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東淀川ウォーカーコミュの中島大水道

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中島大水道
 淡路本町2丁目617に『中島大水道跡』という大阪市顕彰史蹟の記念碑が建っています。場所はJR新幹線のガード下です。樋門の石柱が構えられ、『中島大水道普通水利組合新太郎松樋』の標柱があります。
 顕彰碑の裏面には「中島水道は大道村澤田久左衛門らの首唱により、延宝六年(1678)完成し 明治32年の淀川改修に至るまでその機能を失わず 住民に多大の恩恵を与えた 昭和44年3月 大阪市建立」と刻まれています。
 この場所から中島大水道が始まる開削の起点です。新幹線が通るまでは、上流(東方)から二つの水路が集まり(その上に架けられていた福重郎橋が道路になっている)、樋門を経て西流するのが中島大水道です。
 一方西北側へは、昭和36年代に入ってから新たに開削された放水路が神崎川の国次抽水所の方へ曲流していました。今それらは全て埋め立てられて道路や遊歩道となり、この交差点が作られました。しかし単に埋め立てられてしまったのではなく、全て地下に下水管渠が埋設され流通しているところに意味があります。
 東淀川区の大半は低湿地で古くから淀川や神崎川の氾濫の被害を受けることが多く、また悪水の排水も、土砂の堆積のため年々河底が上がり、困難を極めるようになりました。このため延宝六年(1678)、大道村庄屋沢田久左衛門・新家村庄屋一柳太郎兵衛(新太郎松樋の名は彼に因むという)・山口村庄屋西尾六右衛門の3名を中心とする北中島村民が協力、増島村新太郎松樋から二里十余町を隔てた申新田(現此花区)に至り、直接大阪湾に排水する中島大水道を完成させました。
 明治の淀川大改修まで220年余にわたってその機能を失わず北中島住民に多大の恩恵を与えました。
 この全長9?に及ぶ排水路は、一万数千石にのぼる耕地の改良を計ったもので、幕府は許可を与えたものの、金二千両を超える費用は私領分を除いて「一切百姓自普請」としました。現在は、その農地も消え、中島大水道も埋もれてしまいました。
 「中島大水道」は現在の東淀川区から淀川区・西淀川区を貫き、此花区にまで到達したという、悲劇を秘めた大治水事業です。
 現在の大阪市東淀川区南部、昔の摂津国西成郡北中島郷は、かつて「攝津水所」と呼ばれる低湿地帯でした。住民の生活は水害との戦いに明け暮れていました。
 この地に江戸時代初期に完成した「中島大水道」は、わずかに残る史跡によってしかその実態をしのぶことはできませんが、それは摂津農民の辛苦と英知を現代に伝える悲しくも偉大な記念碑とされています。
 過酷な負担を強いられながら農民たちが完成させた幕藩時代の大水路は、意外なことにいまも重要な流れの基礎となって生き続けていました。
 古代、大阪の上町台地は南から北へ向かって突き出した半島でした。その先端部(いまの都島区毛馬町あたりか)からは、海を隔てて千里の丘陵が見渡せたといいます。やがて、河川に運ばれてきた土砂が堆積し、たくさんの中州が姿を現わしました。柴島、加島、竹島、御幣島、歌島、姫島、出来島、百島などと、大阪市内の淀川右岸に「島」のつく地名が多いのも、そのためです。大阪市北区と東淀川区を結ぶ長柄橋は、もとは島と島をつなぐ橋でした。
 江戸時代に入ったころの陸地は現在の此花区あたりまで広がっていましたが、それでも北中島郷が低湿地帯であることに変わりはなく、排水は宿命的な課題でした。そして、この宿願を果たすために延宝六年(1678)に開通した排水路が中島大水道です。現在の大阪市東淀川区西淡路5丁目新太郎松樋から此花区伝法まで、総延長は二里十二町五間(9171m)で、総工費二千両でした。これにより22ヵ村が恩恵を受けました。
 その後、明治の淀川大改修まで二百数十年にわたって効果を発揮し続ける中島大水道は、淀川治水史を飾る重要なバイパスでした。しかし、中島大水道の価値は規模の大きさだけにあるのではありません。実は、この事業の形態は「百姓普請」であり、その後の維持管理もいっさい農民の手で行われたということです。そのことこそ、特筆されるべき歴史的価値です。江戸時代の大型土木工事は、幕府直営の「公儀普請」と領主が費用を負担する「地頭普請」などに分類されます。それに対して百姓普請は、工事の認可は幕府が下すものの、全ての費用と労力を農民が負担するというものでした。
 「洪水が殺生なら権力は無慈悲」
川水の氾濫によって毎年のように起こる災害、そんな地域の宿命を根本的に解決してほしいと、この地の農民たちが江戸に旅立ったのは延宝2年(1674)のことでした。幕府に排水路の建設を請願したのです。工事の規模は現代の一級河川の大型事業に匹敵するもので、農民の請願も当然のことに公儀普請を前提としていました。しかし、幕府からの回答はなく、延宝4年の夏に重ねて請願しました。その年の秋には京都郡代(幕府直轄地の統括者)によって実地調査が行われたものの、その後、またも音沙汰がありません。業を煮やした農民側は、その冬に3度目の江戸出府を試みます。しかし、「これ以上の催促は無礼なり」という圧力がかかり、翌年に下された幕府の結論は「百姓普請」での工事を許可しました。
 あまりの負担の多さを理由に農民側は再吟味を要望しましたが、明るい見通しを得ることは、ほとんど絶望的でした。一方で、また水害の季節が到来します。まさに、苦渋の決断でした。ついに農民たちは工事に取り組みました。
 もっとも、北中島郷22ヵ村が一様に負担を強いられたわけではありません。当時、この地は一国の支配地ではなく、幕府の天領のほか、大名や公家、寺社などの領地である知行地が混在する租界地帯でした。おおむね大名たちは風土や農業への理解が深く、地頭普請の建前が取られていたこともあって農民の負担はありませんでした。問題は幕府領です。工事の費用は出さない。そのうえ、排水路や堤防の設置によって耕作地が減った場合も、年貢は従来どおり取り立てました。水路完成後の橋や樋の維持費も農民の負担でした。
 百姓普請により中島大水道が完成し、排水がスムーズになると、新田も開発されて予想を超える収穫量がありました。幕府はこれらの新田からも忘れることなく年貢を取り立てるのでした。更に、中島大水道の大きな効果を見定めた幕府は、この地最大の領主で農民への理解も深かった戸田越前守の知行地6ヵ村を天領に組み入れました。
 ただし、こうした幕府の徹底した強硬姿勢が「百姓と胡麻油は絞れば絞るほど取れる」という幕府の基本政策の反映かといえば、そうでもないようです。
 かつて寛永の大飢饉(寛永19年・1642)の経験によって、絞りすぎれば農村は崩壊するという現実を知らされていた幕府は、「年貢さへすまし候へば百姓ほど心易きものは無」という言葉で有名な農民心得書「慶安御触書」を発布するなどして、小規模農民を中心に農村崩壊を防ぐことに努めていました。
 では、なぜ北中島郷に対して必要以上に大きな負担を強いたのでしょうか。まず、この地が豊臣家に同情的な土地柄だったという事実があります。それで従来から幕府は警戒を強めていました。当時は四代将軍家綱の時代であり、幕府の権力が絶頂期を迎えたころでしたが、大阪夏の陣のとき、この地がこぞって豊臣方に味方したという記憶は、まだ生々しかったのでしょう。
 同じ時期の承応三年(1654)に江戸で完成した玉川上水では、幕府は7000両の資金を提供しています。北中島郷の場合、まこと過酷な仕打ちとしか言いようがありません。
 「ここでも関ヶ原合戦の宿命を見る」 この事業の功績者は3人の庄屋でした。大道村(現在の東淀川区大道南・大桐北)の沢田久左衛門、新家村(同区菅原)の一柳太郎兵衛、山口村(同区東中島)の西尾六右衛門です。沢田久左衛門の先祖、太郎左衛門は徳川家康の妹の子酒井忠勝と親しく、この地ではひとり親徳川色を鮮明にしていました。大阪夏の陣でここが焼け野原になったときも、沢田家だけは消失を免れています。それ以後、大いに栄えます。この太郎左衛門は徳のある人で、焼かれた近隣の村の復興に力を貸し、離散した農民を呼び戻すなど、この地の再興に寄与しました。
 一方、一柳太郎兵衛の先祖は、豊臣方の武将、三島江屋太郎兵衛で、慶長三年(1598)の秀吉の葬儀に際しては家臣300人を率いて参列し、その威勢を示したといいます。しかし、夏の陣に破れたあとは縁のあった柴島法華寺を頼って新家村に逃れ、武士の地位を捨てました。当時の新家は淀川水系が複雑に入り組んだ地域で、二重の堤防が必要でした。「二重新家」と呼ばれたのは、そのためでした。一柳太郎兵衛はこの地の開拓に努め、寛永8年(1631)には、その功績により3ヵ年の年貢免除の特権を与えられ、庄屋に推挙されています。
 残る西尾六右衛門の生涯については、残念ながらよくわかりません。新大阪駅の近くに墓があるのみです。全ての史料が火災や水害で消えたといいます。
「多様な困難に立ち向かった農民たち」 その3庄屋は自害したという伝承があります。たび重なる水害に耐えられず、許可を待たずに工事を強行した結果、幕府の逆鱗に触れて工事の即時中止と出頭を命じられました。そこで3人は西村細目木(淀川区西中島)に集まり、抗議の自決を果たしたといいます。延宝六年(1678)四月九日のことでした。この悲壮な行為に感動した農民たちは、いっそう強固に団結し、この難工事をわずか50日(一説には28日)で完成させたといいます。淀川区西中島7丁目の「さいのき神社」は、戦後荒廃していましたが、近年美しく整備され、大峰六十度先達石柱や柳谷観音石碑等もあり、石柱の背面に西町月参講建の字が刻まれています。地元では毎年3月11日を「水道掘休み」といって一斉に休業して三庄屋を偲ぶ風習をとどめ、4月9日には有志が集まって慰霊祭がしめやかに催されています。
 大水道の工事そのものの難儀もさることながら、領主が異なる22ヵ村の利害を調整するには大きな困難があったであろう。上流の排水が下流で氾濫するおそれもある。水道の幅も下流のほうが広く、それだけ割愛される耕作地も大きい。結局、上流である北中島郷が費用を多く負担する形で利害調整が進められた。その他さまざまな紛争について、大坂町奉行も調停に当たったようだが、おもに北中島郷22ヵ村が結成した水利組合によって解決された。調停も農民自身が行うしかなかった。
 この地の治水事業に国家が本腰を入れるようになるのは、明治30年代の淀川大改修以後のことである。そして、やがて中島大水道の跡地はJRの新幹線や北方貨物線の敷地になり、現在も国土の大動脈を支える重要な役割を果たしている。
 淀川改修により、中津川が廃川となってこの川からの引水が不能となり、また神崎川も渇水時に取水不能となったので、大道村大字北大道字三千の樋(現南江口町2-394地先、淀川が東流から南流せんとする地点)から西に引水するため、明治30年大道村外十三カ村普通水利組合が結成され、本流は大道→小松→神崎川南堤→下新庄→淡路新町→東三国→十八条→新高→加島→大和田、支流は大道→豊里→豊里菅原→東淡路→山口→南方→木川→十三→塚本と流れていた。総延長一万四千二百三十六間余(259?)、灌漑面積千八百町歩余(1785ha)の大用水工事だった。なお本流は大正6年の洪水のため水路を瑞光寺前から引き江まで西一直線に変更した(現在上新庄、下新庄地区の新幹線ガード下)。更に悪水排除を目的とする稗島村外6カ村普通水利組合が明治33年に設立されていたが、わずかに三百五十八町歩(350ha)の地域だった。






 

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