法に従ったほうが、より功利が高まるとして、結果規則を守らない。そんな風に利己主義的に判断したのです。

これは、全体が他を含まない、『私』だけの功利主義、いうならば『利己主義』です。

ほかの同性愛者たちは、法を打算的に守る事例を挙げながら、自分は守らないと主張する。
詰まるところ、この論理は不合理であり、例外を作る以上、規則功利主義的な論理は破綻し、行為功利主義になります。
>>[985]

>規則を守る時もあれば、守らない時もある人なのです。

いや、そもそも行為功利主義が、数億人の問いの時に、「規則を守らず」拷問の実行を容認しているわけで、
「時と場合による」をそれぞれ言い換えているに過ぎない。

殺人は犯罪だが、自己防衛はする事もある。
当たり前の話で、それを利己主義というのは、そもそも行為功利主義の論理である功利性が、普遍的でないということ。

別の例で言えば、日本国には健康増進法というのがあって、まあ国民は大抵知りませんが、この法律によると、

>第二条  国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。

とあります。

規則功利主義からも自然法からも全く「おっしゃるとおり」と言う条文ですが、不健康な生活習慣(飲酒や徹夜など)をする時の歯止めにはなりません。
経済学的には、経済的改善というヤツで、行為功利主義というのは、「ある人に対する利得が他の人に対する損失を保障するのに十分であるかどうかを確かめるために、様々な人達の効用をどのように加えるか」で推し量るわけです。

この時、損失を保障出来た行為については何らの否定出来る理由を持ちません。

上のはマーシャルの改善の定義ですが、経済学で使う効率は、パレート効率。
誰かある人に利益を与えるが、他の誰にも損失を与えない変更をパレート改善と言います。
これ以上パレート改善が出来ない時を、パレート効率にある、と言います。

拷問の場合でcharさんなどが主張しているのは、このパレート効率にある状態ですらない。

フィッシャーの場合も「冤罪だとわかっているのだから」とcharさんがおっしゃっていますが、ある時は法を破り、ある時は冤罪は駄目だというのは、効率を考えた場合、普遍性が全くない。

パレート改善がなされなくても、その時の保障を国家などで、利得の移転という形で行われれば、仮想的パレート改善、ないしヒックス‐カルドア改善と呼びます。
どういうことかというと、何かなされた時に、僕が一万円存する変更がなされても、国家がその時に僕に一万円の補償金を出したら、仮想パレート改善という形になります。

で、これがなされたら、事実上、いかなる変更も可能です。
そうでしょ?
誰も損しない。国家が利得の移転を肩代わりするのだから、どういう改善であろうと仮想パレート改善になり得るわけです。

拷問に対する議論、同性愛に対する議論、ジェーン・ドゥに対する議論を含めて、
何をどう決定しようが、国家が存在する限り、全てOKと出来るわけです。
で、マーシャル改善にしろ、パレート改善にしろ、問題があって、
これはあなたが出したテロリストの問題と同じですが、よーするに初期状態に左右される。

あなたと僕の二人からなる社会を想定して、その内一人が、寿命を二倍にする延命薬を持っているとする。
その場合、どういう形がマーシャル改善か、あるいはパレート改善になるか。
僕が持っていた場合、その薬の貨幣的価値は、僕にとっては、あなたが持っているよりも大きい。
つまり、差し引きで、損失なしに改善出来ないので、マーシャル改善は出来ない。
あなたが持っている場合もそう。

一言で言うなら、ある変更が改善になるかどうかは、財の初期配分についてどんな仮定を設けるかに依存する。

あなたは「数億人に向き合え」とおっしゃっていたが、僕は確かに捨てたくない人間関係やら何やらをたくさん持っているからジレンマに陥るが、
もし決定者が自殺志願者で、世の中にうんざりしている人間なら、僕よりも彼にとって、数億人の命は比重が軽くなる。

行為功利主義は、初期状態に全く依存しているわけで、改善に関する決定を克服出来てないわけです。
幸福をわかりやすく貨幣的価値に置き換えればあっさりとわかるが、
貧困者にとっての一万円の利得移転を伴う変更と、富裕者にとっての一万円の利得移転を伴う変更では、両者にとって価値は全く同一ではない。

しかし、実は経済学での定義は、貧困者にとっても、富裕な人にとっても、貨幣の価値との間には差がなく、また、人々が何が自分自身の利益なのかを知らないかもしれないという可能性はないと仮定している(後者は特に完全情報と経済理論の知悉という形で仮定してます)。

ですが、少し考えれば分かりますが、貧困者が、富裕者のみが損する行為(たとえば、奢侈品に対する高額な税負担)に対して、納税者の負担について冷淡な目を見るのは当たり前だし、
富裕者にとって、一律で数%の消費税が加わる事について、その負担を軽視して考えるのは当たり前。

規則功利主義だと、それでも税は公平負担になるような原則で税を導入すべき、になりますが、
行為功利主義だと、仮想パレート改善をやられたら、「誰も損しない」形になって、どんな手でもOKになります。
それを否定する理屈がないわけ。
で、実は、あなたは最初にスルーしたのですが、独占というのは、競争企業と同じくらい効率的であると境外学は示唆しています。

だから問題なんです。

独占にはコストがあって、限界費用以上の価格をつけると、やはりその分だけ消費者余剰が減少する。
これの改善は原理的に不可能です。
しかし、独占状態は維持される。

独占資本主義云々とは言いませんが、独占状態である市場が、自由競争市場と同じくらい効率的で、改善の余地がない以上、
独占企業が好きな事をやっても、その分だけ損失が計上されるから、パレート効率のままです。
つまり、「何をやっても効率的」という結果が出るのですよ。

行為功利主義による自由放任主義が上手く機能しなかったのは、それが理由です。
独占体が出ようが出まいが、行為功利主義は文句をつけられないが、しかし、独占体は社会生活には弊害を実際にもたらす。
だから規則功利主義で、独占禁止法などの法的規制が生まれたわけです。
では、高級品の方が売れるという状況を説明する、完全価格差別独占というのをやればどうなるか。
これは、高い金を払う意志のある人間には、高く売る、というパターンです。

この場合、単一価格独占よりも望ましい結果が生まれますが、レント・シーキングという問題が生じます。
市場収益を超える収益を得ようと競う内に、それが消滅してしまうこと。
利益の全てを独占体に移転して、同時に独占体は独占確立の為に利益を全て注ぎ込む結果を市場に生み出します。

拷問の問題で、拷問をしている間に核爆弾の爆発に間に合わなかった、みたいな話です。
で、法的に独占の規制をやるわけですが、もう一つ解決策があって、それは独占の国有化。

日本で国鉄が出来た経緯を含めて、…まあ、戦前の日本通運みたいな準国策企業を含めて、
独占の解決には、公平無私な官僚による運営が望ましい、とされたわけですな。

これは国際共産主義運動、及び国家資本主義、または国家社会主義の勃興と同じ理屈です。

国家が仮想パレート改善を出来るなら、国家があれば無私な形で独占体を運営し、人々は何の損失もない。
理屈としては、全く問題なく見えたわけです。
実際、社会福祉という形で、戦後の資本主義国家は仮想パレート改善をしてます。
いわゆる修正資本主義です。

幸福に話を戻すと、人間は、心理学的には価値逓減の法則という心理的法則によって支配されます。

どういうことかというと、同じだけの幸福を、与えられ続けると、その人にとって、幸福の価値が下がる。
しかし、不幸には価値逓減の法則はない。

最初から関係が線形ではないんです。
あなたは「利己主義」と言ったが、それはある意味当然で、
初期配分と、環境(継続性)によって、同じ幸福だと思われる価値が人によって違う。
行為功利主義は初期配分と環境をそもそも仮定していない。

仮想パレート改善どころか、マーシャル改善ですら解決不可能な話です。
たくさん良い条件が揃っている状態、良い「幸福」が与えられている環境と、
それぞれそうでない人にとっては、そもそも幸福の相対的な価値が違う。

これは経済学的の仮定から来る話でもあるので、原理的に解決出来ません。
勿論、行為功利主義でも不可能です。
必ず「利己主義」に見える振る舞いがなされます。
ある程度の解決策としては、それを模索する規則を設けることでしかない。
しかし、幸福価値は原理的に計算が不可能で、関係も線形ではないので、必ず普遍性は破られる。

行為功利主義が失敗したのはそこで、人はだから必ず「利己主義」的振る舞いを総じてするように見られ、
独占体は効率的に動いていることを否定出来ず、
にも拘らず、その社会が無茶苦茶だったわけです。

だから、国家、国家と戦間期に叫ばれたわけです。
日本でも国家改造運動というのが戦間期にはありましたな。
勿論、独占体が効率的であるのと同様、官僚組織は常に非効率です。
国営化された組織がどういう状況になったのか、それはわざわざソビエトを研究しなくても、日本では国鉄の歴史を調べたら分かることです。
あなたは、僕の言う理性を「曖昧だ」と言いましたが、当たり前で、
そもそも普遍的な理性なんざ生物学的に存在しないのですよ。

それを画一的にモデル化して理想化していたのが行為功利主義や実証主義法学、自由主義経済のイデオローグたちだったわけです。
国際貿易の効率性を説いたリカードに騙されて、ポルトガルがイギリスとの取引でどんどん衰退していったようなものです。

結果が全く伴わなかった。
結果論的に言えば、間違いだったわけです。
万人に共通する思考様式はない。
それを可能にするなら、大規模な洗脳みたいなものです。

まあ、「中華民族」に同化過程にある満州族みたいなものですな。
文革では、満州族は晒しあげられたりしたとか。
チベットみたいにジェノサイドをされるまでもなく、そうやって社会的に洗脳が繰り返されて、
「中華民族」として、多様性を失って画一的なモデルへと同化させられる。

結局、古典的近代というのはそういう危うさを原理的に持っていて、今の中国はその鬼子みたいなものです。

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