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城下町コミュの鳥羽

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コミュ内全体

 志摩国志摩郡の鳥羽(トバ)は、古代には泊浦(トマリノウラ)と呼ばれ、天然の良港として知られていたため、泊浦御厨(ミクリヤ)として伊勢神宮の支配下に置かれた。また鴨部駅家も設置され、水陸交通の要地であった。
 保元年間(1156〜59)に橘氏が鳥羽殿と称して、桶の山と呼ばれた陸繋島に居館を設けて、泊浦御厨や法楽寺領荘園を支配下に置き、鎌倉時代もその状態が続いた。また、この頃、町の中心部を流れる妙慶川以北が伊勢国に編入され、泊浦が転訛した鳥羽の地名も用いられるようになった。
 室町幕府は志摩守護を伊勢守護に兼任させ、貞和4(1348)年、両国守護仁木義長は鳥羽に伊勢志摩両国守護所を設置した。
 だが、明徳3(1392)年の南北朝一統後、南伊勢支配が南朝系の国司北畠氏に委ねられた事もあって、志摩国には守護権力が殆ど及ばないようになり、志摩十三地頭と称される海賊衆が各地区を治めており、鳥羽の領主橘氏が盟主となっていた。
 永正年間(1504〜21)に至り、橘宗忠は桶の山の居館を本格的城砦に改造したが、その直後に伊勢国司の権大納言北畠材親(キチカ)に敗れて服属を余儀なくされ、志摩国は北畠氏の支配に入った。この時、宗忠は妙慶川の北岸(つまり伊勢国側)に聳える標高50mの取手山に高城城(取手山砦)を築いて移り、鳥羽城は一旦廃城となった。
 一方、16世紀後半になると紀伊国九鬼浦(現尾鷲市)から英虞(アゴ)郡波切(ナキリ)に移住して十三地頭の一人となった九鬼隆良から6代目に当たる九鬼浄隆が勢力を伸ばし、永禄3(1560)年に伊勢国司・権中納言の北畠具教(トモノリ)に反旗を翻すが、他の12地頭の総攻撃を受け、戦の最中に急死したため、九鬼氏の勢力は一旦壊滅した。
 浄隆の弟嘉隆は尾張へ逃れて織田信長に仕え、永禄12(1569)年以後、水軍を率いて北畠具教や橘宗忠等の志摩12地頭を連破し、その功績で志摩国28000石の領有を認められた。降伏した橘宗忠も娘を嘉隆に差し出して鳥羽の伊勢国側6000石を安堵された。
 その後も嘉隆は水軍を率いて活躍し、特に天正6(1578)年の第二次木津川口の戦では、6隻の鉄甲船を率いて600隻の毛利水軍を撃滅する大功を立て、摂津国野田・福島等7000石を加増され、合計3万5000石を領する事となった。
 嘉隆は豊臣秀吉からも本領を安堵され、文禄の役(1592〜93)では李舜臣麾下の朝鮮水軍相手に奮戦し、文禄3(1594)年に帰国した際、摂津国野田・福島7000石を橘宗忠の伊勢国鳥羽6000石と交換し、波切から旧鳥羽城に本拠を移して本格的近世城郭に改造した。
 なお、橘宗忠は、その後、鳥羽に戻って福禅寺に隠棲、慶長10(1605)年に没したが、男子が無かったため橘氏は断絶した。
 一方、九鬼嘉隆は慶長2(1597)に家督を子の守隆(母は橘宗忠の娘)に譲って隠居したが、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦に際しては、徳川家康の会津討伐に従軍していた守隆が東軍に組したのに対し、自らは西軍に属して鳥羽城を奪取したが、西軍敗北の後、自決した。
 一方、守隆は20000石を加増され、慶長20(1615)年の大坂夏の陣でも功を挙げて1000石を加増され、55000石を領することになったが、寛永9(1632)年に守隆が死去すると、その三男隆季と五男久隆の間で家督争いが起こり、幕府の裁定の結果、家督は久隆が継いで摂津国三田35000石へ移封され、隆季も丹後国綾部20000石を与えられた。こうして九鬼氏は分裂した上、水軍力を失った。
 翌年、内藤忠重が35000石で鳥羽城に入ったが、三代目の忠勝は、延宝8(1680)、芝増上寺における第4代将軍徳川家綱の法会の席上で、私情から丹後宮津藩主永井尚長(ナオナガ)を殺害した為に切腹・改易となってしまった。
 翌天和元(1681)年、下総国古河藩から土井利益が70000万石で入府するが、元禄4(1691)年に肥前国唐津へ移封され、入れ替わりで松平乗邑(ノリサト)が60000万石で入るが、これも宝永7(1710)年に伊勢亀山へ移封。入れ替わりで板倉重治が50000万石で入るが、これも享保2(1717)年、再び亀山へ。代わって山城国淀藩から松平光慈(ミツチカ)が70000万石で入るが、これも享保10(1725)年に信濃国松本へというように、藩主家が安定しなかったが、代わって譜代の稲垣昭賢が下野国烏山藩から30000万石で入り、ようやく藩主家が定着した。
 江戸時代の鳥羽は、藩士が全て外堀の内側に居住したため、藩士と町人・漁民との交流は少なく、城下町としての発展は不充分であったが、港町としては殷賑を極めた。上方と江戸を結ぶ菱垣廻船や樽廻船が遠州灘を往来する際は必ず鳥羽港に寄港する事となり、港には廻船問屋や30余軒の船宿が立ち並び、大いに賑わった。文政年間に発行されたとされる『国々港くらべ』では西の港番付で堺港に次ぐ第2位(関脇)として鳥羽港を評価している。
 幕末の稲垣家第7代藩主の長行は佐幕派で、慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦の際には江戸にいたが、鳥羽藩兵は徳川軍に属して新政府軍と交戦した。戦後、長行は急遽鳥羽に戻り、伊勢亀山藩主石川成之を通じて新政府に謝罪、15000両の軍費を供出することで罪を許されたが、その直後の明治元年9月29日に19歳で死去し、弟の長敬が養子となって第8代藩主となった。長敬は新政府への恭順を更に示すため鳥羽城を破却している。
 明治4(1871)年の廃藩置県で鳥羽藩は鳥羽県となり、さらに度会県を経て三重県に編入され志摩郡鳥羽町となった。
 明治23(1890)年、鳥羽出身の御木本幸吉(ミキモトコウキキ)が相島(オジマ)で真珠養殖実験を開始し、明治29(1896)年、養殖に成功、鳥羽は養殖真珠の町としても知られるようになり、相島は昭和26(1951)年にミキモト真珠島と名付けられた観光施設となった。
 昭和29(1954)年に周辺町村と合併して市制が施行された。
 翌昭和30(1955)年には鳥羽水族館がオープンし、全国最多入館者数を誇る事となるなど、戦後は観光都市として発展した。

+鳥羽城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49740641&comm_id=398257
#日和山
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49930480&comm_id=420848
#ミキモト真珠島
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#鳥羽水族館
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49741787&comm_id=420848

コメント(25)

19日火曜日に行って来ました。

左;鳥羽駅と日和山
中;鳥羽駅前の御木本幸吉銅像
右;鳥羽駅と鳥羽城跡(左手後方の丘)
日和山です。

左;幸せの鐘
中;松尾芭蕉句碑 「鷹一つ 見つけてうれし 伊良子崎」
右;方位石〔鳥羽市指定有形民俗文化財〕
 天照大神の8人の子を祀る賀多神社〔郷社〕です。ここの能舞台は三重県指定無形民俗文化財です。
 曹洞宗玉龍山常安寺です。藩主九鬼家・稲垣家の菩提寺で、明治天皇の行在所にもなりました。
左;御木本幸吉生家うどん屋阿波幸跡
中;妙慶川 伊勢国と志摩国の国境で鳥羽城外堀としても利用
右;錦町通 鳥羽城蓮池堀跡
鳥羽城跡〔三重県指定史跡〕です。

左;家老日向主水屋敷跡
中;三の丸石垣
右;三の丸土塁
鳥羽城跡〔三重県指定史跡〕です。

左;三の丸より望むミキモト真珠島
中;本丸土塁
右;本丸石垣
藩主稲垣家菩提寺の曹洞宗天英山光岳寺です。

左;山門
中;日本丸板絵〔鳥羽市指定文化財〕
右;本堂
左;大庄屋広野藤右衛門邸宅〔登録文化財〕
中;浄土宗春曜山実相院西念寺山門 城主橘家・藩主内藤家菩提寺
右;西念寺本堂
左;鳥羽城本丸〔三重県指定史跡〕
中;鳥羽城本丸と鳥羽水族館
右;鳥羽水族館のジュゴン〔天然記念物〕
鳥羽水族館から望む鳥羽湾です。

左;ミキモト真珠島
中;坂手島
右;伊勢湾フェリー
ミキモト真珠島です。

左;御木本幸吉記念館
中;御木本幸吉記念館 復元うどん屋阿波幸
右;御木本幸吉記念館 幸吉誕生当時の鳥羽城下町
 御木本幸吉記念館にある明治26(1893)年の鳥羽城模型です。既に蓮池堀が埋め立てられています。
ミキモト真珠島です。

左;真珠博物館
中;御木本幸吉銅像
右;海女の実演
 1月15日土曜日に再訪しました。
 近鉄志摩線中之郷駅です。
 鳥羽城跡〔三重県指定史跡〕です。
 鳥羽城跡からの眺望です。

左;イルカ島方面
中;ミキモト真珠島と鳥羽水族館
右;近鉄特急
左;JR鳥羽駅
中・右;鳥羽一番街 天びん屋
 近鉄鳥羽駅にて 特急〔伊勢志摩ライナー〕DX車

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