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カナダの歴史と政治コミュのアブラーム平原の戦い(1759年)

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コミュ内全体

 (1) イギリス軍の陣容
 ジェームズ・ウォルフ将軍は1727年、イングランドのケント州ウェスタラムに生まれ、少年期をグリニッジで過ごした。14歳で父エドワードに従い陸軍に入隊し、デッチンゲン、カローデン、マーストリヒトなどの戦いで軍功を挙げ、1758年31歳で准将に昇進。その年のルイスバーグの戦いでの功績により、翌年32歳の若さで少将に昇進しケベック方面司令官に任命された。これは庶民としては異例の早い昇進といえる。性格は極度に頑固なところがあり、全ヨーロッパの軍隊で採用されていた交互射撃戦術を批判し、国王ジョージ三世の叔父カンバーランド公(ウィリアム・オーガスタス)に食ってかかったことさえあった。
 ウォルフには3人の旅団長がつけられた。彼らはいずれもウォルフより年長だった。筆頭旅団長ロバート・モンクトン准将(1726−1782)はヨークシャーに生まれ、15歳で陸軍に入隊し、オーストリア継承戦争、ボーセジュールの戦いなどで活躍し、1755年ノバスコシア副総督に任命された。次席旅団長ジョージ・タウンゼンド准将(1724−1807)は貴族の出で、首相のニューキャッスル公(トーマス・ペラム=ホールズ)は叔父、タウンゼンド諸法で知られるチャールズ・タウンゼンド蔵相は弟である。ケンブリッジ大学で学び、下院議員を務めた後陸軍に入るが、実戦経験はほとんどなく、ウォルフは彼を重視していなかった。タウンゼンドは庶民の出のウォルフを侮り、彼を諷刺する漫画を書いていたが、これはカナダ最古の漫画と言われている。旅団長ジェームズ・マレー准将(1721−1794)はスコットランドのボーレンクリフに生まれ、1736年陸軍に入隊し、オステンド、ロシュフォール、ルイスバーグの戦いなどで軍功を挙げた。

 (2) フランス軍の陣容
 ルイ=ジョゼフ・ド=モンカルム=ゴゾン=ド=サン=ベラン侯(1712−1759)はフランス南部のカンディアック城に生まれた。1727年少尉として陸軍に入隊し、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争などで軍功を立て1743年、大佐に昇進した。いつも勇敢に戦った彼は、ピアチェンツァの戦いでは刀傷を5箇所も受け、捕虜となり、解放後に准将に昇進した。
 1755年、仏領カナダ陸軍司令官のジャン=アルマン・ディエスコがジョージ湖の戦いでイギリス軍の捕虜となったため、モンカルムは新しい陸軍司令官としてカナダに赴任した。彼は、かつてともに戦った信頼の厚いフランソワ=ガストン・ド=レビ伯爵(1719−1787)を副官として伴った。
 モンカルムは着任以来積極的に戦い、1756年フォート・オスウェゴに夜襲をかけこれを奪取し、50人の敵を殺したほか捕虜1700人と大量の食糧を獲得した。フランス軍はこれによりオンタリオ湖周辺を完全に制圧した。翌年にはフォート・ウイリアム=ヘンリーを包囲して放棄させ、ニューヨークへの侵攻路を確保した。
 1758年には第一次タイコンデロガの戦いで、攻め寄せて来た1万5000のイギリス軍をわずか3000の兵で撃退。戦死者はイギリス軍2000に対しフランス軍はわずか400であった。この戦いの後イギリス軍司令官ジェームズ・アバクロンビーは召還され、ジェフリー・アマーストに代わった。
 だがカナダには、総督としてピエール=フランソワ・ド=リゴー=ド=ボードレイユ=ド=カバニャル(1698−1778)が1755年に赴任していた。彼は仏領カナダ総督フィリップの子としてケベックに生まれ、10歳でカナダ海軍に入り、1733年から42年までトロワ・リビエール総督、1742年から53年までルイジアナ総督を務めていた。ルイジアナでは藍の生産を奨励し、スペイン人との密貿易を容認するという大胆な経済政策で植民地に繁栄をもたらした。
 ボードレイユは行政のトップであると同時に、カナダは国民皆兵制を敷いたためカナダ陸海軍の指揮権も有していた。だがこのときは戦時中で、モンカルム司令官と5個連隊がフランスから赴任しているため軍の統帥権はモンカルムにあると考えられるが、カナダ民兵はフランスからの駐在よりもカナダ生まれのボードレイユに忠誠を示した。またボードレイユはモンカルムの用兵にしばしば口出ししたため、この両者そしてフランス軍とカナダ軍は相容れない関係だった。モンカルムは赴任した翌年には早くも、軍事大臣に「総督と植民地の役人は戦を知らない」という手紙を秘かに送り、ボードレイユも「フランスの将校はカナダ人を見下している」という手紙を本国に送っている。ボードレイユは、モンカルムよりレビを高く評価していた。
 モンカルムとボードレイユの不仲は決定的となり、ついには互いの邪魔さえするようになっていった。カナダにおける戦いはどうしてもインディアンに頼るため、いきおいゲリラ戦になることが多かった。彼らは森の木陰から姿も見せずに銃を撃ち、撃った後すばやく移動して反撃されないようにした。イギリス軍は、ヨーロッパでするように3列の横陣を組もうとすると、森の中なので組むのが容易でなく、組んだところでそのとき相手はすでに移動してしまっている。赤い制服のイギリス兵は森では絶好の目標となった。森の中では横陣ではなく、散開した方が得策だと気づくのはもう少し後の時代のことである。ボードレイユはカナダ民兵とインディアンを好んで用い、カナダにはカナダのやり方があると考えていたが、モンカルムはどちらも練度が低いと見て信用していなかった。彼はいざというとき頼りになるのは、民兵ではなくフランスから赴任した正規軍だけだと考えていた。
 1757年のフォート・ウィリアム=ヘンリーの戦いは、イギリス軍が安全に撤退することを条件に砦を引き渡す約束になっていたが、インディアン兵がこれを無視してイギリス兵を虐殺しその肉を食べるという衝撃的な事件(ジェームズ・クーパーはこれを題材に小説「モヒカン族の最後」を書いた)が起こり、ボードレイユはこのときモンカルムの更迭を本国に訴えた。1758年の第一次タイコンデロガの戦いではボードレイユが、指揮権を持つインディアン軍を無意味にコーラーへ動員し遊兵にしたため、モンカルムの非難を受けた。
 1757年にウィリアム・ピットがイギリスの国務大臣に就任すると、北米戦線が重視されるようになり、モンカルムは以後勝てなくなっていく。フランス軍は1758年、フォート・フロンテナクを奪われる。これによりイギリス軍はオンタリオ湖を完全に制圧し、仏領カナダは東西に分断された。同年7月、ルイスバーグ陥落。8月、キングストン陥落。11月、デュケーヌ(ピッツバーグ)を放棄。翌年7月、フォート・ナイアガラ陥落。同じく7月、第二次タイコンデロガの戦いに敗れ撤退。8月、クラウン・ポイントを放棄。
 こうしてイギリス軍は、仏領カナダの首都ケベックに至る3つのルートを手に入れた。大西洋からセントローレンス川沿いに至る東部戦線、ナイアガラからオンタリオ湖沿いに至る西部戦線、タイコンデロガからシャンプレーン湖沿いに至る南部戦線である。アマースト司令官は自ら南部戦線を行き、西部戦線はジョンソン、東部戦線はウォルフに任せた。


写真左:ウォルフ将軍生家「ケベックハウス」(ウェスタラム)。
写真中:カンディアック城。
図右:1759年のイギリス軍戦略。

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 (3) ケベックの布陣
 ケベック城は、セントローレンス川とサン・シャルル川が合流する三角地帯に位置している。「ケベック」という言葉がインディアンの言語で「川が狭くなるところ」を意味するとおり、大河セントローレンス川はケベック城の前では川幅わすか1キロにまで狭まっている。川に面した部分は険しい崖(写真左)になっていて、今日フニキュレール(写真中)というケーブルカーが運行しており、この方面からの上陸は不可能のように見える。
 ウォルフは、不慣れなゲリラ戦を避けるため森の行軍を選ばず、船でセントローレンス川を遡上してケベックまで行く方法を選んだ。そのため陸軍司令官の彼は、海軍の協力を必要とした。この任務に選ばれたのは地中海艦隊次席司令官チャールズ・サウンダース提督である。サウンダースは大洋での艦隊決戦ではなく、川で陸軍の補助にすぎない任務を与えられたことに不満を抱いたが、「国運を賭けた作戦」と懇願され、渋々引き受けたのだった。
 ケベックに着いたウォルフは、城のあるセントローレンス川北岸にどうやって上陸するか思案した。まずサン・シャルル川は狭く、大型艦船は通れない。セントローレンス川は城より西は40メートル以上の断崖が16キロも続き、しかも上陸可能な浜はない。そのうえ城の前で川幅が狭くなり、砲撃を受ける危険がある。城の東ボーポールには浜があるが、フランス軍はそこに壕を掘り、土塁を作り、逆茂木を並べ恒久陣地を構築していた。それより東のモンモランシーはまた断崖で、落差83メートルもあるモンモランシー滝(写真右)がある。ウォルフは頭を抱えた。


写真左:オルレアン島(南)から見たケベック・シティ。セントローレンス川北岸は切り立った崖になっている。ケベック城よりアブラーム平原の方が標高が高いことに注意。
写真中:東から見たケベック城。ここも急勾配で、容易には登れそうにない。今日では「フニキュレール」というケーブルカーが運行している。左に見える緑色の屋根はシャトー・フロンテナック。
写真右:モンモランシー滝。
 (4) モンモランシーの戦い
 イギリス軍は6月25日、オルレアン島に上陸した。6月30日にはモンクトンの部隊が、ケベック城対岸のレビ岬を攻撃した。重要拠点にもかかわらずカナダ人民兵600人がいたに過ぎず、イギリス軍はたやすくこれを占拠した。ケベック城は標高が高いので軍艦からの砲撃は不可能であり、レビ岬の奪取は城への砲撃を可能にしたという点で重要な意味があった。
 砲台を築いたイギリス軍は7月18日、東風を待って艦隊のケベック城通過を敢行した。城からは容赦ない砲撃を受けたが、イギリス軍もレビ岬から城に向けて砲撃を加え、8隻中6隻がケベック城通過に成功した。これでイギリス軍はケベック城より上流での上陸作戦を行えるようになり、モンカルムはカナダ人民兵部隊900人を上流での守備のために割くことになった。
 ウォルフは7月31日、モンカルムの逆をつきモンモランシーへの攻撃を敢行した。滝の上流に浜があり、干潮時には1キロほどの幅となる。ウォルフは午後5時半ころ、3500の兵を引き連れ上陸を試みた。だが事前の測量が不十分だったため船が岸に接近できず、艦隊援護なしに歩兵は100メートル近い泥に足を取られながら進軍した。イギリス軍はようやくフランス軍の保塁を奪取したものの、そこが崖上から射程距離内であることを事前に知らなかったため、崖上から集中放火を浴びることとなった。このとき天候が激しい雷雨に変わったためウォルフは退却を命じ、イギリス軍は死者440人を出しただけの結果に終わった。いっぽうフランス軍の死者はわずか60人であった。
 モンカルムはこの勝利に気を良くした。フランス軍は数では勝っているものの、インディアンやカナダ民兵が多く、イギリス正規軍の敵ではないと考えていた。フランスから派遣された正規軍はイギリス軍より少数なので、モンカルムは地の利を最大限に生かして陣地に籠り、いかなる挑発があっても野戦には応じまいと心に決めた。いっぽうウォルフは、冬になればセントローレンス川が凍結し、全ての作戦を中止しなければならなくなる。地形を生かした鉄壁の守りを敷く敵に正面から向かっても犠牲が大きいため、モンカルムに決戦を強いるには、ケベックより上流を押さえてモントリオールからの補給路を断つしかないと考えるようになった。
 イギリス軍はモンカルム釣り出しを図り、8月23日にカナダ人集落を襲撃した。仏領カナダは国民皆兵だから、村人を襲いその生活基盤を破壊することはイギリス軍にとって利にかなっているというわけである。このように市民が攻撃を受けることは当時のヨーロッパでは考えられないことであり、世界中で国民皆兵が実施されるのは150年ほど後の時代のことになる。だがモンカルムは誘いに乗らず、タウンゼンドはウォルフの卑劣な作戦を軽蔑した。


図左:ケベックでの英仏両軍の動き。
図中:ジョージ・タウンゼンド。
図右:タウンゼンドが描いたカナダ最古の漫画の一つ。ウォルフ将軍は長身で背が高く、赤いコートを羽織っていた。吹き出しがあることに注意。
 (5) 作戦変更
 その後ウォルフは病気で寝込んでしまった。3人の旅団長は8月27日に集まって討議したが、ケベック城より上流において上陸作戦を行う以外に選択の余地はないことははっきりしていた。そこでサウンダースは同日夜、東風を待って再び艦隊のケベック城通過を敢行した。モンカルムは水軍を引き上げケベック砲台への援軍としたため、水上での妨害はなく、7隻全部が通過に成功し、フランス軍はセントローレンス川の制海権を完全に奪われる結果になり、モンカルムはルイ=アントワーヌ・ド=ブーゲンビル大佐(1729−1811)の部隊3000を割いて、ルージュ岬の守備に送ることを強いられた。また同じころナイアガラ、タイコンデロガ、クラウンポイントがイギリス軍の手に陥ち、モンカルムは東部のセントローレンス川方面だけでなく、西部のナイアガラ方面と南部のシャンプレーン湖方面からの侵攻にも備えなければならなくなり、腹心のレビに800人の兵をつけてモントリオールに送ることを余儀なくされた。こうしてフランス軍は戦力を分散させることになったのである。
 3人の旅団長がウォルフに上流での上陸作戦を具申すると、彼は以外にもこれをあっさり受け容れた。彼は密かにフロンの入り江(後にウォルフの入り江と呼ばれる)に目をつけていたのである。そこには小さな浜と、細くて急な登山道があった。登山道は狭く、多くの兵を通せないため、兵のほとんどは崖をよじ登ることになるが、暗すぎては崖を登れず、かといって明るすぎては敵に発見されてしまう。そこでフロンへの上陸を午前4時の夜明けとともに開始することとし、サン・ニコラの本営を出発するのは2時と決まった。決行日は9月13日。この日は1時半から干潮で水流が東向きに変わるからである。
 ウォルフは上陸地点を敵に悟られないようにするため、ホームズ艦隊に川を上ったり下ったりの陽動を繰り返させた。ブーゲンビル部隊はそのたびにイギリス艦隊を追って右往左往させられることになった。ホームズ艦隊は川の水流に任せて行き来するだけだが、ブーゲンビル部隊は走って追わなければならず、消耗していくことになった。9月12日にはサウンダースが陽動でボーポールに砲撃を加え、ここに上陸すると思わせた。さらに上陸作戦に使わない輸送船5隻を、満潮時の水流に沿って上流へ移動させた。


写真左:ウォルフの入り江(現在)。
図中:ウォルフの入り江。
図右:ブーゲンビル。
 (6) フロン上陸作戦
 9月13日早朝1時、イギリス軍4828人の兵士がサン・ニコラに停泊する旗艦サザランドに集結し、その南側にボートを降ろした。夜陰の中、イギリス軍の動きはサザランドの巨体に隠れ、北岸のフランス軍からは見えない。その先頭はウォルフと24人の決死隊である。
 ボートは8秒間隔で川を下っていった。ところがウォルフの乗るボートが、途中シルリーでフランス軍の歩哨に見つかった。フランス語で“Qui vive?”(そこにいるのは誰だ?)と尋ねられたが、スコットランド軍の中には、カローデンの戦いの後フランスに亡命したためフランス語の流暢な者がおり“La France et vive le Roi!”(フランス軍だ。国王万歳!)と当意即妙に切り返して事無きを得た。偶然にも、この日はフランス軍の補給船が来る予定日だったのである。
 こうして全てのボートは無事にフロンの入り江に到着した。間もなく夜は明けようとしている。2人の決死隊員が斜面をよじ登ると、案の定フランス軍の歩哨1人に見つかった。2人が襲いかかると、歩哨はキャンプに向かって逃げ出した。彼は1人だったので、援軍を呼ぼうとしたのである。イギリス軍兵士たちは彼を追跡するだけでキャンプの位置を知ることができた。こうしてイギリス兵たちが徒党を組んでキャンプを襲撃すると、フランス軍は敵の方が数が多いことに気づき一目散に逃げ出した。ケベック−ルージュ岬間は断崖が続くのでモンカルムは敵上陸を想定しておらず、ド=ベルゴールの部隊100人を配置しただけで、しかもそのうち60人は刈り入れのため帰郷させていたのだった。
 フランス兵の何人かはサモス砲台に逃げ込み、サモス砲台からフロンの入り江に向かって砲撃を始めた。このままでは後続の部隊は殲滅されてしまう。崖を登り終えたイギリス兵たちはサモス砲台を襲撃し、その占領にも成功する。もはやフロン上陸に、何の障害もなくなったのである。
 ボーポールの陣にいたモンカルムがイギリス軍上陸の知らせを聞いたのは、午前5時半ころのことだった。上陸地点はフロンだという。そこには監視をつけている。それにブーゲンビルから何の報告もない。モンカルムはこの知らせを疑っていたが、とりあえず城に向かい、真偽を確かめることにした。そしてそこで彼が見たものは──ケベック城の急所である城の西、アブラーム平原に展開している赤い軍服の一団だった。だが敵はまだ上陸したばかりで、壕も掘られてなく、大砲はまだ2門しか引き上げられていない。平原の幅いっぱいに歩兵を配備したので、銃陣は3層ではなく2層の薄い構えとなっている。両翼を守る兵はなく、側面の弱点が剥き出しである。モンカルムはモンベイヤール少佐に語った。「決戦は避けられない。敵は塹壕を掘っていて、大砲もすでに2門据えているではないか。これ以上敵に時間を与えたら、我々の戦力では絶対に破れなくなってしまう」。彼は自軍の戦力を悲観しており、後続の部隊がアブラーム平原に布陣し、銃陣が3層になり側面の備えができれば、絶対に敵を撃破することはできないと思いつめた。ケベック城は南と東からの攻撃には堅固だが、西からの攻撃は想定しておらず、西からの攻撃には無力である。しかもアブラーム平原はケベック城より標高が高いので、ここに大砲を据えられれば大惨事となる。彼は、決戦するなら今しかないと決意した。


写真:西から見たアブラーム平原。南側は戦場公園として保存され、当時の姿を色濃く残しているが、北側は宅地化され当時の面影はない。
 (7) ウォルフの秘策
 7時半ころ、イギリス軍4828の全軍が上陸を終えアブラーム平原に展開した。「まるで我々のためにあるような平原だ」とウォルフは思った。幅約800メートルと、この日のイギリス軍にちょうどよい広さで、両側は切り立った崖になっており、敵軍に側面から攻められる心配がほとんどない。フランス軍の砲台は全て川の方を向いている。ウォルフは、側面の守備とフロンからの補給路の確保にはわずか387人を充てるにとどめ、後方の備えは実戦経験の少ないタウンゼンドに任せた。
 平原の幅いっぱいに歩兵を配備するため、ウォルフは歩兵1800人を、1列を900人として90センチおきに並べたため、結果として銃陣は2層となった。この時代のヨーロッパは、どの国の軍隊も交互射撃を採用していた。これは弾丸の装填に約15秒かかるため、3層の銃陣を敷き1層ずつ発射して弾を装填すれば、常時射撃が可能なため敵は突撃できないという考えから成るものである。だがウォルフは、3層の銃陣では弾を装填する前列の兵士が射撃の邪魔になり、また銃声・喚声の轟く中では号令が聞こえなくなり興奮した兵たちが勝手に撃ち出すなど、列ごとの一斉射撃は困難だと経験的に判断していた。そこで彼は2層の銃陣を敷き、15秒間隔で一斉射撃を2度浴びせれば敵軍は壊滅しているはずだとして、2層一斉射撃戦術を考案していたのである。また当時の銃の最大射程距離は約270メートルだが、初速が遅く命中率も低いため、ウォルフは弾丸を貫通させるに十分な40メートルの距離まで敵を十分引きつけ、確実に殺傷することを期した。しかも彼は、距離の近さを活かすため最初は弾丸を2発装填させた。モンカルムはイギリス軍の2層の構えを侮っていたが、ウォルフは心中秘するものがあったのである。
 モンカルムはボーポールの兵力の大部分をアブラーム平原へ移動させるよう命じたが、ボードレイユがこれに待ったをかけた。兵力の大部分をアブラーム平原に投入すれば、ボーポールの陣は空になるので、アブラーム平原で戦っている間に敵に入城されることを恐れたのである。ボードレイユはブーゲンビルとの連携なしでの単独攻撃を戒め、また陣地に籠ることを捨て野戦に応じることの危険性を訴えた。だがモンカルムは、ボードレイユは自分に手柄を立てられるのを恐れ、また己の身の安全だけを心配していると考えた。2人は敵を前にして激しく言い争ったが、結局ボードレイユはカナダ民兵の半分をボーポールに残すことを条件に、フランス正規軍5個連隊全ての投入を認めた。だが現地では、総督と司令官に異なる命令を下され混乱した。


写真左:イギリス軍前線跡。ウォルフはこの辺りに立っていた。
写真右:フランス軍前線跡。
 (8) 決 戦
 10時ころ、フランス軍がアブラーム平原に到着した。木や穴などの障害物を避けるためきれいな横陣を作ることができず、しかも左翼の1個連隊は砲撃を避けるため大きく左に逸れ、孤立してしまった。こうしてフランス軍の正面は、4個連隊でイギリス軍正面の6個連隊に当たらなければならなくなった。
 イギリス軍はあくまでも接近戦を挑むつもりである。ウォルフはこの期に及んでもまだ最前線にいて、指示を出している。フランス軍はさらに前進を続けた。そのとき、北側の森からカナダ民兵の銃弾がウォルフの右手を直撃した。彼は出血した右手を布で縛り、落とした指揮杖を左手で拾い上げた。敵はまもなく40メートルの距離に近づきつつある。ウォルフは指揮杖を振り上げた。「構え!」そして振り下ろす。「撃て!」
 1800丁の銃から3600発の弾丸が飛び出した。それはフランス軍にとっては、悪魔の所業に等しかった。目の前には一斉射撃でできた白煙がたち込めたが、やがて煙が晴れてくると、フランス軍の最前列がほぼ全滅しているのがうっすらと見えた。イギリス兵たちはすぐに次の弾丸の装填を終えると、白煙を抜けるため20歩前進して2発目の斉射を行った。もはや敵陣まで20メートルもない。こうして一斉射撃を4度浴びせると、フランス軍は総崩れとなり敗走を始めた。モンカルムは腹部に銃弾を受け、部下に支えられながら城に退却し、翌朝息を引き取った。
 敵が敗走するまで、誰もウォルフの異変に気づかなかった。彼は左胸に銃弾を浴びて倒れていた。ジェームズ・ヘンダーソンとヘンリー・ブラウン中尉がウォルフを抱えて後方に運んだ。衛生兵が止血を試みたが、無駄であった。ウォルフは「もういい。もういいのだ」と言って両目を閉じた。ヘンダーソンが叫ぶ。「奴らが逃げて行きます!」ウォルフは両目を開いて言った。「逃げて行くのは誰だ」。「敵です! 将軍、敵が逃げて行きます!」ウォルフは最後の力をふり絞るように言った。「バートン大佐に伝えろ。ウェッブの連隊をサン・シャルル川に至急向かわせよ。橋を押さえて、敵の退路を断つのだ…」そう言うとウォルフは息を引き取った。


図左:アブラーム平原の戦い布陣図(赤:イギリス軍、青:フランス軍)。ケベック城は、セントローレンス川とサン・シャルル川が合流する三角地帯に位置しており、川に面した東と南は険しい崖になっていた。
写真中:ウォルフ将軍最期の地。
図右:ベンジャミン・ウェスト画「ウォルフの最期」。左から5人目がモンクトン。
 (9) 仏領カナダの最期
 筆頭旅団長モンクトンも負傷し、指揮権は次席旅団長タウンゼンドに移った。皮肉なことに、ウォルフは実戦経験のほとんどない彼を信用しなかったため、安全な後方にいた結果としてこうなったのである。ブーゲンビルの部隊が背後から襲ってくることを必要以上に恐れたタウンゼンドは、ウォルフの命令に反し追撃を中止させた。そのためフランス軍に、モントリオールに向けて安全に退却することを許した。
 アブラーム平原に118門もの大砲が据えられたのを見て、ケベック市は9月17日に降伏した。マレーがケベック総督に就任し、その他のイギリス軍は7000の兵を残し、冬が到来する前に本国へ引き上げた。だがケベックの極寒の冬を始めて経験したイギリス兵の多くは壊血病にかかり、7000の軍は3000にまで減少した。
 1760年4月28日、雪解けとともにレビ将軍率いる6000のフランス軍がケベックに向けて進軍した。勇猛果敢なマレーは倍近い兵力の敵を相手に、籠城せず城外に出てサント・フォワで迎え撃った。攻守ところを変えてアブラーム平原の戦いを再現することになったこのサント・フォワの戦いは、マレー軍が先制攻撃で序盤を優位に進めたものの、追撃しようとして大砲がぬかるみにはまり、レビ軍の逆襲の前に敗走した。この戦いでの死傷者はマレー軍1124人、レビ軍833人にも及び、アブラーム平原の戦いよりも多くなった。
 ケベックに籠城したマレー軍に対し、レビ軍は攻城砲を欠いており、両軍とも補給船待ちとなったが、5月9日イギリス艦隊がフランス艦隊を撃破したためレビ軍は退却した。9月8日ついに仏領カナダがモントリオールで降伏したが、アマースト将軍が名誉降伏(降伏しても軍旗だけは維持できる)を拒否したため、レビは配下の部隊とともにサンテレーヌ島に立て籠もり、イギリス軍の手に渡らないよう軍旗を焼却した。


図左:部下に支えられ退却するモンカルム将軍。
図中:サント・フォワで奮戦するレビ将軍。
図右:ジェームズ・マレー。
 (10) イギリス軍の勝因
a.フロン上陸を成功させたこと。
 事前にサン・ニコラに本営を移し、ボーポール砲撃とホームズ艦隊の陽動作戦により上陸作戦を成功させた。上陸決行の日は偶然にもフランス軍の補給船が来る予定日であり、さらに幸運なことに補給船派遣は中止となり、そのうえその連絡はフランス軍に届いていなかったという三重の幸運にも恵まれた。なおウォルフはフロンに浜があることには気づいていたが、その上に十分な広さの台地があることは知らなかったという説がある。少なくとも、知っていたことを示す記録は見つかっていない。
b.至近距離での決戦を期し一斉射撃・2発装填の新戦法で臨んだこと
c.ナイアガラを奪取したことによりレビの部隊をモントリオールに備えさせ兵力を分散させたこと
d.ゲリラ戦ではなくヨーロッパ式の決戦を挑んだこと
e.陸軍の補助にすぎない任務にもかかわらず、サウンダースが協力的だったこと
 フランス軍が仲間割れしていたこととは、実に対照的である。
 (11) フランス軍の敗因
a.アブラーム平原への上陸を許したこと
 アブラーム平原は城の急所に当たり、論外である。
b.ブーゲンビルがセントローレンス川を下るイギリス軍を追跡しなかったこと
 モンカルムはルージュ岬より東での上陸はないものとみなし、ブーゲンビルに広すぎる範囲を警戒させた。ホームズ艦隊の陽動は毎日のこととして軽視し、追跡を怠ったことが大きな事故につながった。
c.側面からの攻撃が不可能な地に布陣する敵に、正面突撃を敢行したこと
 モンカルムはウォルフの新戦術を知らず、壕も大砲もほとんどなく2層に構えた敵戦力を過小評価し、また自軍の戦力に悲観的だったことが早期決戦を急がせた。また彼は、敵が急所に布陣したことに狼狽しており、冷静な判断力を失っていた。
d.モンカルムがブーゲンビルやレビの部隊との連携を欠いたまま単独で決戦を挑んだこと
 正面攻撃を挑んだ結果は、わずか30分での総崩れとなった。彼が取るべき最善の手段は、諸事情により分散した兵力を決戦場に集中することだった。籠城してブーゲンビルの到着を待ち前後から挟撃するか、城が西からの攻撃に耐えられないようならいっそケベックから一時撤退し、ブーゲンビルの部隊と合流すべきだっただろう。モンカルムにとってケベック放棄はできない相談だったかも知れないが、後にマレーがケベックを占領したときもケベック市民は目立った略奪・暴行は受けていない。
e.フリゲート艦でイギリス海軍のセントローレンス川遡上を阻止しなかったこと
 兵力をケベック砲台に集中するのは、イギリス軍艦が砲台の射程距離を脱すれば完全に安全となるだけに、誤った判断だった。
f.レビ岬の備えを怠ったこと
 重要拠点に守備兵をほとんど置いていないというのは、どういうつもりなのだろうか。モンカルムは、ボーポールの陣地にひたすら籠って戦力を温存し、冬まで凌げばいいという考えだったのだろう。
g.ケベック城より上流の守備を民兵だけに任せ、フロンの警備が手薄すぎたこと
 フロンから上陸されただけでなく、サモス砲台まで奪われるとはあまりにもお粗末すぎる。
h.ケベック城自体に欠陥があること
 城は四方全てを堅固にしてしまうと、味方からの補給が困難になってしまう。ゆえにケベック城は南と東からの敵には堅固だが、西からの攻撃には弱い構造になっている。ところがケベックはボーポールに浜があり、そこから上陸して北へ回り込めば城をたやすく攻撃できるようになっている。西側だけでなく東側にも欠陥があるのである。そもそも城自体が要塞なのにそこに籠らず、城の東に陣地を築いて主力が籠っているようでは、何のために城があるのかわからない。
 西の城壁の外側にはアブラーム平原がある。もしここが森だったら大砲は使えないし、フランス軍は物陰からのゲリラ戦を挑めるが、実際には6個連隊が布陣するのにちょうどいい広さの平原があり、しかも城より標高が高いためここに大砲を据えられると城壁は無意味となる。それゆえアブラーム平原の戦いでもサント・フォワの戦いでも敵は西から攻めて来て、モンカルムもマレーもともに、敵軍の方が数が多いにもかかわらず籠城せず撃って出ているという事実が、ケネック城の評価を物語っている。“Quebec 1759”の著者は、ケベックは地政学的に欠陥があり、この地に仏領カナダの首都を置くこと自体が誤りだとしている。かいつまんで言えば、アブラーム平原の戦いとは城の西側に重大な欠陥があるにもかかわらず、主力は城の東側を守っていて、夜の間に西側に上陸されたことに気づかず、城があるのに籠城もできず、先に布陣を終えたより多数の敵に野戦を挑んで敗れたという戦いにほかならない。
i.ブーゲンビルの遅参
 ブーゲンビルは5時15分ころ、銃声を聞いて目を覚ましている。だが彼は何の行動も起こさなかった(彼はこのとき陣中に従兄弟の妻を連れ込んでいたことが判明している)。彼がボードレイユから出撃の伝令を受け取ったのは8時ころで、途中シルリーのイギリス軍掃討に1時間ほど手間取った。アブラーム平原での合戦は10時から10時半の間で、彼が戦場に到着したのは1時ころであり、すでにモンカルムの本隊が敗走した後であった。主戦場はあくまでもアブラーム平原であり、シルリーのイギリス軍は小勢なので構わず先を急ぐべきだろう。だがそうは言っても将棋ではなく命がかかっているから、実戦心理としては後方に敵を残したまま前方の敵に当たるのは勇気のいることである。
j.モンカルムとボードレイユ、フランス軍とカナダ軍の不仲
 モンカルムはカナダ民兵を全く当てにしておらず、総兵力ではイギリス軍を上回りながら、その長所を生かすことなく敗北した。フランス軍とカナダ軍も仲が悪く、統一行動を取ることは難しかったようだ。今日カナダ日系社会で見られる「駐在員と現地社員の不仲」が、この時代の仏領カナダにもあったというのは実に興味深いことである。
 なおウォルフと3人の旅団長たちの関係は冷え切っていたが、モンカルムとレビの間には篤い信頼関係があり、モンカルムとブーゲンビルは親子同然の仲だった。


写真左:外側(西)から見たサン・ジャン門。
写真右:内側から見たサン・ジャン門。砲台は18世紀にはなかった。
 (12) その後のフランス軍
 フランス軍の将校たちは仏領カナダ喪失により本国に引き揚げるが、彼らの多くは貴族だったため、その後のフランス革命で悲惨な運命に見舞われた。レビ伯爵は1787年、革命による混乱を見ることなく世を去ったが、未亡人と娘2人はギロチン台の露と消え、レビの墓も暴かれた。
 ボードレイユは敗戦の責任を問われ、1762年バスチーユに投獄されたが、全ての責任を死んだモンカルムのせいにして翌年釈放された。晩年は不遇だったという。
 ブーゲンビルは1754年に「積分論」を出版し、数学者・弁護士として名声を博していた。仏領カナダ滅亡後はフォークランド諸島に植民地を建設したが、1767年スペインに譲渡した。1766年には太平洋探検旅行に隊長として出航し、1769年フランスに帰還してフランス人初の世界一周を達成している。同行した植物学者フィリベール・コメルソンはブラジルで新種の植物を発見し、隊長の名に因んで「ブーゲンビリア」と命名した。1768年にはソロモン諸島を訪れているが、食人族がいたため「殺人諸島」と命名した。ブーゲンビル島の発見もこのときのことである。1771年には「世界周航記」を出版し好評を博した。アブラーム平原の敗戦において重大な責任があると指摘されている彼だけがフランス革命−ナポレオン帝政の激動の時代を生き残り、最後は伯爵・貴族院議員となり天寿を全うしたことは、まさに歴史の皮肉といえよう。


図:ボードレイユ。
 (13) その後のイギリス軍
 ウォルフの旅団長たちは、何事も相談せず独断専行する彼を全く尊敬していなかった。旅団長たちの提案によって立案したフロン上陸作戦も、機密厳守を理由に旅団長たちにさえ上陸地点を直前まで明かさなかった。旅団長たちはウォルフに信頼されていないと感じていたが、ウォルフが直前まで明かさなかった真の理由は、明かせば反対されるのは必至だったからである。
 フロン上陸作戦は、浜が狭いため砲撃を受けても逃げ場はなく、また十分な数の守備兵がいたら崖上には登れないし、登れたところでモンカルムの部隊とブーゲンビユの部隊に挟撃される可能性があり非常に危険だが、ウォルフは持病のリュウマチや結核を抱え、先は長くないと感じどうしても冬が来る前に決戦しようと考えたのかもしれない。タウンゼンドとマレーは、ウォルフの英雄的な死を描いた絵にともに描かれることを拒否した。
 ウォルフの戦死で指揮権を得たタウンゼンドは本国に報告書を送ったが、その中でウォルフの名はわずか2度しか登場せず、しかも彼への追悼の言葉が一切ないという異常なものであった。ウォルフを徹底的に軽蔑していたタウンゼンドは、極力彼の存在を無視しようと努めたが、帰国するとウォルフが英雄として扱われていることを知り、報告書の弁明に追われるようになる。政界に縁のある彼はこの苦境を乗り切り、その後目立った功績はないものの、1796年には元帥に昇進した。その年下院議員となった五男チャールズが、当選のわずか2日後に精神を病んだ四男フレデリックに銃殺されるという事件が起こった。
 ケベック総督に就任したマレーはケベック人を慈しみ、フランス民法の存続を認めた。だがイギリス系移民の不満が噴出し、1766年に辞職要求されるに至り、1768年に退任した。彼は「ケベック法」の成立に尽力し、ケベックでの奴隷制度存続に手を貸した。1774年から1782年まではミノルカ島の副総督、次いで総督を務めたが、アメリカ独立戦争でスペイン軍に包囲され、無念の降伏をする。だが奮闘の末のやむなき結果とされ、彼の名誉が傷つくことはなかった。1783年キングストン・アポン・ハルの知事となり、晩年は陸軍大将に昇進した。
 モンクトンは1762年マルティニーク島を攻略し、ニューヨーク総督となった。その後は1765年ベリック・アポン・ツイード知事、1778年にはポーツマス知事を務めた。


写真左:ウォルフの墓があるアルフェッジ教会(グリニッジ)。
図右:ロバート・モンクトン。
 1759年9月13日に行われたアブラーム平原の戦い250周年を記念して、連邦政府は合戦を再現するイベントを企画している。だが仏領カナダの首都ケベックが陥落し、イギリスによるカナダ征服を決定づけたこの戦いを記念することを、ケベック分離主義者は侮辱だとして強く抗議し、シャレー州首相のような連邦主義ケベック人でさえ、イベントからは距離を置いている。
 国立戦場公園委員会のアンドレ・ジュノー委員長は2月11日、予定変更が来週発表されるかも知れないと語った。保守党政権はすでにイベントから手を引いているようにも見える。「ハーパー首相はイベントに出席するか」と尋ねられた首相広報は「我々は経済に集中する」とコメントした。
 ジャン=ピエール・ブラックバーン収益大臣は「これは史実の再現であり、祝賀会ではない。分離主義者はこれに乗じ、政治的イベントにしようとしている」と非難した。なおブラックバーンはケベック人だが、アブラーム平原で戦ったイギリス軍兵士の子孫である。
 自由党のパブロ・ロドリゲス議員は「ケベック連合と分離主義者たちがこれを政局にしようとしているのは、何とも不名誉なことだ。あまりにも安っぽい」とコメントした。
 ハーパー首相は2月13日モントリオールで、アブラーム平原の戦いの再現イベントを実施するかどうかは国立戦場公園委員会にかかっていると述べ、以下のように演説した。
「私が知っていることは、大多数のカナダ人と大多数のケベック人にとって、アブラーム平原の戦いは過去の歴史だということである。大多数のカナダ人は、この事件を乗り越えて行った。だがケベック連合は、今もなお戦い続けようとしている。我々は、国をあげて今も戦っているわけではない。イギリス系とフランス系のカナダ人はともに働き、ともにこの国を永久に保ち続けるだろう」。

 ケベックではアブラーム平原の戦いは、フランス系による自治の終焉でありまたイギリス系による支配の始まりと考えられている。だが多くの歴史家は、イギリスによる征服がなかったら、ケベック人はその後のフランス革命で無神論とそれに由来するテロリズムにみまわれただろうと考えている。ナポレオンは戦費調達のため、1803年仏領ルイジアナをアメリカに売却しており、ケベックはイギリスの征服がなくてもアメリカに併合される運命だっただろうとする見方もある。
 アブラーム平原の戦いの合戦再現イベントは中止されたと、モントリオールのメディアが報じた。
 国立戦場公園委員会のアンドレ・ジュノー委員長は2月14日、プログラムの変更について17日に発表すると語った。彼は変更の理由として、分離主義者と連邦主義者の間の暴力と、市民の安全に対する懸念を挙げた。
 2つの民族主義団体は、2月22日に国会議事堂前でのデモを計画している。ケベック青年愛国社のフランソワ・ジャンドロン(ケベック党前党首)は、合戦再現イベントが中止になろうがなるまいが、自分たちはその日アブラーム平原に行くと語った。
「我々は、250年前そこで起こったことを忘れることはできない。我々はおそらく、蝋燭の明かりを手にし、戦死した全ての犠牲者への尊厳を示すことになるだろう。たとえそれがイギリス兵や先住民であったとしても」。
 ケベック州のシャレー首相は14日、「我々はそのイベントに深入りすべきではない。暴力の誘発、暴力の行使は、ケベックのためにならない。我々は、そのような罠にはまることなく、議論を続けていかなければならない」と語り、市民に平静を保つよう呼びかけた。
 国立戦場公園委員会のアンドレ・ジュノー委員長は2月17日、アブラーム平原の戦いの合戦再現イベント中止を発表した。
「度の過ぎた言説や脅迫をここ数日の間に聞き、イベントに出席する家族や子供たちを危険にさらすことはできない。委員会は、市民と参加者の安全を図ることが不可能なため、再現イベントを中止することに決めた」。
 委員長はこう述べて、中止の責任は分離主義者にあると非難した。同時にクルーズツアーやアート展示のようなほかのイベントは、予定通り行うと付け加えた。

 ケベック分離主義組織は、再現イベントを「先祖への侮辱」「連邦主義者のプロパガンダ」と指摘し、ケベック抵抗戦線は、イベントを混乱させるため何百人ものデモ隊を動員するという声明を発表した。その後は新聞・ラジオ・インターネット等において連日、国家主義者と分離主義者がイベントを中止するかどうかで激しく言い争い、暴力の行使すら予告され、現代のアブラーム平原の戦いさながらの様相を呈していた。
 聖ジャン・バティスト協会のマリオ・ボリュー代表は、
「もしケベックが国ならば(注※2006年連邦議会はケベックを国と認める決議を採択した)、その文化遺産はケベックが管理すべきである。アブラーム平原のイベントが今も連邦政府に主催されているという事実は、イギリスの支配と植民地主義の残滓を表すものだ」
と述べた。また他の民族主義団体は、連邦政府によって続行されるイベントを注意深く見守っていくと語った。
「地球の歩き方 カナダ」に、
「モンカームはここで決定的なミスを犯す。城塞を出て、アブラハム平原で戦うことにしたのである」
と書かれているが、その出所が吉田健正&ジョン・セイウェル&スザンヌ・ファース著「カナダを知る」(篠崎書林、1985年)であることがわかった。同書12ページにそう書いてある。

一般に、城攻めには3倍の兵力が必要とされている。逆に言うと、兵力に劣る方は城に籠もるのがよい。アブラーム平原の戦いでは、フランス軍は兵力において劣っていたにもかかわらず、城外に出て野戦を挑み、玉砕したことからそう述べているのだろう。
上述のとおり、ケベック城は西に欠陥があり、アブラーム平原の方が標高が高いため、敵にここに上陸されると城壁は無意味となり、大砲を打ち込まれてしまうから、籠城しても無駄である。つまりアブラーム平原に上陸すると、敵を城から釣り出すことができる。現にアブラーム平原の戦いでも、翌年のサント・フォアの戦いでも、敵は西から攻め寄せて来て、守備側は城外で野戦に応じている。モンカルムが城外で戦った判断自体は、誤りとは言えない。
アブラーム平原上陸を許した時点で、フランス軍にはどう転んでも勝ち目はなかっただろうが、強いて言うなら、ブーゲンビルの部隊と呼応して東西挟撃を企図すれば、いくらか望みはあった。歴史家の多くは、敗戦の責任はブーゲンビルにあるとしている。
大津城は、1586年に浅野長政が築いた。だが関が原の合戦に先立ち、大津城は西軍に包囲された。城主京極高次は籠城したが、東軍は9月13日長等山から砲撃すると、砲弾は天守にまで届いた。京極高次は籠城しても無駄と悟り、翌日降伏したが、城を明け渡した15日に西軍が関が原で壊滅したため、高次は戦後加増された。
浅野長政は、長等山からの砲撃を想定していたはずだが、おそらく届かないと思っていたのだろう。実際は届いたので、大津城は欠陥建築ということになる。籠城の役に立たない城は、存在する意味がない。大津城はこのときの攻撃で壊滅したのち、当然ながら二度と築かれることはなかった。

越後から会津に転封となった上杉景勝は、若松城が小田山に近く、砲撃されることを心配して、阿賀川畔に神指城を築き移転することを考えた。もっともこの時代には、小田山から若松城を砲撃できる大砲はなかった。景勝は関が原の戦いに敗れ、米沢へ移封となったため、神指城は未完のまま放棄された。
その後会津に入った藩主たちは、結局最後まで若松城を本拠地とした。景勝の心配は、会津戦争で現実のものとなる。小田山を占拠した新政府軍は、1600メートル先の若松城に砲弾が届かなかったが、佐賀藩のアームストロング砲は二千数百メートルの射程距離があり、大山弥助が角度を上げて砲撃させると、届くようになった。会津藩は一度は小田山を奪取したものの、再び奪還され、一方的な砲撃を受けたのち降伏した。

敵の砲撃を受ける位置での籠城は、意味を成さない。砲撃する敵を追い払う以外に方法はない。ケベック城より標高の高いアブラーム平原に敵の上陸を許した以上、フランス軍はこれを追い払うしか道はない。籠城は無駄であるし、高地からの砲撃可能なケベック城は欠陥建築である。この地に城を築き、仏領カナダの首都を置くこと自体が誤りである。

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