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地球伝承 〜 古代から未来へ 〜コミュのつぶやきサロン Vol.4

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コミュ内全体

2008年の新年を記念して、「つぶやきサロン Vol.4」を開設します。

「つぶやきサロン Vol.3」は、おおむね巨石信仰の路線でまとまってしまったので、まだ巨石関連のネタで書き込みたいことがあれば、いつでもVol.3のほうへ平行展開してくださってけっこうです。
Vol.3のほうのタイトルも「磐座、巨石信仰 〜つぶやきサロン Vol.3〜」と改題することにします。

このコミュのへんな成り行きで、ディープでこんがらかったトピックになりがちなので、ここではなるべく無作為で軽いネタでいいから語っていただけたらと思います。

                           管理人

コメント(53)

牛族と竜族対立は、シュメールのみでなく朝鮮半島を介して日本列島にもあり、その結末は日本列島ではシュメールとは逆になっていることを紹介します。

1.牛に関連して、岡山県の牛窓地名由来として住吉明神による牛鬼退治の話があります。(牛鬼は「ゲゲゲの鬼太郎」にも登場したと思います。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E7%AA%93%E7%94%BA

2.住吉大社のURLには、牛鬼退治も登場しませんが、表(上)筒之男命、中筒之男命、底筒之男命の三柱の神(住吉大神=住吉明神)と神功皇后をお祓い・航海安全・和歌・農業の神として本殿に祀るとあります。
http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/outline.html

3.住吉大神を海人族の神とし、ツツに蛇の意味がある、と谷川説はしています。*1谷川説

4.仮に竜族が信仰する住吉明神は、牛族が信仰する塵輪鬼(じんりんき=頭が八つの大牛怪物)を退治した、とすれば、竜族対牛族の対立を反映していることになり、しかもシュメールとは逆に竜族が牛族に勝利したことになります。

5.鬼の8という頭数は、スサノヲが退治したヤマタノオロチと同数ですが、8が聖数であるという中国南方の太陽神信仰(地球伝承・「日本化および和風化について22」)との関連については不明です。
http://mixi.jp/delete_bbs_comment.pl?id=11631210&comm_id=1384494&comment_id=230654144

6.牛鬼伝説のある牛窓が、岡山古代吉備の国であることは、桃太郎の鬼退治、百済系退治を想起させます。(地球伝承・「日本化および和風化について16」、http://mixi.jp/delete_bbs_comment.pl?id=11631210&comm_id=1384494&comment_id=182049248)
 また、神功皇后が新羅系の天日槍の子孫であることを考えると、新羅系による百済系退治(征圧 )をも意味することになります。

*1谷川説〈海人と海蛇〉
潜ることを指すスムという動詞は、万葉時代にすでに死語化していて、カヅクという言葉が用いられていたが、西日本ではスムが潜水を意味する言葉として今日も使用されて名残をとどめていることからして、古代の海人の言葉が消え去ってしまったわけではないことを、あらためて確認せざるをえない。・・・隠岐島前の西ノ島宇賀(うか)にある済(すみ)神社についての西村(正志『山陰民族』51号1988年10月号「御碕の海子」みさきのあま)の報告も注目される。この神社はもと済ノ浦(すんのうら)にあったという。済はスムあろう。済神社のご神体は寄ってきた海蛇であったという土地の古老の伝承にも興味をおぼえる。ここには、潜りの海人と海蛇との親しい関係が暗示されている。
 倭の水人たちは、毎日水にスンでは(潜っては)アワビやサザエを採り、魚を突いた。そのときに出会うセグロウミヘビを竜蛇神としてあがめ、祀った。その名残が今日、出雲大社や佐太神社をはじめとする出雲にみられる竜蛇信仰ではなかったかと思われる。 ただしセグロウミヘビは熱帯の海域にしか産しないから、それを竜蛇神として祀ったというのは、倭の水人の原郷が南方にあったことの記憶が残存していたことを示唆している。いずれにしても、出雲の竜蛇崇拝は、海人の信仰抜きには考えられない。・・・古代において活躍した安曇、宗像、墨江などの海人族たちは、もとは倭の水人として一括されうるものであり、身体にほどこした入墨の部位のほかは、ことさらな違いがあるはずがなかった。墨江は潜り(スミ)ながら魚や貝をつく入江にほかならず、その神の筒之男(つつのお)(つは、ツツ(蛇)の文様を肌に入墨した男たちのことであった。
(『古事記』は上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命の三柱の神は、墨江の三前(みまえ)の大神なりとしている。)私は、筒という文字をもつ知名を検証して、そこに共通の意味を見出すことができれば、それが筒の本来の意味にほかならぬと考える。・・・古代においては、ツツとツチは蛇を意味する同義語であった。(谷川 建一 著「古代人のコスモロジー」『水底の蛇身の女神』P74〜81 作品社)

 上記は、「ゲゲゲの鬼太郎」『牛鬼』(下記URL)にもとづくものです。
漫画では、蜘蛛のような体にイメージされており、上記伝承とは異なるようにもおもいます。

http://jp.youtube.com/watch?v=QONwQ1O1BSI
岡山県の牛窓では、「ころぶ(転ぶ)」を「まろぶ」と言っていたことに、興味を持ちました。これは岡山だけのものでしょうか。日本の古語に広範に見られるものでしょうか。
と言うのも、我が新陰流では、円運動の原理を「まろばし(転)」と呼ぶのです。流祖の上泉伊勢守は戦国時代の人で、今の群馬の出身ですが、母親は諏訪の出だったと聞きます。そして、流祖は鹿島でも修行しています。

日本では竜神は、ともかくポピュラーですよね。『竜の柩』では、東北の一部にしかないようなニュアンスでしたけど、全国の神社の手水で、まず9割以上が竜の口から水が流れ出ています。(写真参照)
それから、鳥居は文字通り鳥の止まり木みたいですし、注連縄は竜蛇だという説もあります。つまり、日本の神社のスタイルというのは、いろんなトーテムが融合した、古代のWe are the worldのシンボル的建築だったんですよね、きっと。
神社建築の様式が完成した時代が、それほど古い話ではありませんし(どう考えても弥生期より以降、あるいはもっと後かも)、それ以前は、自然そのものが御神体だったわけですから、日本が汎アジアのスクランブル列島となってから以後のシンボルが、今に至る神社建築なのです。

その中では、牛だけが信仰のトーテムとしては(日本では)マイナーですが、東北の出羽三山は、牛が伏している姿だという話も読んだことがあり、湯殿山の御神体(湯が湧き出ている赤い岩)の入り口には、牛の像があります。(写真、探したけど、Web上ではすぐに見つかりませんでした。誰か、アップして〜)
また、岩手の古代信仰の女神、瀬織津姫を祭る早池峰山の姉妹山とも言うべき近くの山に、六角牛山というのもあります。むしろ、東北のほうが、竜神と牛神の関係は緩やかな気がするのですが…。
http://park10.wakwak.com/~hitosh/touhoku/yamagata/gassan.html

伏牛の写真ですが、ピッタリではないかもしれません。


「上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命の三柱の神におけるツツとツチは蛇を意味する同義語」であること、「海人族が航海の神として信仰し、竜蛇とも密接な宗像大社・住吉神社が西日本」にあることならびに、「桃太郎の鬼退治、百済系退治、吉備の国の牛鬼退治」を考えると西日本のほうが東日本・東北よりも、竜族の牛族に対する優位性を示しているのかも知れません。

湯殿山の牛像の写真がありました。阿吽の像もあるようです。
http://www.nihonkai.com/zerodama/komainu/61.html
http://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/AN_2/AN_JP_92_100.htm

 上のURLは「丸い・鞠・ころぶ」の可能性を示唆していますが、確定的ではなさそうです。円運動に直結するか断定できないようですが、吉備だけでなく、古語につながる
可能性がひろがれば興味深いのですが。
湯殿山の牛像、ありがとう。↑画像、いただいちゃいました。
でも、こんなのどかな表情してたっけかな。撫でると願いが叶うというのだけど、なんだか触るのが恐いような威圧感があって、でも撫でた後は不思議と優しい雰囲気になったのを覚えています。(あれは別の場所の牛だったかなあ…)

>桃太郎の鬼退治、百済系退治
>神功皇后が新羅系の天日槍の子孫であることを考えると、新羅系による百済系退治(征圧 )をも意味することになります。

他のトピックで書いた覚えもあるけど、岡山(吉備国)自体はもともと新羅系勢力の占領地であり、大和朝廷成立後も長い間、東北と並んで朝廷にまつろわぬ独立王国の様相を呈していた場所です。(中丸薫説)
また、新羅系の天日槍が居を構えた地でもあり、列島における新羅勢力の駐屯地でもあったと想像されます。(富家の伝承)
そして、牛頭天王信仰と習合したスサノオが、『書記』では高天原を追放された後、新羅の国の曽戸茂梨(ソシモリ)に降り立っていること。この「ソシモリ」「ソシマリ」「ソモリ」が韓国語で「牛頭」または「牛首」を意味すること。韓国には各地に「牛頭山」という名の山や「牛頭」の名の島があること。
今もある韓国の首都名「ソウル」は、古代メソポタミアの「ウル」に淵源があるとする説もあり、この「ウル」もまた古代シュメール語で「牛」を意味すること。(中矢伸一説)
などなどから、桃太郎の鬼退治は逆に、列島内の百済勢力(≒『記紀』成立時の大和朝廷勢力)による新羅系退治であると、私は解釈します。キジ、猿、犬などのトーテムに象徴される列島内の各部族を併合して、鬼のように強力だった新羅勢を駆逐したというお話かと。

『記紀』成立時の大和朝廷は百済系の亡命政権ですから、神功皇后が新羅系であったことも隠し通さなければならなかった。だから、先祖の地への「里帰り」的な親睦・外交にすぎなかった神功皇后の遠征も、勇ましい三韓征伐にでっちあげなければならなかった。
しかし、列島内の新羅(鬼)勢力の拡大には常に悩まされていたから、住吉などの海人系の力を借りて交戦したことは充分に考えられ、それが桃太郎伝説になったのかと。
住吉・宗像などの海人系は、百済とも新羅とも直接の血縁はなさそうですが、政治的つながりとして百済を経由して入ってきたので、義理立ての援護射撃をしたことは考えられます。
ちなみに聖徳太子も蘇我氏も物部氏も柿本人麻呂も、みな百済経由で入ってきたグループと説明する本が多いです。一口に百済系といっても、寄り合い所帯だったのかもしれませんね。

ところで、この海人系が平家のルーツかもしれず、源氏は新羅系の騎馬民族です。今、気がついたのだけれど、義経の幼名が「牛若丸」なのも象徴的ですね。東北に駆逐された新羅系も多いので、反体制(反百済系朝廷)として合流し、そこそこ仲良くやっていたのかもしれません。
一方、海人系のほうは、古代海洋貿易を通して、もともと(百済系以前に)出雲と同盟関係にあったのではないでしょうか。詳しく調べたわけではありませんが、出雲系の神紋である「三つ巴」の紋章が、海人系の神社には多いような気がします。
1.住吉神社URLにない住吉明神の牛退治
管理人様指摘「新羅による百済退治は逆ではないか」に関連して、気になっていたことを思い出しました。住吉神社URLには、住吉明神の牛鬼退治話が登場しません。
(ただし、新羅色を薄めたと判断されたためか、神功皇后も祭神として祭っています。)
反体制派の新羅系をスサノヲ・牛頭・牛族とした場合、体制派の百済系は反体制派の新羅系の象徴である牛を「牛鬼」としたのでしょう。体制派(に取り込まれ、元来は反体制派であった)神功皇后側が、(本来新羅系にとりトーテムであるところの)牛を退治する、という逆説的な話になったのかもしれません。
    
2.風土記の逸文にみられる牛退治
牛退治は次のURL牛窓のように風土記逸文にあるものです。
逸文ということは、正式に記録がのこらず部分的に残っていることになります。
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/43wokayama.htm
体制派百済系が、反体制派新羅系を悪者に仕立てるべく、(本来は新羅系の象徴牛を本来は新羅系の神功皇后側が)牛鬼退治した、と都合のよい風土記箇所を逸文としてあえて残した、のかも知れません。

3.桃太郎の百済系の鬼(温羅)退治
吉備の国に起源をもつとされる桃太郎の原型は、百済系の鬼(ウラ)退治となっています。反体制派新羅系の王国吉備における百済系への反発の根強さを示す民間伝承かもしれません。記紀や風土記のような書物と異なり、民間における反体制派の人々における伝承(桃太郎の原型である百済系鬼(ウラ)退治)までは抹殺できなかった、のではないでしょうか。
 なお、桃太郎伝説そのものは、秀吉の朝鮮征伐を背景に政治的に作られたのともいわれますので、原型を180度変形して、体制派による反体制派退治になった可能性もあるかと推測します。
4.海人族
竜蛇をトーテムとする宗像・住吉・出雲は百済・新羅とは別系統ではないか、とも想像しています。その意味では、住吉神社が体制派(に組み込まれた)神功皇后を祭りながらも、反体制派である新羅系の象徴である「牛(鬼)」退治を標榜しないことは、百済新羅の間で中立を保っているようにも思えます。ひょっとすると中立により消極的には(新羅含む海人族という)反体制派を支援しているのでは、ともかんがえたりもします。

PS
 牛若丸の「牛」が「新羅系の源氏を象徴するのでは」、という提起を興味深くおもいました。

 出雲の「蛇族」対スサ天の日矛・新羅の「牛族」そして、天孫の「鳥族」が最後に勝利したのでしょうか。
 そのなかで蛇・牛の反体制派が手を結んだこともあったのでは、と想像します。
(参考)

諏訪神タテミナカタ(タテミナカタトミノ命)は蛇神として知られ、近くの井戸尻遺跡からは蛇体装飾土器のほか、とぐろをまく蛇を頭上にのせた女人土偶も出土している。信州には道祖神(出雲の大祖神クナトノ大神)も多い。クナトノ大神(熊野大野=ヤチマタノ神=道祖(さえ)神=幸神、・・・子孫はオオクニヌシノ命、コトシロヌシノ命、・・・トミノナガスネ彦=ナガスネ彦)はよくリンガ型の石像で表されるが、原型は蛇である。・・・石見に多い大元神社では、天下った神として、わらで作った蛇体を木に巻きつける。出雲でもわらで蛇をつくり、荒神さんとして崇める。茅の輪のチは、オロチ、ミズチのチで、本来は「蛇(ち)の輪(わ)」であった、と考えられる。・・・出雲神族が竜神をトーテムとする部族であったことを知っていただきたきたいためである。出雲神族の紋章「亀甲」も、バビロンの竜蛇神マルドゥクのシンボルと、まったく同じなのだ。・・・スサノオは牛をトーテムとする牛族で、オオクニヌシは竜蛇をトーテムとする竜蛇族であった。P73、76〜78)

・・・上古、牛族と共に繁栄したのが蛇族で、古バビロニア時代には竜蛇神マルドゥクを奉じ、「亀甲紋」と「巴紋」を広めた。インドの蛇神ナーガ像にも、「巴」がついている。これらが海路を、あるいはシルクロードを経て、日本に入ってきたのである。(「50〜52)

(「出雲国造世系譜」によると天ノ)ホヒの子ヒナ鳥、7世はミカ鳥である。また新国造が朝廷で神賀詞を奏上するとき、コウノトリを献上するのが習わしだった。・・・こうしたことを見ると、ホヒ族や天孫族は鳥をトーテムとする鳥族であったらしい。しかし、ホヒ族のほうはスサ族や天ノヒボコ族と婚姻を結び、牛族の性格が強くなっていく。出雲大社の神紋の「亀甲に花菱」は、出雲神族の「亀甲に並び矛紋」の亀甲と、ホヒ族の「花菱紋」との合わせ紋である。前に述べたように、花菱(菊花)は牛族の代表的な紋章だ。「懐橘談」は、出雲の国造を出雲市の東南の菱根に、赤い牛と共に水葬した、と書いている。トーテムである牛が、祖霊のいるところへ連れて行ってくれる、と考えたのだろう。
出雲大社では重要な祭祀のときに、ひょうたんを二つ割にしたものを使う。これもスサ族、ヒボコ(新羅)(「新羅本紀」始祖赫居世」の卵生神話)の影響を感じさせる。・・・出雲大社の神事は複雑だ。出雲神族、ヒボコ系、天孫系の三者が入り混じっている。それらを別々に分解しないと、理解できないのである。(P103〜106)

「日本書紀」は、百済系や藤原氏系が強くなった時代に書かれたものであり、徹底的に新羅を敵視している。「古事記」のほうは、「神功が新羅へ行き、王城の前に杖を立て、国の守り神として墨江の大神を祀った」としか描いていない。ヒボコ→神功は、新羅系かその前の辰韓(秦韓)系だ。自分の祖国を討つ者はいまい。「新羅本紀」や「百済本紀」も、神功が存在していたと考えられる250年代前後に、「倭が攻めてきた」という記事は載せていない。
 神功は新羅に里帰りして、「私の夫の仲哀が他界しました。どうか倭の国を乱したり、攻めたりしないでください」と、頼んだだけである。彼女は琴をひき、神託を乞うような巫女的な存在であった。(私は、もしヒミコが存在したとしたら、神功皇后以外の何者でもないと考えている。そして、それを魏に伝えたのは、神功を一族の誇りとした吉備王であったと思う)
 (P188)(「謎の出雲帝国」 吉田大洋著 徳間書店)
吉備と出雲と海人系、百済系と新羅系……、
このへんの勢力分布の分析は、なかなか入り組んでいて難しいですね。古代史ファンでなければ、うんざりするかもしれません。

関裕二の『図解「古代史」-日本誕生の隠された真実』PHP研究所という本を、コンビニで買いました。
最近の関氏は、出雲と東国の結びつきを重視しているようです。「吉備・ヤマト連合」に対抗するための、地政学的(+海政学的?)な勢力分布として、「出雲・東国連合」を位置付けています。したがって、この関理論では、出雲は「東」に振り分けられるのです。

そうすると、継体天皇の擁立は、「東」の(一時的?)勝利だったというわけです。
その前段階として、暴君?雄略天皇の荒療治があり、この時代に東国勢力をバックに、瀬戸内海を牛耳っていた吉備を成敗したとしています。
我々の推理からすると、東国ばかりでなく、もっと直接的には、古くから親出雲であった海人系の水軍が威力を発揮したかもしれませんね。

また、東国で人気のあるヤマトタケル伝説も、その勢力争いの必然として、出雲と東国を結びつける象徴的存在であったとします。
東国への敗走を装って勢力大移動をした諏訪神の「建御名方(タケミナカタ)」は、「建(タケル)の御名(オンナ)の方」であり、すなわち「倭建命(ヤマトタケルノミコト)」ではないかと、ここで関氏らしいカッ飛んだ飛躍理論が登場します。
さらに竹内宿禰の「竹内」も「武内」「建内」であり、「武(建)の王家」の黎明期に活躍した存在であり、これまた日本武尊・倭建命の隠語だとしています。
(竹内宿禰が出雲系だったことは、氏が以前から論じていたことですが、今回は出自をどう位置づけているかは不明)

今回の関理論の特徴は、ヤマト建国とその初期の興亡に、吉備と出雲の勢力争いがあったとするところです。
そして、氏の以前の「出雲=物部」説をも覆しているのは、ニギハヤヒ⇒物部の出自を吉備の側に置き、出雲の敵対勢力としていることです。(このあたり、『謎の出雲帝国』の影響があるかな? 古代出雲を滅ぼしたのは、神武+物部氏と新羅系のアメノヒボコだというのが富家の伝承ですから)

新羅系のアメノヒボコの先代が牛頭天王のスサノオとするなら、その直系という伝承のあるニギハヤヒも、新羅系⇒吉備とするのは、いちおう理屈は合っているのかな。
私は支持しませんけどね。むしろ建御名方、倭建、竹内宿禰の系統の祖がニギハヤヒであり、南方海人系と混ざっていたとしても、新羅系⇒吉備の勢力とは異質だと思います。これは神社で感じる雰囲気からですけど。

あいかわらず、ややこしい話で失礼しました。冷や汗
           
ニギハヤヒは、事代主、大物主、太陽神、尾張氏・物部氏の祖神ともいわれさまざまな面をもちます。(下記 参考)
一方、神武と同じく半島渡来の天神ともいいます。

個人的には、半島渡来の天神だが、物部氏の祖神ではない、鳥族で、新羅の牛族とは違うように思います。仮にスサノヲが新羅の牛族であれば、ニギハヤヒはその直系でないことになるのでは、とおもっています。
(参考)
        神武→天神、ニギハヤヒ→天神
ウマシマジはニギハヤヒがトミビコの妹と結婚して生んだ子となっており、そして物部連(むらじ)むらじの祖とされている。・・・ニギハヤヒが天神の子であるということを表徴する天羽羽矢(あまのはのはや)と歩靭(かしゆぎ)は、神武帝の所持する天羽羽矢と歩靭と同一物である。このことによってニギハヤヒと神武帝とは、ともに天神であるという事実が証明される。つまり両者には故国を共にする親縁関係が成立しているとみられるのである。・・・
P158から168「古代人のコスモロジー」『物部氏族と邪馬台国の東遷』谷川健一 作品社

ニギハヤヒ(天磐船で天下った天神の子として証拠の品として天羽羽(あまのはは)矢(や)と矢箱である歩靫(かちゆき)を神武―神渟名川耳―に示したところ、神武も同様の品を見せて同族であることを示した− 一〜二代前に半島から渡来したので同族として認められた−)
(「三人の神武」小林惠子 著1994年 文芸春秋社 P234、241、258〜263)

          ウマシマジ→物部氏祖神、ニギハヤヒ→尾張氏祖神
ウマヒマジはニギハヤヒと出雲神族のナガスネヒコの妹トミヤ姫の間に生まれたことになっているが、富氏の伝承にはニギハヤヒは出てこないという。吉田大洋氏はニギハヤヒは尾張氏の祖神で物部氏とは無関係であるとする。
吉備族・物部の出雲侵入出雲神族と方位線http://hw001.gate01.com/sangatu/izumosinzoku.htm#hiboko_mononobe_kibi

        ニギハヤヒ→事代主神、長髄彦→建御名方神
饒速日が登美毘古の妹の登美矢毘売を妻として生れた子が宇摩志麻遅命で、これが物部氏、穂積氏、采女氏の祖先とされていますから、邪馬壱国王家が物部氏となっています。したがって、初期の大和朝廷において、物部氏が大勢力となるのは必然です。
 降伏した邪馬壱国の饒速日は、出雲神話の、あっさりと葦原中国を譲り渡したオオナムヂ神の子、事代主神に重ねられますし、抵抗した登弥の長髄彦は、その弟の建御名方神(建御名方富命=天富命=斎部氏の祖神)に重ねられるのです。

(「弥生の興亡4、縄文の逆襲」『三、神武天皇(崇神天皇)の東征』 塚田敬章 著    WEB掲載資料の抜粋) 


        大物主神→物部氏祖神・ニギハヤヒ・太陽神
                      
関裕二 著 
PHP研究所 2004年7月29日
「出雲神話の真実 ー封印された日本古代史を解くー」

原田常治氏は、出雲の大物主神が物部氏の祖・饒速日命で、日本の本当の太陽神ではないかと指摘
している。(「古代日本正史」同志社)。饒速日命の諡号が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる
くにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)で、頭にくっついた「天照」は、太陽神を意味
しているからである。ヤマトの太陽神といえば、女神・天照大神なのだから、物部氏の祖が太陽神であった
という話は、しっくりこないかもしれない。しかし、次のように発想を変えれば、すぐに理解いただけよう。
う。ヤマト建国以前、また、その後も、日本列島には、数え切れないほどの「太陽神」が存在した。・・・
だから、饒速日命は、物部氏が奉祭する太陽神であり、彼らがヤマト建国に最も貢献し、しかも、「ヤマト
の宗教」を構築したのだから、ヤマトの太陽神が大物主神=饒速日命であって、なんの不思議もない。
ニギハヤヒがスサノオの直系(と言うか、直子)というのは、何人かの研究者(ポピュラーなところでは、小椋一葉氏や神一行氏)の共通見解ですが、これはスサノオの第五子、大歳(大年)をニギハヤヒと解釈するところからきています。
http://www2t.biglobe.ne.jp/~cherimo/history/ootoshi/jinja_ootoshi.html

ただ、この場合、スサノオを新羅系の牛頭天王とするかどうかは論外で、神一行氏は朝鮮経由ではあるがもとは蒙古系としています。
『神社が語りつぐ古代史の真実』勁文社文庫
『記紀の謎を暴く 消された大王 饒速日』学研M文庫

「スサノオ≒牛頭天王」説は、どう見ても仏教伝来以後の習合思想であり、それ以前の日本にスサノオ信仰がなかったとは、私は考えにくい。
また、その「牛頭天王と蘇民将来」の仏教説話の舞台はインドであるのに、インド教典にその話が出てくるというのも聞いたことがありません。では、どのへんが原産なのか。古代朝鮮あたりでつくられて、日本に輸入されたのか?
これは、それほど確かな話ではないんですね。

出口:大本では、素戔嗚尊は国常立尊(ウシトラの金神)やミロク大神と並んで、地球の創造主であり、番人であり、最高神なのです。
今もなお、大本の神愉の続編と読める神示が、あちこちに降りていますが、この素戔嗚のポジションは同じです。「あなたがたの知っているスサノオではないぞ」というような神示さえありました。
私の思い描く「饒速日=素戔嗚の直系」説も、こちらの大本系の素戔嗚であり、朝鮮系牛族に限定したものではありません。

ちなみに神一行氏のスサノオ史観は(小椋一葉氏も?)、出雲を統一したスサノオは九州にも遠征して、現在の皇祖神アマテラスである卑弥呼を現地妻として娶り、一時期、日向王朝をも併合した、というものです。
機内ヤマトの争奪戦は、スサノオもその後継者のニギハヤヒも没した後、政権の分裂から来るゴタゴタだとしているようです。

まあ、いろんな人がいろんなことを言ってますからね。ともかく一旦は仮説として飲み込んで、あとで反芻して咀嚼するというのが、このジャンルの本の上手い読み方だと思います。
 スサノヲには牛族の要素ばかりでなく、龍蛇族の要素もあるように思えます。
その根拠の一つは、「蘇民将来」の故事が、中国の龍蛇族*1と見られる伏羲・女媧に類似*2していることです。

 その意味において、スサノヲを新羅系牛族に限定しない、という管理人様の意見に賛成します。

 牛族龍蛇族の要素をあわせもつところがスサノヲの魅力に思えます。

 なお小椋一葉説では、(スサノヲの息子である)ニギハヤヒ没後、その跡取りミトシ姫が日向のイワレヒコを婿(初代神武)として迎える、とのことです。諸説あるものですね。

*1
 中国の古代神話の中には、大洪水のときに兄妹の二人だけが助かって夫婦となり、新しい人類の始祖となる伝承がある。兄の名を伏羲、妹の名を女媧と呼ぶことが多く、またこの兄妹は、漢代の画像石などには、下半身が二匹の蛇のように絡み合った姿で描かれている(白川静『中国の神話』)。伏羲・女媧の神話の系統が日本にも渡来して、イザナギ・イザナミの神話となった、という説がある。ナキ・ナミはナーガの変形語で蛇を意味している。
(谷川健一 著「日本の神々」岩波新書P94)
*2
 竜神が秀郷に送った無尽蔵の巻絹の因みに、やや似た事を記そう。・・・支那の伏羲流寓(さすらえ)て、ある富んだ婦人に宿を求めると、卑賤(さげすん)で断られた。次に貧婦の小舎を敲くと、歓び入れてあるたけの飲食(おんじき)を施し、藁の床に臥さしめ、己は土上に坐し終夜眠らず、襦袢を作って与え、朝食せしめて村外れまで送った。伏羲嬉しさの余り、その婦に汝が朝手初めに懸った業は、晡(くれ)まで続くべしと祝うて去った。貧婦帰ってまず布を度(さ)し始めると、夕まで布尽きず、跡から跡から出続いたので、たちまち大富となった。夜前伏羲を断った隣の富家の婦聞いて大いに羨むと、数月の後伏羲また村へ来た、かの婦強いて自宅へ迎え取り食を供し、夜中自室へ蝋燭点し通夜仕事すると見せ掛け、翌朝予て拵え置いた襦袢を呈し、食を供えて送り出すと、伏羲前度のごとく祝した。悦んで帰宅の途中、布を度す事のみ念じて宅へ入る刹那、自家の飼牛が吼える、水を欲しいと見える、布を量る前に水を遣らんと水を汲んで桶から槽(ふね)に移すに、幾時経っても、桶一つの水が尽きず、夥しく出続き家も畠も沈み、牛畜溺死し、村民大いに怒り、かの婦わずかに身を以って免(のが)れたとある。
(南方熊楠 著「十二支考」(上) P138岩波文庫)

岩手県奥州市の蘇民祭ポスターが、セクハラ問題で話題になっています。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20080110_3
それはそうと、東北に牛頭天王由来の蘇民祭があったことに、意外性を感じたのは私だけでしょうか。
牛頭天王信仰は列島の西南方面から入ってきたというイメージが強く、東北にまで定着しているという話は初耳だったからです。
高橋克彦『竜の柩』では、東北を竜族の国にしておきたいところがあり、敵対トーテムの牛族の祭りがあったというのは、説がくつがえることになりかねません。我々のこのトピックでの考証、……東北には牛トーテムが他と混在同居していた、の立場からすれば、むしろ補強する新資料ですが。

↓黒石寺「蘇民祭」のホームページ
http://kokusekiji.e-tera.jp/sominsai.html

ところで、先日、河内(大阪東部)の饒速日関連の神社巡りをしたところ、石切劔箭神社で「親子連牛像」に出会いました。(写真参照) ニギハヤヒと言えば、“隠れ”天孫として、天駆けるイメージから鳥のイメージ、または大物主≒物部の蛇のイメージですが、牛の像があることが意外でした。

また、ヤマトタケルの白鳥神社にも寄りましたが、ここでは本殿の横に、摂社の三つの鳥居が密集していて、それぞれ白龍・白長(おそらく白蛇)・白玉(?)が祀られていました。白鳥の「白」と、すべて白で統一されていますが、ここでも世界的には敵対関係にある「鳥」と「竜蛇」が、共に祀られているという融合を発見しました。

東北は反体制勢力の落ち延び場所として、混成部隊の雑居地帯であったことは想像がつきますが、西にも融合の痕跡があることは新たな発見です。
決して歴史上のすべてが平和裏に解決してきたわけではありませんが、部分的であるにせよ、宗教的敵対関係が溶解してしまう因子を持つ日本という文化風土に、改めて驚きを禁じえません。

これは多神教だとか、農耕文化だとかで説明のつくものではありません。インドだって多神教だし、縄張り意識(土地への拘泥)から戦争をするのも農耕民族です。
やはり地球を創造した至高神が、日本という止揚統合の舞台を用意しておいたのだ、としか私には考えられません。
日本における鳥、龍蛇、牛の並存は、民族融和の象徴、世界観の表れでしょうか。

 一方、中国において全能の身体幻想にもとずくとされる「鳳凰」(*1)に、「牛」の特徴がないことは「鳥」と「龍蛇」の並存はあっても、鳥、龍蛇、牛の「三者並存」という世界観はなかったことを意味するのか、それとも龍には牛蛇鷹の特徴(*2)があることから中国においても「三者並存」という世界観があったことを意味するのか、整理がうまくつきません。

 (*1)
 ニワトリ、ツバメ、魚、龍の特徴を合わせ持っているということは、すなわち陸、海、空のあらゆる空間を移動する能力をすべてそなえることを意味している。・・・鳳凰イメージのなかに、龍の図像的イメージが混在しているのは興味深い。・・・(中国の聖獣「麒麟」は)オオジカ・ノロの胴体にウシのしっぽ」角は1本で「その角の先には丸い肉がついている。・・・(「鳳凰」は)ニワトリの頭、ヘビの頸、魚の尾、背中にカメの甲羅、ツルの足、ワシの爪
(中国文化百華 第2巻 天翔けるシンボルたち」張競 著 農山漁村文化協会 P84・37・112)

(*2 )
 漢高祖や文帝や北魏の宣帝など、母が竜に感じて帝王を生んだ話も少なからず。かくまで尊ばれた支那の竜はどんな物かというに、「本草綱目」の記載が、・・・<竜形九似あり、頭駝に似る、角鹿に似る、眼鬼に似る、耳牛に似る、項蛇に似る、腹蜃に似る、(蜃は蛇に似て大きく、角ありて竜状のごとく紅鬛りょう、腰烏以下鱗ことごとく逆生す)、鱗鯉に似る、爪鷹に似る、掌虎に似るなり。(南方熊楠 著「十二支考」(上) P144岩波文庫)

PS
 別件ですが、石切劔箭神社に関し、下記URLによれば〈「石切」i-si-kiriはアイヌ語で「その・長い(大きい)・彼の足」の意味があり、長髄彦を意味する〉ようです。石切劔箭神社はスサノヲばかりでなく、長髄彦のイメージをもつものなのでしょうか。
「長髄彦と草香山」http://hw001.gate01.com/sangatu/jinmu_yamato.htm#nagasunehiko
イザナギから生まれた三貴子であるアマテラス、ツキヨミ、スサノヲのうち、ツキヨミがなぜ存在が薄いのか不思議におもっていましたところ、次の本によれば天智天皇系の桓武天皇による天武天皇の一部抹殺にある、という説を知りそういう説もあるかもしれない、と一部納得しました。

参考
                             ツクヨミの秘された神
 ツクヨミが男性であると明示されるのは『皇太神宮儀式帳』である。・・・なおアマテラスも記紀本文に性別の明記はない。ただ、『日本書紀』の「一書」あるふみにはスサノヲの言葉として「姉」という呼びかけが数ヵ所見られる。本文にはないのだが、アマテラス女神説の根拠はこれによっていると推察される。・・・木彫で知られる円空1632〜1695の作品にもすでに確認されているだけで三体のアマテラス像があるのだが、いずれも「ひげを生やした」男神像である。・・・ということは、アマテラス=女神説が常識となったのは、案外新しいのかも知れない。・・・
月讀神社といっても本来の成り立ちからまぎれもなく月讀命を祭神として祀るものはわずかな数にすぎない。社格の高さでは左記の三社が際立っている。
皇大神宮(内宮)別宮 月讀宮 三重県伊勢市中村町【祭神】月讀尊
皇大神宮(内宮)別宮 月讀荒御魂宮 三重県伊勢市中村町【祭神】月讀荒御魂
豊受大神宮(外宮)別宮 月夜見宮 三重県伊勢市宮後【祭神】月夜見尊 月夜見荒御魂
・・・月讀神社の本宮は、失われたか、それとも別の神社に変ってしまったか、あるいはもともとそういうものはないのか、そのいずれかと考えるしかないだろうか。・・・なお、内宮の祭神・天照大御神は、道教の最高神・太一と習合したとの説があるが、根拠は周囲の「状況証拠」に基づくものであって、直接な証左はない。・・・おそらくは、古道教の究極の神・太一が、日の本の最高神・皇大神宮の祭りをことほぐという意味ではないかと私は考えている。道教と神道の習合である。これよりはるか後世に神道と仏教の習合がおこなわれるが、古代において最初におこなわれたのは、道教と神道の習合であった。これを至上命題として意図したのは天武天皇である。
神宮     皇大神宮(内宮)  豊受大神宮(外宮)
千木・鰹木  内削ぎ・偶数=女神 外削ぎ・奇数=男神
三貴子    天照大御神     月讀命
陰陽     太陽(日)     太陰(月)
           太一(大極)
・・・(元伊勢の中でもっとも古い籠神社の)祭神は、当初は邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)のみであったが、皇祖を習合して「天照大御神」という名の最強の守護神となったのではないかと私は考えている。これは内宮の御神体である八咫鏡との推論である。国家体制の思想統一をはかった天武天皇は、みずから設計した宮に「大極殿(大極殿)」を設け、そこで執務することによって「天命を発する」という論理をとった。しかしもちろん、現在は内宮の祭神は天照大御神であり、外宮の祭神は豊受大御神である。そしてそれぞれの神域に、取ってつけたように月讀宮が祀られている。内宮の実体である邇藝速日命は消され、外宮からは本来の月讀宮とともに、その実体の痕跡も消された。これをおこなったのは、(天智天皇系で天武天皇系から冷遇され恨みを持ち、三種の神器の勾玉にかかわる部分と三貴子―アマテラス、ツキヨミ、スサノヲ―の「ツキヨミ」に関する部分である。構造的には削除できないが、由来や事績などは最小限まで削ることはできる)桓武天皇であると私は考えている。時期的にも、またそれが可能な強大な権威権力という点からも、ほかには見あたらない。
・・・そして天武天皇は、三種の神器を制定する。広くそれを宣言し、記紀にもそれを記させ、天孫降臨まで淵源を求めた。そこでツキヨミのデビュ-となる。勾玉を第三の神宝とするためには、それを御神体とする神が必要となる。天武天皇は、「日」に対する「月」から、「太陽」に対する「太陰」から、「月讀」という神を創造した。
(「ツクヨミ秘された神」 河出書房新 戸矢学 著P30〜31、37〜38、40、75、165、79〜80)

ニギハヤヒノミコトについて
数霊の著者 深田 剛史氏も
伊勢の祭神はヒギハヤヒではないか
と言ってみえます。
「太陰暦で月を読むとことは暦を読むこと」で天文地理に明るい天武天皇にとり、ツキヨミとは自身のことをいうものでしょう。「日を知る」のがひじり聖(泉鏡花の「高野の聖」)で、「事をしる」のが事代主だそうですから、太陰・太陽の運行から地震や日食月食を予知することは政治においても重要だったそうです。

一方、伊勢の内宮が男神ニギハヤヒであれば、外宮は女神となるのでしょうが、豊受神もアマテラス同様男神、という説もあります。*
女神であれば、外宮には瀬織津姫かアラハバキ(後に弁天となったともいう)がふさわしいようにも思います。かりに外宮はもともとツキヨミを祀るとすると、天武天皇とツキヨミとのとりあわせは雄雄しい天武天皇とのイメージが隔たるような気がするので、戸矢説も全部がしっくりくるわけではありません。

          *男神豊受(とようけ)大神(がみ)とその孫の男神天照大神

国常立尊より数え、第6代目の天君である面足尊おもだるのみことは、嗣子がなく政事が衰えようとしていました。このことを嘆かれた豊受(とようけ)大神(がみ)は、大和国葛(ヒではなく人)木国の鳳山(いとりやま)に至り、世嗣社を建てられ、イズナの邪魔(よこま)の障いを除かんと、八千座やちくらの契を結ばれたのでした。・・・イズチ神祈り 通りてぞ天の御祖の 眼より 漏るる日月と 天元神 三十二の神の 守るゆえ 子種成ること 覚ゑます・・・豊受大神は天御祖の両眼より日月がこぼれ、48神の守護を得ることを感得されました。・・・天照大神は、なんと祖父豊受大神のご心願にかなってお生まれになった御子君だったのです。豊受大神が感受された御祖神みおやのかみの両眼より漏れ出でた日月と、伊奘諾(いざなきの)尊(みこと)イザナキノミコトが両眼を洗い祈られた日霊ひる月霊つきとに深い霊的なつながりが示されています。・・・天照大神は、伊奘諾尊イザナキノミコトの嗣子ですから、男子でなければなりません。古代においては、女子が最高位につくことは、天理あめののりの悖ることとして否定されていました。・・・十二后を月の位に配し、天照大神を日の位と仰いだことがわかります。また、十二后のうちでもひときわ慈愛に満ちた瀬織津姫の美しさに、天照大神は宮の階を降りられ、姫を中宮とされたのでした。
(P368〜370、379「神代の風儀(てぶり)」 ホツマツタエの伝承を解く 鳥居礼 著 新泉社)
 下記は、「アラハバキ(後に弁天となったともいう)」についての補足記事です。
                      記
 富氏の伝承では、出雲神族は東北から出雲へ西下したという。その伝承の中には東北の山や湖が多く出てくるというが、出雲と東北の方位線をみると、天狗山が月山と東北30度線をつくる。月山は岩手山と東北60度線をつくり、岩手山は西北60度線上の岩木山麓の大森勝山ストンサークルを通じ岩木山と結びついていた。
岩木山では六月と十二月の末日に道饗祭りを行い、ヤチマタヒコ、ヤチマタヒメ、クナドノ神の三神を祀るというが、吉田大洋氏によると、天孫族が都を移すたびにサエの大通りをつくってクナトノ大神を祀り、六月と十二月に道饗祭を催し祝詞を捧げたという。また、岩崎敏夫『東北の山岳信仰』で引用している小舘衷三氏の『岩木山信仰史』では、「伝説に、開国大元尊(大己貴・大国主命ともいう)が津軽に降臨(岩木山なるべしという)して土地を経営した話の中に、津軽はよく土地が肥えていて多くの子どもを遊ばせるによい所とあり、阿曽部という名がついた。田光沼から竜女が大国主命に玉を献上し、夫婦になって津軽の経営にあたり、のちに岩木山上の磐椅宮に祀られた。それで玉を国安珠、竜女を国安珠姫という。」とあり、アラハバキ神は大元神ともいわれたとのことであるから、岩木山はクナトノ大神ともアラハバキ神とも結びつく山であったといえる。吉田大洋『謎の弁才天女』によれば、富當雄さんが亡くなる数日前、我々の大祖先はクナトの大首長(おおかみ・岐神)だが、もう一つ隠された女首長にアラハバキ(荒吐神)があり、体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天へと変身した、と言い遺していったという。伯耆大山では根深い地蔵信仰がみられるが、これはもともとがクナトノ大神を祀る山だったからかもしれないわけである。同書によれば、倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻の言葉として、アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものだったという。また、吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によると、竜神信仰を禁じられた出雲神族は弁才天と不動明王を裏信仰としたが、特に弁才天を選んだのは古くから出雲系宗像三神のイチキシマ姫と同体視されていたからだともいう。http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/izumosinzoku.htm#hiboko_mononobe_kibi 渡辺豊和
 中国語の専門家森博達氏による「日本書紀の謎を解く」中公新書を読了しました。古代史ファンにも興味深いことからレビューの抜粋を紹介します。   (詳細については、小生のレビューをごらんください。)

 日本書紀を音韻・語彙・語法、分注に着目して渡来唐人が述作したβ群と日本人が述作したα群を説明する。憲法17条とβ群との倭習の共通性から憲法の制作年代を推定するところは興味深い。分注の記載内容と暦から、「安康紀」に先行して「雄略紀」以降が制作されたという著者の指摘は、言語学にとどまらない視野の広さを示す。
 α群の述作者である音博士の続守言と薩弘恪が卒去した文武4年(700)以後、神代から安康までのβ群を文章博士の山田史御方が撰述したという推測は圧巻だが、なぜ、神代から安康までをあとから必要と編修方針を変更したかについて言及していないのが残念である。

1.α群の述作者は、巻14で妻や恋人を妹と呼ぶ一般的な慣習に「昔の習俗か」と注釈を加えているが、β群では施注されず、α群の編修がβ群に先行したことを示している。P174
2.憲法17条とβ群との倭習の共通性は無視しがたい。憲法の制作年代は、β群述作年代に近かったのだろう。かなり新しい時代のものと推測される。少なくとも、初期の編纂が開始された天武朝以後であると私は考える。P196
3.巻14系列(α群)が巻1系列(β群)に先行した。ここ(巻13の「安康紀」)では天皇殺害の記事が一句で済まされている。そして分注を施して、「事の次第は詳しい経緯は大泊瀬(雄略)天皇の紀にある」という。もし巻次の順に編修されたのならば、安康崩御の詳しい経緯は「安康紀」に載せたはずだ。「雄略紀」では必要な事実だけを記せば済む。ところがそれが逆になっている。本末転倒の異常な現象である。合理的な解釈は一つしかない。巻14の述作が巻13に先行したのだ。P207〜208
4.α群の述作は書記の暦日は巻3「神武紀」から巻13「安康即位前紀」までは新しい「儀鳳暦」が用いられ、安康元年からは、古い「元嘉暦」がもちいられていた。「儀鳳暦」が単独で施行された(文武2年698)文武朝以後の文章博士に注目し、(学問僧として新羅留学し仏教)漢文になじんでいた)山田史御方と推測する。P216〜218
5.α群の述作者である続守言と薩弘恪が卒去した文武4年700以後、書記の編修方針に大きな変革がおこり、神代から安康までの撰述の必要が生じた。結局β群は、山田史御方には漢文を正音で直読する能力がなかったことから倭音と和化論文で述作されることになった。P227
 森博達氏による「日本書紀の謎を解く」中公新書が回答していない、「なぜ、神代から安康までをあとから必要と編修方針を変更したか」、について、妄想をしました。

1.雄略天皇からの御世が正史という共通認識が書記開始8世紀後半にはあった。
2.8世紀末から9世紀初頭、持統天皇が正史は30巻が必要と発案したか。
3.持統天皇はアマテラスも女帝であったことを書記に記載することで自らの正当性を示し必要があったのか。
394月5日の4行目と5行目にてαとβを取り違えていました。

訂正もうしあげます。

訂正後:日本書紀を音韻・語彙・語法、分注に着目して渡来唐人が述作したα群と日本人が述作したβ群を説明する。

訂正前:日本書紀を音韻・語彙・語法、分注に着目して渡来唐人が述作したβ群と日本人が述作したα群を説明する。

長らく足踏み状態でしたが、ちょっと前にメンバー400名を達成しました。
5〜6人くらいはすぐ減るので、また2回目の400名突破があるかもしれませんが、とりあえず祝っておきましょう。

最近、話題がはずみませんが、書きたいことがないわけではなく、単純に手が回らないのです。紹介したい本などもありますが、読後のタイミングを逸してしまうと、なかなか筆が進みません。


そんな中、AKKIYさんが好きそうな本を見つけました。

『出会いたい東京の名建築 歴史ある建物編』三船 康道 (著)

持ってたかな?
大学、博物館、銀行、図書館、駅、病院など、行けば誰でも見ることができそうなものと、旧ナントカ住宅とか、今も使用中の住宅など、いったい中まで入って見せてくれるの?みたいなものまで、テンコ盛りです。
へえ〜、神田神社って鉄骨鉄筋コンクリート造りだったの!とか、東京都慰霊堂(コメント写真)なんて知らなかった〜!とか、私としてはこのへんが真っ先に目にとまりました。

東京都慰霊堂は関東大震災の犠牲者を慰霊するために建てられたものに、後から東京大空襲の犠牲者も合わせて弔うこととなった施設です。
外見は寺院かお城か巨大銭湯か?という構えに、後ろのほうに三重塔が接続しています。内部はキリスト教の教会かギリシアの神殿か?といった雰囲気。こういう超宗派・混交宗教的な雰囲気って、私は好きですね。一度、行ってみたい。
http://www.linkclub.or.jp/~hiro335/a_map/tokyo_47.html
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ireidou.htm
毎年3月10日(東京大空襲)と9月1日(関東大震災)には慰霊祭や法要が行われているっていうけど、どういう宗教宗派の関係者が参加してるんでしょうね。それとも都が既成の宗教色なしでやってるのかな。都知事が列席したというニュースは、あまり記憶にないんだけど……。もっと記憶に残るようにやるべきだよね。


伊東忠太設計の築地本願寺は異色の建築です。好みはわかれましょうが。

PS
『出会いたい東京の名建築 歴史ある建物編』は新聞に掲載されていたようです。
まさに好みの本です。早速予約します。
「日本書紀の謎を解く」 述作者はだれか 森博達 著 中公新書
で、α群の述作者である音博士の続守言と薩弘恪が卒去した文武4年(700)以後、神代から安康までの撰述のβ群を文章博士の山田史御方が撰述したという推測は圧巻だが、なぜ編修方針が変更されたかについての説明がないのかを残念に思っていたところ、その説明をみつけました。*

 原典があったというもので、津田左右吉説だそうです。少しスッキリとした次第です。



何故に、日本書紀は編纂上、安康紀をもって区切りとしているのでしょうか。P40

〈仮説〉安康紀以降の歴史的事象を記録した元嘉暦を用いた編年体の史書が存在していた。P42

「日本書紀」の古い時代においては儀鳳暦が用いられ、むしろ、新しい時代において元嘉暦が用いられていることによって、安康紀以降の歴史的事象を記録した元嘉暦を用いた編年体の史書が存在していた可能性がきわめて高いと言うことができます。・・・「日本書紀」と「古事記」の原典に「帝紀」と「旧辞」とがあり(津田左右吉説)、この「帝紀」と「旧辞」にもまた原典があった可能性があるわけです。P44

「記紀」はいかにして成立したか 倉西裕子 講談社選書メチエ

PS
『出会いたい東京の名建築 歴史ある建物編』は、解説がわかりやすい本でした。
個人宅の紹介が多いのが特徴だと思いました。

「謎の女帝・持統」 関裕二 ベスト新書 をご紹介します。
 持統帝が天皇に即位しておらず、大津皇子は皇太子で高市皇子が実は天皇に即位していたことおよびその背景に藤原不比等の百済王朝復興があったことならびに日本書紀の記載が歪められた、という下記の内容です。
 吉野行幸を30回以上も繰り返した持統が即位せず岡宮に閉塞していたことは、新しい視点ではないでしょうか。
                               記
 大津皇子謀反事件で実刑を受けた人物の中には、反天武・親天智派の人物はまったく含まれず、大津皇子が反天武派だったのではなく、持統本人が反天武派だったことを表しているのであり、「書紀」は実際の大津皇子の立場や、彼の謀反のいきさつを隠蔽するべく、改竄せざるをえなかったことになる。P105〜106
「書紀」は大津皇子を天武天皇の第三子としているが、「懐風藻」はこれを「長子」として挙げている。さらに、行人の言葉として奇妙なことが述べられている大津が皇太子であると行心は言うが、それならばなぜ、即位直前にあった人物が謀反を起こす必要があったのか。話は完全に矛盾する。 P119〜120
政務の本拠地となる彼(草壁皇子)自身の宮が(天武天皇崩御後の空白とされる3年間)どこにあったのか明記されていない。P142〜146
だが、「続日本紀」は草壁の宮が「岡」にあったと(追諡した称号の岡宮御宇天皇記事で)明確に示した。P147天武の死後草壁が(蘇我系王朝・反蘇我王朝相克時における九州王朝の一大拠点である)岡本宮(岡宮?)に盤踞していたという事実は、すなわち蘇我系王朝と敵対していたことを暗示するからである。P151
蘇我系王朝を(大津皇子暗殺でP169 )敵に回した持統は飛鳥の中心にいられなくなり、愛息草壁皇子とともに、この地(岡宮P168)に(百済王の後嗣、藤原不比等を懐刀としてP169 )逼塞したのだ。P156
(持統3年から、持統3年皇太子草壁皇子尊薨去、持統4年の持統即位‐即位した宮は不明-、持統4年高市皇子を太政大臣にする、持統10年後皇子尊‐通説における高市皇子P172 とは明記されず‐薨去、持統11年天皇、策を禁中に定めて皇太子-一説では、持統の孫の軽皇子、のちの文武天皇‐に禅天皇位(くにさ)るたまふP172 まで)持統は計30回以上の吉野行幸を行いながら、彼女がいったいどの宮に戻ってきたのかを、まったく明らかにしていない。これは、「書紀」が草壁皇子の所在地を明らかにしなかったのと同じ理由で、事実を抹殺したのであろう。P157〜163

〈文武の〉立太子は、後皇子尊たる高市皇子の薨去の7ヶ月後である。そして即位は、高市皇子薨去の(天皇の喪は通常1年P27 )1年1ヵ月後となる。もし、高市皇子がただの皇子でも太政大臣でもなく、天皇だったと仮定すれば、文武の立太子および即位のタイミングはぴたりと合うのである。P173〜174
草壁皇子が「王」で、天武天皇と高市皇子が「大王」であったという人麻呂の証言は、彼が草壁皇子や持統に近しい人物だったということを考えると、いっそう意味深いものとなってくるのである。高市皇子は天皇であったからこそ、「大王」と呼ばれたのであり、藤原宮を造らせたと考えれば、「懐風藻」に登場する持統はこの時、天皇ではなく、「皇太后」であった、という証言と重なり合ってくるのである。P176
(平城京長屋王宅跡から発見された)木簡が、長屋王を長屋親王だったと証言する以上、まず疑わなければならなかったのは、「書紀」の高市皇子に対する記述だった。長屋親王が親王たるべき必要条件は「父の高市皇子が天皇であったこと」―ただ一つだからである。P194

彼ら(藤原氏)は天武系天皇を廃し、天智の末裔と百済系の女性の間に生まれた桓武を天皇として擁し、蘇我系豪族の本拠地大和を捨て、平安京〈京都〉に遷都した。したがって、平安京への遷都は、蘇我系王朝の完全な敗北を意味するとともに、悲願の反蘇我・百済合併王朝誕生をも意味していたのである。P214・P218
毎度のことながら、関裕二の蘇我氏がらみの時代の論説には、説得力を感じますね。詳しい内容は読んでないからわからないけど、なにかこう迫ってくるものを感じます。
氏には珍説も多い中、やっぱり過去世でこのへんの時代に生きていた証人だからではないかな……??

 倉西裕子氏の下記によれば、研究史上においては、高市皇子が持統天皇の「皇太子」であったとする見解は成り立つ余地はある、そうです。ただし、「高市皇子には治天下の権は所在していなかった」、「高市皇子の立場は、祭祀権承継予定者であった」、「持統天皇が持統4年以降、祭祀権と治天下の権の両大権を掌握していた」という見解は関裕二氏とは異なります。

 一方、「皇太子」は治天下の権の継承予定者を、「ひつぎのみこと・太政官」は祭祀権の継承予定者を示す、という倉西氏の見解は新鮮に思えました。

 なお、弘文天皇という諡号を贈られた大伴皇子よりも、高市皇子にこそ天皇という諡号を贈るべき、という説があれば関説を補強するものなのでしょうが、そのへんは寡聞にして知りません。
 
                               記
                「記紀」はいかにして成立したか 倉西裕子 著 講談社選書メチエ
「皇太子」という漢字表記の称号は、天武・持統朝のころにおいても治天下の権の保有者を意味していることを詳らかとしました。天武・持統朝のころに「皇太子」と漢字表記した場合に、これは、祭祀権の継承予定者の(一柱の祖霊を引き継ぐ)「ひつぎのみこと」を意味するのではなく、治天下の権の保有者を意味していたことになります。それでは、「日本書紀」の定義に基づく祭祀権保有者である「天皇」の位の継承予定者、という地位は存在していたのでしょうか。そして、仮に、祭祀権継承予定者が存在していたのであるならば、どのように呼称されていたのでしょうか。・・・(明治時代になって弘文天皇という諡号を贈られた)大伴皇子と同位(太政大臣)でありながら、高市皇子の立太子についての記述は所見されないため、高市皇子の立場に関してはよくわかっていません。しかしながら、「懐風藻」において、高市皇子が696(持統10)年に薨した後に、持統天皇が後継となる「日嗣(ひつぎ)」を延議にはかったとあることが着目されるものとなっています。ここに「ひつぎ」という用語が所見されるからです。このときに「衆議紛紜(ふんうん)」とあり、結果、軽皇子が持統天皇の後継者として定まったと想定されているので、研究史上においては、高市皇子が持統天皇の「皇太子」であったとする見解は成り立つ余地はあるとされています。それでは、高市皇子が「皇太子」であったのかと言えば、「日本書紀」は高市皇子に対して「皇太子」という漢字表記の称号を用いておらず、また、立太子の記述もありません。文武天皇として即位された軽皇子にさえも、立太子の記述がないことは先述したとおりですので、きわめて不可思議であると言えます。言い換えると、持統朝における持統天皇の後継問題は曖昧模糊とした状況にあります。・・持統天皇が持統4年以降、祭祀権と治天下の権の両大権を掌握していたのではないか、と本章の2節において述べました。従って、持統天皇の後継問題を考える場合に、継承という事象は、祭祀権の継承と、治天下の権の継承という二つのカテゴリーに分けることができます。そして、祭祀権の継承者が「ひつぎのみこと」、治天下の権の継承者は「皇太子」と呼称されていた。
「皇太子」とする漢字表記の号を与えることは、治天下の権をも与えることを意味することになるために、祭祀権の継承予定者に対して「皇太子」とする漢風の号を用いることができなかったのでしょう。天智朝において天智天皇の後継とされた大友皇子、そして持統朝において高市皇子に贈られた太政大臣とする官位は、祭主天皇位の継承予定者に対して与えられていたのかもしれません。・・・結論として、「日本書紀」の編纂者は、持統4年から持統11年8月の文武天皇への譲位までは、あくまでも持統天皇に治天下の権が存在していたと見なしており、高市皇子には治天下の権は所在していなかったと認識していたこととなります。高市皇子の立場は、祭祀権承継予定者であったことになります。P172〜176

 再び「謎の女帝・持統」について

 5月11日の47管理人様氏にあるように関氏の著作には「珍説も多い」のですが、
蘇我氏、物部氏絡みには、特にひきこまれるものがあります。
話の展開もあまり無理がないようにおもえました。

 持統帝に対して、愛情に飢えながらもみたされなかった人生、という観方については、今一歩理解できませんでしたが、「持統帝の天皇即位はなかった」という内容は、古代史ファンにはおすすめの1冊です。

 MIXIのブックレビューにほぼ5月11日46と同様な抜粋をのせましたが、同書を読んだ別の投稿者は、「面白い本であっという間に読み終わった。」と評していました。

 面白いことには同意ですが、小生は3回読み直し、内容を記録しながら整理してようやく全体像をつかめたものですから、「あっという間に」読了できませんでした。同書のせいではないのですが、古代史の書籍には異母兄弟等の登場人物が多く、行きつ戻りつでなかなか読み通せず、難儀しました。

 今のような少子化の時代とことなり、多産化の時代であったことを感じます。
もちろん医学水準、薬、食物、住居等の生活環境が現代とは大きく異なるものなので多産化は自然の摂理でもあったのでしょうが。
            

突然ですが、出雲にこんな大きな遷宮の事業があったとはつゆ知らず、面食らいました。

http://www.izumooyashiro.or.jp/sengu.top.html
(出雲大社 平成の大遷宮)

こちらは伊勢のように正確に何十年に一度というのではなさそうですが、いちおう60年目と銘打っているようです。今年から仮遷宮が始まり、平成25年に完成するそうです。
私には単なる遷宮と言うより、出雲神道の大復活!のような、国津神の復権の兆しを感じてしまうのですが……。
 諏訪大社の御柱は7年ごと、伊勢神宮の遷宮は20年ごとですが、出雲大社の60年というサイクルは、人間で言えば還暦であり、干支、道教の影響があるようにも思えます。

 最近「日本書紀」関連の本を読むためか、天武天皇は「天文遁甲」にすぐれた、持統帝の31回にも及ぶ吉野詣は「役の小角」に不老不死の術を学ぶためであった、大津皇子のサロンには新羅僧の行心という天文卜筮の専門家がいた〈辰巳正明「悲劇の宰相 長屋王」)、高市皇子〈関裕二説では天皇?)の皇子である長屋親王の冤罪の原因となったという「左道」も道教にも連なるやにきき、何かと道教を連想する癖がついてしまいました。
天武天皇の前後は、易(陰陽哲学)、道教(天文学と星信仰)、神仙道(超人思想と行法)の影響が色濃い時代だったと思われます。
その前の聖徳太子も、実は仏教ではなく、中核となる思想は陰陽だという説が強力です。有名な「和を以って…」は、陰と陽の「和」を言っているのであり、国際的、多民族的な、異文化交流の「和」を視野におさめたものであり、単一民族の農耕文化の村の内の「和」の延長などで治められるような、甘い時代ではなかったのです。日本人が平和ボケしたのは、はるか後の時代になってからです。

それ以前の物部古神道に、聖徳太子⇒天武の道教路線が取って代わったわけですが、さらにそれを駆逐していったのが、藤原不比等が入れ知恵した持統帝以降の世代で、復古を装った新興勢力の天照大神を担ぎ上げ、『記紀』の編纂も含めてプロデュースしていったということでしょう。
それ以後、その藤原プロデュースのアマテラスが我が国の太古からの伝統であると、国民も疑うことなく洗脳され続けて、今日に至っています。

その藤原プロデュースのアマテラス信仰も、我が国の文化に貢献した一派として感謝はします。(このアマテラスは利用されただけであって、この女神自体に罪も陰謀もありませんから) が、実は神道の枝葉であって決して幹でも根でもありません。
私はむしろ、聖徳太子⇒天武の道教路線のほうが、太古の物部古神道に近いのだと思っています。(有史前の太古・超古の“日の本”神道が、アジア大陸に渡って中国化したヴァージョンが道教なのだ、という幻想を、未だに抱いています)
以前にも論じましたが、太子が駆逐した物部は、物部の本道ではない。堕落した物部、薄まった物部であり、もしも太子が長生きしていたら、本当の物部古神道を復活させてくれたかもしれない、とさえ思ってます。
まあ、仮説ですから、押し付けるつもりはありませんが…。

それにしても持統女帝の女心は、藤原不比等の洗脳と、役の小角への憧れとの間で、揺れ動いたみたいですね。役の小角の修験道は、古神道と道教と仏教の習合ですから、不比等とは相容れないのですが、結局、常に影の如く付き添ってくれる不比等になびいたようです。
このへんは、奥行きの深いドラマになりそうですね。
「堕落した物部」という表現は、堕天使ルティファーを思い起こします。ひょとして両者には共通するものがあるのでは。

 一方、「持統帝は、アマテラスを意識しており、天の岩戸におけるアメノコヤネは藤原不比等に擬せられる」、との関裕二説もあります。

 道教というと、庚申の日における三尸(さんし)の天帝への報告のように現在の日本では民間信仰の色彩が強いのですが、8世紀の天武天皇のころは、政治にも直結する哲学であったのかもしれないことを「日本書紀」関連の本を読み、おぼろげに感じます。また庚申の日は60日に1回めぐるそうで、還暦、出雲大社の60年に1回の遷宮へとイメージは拡がります。

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