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聖書ギリシャ語コミュのルカ11章9節の表現

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突然に失礼します。
私は学校英語教師(英語)で、二年半前に
洗礼を受けた者です。無知な者ですが、
どうぞよろしくお願いします。

昨年末から聖書通読を始めました。
英語教師ということもあって、
バイリンガル聖書を使い、
英語(NIV)を音読する形で聖書通読を
進めています。

本日ルカ11章を読んでいましたら、
「求めなさい。そうすれば与えられます」
の箇所にあたりました。

英訳のAsk and it will be given to youを読んで
ふと思ったのですが、私はこの箇所をこれまで
「あなたはあなたが欲するものを求めなさい。
そうすればあなたはそれを獲得するでしょう」
といった世間的な自助の意味で捉えていました。
ですが、明らかにこれは間違いでしょうね。

英訳のAskで考えると、askは必ず「誰かに」
ということを前提とした動詞です。ですからこれは
「あなたは神様に(あなたに与えられるべきものを)
お願いしなさい。そうすればそれは神様によって
あなたに与えられるでしょう」ぐらいに解釈すべきか
とも思いました。

しかしこれは英訳を使っての全くの恣意的な
推測にすぎません。

この「求めなさい/Ask」がギリシャ語では
どうなっているのだろうという疑問を持ち、
ミクシィでこのコミュニティを見つけたので、
勝手ながらここでこのような質問をしている
次第です。

もし何かご教示願えましたら、大変に嬉しい
限りです。

それでは失礼します。

コメント(10)

ガメラさん、こんばんは。
管理人のHKJです。

さて、どんな方が回答を寄せてくれるか期待したおりますが、私自身も調べてから書き込みしたいと思います。

私が特定の聖書の箇所を詳しく学ぼうと思った時の手順を、まず書いておきます。

1)日本語訳なり、英語訳で、前後の聖句をよみ、文脈を捉える
2)問題の箇所の本文ギリシャ語を書き写す
3)キーとなるギリシャ語の語句をマークする
4)ギリシャ語辞典で意味の範囲をチェックする
5)聖書ギリシャ語のsemantic domainの辞典で、用法と類義語をチェックする
6)ヘブライ語聖書との連想が色濃く感じられる聖句の場合は、似たような表現を旧約聖書に探して、その文脈を検討する
(このルカの聖句の場合には、箴言に似たような表現があります)
できれば、Septuaginta用ギリシャ語辞典で、マークしたギリシャ語が旧約ではどんな箇所に使われているかをざっと把握する。

大体、以上のような作業をします。
今回、どこまでできるかわかりませんが、ガメラさんはNIVを主な英訳聖書として使っていらっしゃるようなので、NIVのStudy BibleのCross referenceや、脚注も参考にしたうえで、回答したいとおもいます。

では、またのちほど。
ガメラ さん

 はじめまして。りけるけと申します。原文(ネストレ・アーラント27版)を英文メーリングリスト"B-Greek"式表記で引用してみます。括弧内はエラスムス式によるおよその読みです。

ルカ11:9
KAGW hUMIN LEGW, AITEITE KAI DOQHSETAI hUMIN, ZHTEITE KAI hEURISETE, KROUETE KAI ANOIGHSETAI hUMIN.

(カゴー・フーミーン・レゴー、アイテイテ・カイ・ドセーセタイ・フーミーン、ゼーテイテ・カイ・ヒューリセテ、クロウエテ・カイ・アノイゲーセタイ・フーミーン)

 中でも特に"Ask and it will be given to you"にあたる部分は"AITEITE KAI DOQHSETAI hUMIN"(アイテイテ・カイ・ドセーセタイ・フーミーン)です。

 日本語の「求めなさい」、英語の"ask"にあたる動詞は、"AITEITE"で、これは"AITEW"(アイテオー)の現在・能動・命令・2人称・複数形であり、「(あなたがたは)求め(続け)なさい」というのが基本的な意味です。

| 英訳のAskで考えると、askは必ず「誰かに」
| ということを前提とした動詞です。

 BDAGという辞典によれば、ギリシア語の"AITEW"の場合は、目的語に人を取って「誰々を求める」という意味を表すこともできれば、目的語に物を取って「何々を求める」という意味を表すこともできます。また、人と物の両方を目的語に取って「誰々に何々を求める」という意味を表すこともできますし、人ないし物を目的語に取りながら"to"にあたる副詞句を取って「〜のために人・物を求める」としたり、人・物を目的語に取りながら神(神々)を与格で間接目的語的に取って「神(神々)に人・物を求める」という意味を表すこともできます。あるいは不定詞や"so that"にあたる節を取って「〜するために・〜となるように人・物を求める」という用法もあり、非常に柔軟で豊かな用法を持っている動詞です。Trenchardによれば、新約聖書では70回、用いられているということです。

 ただし、引用の11:9においては目的語が明示されていませんので、人を求めるとも物を求めるとも特定されていません。包括的にあるいは抽象的に「求めなさい」と書かれているだけです。また、何に対して、あるいは誰に対して求めるのかという点についても明記されていないので、ガメラさんがこの文だけに注目なさったとすれば、

| 「あなたはあなたが欲するものを求めなさい。
| そうすればあなたはそれを獲得するでしょう」
| といった世間的な自助の意味で捉えていました。

と理解なさったのも無理のないことと思われます。

 ただ、この文の置かれている文脈は、言うまでもなく「祈り」という文脈です。1節では弟子たちがイエスに祈りを教えてくれるように頼んでおり、2-4節でイエスはそれに応える形で「主の祈り」を教えています。5-8節でイエスはさらに求め続けることの大切さをたとえ話で教え、この流れの中にこの9節が来ます。10節では9節に対する補足がなされ、11-13節ではさらに、人間の父親が自分の子供に対して求めているものを与えるという比喩から点の父もまた求める者たちに聖霊を与える(この「聖霊」を与えるというのはルカ的ですが)と結んでいます。

 したがって、9節そのものは抽象的で一般論的、いわば格言的なまとめ方がされてはいますが、全体の文脈では一貫して「祈り」というものが教えられているのであり、この意味において「人が神に求め続ける」という構図が前提とされていると考えてほぼ問題はないのではないかと思われます。

 逆に言えば、この聖書箇所が、世間一般に「求めよ、さらば与えられん」という形で励ましのように用いられているのは、文脈を無視した引用であり、聖書の言葉が人口に広く膾炙するという点では好ましくとも、真に原文(この場合は翻訳も含めて)の意味を伝えるものとなっているわけではないと言えるのではないかと思われます。

 なお、余談ですが、新改訳聖書では「たたきなさい。そうすれば開かれます」とされていますが、これは原語では「叩きなさい。そうすれば、あなたがたに対して開きます」と能動態になっています。"ANOICQHSETAI"(アノイフセーセタイ)(開かれます)と受動態
になっている重要写本もいくつか存在するのですが、ルカによる原著はおそらく能動態であったと考えられます。


[BDAG]
Frederick W. Danker, ed. _A Greek-English Lexicon of the New Testament and Other Early Christian Literature_, 3d ed. (Chicago: University of Chicago Press, 2000), 30.

[Trenchard]
Warren C. Trenchard, _A Concise Dictionary of New Testament Greek_ (Cambridge: Cambridge University Press, 2003), 4.
文法的なことは、りけるけさんが充分にしてくださったので、まず、パソコン上でギリシャ語を扱う時の、transliteration に補足をしておきます。

eta: H, omega: W, theta: Q, chi: C

これらの文字の使い方が特殊であることを了解していただければ、ガメラさんのお手元にもしギリシャ語の辞典やギリシャ語に言及する注解書があるなら、交互参照しやすいかと思います。

καγω ὑμιν λεγω,
αἰτειτε και δοθησεται ὑμιν,
ζητειτε και εὑρισετε,
κρουετε και ἀνοιγησεται ὑμιν.


以下は、Louw & Nidaのsemantic domain に基づく新約聖書ギリシャ語辞典より

ερωταω επερωταω
求める (通常すでに問題にされている事柄について)
マル7.26
マル16.1
επερωταωのほうが,ερωταωよりも強い語気であるとは言えるが,αιτεω παραιτεομαιの二つのほうが,よりせっぱつまった語気がある。


αιτεω παραιτεομαι
せっぱつまって, ごり押しするほどまでに強く求める
マル6.22
マタ27.58
第一ペテロ3.15
マル15.6

απαιτεω
返還を求める
ルカ6.30

εξαιτεομαι
何かを求めて,探していたものを得ようとする
手ごたえのあるように求める
ルカ22.31

ζητεω
特別 に探しているものを乞い求める
熱心に要求する
マル8.11

παρακαλεω
一所懸命に何かを求める
使徒28.20
第二コリ8.4

εντυγχανω
せっぱつまった思いで必死に何かを求める
ロマ8.27
使徒25.24

δεομαι
せっぱつまった思いで求める, 願う(予め
判っている必要のものを)
ルカ8.28

επαιτεω, προσαιτεω
慈善を求める, 施しを求める
ルカ16.3
マル10.46

προσανατιθεμαι
誰かに意見を求める
ガラ1.16

επικαλεομαι
誰かに何かをしてもらおうと呼び求める
第二コリ1.23
Hong kong joshuaさん、
りけるけさん、

とても良心的で丁寧な回答に心から
感謝いたします。ありがとうございます。

最初に申し上げておくべきでしたが、
私はギリシャ語の知識はゼロです。
ただ新約聖書理解のために、この
コミュニティに入らせていただいた
者です。このような者でもよろしければ
どうぞよろしくお願いします。

さて、私が反省したのは、まず

「前後の文脈を丹念に読む」

といういわば当たり前の作業を
きちんとしていなかったことです。

これはギリシャ語以前にできる
ことでしたから、きちんとやって
おくべきでした。


さてお二人のおかげで、該当箇所は

「人が神に求め続ける」

でいいだろうということはわかりました。
感謝します。



それでも疑問が残るのは

「人が神に<何を>求め続ける」

のだろうということです。

新改訳3では
「求めなさい。そうすれば与えられます。」
とありますから、まったくわかりません。

NIVでは
"Ask and it will be given to you"
ですから、この"it"とは何かということに
なります。

そうしてみると、りけるけさんがご指摘に
なっている13節

(この「聖霊」を与えるというのはルカ的ですが)

などから大胆に推測するなら

「あなた方は、神に<聖霊を>求め続けなさい」

ともなります。

それとも

「あなた方は、神に<不詳を>求め続けなさい」

と解釈するべきでしょうか。

あるいは

「あなた方は、<神を>求め続けなさい」

と考えるべきなのでしょうか。


ごめんなさい。

こんな簡単なところでやっぱり躓いています。


しかし、この句はとても有名なものなので、
できればきちんと理解しておきたく、
このように愚問を重ねる次第です。


もしまたお時間などあればご教示くだされば
幸いです。


なお私の手元にありますのはNIV/新改訳3の
Bilingual Bibleと、CD-ROMのJ-ばいぶる
(NIV/新改訳3のアドオン付き)だけです。

もし聖書の初学者がもっておくべき最初の
レファレンスなどをご教示いただければ
嬉しく思います。

所属協会の牧師先生は、チェーン式バイブル、
Study Bibleなどを買ってみてはどうかと
ご助言をくださいました。


それでは失礼します。
とくに資料から採ったことではないのですが、漠然と祈りのなかで、父なる神に頼ることを教えているのではないかと、私は思います。

「霊の貧しいものは幸いです」という聖句は、初版の「共同訳」では、「神に拠りすがるものは幸いだ」のように訳されていたと思います。「聖霊」でも、「日用の糧」でも、「人生の伴侶」でも、まず、父なる神さまに「おねだり」をする子供のごとく頼る気持ちが大切だと教えているのではないでしょうか
祈る中で、願うべきものがしだいに具体的に現されていったなら、こんどは「執拗に」根気強く祈り続ける。

神は、望みを叶えてくれる魔法使いのようなものではないです。祈ることによって、自分が変えられ、当初求めていたものとは違うものを願うようになることもあります。
病気の人は、癒されることもあるし、癒されずに召されていくこともあります。思ったとおりのことが実現するのが、聖書の教える祈りでないのは確かだと思います。

イエスさまのゲツセマネでの祈りや、パウロのとげを取り除いていただきたいと3度願ったという祈りが、思ったとおりにはならなかった祈りの例として挙げられると思います。

祈りのなかから、父なる神の御心を探り出していくのも、執拗に祈ることの意義ではないでしょうか?

特に何をと限定しないほうが、文脈に合うように思います。
聖書の名句という意味では、「狭き門」とか、「目には目を」などと同様、一般の文章で使われる意味と、聖書本来の意味が違うものがあると思います。

講談社新書の「聖書の英語」などの読み物と、聖書そのものを学ぶための、たとえば、いのちのことば社の聖書注解シリーズなどが面白いかもしれません。

また、NIVに基づく注解書、TEV (Today's English Version)に基づく注解書やスタディバイブルが、もしキリスト教洋書が購入できるところにお住まいでしたら、参考になると思います。

TEVは、少数民族や部族語など、直訳が不可能な言語への聖書翻訳の経験から生まれたものです。聖書の原文のメッセージを、そこに含まれている意味要素にまで分析した上で、相手先の言語に再現するという、dynamic equivalenceという翻訳理論に基づいて訳されています。したがって、ask の対象は誰で、何を求めるのかとかいったことも、TEVの translator's handbook には論議されていて、注解書として読んでも、翻訳の実践の参考として読んでも面白いです。

TEV Translator's handbookは、東京ならば、銀座教文館のキリスト教洋書部や、御茶ノ水クリスチャンセンター内のCLC洋書部で購入できます。
Hong kong joshuaさん、

重ねてのご回答に感謝します。

>漠然と祈りのなかで、父なる神に頼ることを
>教えているのではないかと、私は思います。

>特に何をと限定しないほうが、文脈に合うように思います。

なるほど、わかるような気がします。

ふと思ったのですが、仮に聖書がもともと
現代日本語で書かれてあったとしても、
私たちはそれが完全にわかったなどと
思うことはないでしょうね(また、思っては
いけないでしょうね)。

祈りつつ読むのがいいのかもしれません。

それにしてもTEV Translator's handbookは
面白そうですね。

私は広島市の近くに住んでいますので、
CLC広島店で尋ねてみようと思います。

ご教示ありがとうございました。
聖書は信仰の根拠でありますが、古代テクストとして見れば、現代日本語による文芸作品と同様、著者の手を離れた時点から受け取る側の解釈の自由が許されて良いと思います。
聖書は、法律を含みますが、法律の文書でさえ、解釈は複数ありえます。ましてや、高い文学性を備えた聖書の言葉は、常識的に、文脈に沿う限り、複数の解釈が許されていいと思います。

NIVにはところどころ脚注で、別訳が示されているのも、そういう箇所であると思います(『Or』で始まるのがNIVの別訳の表示です)。

原文に興味があれば、ギリシャ語原文・ヘブライ語原文と逐語英訳およびNIVを対照にしたinterlinear translationも発行されています。また、NIVの英語訳を見出し語に立てたギリシャ語聖書のコンコルダンスなども発行されています。

聖書原文の学びには英語ならばいろいろ優れた参考書があるので、聖書関連の出版社である、Zondervan Publishing Houseのサイトを覗いてみてはいかがですか?

www.zondervan.com


なお、TEVとハンドブックは、America Bible Society, 現United Bible Societiesの発行です。TEVは、dynamic equivalenceの提唱者である Eugene Nida博士の監督の下で生まれた訳です。日本では、新共同訳が部分的にこの理論を取り入れています。その斬新な例は、旧約聖書の、「義なるもの」→「神に従う人」、「不義のもの」→「神に逆らう人」などです。

http://www.ubs-translations.org/cms/index.php?id=92,0,0,1,0,0

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