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「倫理」が好きコミュの2011年秋教職哲学コメント

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ーーーーーーーーーーーー哲学とはーーーーーーーーーーーーーーー

問 哲学は疑えるが、宗教は疑えないと教わったことがありますが、どういう意味でしょう。

答 哲学の出発点は絶対確実なものでないと、間違った学の体系が出来上がってしまうので、先ず疑えない真理を見出さなければならず、そのためにデカルトは少しでも疑わしいものは真理でないとして退けようと、「方法的懐疑」を哲学の方法としたわけです。つまり疑うことが哲学の出発点だということで、哲学を疑うという事ではありません。
 宗教は信仰に基礎を置いて成立するので、先ず信仰しなければならないということですね。宗教は元々疑わしいものです。疑わしいから信仰するわけです。ですから宗教は信仰から出発するという意味で疑えないと表現されただけで、宗教が絶対確実というわけではありません。
 もし神が疑えないものだったら、誰もが神を知っているわけですから、宗教にして信仰する必要はないのです。

ーーーーーーーーーーーネオヒューマニズムについてーーーーーーーーーーーー

問 私はヒューマニズムの反省が必要というところに疑問を感じました。なぜならヒューマニズムよってもたらされたものは、全て人間が「良い」と思って惹き起こしたものであるからです。もし環境が破壊されたとしても、それは「反省」によるのではなく、「修正」によって直されるべきものではないでしょうか?

答 「反省」というのは自らの行いを振り返って足らなかったところを修正することです。たとえ「良かれ」と思ったことでも、悪い結果がでたら反省し、その責任をとらなければなりません。これを結果責任と言います。言葉の意味を正確に理解していないとコミュニケーションが成り立たず、人と付き合いがうまくいきません。教師の心得として言葉の意味を正しく捉えるように注意しましょう。

問 今日の講義のテーマはヒューマニズムであって、それは、人間の概念を今の形にこだわるなということでしょうか?

答 そのことも含みますが、あくまでもテーマはネオヒューマニズムです。今までは人間の範囲を身体とそこに宿る人格に限定してきたけれど、そういう人間観だけでは不十分なので、必要がある場合は、社会的諸事物や人間環境そして組織体も含めて人間存在を捉え返そうということです。

問 ネオヒューマニズムはこれまでのヒューマニズムと異なり、人間だけに注目せず、社会的な諸事物、環境的自然、組織体など人間を取り巻くあらゆる事柄に目を向けていることから、人間が人間らしく存在できる状態を構成できるのではないかと思いますが、こういう理解でいいのでしょうか。

答 人間以外のものにもヒューマニズムの対象にするのが、サルカール派のネオヒューマニズムです。私の提起しているネオヒューマニズムは、これまで人間の外に置かれていた事物や環境的自然や組織体を含めた人間観に拡大して、これまでの人間観では捉えきれない場面に使っていこうという人間観の転換を含んでいるのです。その点を忘れないでください。

問 「ネオヒューマニズム」として捉える基準が人間との関係性を重視しているという意味で人間中心主義を脱却できていないように思いますが、どうでしょう。

答 人間が意識できるのは、人間の意識内容でしかありませんから、その意味で人間との関係を離れることは原理的に不可能です。問題は人間の卑近な欲望や狭い利害判断から、人間の自然環境を破壊してしまっていることにあるわけです。そこで身体とそこに宿る人格という狭い範囲に人間を限定せずに、社会的諸事物や自然環境、組織体を含む人間全体を己自身として捉え返す人間観によって、これまでの狭い人間観の欠陥を是正しようという提案がネオヒューマニズムです。

問 ネオヒューマニズムの考えでは、物も「人間」と捉えますが、人間は主体的存在であり、決してだれかの所有物たりえません。そう考えると、物を人間とすることはできません。また今私が考えていることの前提条件をもネオヒューマニズムは覆すのだと言うとしても、人間たる物は自然人の所有物となるが、では同じ人間たる自然人はなぜ他の人間の所有物にならないのでしょうか?

答 人間が他の人間の所有物であったことは、過去の歴史上で奴隷制として続いていたわけで、それは19世紀になってやっと終わったのですが、未だに人身売買や臓器の売買が行なわれているといわれています。また資本制社会は、労働力の使用権を商品化しており、これも人間の最重要な本質力である労働力が物として所有され売買されているということです。
 もちろん人格的な存在としての個人をだれかの所有物にすべきでないという考えは正しいわけですが、そのことと社会的な諸事物や環境的自然も含めて人間と考えることは矛盾することでしょうか。
 これまでは身体的諸個人とそこに宿る人格に人間を限定していたわけで、その人格は主体であって、だれかの所有にならない、それは人間観を拡大しても変わりませんね。それに新たに加わる社会的諸事物や自然は、それだけとってみれば人格がないわけですから、人間の範囲が大きくなっても、だれかの所有になってもおかしくありません。問題はむしろ何故人格を持たないものも人間に含めなければならないのかということです。そのことについてプリントでどのように説明しているか、じっくり読み直してみてください。

問 ロボットが自立して社会を形成しようとした時点で人間から離れた一つの種でないかと思いました。ロボットがロボットを自ら作り出せ、人間と対等であるとしたとき、ロボットは別の存在である。その時、ロボットは人間であるかどうか、人間の範囲はどこまでかという議論は必要ではないでしょうか?

答 それは同感ですね。ロボットは生物学的な限界を克服しているので、人間の限界を超えて行く要素をもっています。そうなれば人間はニーチェの言ったように動物と超人の過渡であったことになります。ただ機械の発展として、人間から離れるまでは人間に含まれているという事も出来ます。ただ人間の定義を自己意識ある知性体とすれば、ロボットは人間に含まれていることになります。
 
ーーーーーーーーーーーーベーコンとデカルトについてーーーーーーーーーーー

問 イギリス経験論と大陸合理論は対立していたということですが、そもそも何を対象として対立していたのですか。

答 イギリス経験論は、実験観察の結果確かめられたことだけを論拠にするという立場でした。そこから、経験の総括を通して、観念が生じたと「あらゆる観念は経験から」となります。それで経験が実在であって、それを意識する主観も、経験から生じた総括である事物も、経験の解釈にすぎず、経験の外にあるものではないことになります。
 これに対して、デカルトは疑っているという事が疑えないので、疑っている私の存在は疑えないと言って、「考える我」の存在を絶対確実としますが、「疑っている」という意識経験とは別に「考える我」が存在することは論証できていないのにもかかわらず、「我思う故に我あり」を第一原理にしてしまったのです。
 つまりイギリス経験論では意識過程の中にその意識の流れの特色として人格的な傾向が見出されますが、デカルトは、疑っているという意識過程を行なう主観は、意識過程とは区別されて実体として存在することになります。

問 ベーコンが現われるまでの帰納法は全て単純枚挙であったのですか?

答 そういうことは言えないと思いますが、三つの表を作って、単純枚挙でない帰納法の中身をはっきりさせたのはベーコンの業績でしょう。

問 市場のイドラ運命やアトムを存在が証明できないから意味がないとおっしゃっていましたが、哲学者は運命や奇跡を信じないのだろうかと疑問に思いました。
答 イギリス経験論は、世の中を便利にする実用の知識を求めていました。だから頭の中でかってにこさえあげた観念や理窟で物を語ってはいけない、あくまでも実験と観察によって確かめられたものだけを根拠に語りなさいという事です。運命やアトムは実験観察によって確かめられませんから、実用の知識として役立たない、そういうものを信じ込んでいたのでは駄目だと言うのが、イギリス経験論の立場です。哲学者一般の話ではありません。

問 コギト・エルゴ・スムの私の存在の定義についてよく理解できませんでした。疑うことから自我の存在を発見するということは、疑える事物がある。それが自分だということでしょうか?

答 「疑っても疑っても疑いきれないのは、疑っている私の存在だ」ということですから、疑いきれないのは「私の存在」ということです。この場合「私の存在」は「疑っている」ことからだけでてくるので、「物体的な事物」ではないですね。それは「精神的実体として私」だということです。ですから「疑える事物」と私を表現しますと、私を「事物」と捉えていることになります。デカルトによりますと、事物と精神は全く別の存在なのです。

問 デカルトが言う、間違う可能性があるから真理ではないということが納得できません。

答 誤読です。間違う可能性があるから真理ではないとは言っていません。学が真理の体系であるためには、間違う可能性のあるものは学の体系の出発点に置けないというのです。絶対確実なものを学の出発点に置くためには、少しでも疑わしいものは捨てていって、どうしても疑いきれないものを見つけ出す必要があるということです。だから絶対確実に真理でないものは絶対確実なものを見出すために方法的に仮に真理でないとしておくだけです。ですからデカルトは絶対確実な真理の体系が出来上がるまでは暫定的に世間の常識に従っておくべきだとしています。決して疑り深い人間ではないのです。

問 疑っている私の存在とは、本当にゆらぎなく、信用できるものなのでしょうか?私は「我の存在」とは自身が感じているものであり、感覚的現実にあてはまるのではないかと思いました。

答 感覚的存在として感じられる私というのは、私の身体ですから、デカルトのいう「考える我」ではありません。デカルトは「疑っている」という事実から「私」の存在を見出すので、この私は「精神的実体」だということになるわけです。しかし問題は、「疑っている」という意識経験の存在は確実でも、その意識経験をしている主体として私が意識経験とは別に存在するとは言えないということです。

問 子供が自我を形成していくは親の存在が確実に必要ですね。だから「我という存在」のみが信じられるというのは少し違うのじゃないでしょうか?その自我を生み出したもとの「親」の存在をどう扱うのかが気になりました。

答 考える我が考えるためには、頭脳が必要だというのと同じ理窟ですね。ところが頭脳は感覚的現実ですから疑えるわけです。子供が親から生まれたというのも、実験観察の結果、子供が親から生まれるところを何度でも意識経験しているからで、感覚的現実であり、だから原理的に疑えるということなのです。もちろんデカルトが親から子供が生まれることを疑っているわけではありません。方法的懐疑によって絶対確実な真理にたどりつくために方法的に全ての感覚的現実を疑ってみているだけです。

問 世界を疑い得るものと疑い得ないものに分けようとすれば、ほとんどは疑われてしまい、絶望するしかないのではないでしょうか?たしかデカルトも「日常生活にはもちこまないこと」と言っていたように聞きましたが、どうなのでしょう。

答 あくまでも絶対確実な真理を学の出発点におくための懐疑なので、日常生活の原理ではありません。真理の体系ができるまでは「暫定的道徳」として世間の常識に従うべきだとしています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーデカルト続きーーーーーーーーーーーーーー

問 真理とは絶対確実なものという意味ですよね。デカルトは絶対確実なものを探すために方法的懐疑を用いて、真理であることさえも絶対確実でないとしましたが、真理が絶対確実なものなら、真理を切り捨てるのは矛盾ではないですか?

答 デカルトは真理は絶対確実でなければならないので、一見真理らしく思えても、少しでも疑わしいものは、ひとまず間違いだとして、除いていき、どうしても疑いきれないものを見出して、それを絶対確実な真理として見出して、それを真理の体系の出発点におくべきだというのです。
 例えば今目の前にパソコンがあるのは絶対確実に見えますが、夢の中でこれを書いている可能性も捨てきれないので、ひとまずは絶対確実とは認めないという事です。あとで「考える我」が確実だと分かったら、それから私にとって明晰判明と思えるものは信じてもいいということになります。

問 一番疑問におもったのは「神」の存在です。神も運命や原子と同じでその存在を実証することはできないのではないでしょうか?

答 自分は絶対確実に存在しているわけですね。でもその自分というのは、方法的懐疑によれば、何も確信できない懐疑のかたまりだったわけです。それでも絶対確実に存在できているということは、完全者が存在して、私を支えているからではないかということなのです。だって不完全な私を他の不完全なものが支えても、私の存在は絶対確実にはならないはずだからです。とはいえ完全者が存在するといえても、それがどんなものかは完全者としか言ってないので、キリスト教のいう神に当たるかどうかは展開されていないわけです。

問 「完全なる神」の御心が不完全な我々の運命・行動を決定するとするならば、我々の運命や行動という予知できないもの、変動するするかもしれないものも「完全なもの」ということでしょうか?

答 神が完全者であるからといって不完全な人間の行動や運命を神が決定するとは限りません。だってデカルトによると、神は人間に自ら主体的に考えて行動する魂を置きいれているのですから。

問 神の観念は不完全とありましたが、そもそも完全・不完全とはどういうことなのでしょうか?
 また不完全なものが完全なものに支えられているというのは根拠があるのでしょうか?人間と自然、自然と自然、人間と人間は互いに不完全なもの同志支えあっていますね。

答 神は完全者だというのがキリスト教では神の定義なのです。つまり完全なら神、不完全なら神でないわけです。完全とはどういうことか、不足や欠陥がないので、不生不滅ですね、ですからこの世界に現実に存在するものは、すべて不完全であって、完全なる神から生み出されたものということになります。
 人間は疑っている以上、思考は完全ではないわけで、それで完全者を完全には思い描くことが出来ません。それでも完全者という観念をもっているので、その観念は神がつくって先天的に人間に置きいれたとデカルトは考えたのです。
 部分があるのは全体があるからで、その論理で不完全なものが存在できるのは完全なものが存在しているからだと考えたのかもしれません。例えば、個々の具体物は不完全ですが、それを分類する観念は完全ですね。理想的な観念を適用することで、個々の具体的な物を分類し、認識できるということです。

問 「もし神が自明な存在なら信仰の対象でなくなり、従って神ではなくなる。」というテーマです。外部から否定されるという可能性があることが信仰を成り立たせる条件なのでしょうか?神の存在が自明なときに変化するのは、信仰という言葉の定義ではないでしょうか?

答 もし歴史の終末が来て、神が地に降りて、裁きがなされ、地上が天国になったとしますと、その時は神は自明なので信仰はなくなり、地上を天国にという希望も実現したのでなくなり、「信仰・希望・愛」のキリスト教三元徳のうち残るのは愛だという説があるようです。

ーーーーーーーーーーーーーーホッブズについてーーーーーーーーーーーーーー

問 外界からの刺激が必ずしも物質であるとは限らないでしょう。たとえば感動という必ずしも物質であるとは限らないものを言語で表す場合、どのように物質的運動をすると説明するのですか?

答 ホッブズによれば、感動は何らかの生理的興奮を名付けているわけです。生理的興奮というのは物質的なものです。生理的興奮の様子を当時は化学的反応として記述できませんでしたので、薄れゆくメモリィである微粒子をイマジネーションと名付けてその運動が激しくなることして説明したわけです。それは別に精神作用を否定しているのではなく、精神作用を物質の作用として説明しているということです。
それとは別に魂があって、それが感動しているとデカルトのように考えることはできますが、しかしそれは実験観察で確かめられないので、科学的な根拠にはならないということです。

問 人間だけでなく動物も何らかのコミュニケーションを行なっています、だから言語が動物と人間を区別するとは言えないのではないでしょうか。言語を音声を使ったコミュニケーションに限定した場合でも犬や猫やサルも行っていますし、象や鯨などは超音波を使っているようですが。

答 そういう理解はドリトル先生の動物言語説です。確かに動物も身振りや音声信号でコミュニケーションをしています。でもそれでは文明を切り開くことはできないわけです。ですから身振りや音声信号を言語だとしてしまいますと、言語によって文明は切り開けないという事になります。
 どうして人間だけが文明を切り開けるようになったかを究めるために、言語について考えるとしますと、予め、動物と共通な部分は言語の核から排除しておくのです。そうしますと、主語・述語の文法構造を持つ文の伝達が言語だという事になります。
 「Aはaである」「Aはaする」というように、表現されますが、述語のaは{b,c,d,〜z}まで置き換えることが出来、述語を固定しますと主語Aは{B,C,D〜Z}まで置き換えられますから、言語によっていくらでも情報量が豊かになります。これが文明へ切り開く可能性を言語が持ているという事です。
 動物信号ではさまざまな生理的状況を身振りや音声に変えて伝達するだけですから、自分たちの生理的状態に制約されてしまい、無限に増えていくということはありません。文明を切り開くことはできないわけです。
 これは動物と人間の根本的な違いを示唆しています。それは動物は刺激―反応という生理的な世界を知覚して生きているのに対して、人間だけが、物と物の関係として世界を捉え返し、認識しているということです。
 どうして物と物の関係として世界を認識できるようになったのか、それは自己と他者が対等に人格的な対他関係を取り結び、それぞれの所有物を交換するようになったからと考えられます。
 それはせいぜい二万年から三万年前で、新人段階に入ってからではないかというのが私の仮説です。

コメント(13)

問 ホッブズは、個人を重んじ、自然権を守るために社会契約で国家を作ったということなら、弱い国家にならないように国家を地上最強の怪獣リヴァイアサンにするのは矛盾しているのではないですか?強大な国家を作れば個人よりも国家に重きを置くことになり、個人の人権を蹂躙する独裁的な国家になるのではないでしょうか?

答 ホッブズは近代市民社会が、大航海時代に刺激されて海外との交易が発展し、個人中心の市場経済の発達によって成熟していっているのを見ていたわけで、それが、個人中心の社会形成として社会契約論を支持する動機になります。他方で、海外との交易とかは、強力な王権のもとで植民地拡大を行うことで可能になるわけです。つまり同時に主権国家の形成の時期でもあったわけですね。ホッブズ以前の社会契約論は、個人が先で国家は後、国家権力が人権を蹂躙するようなら、契約を解除して革命を起こし、新しい国家を作ればいいという考えだったわけです。それでは強力な中央集権の主権国家はできないから、他国に負けてしまうので、国民の利益も守れなくなると考え、社会契約論を前提にしながらも強力な主権国家をつくる理論を考えたということです。

問 頭の部分が主権者で、主権者が国家意志を決定し、手足である人民は、国家意志の本人として、主権者の決定に絶対服従すべきだということは、人体モデルで説明するので、説得力がありますね。でも実際は、手足である人民の意志を無視した専制政治によって、革命が起こったりしていますから、リヴァイアサンモデルは歴史的事実によって否定されているのではないでしょうか? 

答 人体モデルで説明しても、頭脳が最終的には決断して意志決定するわけですが、その際無理をして手足や内臓に負担をかけすぎますと、倒れたり、病気に成ったりします。それはほどほどにすべきですね、体全体の状態をよく考慮した上で頭脳が最終判断すべきだということでしょう。
 国家と人体は別ですから、意志決定の仕組みを人民の参政権を認める形にした方が、活力ある国家になる場合もありうるわけで、ホッブズの理屈は専制国家形成に便利なように人体モデルを利用したように思いますね。でもなかなか鋭い論理構成だと思います。

問 「自分の生存が危殆に瀕しない限り、意志の本人として受け入れなさい」という文言がありました。これは革命権を限定的に認めたということにはならないでしょうか。

答 文脈の意味を捉えるようにしてください。国家意志には絶対服従が原則だけれど、もし国家が国家を形成した目的である生存権を認めないで、国家によって殺されるような場合は、社会契約が無効になるから国家の命令を無視してよいし、国家と戦ってもよいということです。国家によって契約が無効になった場合に革命する権利があるのではなくて、不服従の権利があるだけです。革命というのは、主権者を打倒して、自分たちが主権者になることです。

問 ホッブズは自然権を守るために社会契約をしたにもかかわらず、専制的支配にも服従せよというのでは、自然権を放棄して支配者に委ねてしまったと言えるのではないでしょうか? 

答 ロックでも自然権の行使を主権者に信託するわけですね。その場合も限定的な放棄と言えないことはありません。ロックも信託している以上は最大限革命権の行使は自重すべきなわけです。ホッブズの場合は、自然権を守ってもらうために自然権を主権者に委ねなさいということになります。悪いようにしないはずだからということですね。

問 もし主権者が自分の生存を脅かすような決定を下したら、人民はどういう形でそれを阻止すればいいのですか?

答 生存のために契約したのですから、その契約が破られて殺されるとなれば、あらゆる手段を用いて阻止すればいいわけです。ただ相手は国家権力なので、容易ではありませんよ。武力で対抗できないのなら、国外に逃亡して難民化することですね。

問 人民が主権者に成れないというところは、主権者の意を受けて発言しているのではないでしょうか。とにかく権力者に利用されやすい言説ですね。

答 ホッブズ自身が王党派でパリに亡命した皇太子の家庭教師ですし、国家をリヴァイアサンとして説いているのは、彼の意志がリヴァイアサンの意志だということでしょう。

問 人民の革命権を認めないという点は、当時の社会と矛盾しているように思うが、それはホッブズの「社会は個人以上に力を持っている」という考えに基づいているのでしょうか?

答 というより、社会つまり国家も生きた人間なのだから、国家自身の意志に基づいて行動しているので、個人は国民としてはその国家意志を自己の意志として行動すべきであるということでしょう。

問 国家が人間ということは国家が人間によって成り立つということでしょうか?

答 ホッブズは、国家を人工機械人間として規定しています。つまり国家は人間が作った機械人間だということです。国家の身体は国民という欲望で動く機械を部品にして出来上がった複雑で巨大な機械であり、国家自身も国家の自己保存や発展という欲望をかなえることで生きている人間だということです。つまり国家自身も一人の人間なのです。比喩ではなく。

問 国家と人民の欲望が衝突した場合、多数である人民が勝ってしまうことがあるとホッブズは考えなかったのだろうか?

答 国家意志の決定に人民が従わなければ、国家は機能しないのですから、国家がなくなり、自然状態になります。ホッブズは自然状態は「万人の万人に対する戦争状態」と考えていましたから、そうなったらおしまいだと警告しているのです。つまりその可能性を考えていたわけです。

問 人間と動物を区別する考えがありますが、人間も動物なのになぜ区別しようとするのでしょうか?動物の世界には人間には分からない世界があるかもしれないのに、言語の文法構造のあるなしなどで、人間と動物を区別するのは人間の傲慢ではないかと思いました。

答 人間だけが文明を切り開いて、独特の世界を作り、それをなお発展させています。そのことによって人間は命を育み、愛を知り、自然に働きかけ、人々や自然と様々なコミュニケーションを交わし、喜怒哀楽の感情を持ち、生きる意味を考えています。知識を蓄えて、日々新たな世界を作り出し、作り変え、人間の可能性の限界に挑んでいます。それは一面大変すばらしいことですが、他面自然の秩序を著しく破壊して、人間自身の生活環境が損なわれるようにもなっているわけです。時に文明は人々の争いを増幅させ、大量殺戮を伴う戦争まで引き起こします。このように人間は、他の動物とは明らかに異なる存在として地上に大きな痕跡を残しています。放置すれば地上生命全体を滅ぼすことになるような環境破壊さえ起こしかねないのです。

ですから人間が他の動物とどうしてこんなに違うのかをはっきり認識しないと、人間が引き起こしている危機に立ち向かうことはできないのです。

人間も自然の一部、動物だから他の動物と区別してはならないといって、その自然との断絶面を認識することから逃避してしまうと、人間という存在の偉大さも、恐ろしさも理解できなくなってしまいます。決して傲慢とか、エラそうとかの次元ではないのです。

問 ホッブズやロックなど政治分野でよく出てくる人々が哲学にも登場してくるので、どうしてか疑問に思いました。

答 どういう政治がいいか、経済体制がいいかは、人間とはそもそもどういう存在かについての深い理解がなければ、論じることができません。ですから哲学についても深い思索をした人が政治学や経済学を作り上げたのです。


問 哲学では神という不確かな存在をどうしてこんなに取り上げて議論するのでしょう、とても不思議です。

答 哲学は物事を根源的に一から考え直す学問ですから、万物が神によって創造されたと捉えたり、すべての存在の根底に神があると考える西洋人はどうしても神を考えてしまうのです。

     スピノザの汎神論について

問 宇宙が神の属性で且つ無限だったら、神自体は一体どこに存在するのですか?

答 作った神と作られた宇宙は別物だという既成の神観念に囚われていると理解できません。神が唯一の実体ならば、神でないものはなく、物質も精神も神の現れ以外ではありえないのです。
 つまり既成の神観念では神が天地万物を神の住む天国の外に作ったとされていたのですが、宇宙が無限と分かったら、神は自分自身の属性としてつまり自分の体として宇宙を作り、自分の心として精神を作ったと捉えるべきだということです。

問 スピノザは唯一実体を神とし、神の無限の様態として万物を合理的に演繹する汎神論を展開しましたが、これでは人間が自分で決定した行動
することなども神の必然的法則によって行動したことになります人間の個人の意思を尊重していないことになるという問題点がありますね。

答 個人も個物も神の現れなのですが、そのことが自覚できないので、自分が、神や自然とは別に存在して、それらから独立に考え判断しているように考えていますが、それは視野が狭いのでそう思うだけです。なぜそう判断したかは、もっと視野を広げるとそう考えた必然性が分かってきます。そういう広い視野から捉えると人間は神の現れとして考えているともいえるのですが、それは個人を神と同一視するほど尊重しているということなのです。

問 「実は神は自然そのものに宿っているのだ」
と言ったスピノザ

答 「宿る」という言い方は物質に精神が宿るというような、次元の違う存在が両方いっしょに併存していることになりますね。つまり神と物は別だということが前提です。しかしスピノザでは
神以外のものは存在しません。物質も精神も神の両面なのです。つまり神は延長としてみれば物質であり,思考としてみれば精神なのです。

問 もし世界がすべて神の現れなら、なぜそれを神と呼ぶのか疑問です。

答 存在の全体はひとつのまとまりをもっているとしますと、それは一者として捉えられますね、すべての存在はそこから生じ、そこに帰るのだと
いう信仰があるのではないでしょうか。その一者を神と呼んでいるわけです。すると全ては神の現れだということになります。ただそのことはなかなか自覚できないので、神と物は断絶面しかとらえられないわけです。でも実は基督教でも神秘思想や聖餐論では神との合一が説かれますし、仏教でも煩悩即菩提という凡夫のまま仏、即身成仏がとかれます。天台本覚思想では草木ですらそのまま成仏すると言われます。

ライプニッツのモナド論について

問 モナドは実体であるのなら、形而上学的なものではなくなるのではないでしょうか?また形而上学的な存在であるモナドがどうして視点を持てるのですか?

答 実体というのは物体として実在している存在という意味で、幻想的存在の対極として使われる場合があり、誤解されやすいのですね。
元々は、下にあるもの基体という意味で、他の存在の実在性を支えるものという意味だったのが、17世紀の哲学用語では、他に依存せずにそれ自体で存在しているものという意味になっていました。だから神は実体ですね。モナドは神に創造されたわけですが、いったん創造されたら延長がないので破壊されず、変化しないので、それ自身で存在する実体なのです。
形而上学的な質的点というのも誤解されやすい表現ですが、延長がなければ、感覚でとらえられないので、思考の上で捉えるしかないという意味です。ではそれがどうして世界を表象できるのかということですが、延長を持つものと同様に感覚的表象は持てなくても、やはりそれなりの仕方で、世界を映しだしている、つまり世界と関係しているということでしょう。相手は延長がないので、実験観察できないから形而上学的に論じるしかないのですが。

問 モナドは互いに影響し合わないはずなのに、結局は予定調和的に結合するというのは矛盾ではないでしょうか?
答 モナドを創造した神は、モナドそれぞれがあるがままにいることによって調和するように創造されたということでしょうね。
-------------------------イギリス経験論の新展開-----------------------

問 イギリス経験論は、哲学的にはあまり評価されていない、(まだまだ甘い)とよく他の講義で耳にしたことがあるのですが

答 日本ではイギリス経験論の評価は低くないと思いますよ、だって日本の近代哲学の代表者と言えば西田幾多郎ですが、かれはジェームズのラジカル・エンピリシズムを継承しているのですから。これはイギリス経験論の純化です。

問 バークリーで「存在することは知覚されてあること」とありましたが、家に閉じ込められている赤ん坊が居るとします。ある人は知っているが、ある人は知りませんね、その場合赤ん坊は存在していると言えますか?言えるが普遍性がないということですか?

答 知っている人にとっては、存在しているし、知らない人にとっては存在していません。そういう経験として存在しています。ところがこれを反省して、知るか知らないかに関わらず存在していると言えますが、それは反省の働きで言えることだというのです。つまり誰かによって経験として存在することが存在の要件です。
 つまり月の裏側というのは最近まで誰も見たことがなかった。でも裏側があるということは分かっていましたね。でもそれは推論として存在していたのであって、やはり実際には知覚の束として認識されるわけです。

問 唯心論では知覚されるもののみが存在するということですが、空気やブラックホールなど知覚できないものは存在しないものとされたのでしょうか、それとも知覚できないから神とされたのですか?

答 知覚は視覚だけでなく、五官で捉えるということです。そして実験・観察によって確かめらるというのも広い意味の知覚です。気圧や湿度の変化は感覚されていますから、空気の存在はつねに知覚されています。
 ブラックホールは光を吸い込んでしまうので真っ黒ですね、だから周囲との対比で画像にすることができますから画像として知覚できます。

問 バークリーの唯心論の立場において、様々な種類の知覚像が現れ、それが様々に変化する原因は神だとしているが、それはある一つの物に対してでも、一人ひとり違う見方をするのは必然であり、個人の視点や考え方ではなく、神がそのように見せているということでしょうか?

答 知覚像の多様や変化の原因が神だというのではありません。また個人の視点や考え方で視覚像が違うのは否定していません。そうではなくて、もし物を知覚の束だとすると、物は主観に属することになってしまい、何故わざわざ見たくないものを見、経験したくないことを経験するのか説明がつきません。そこで物がたとえ知覚の束であっても、それが主観の自由にならないのは、知覚の外部があって、それによって影響されているからだと考えたのです。その原因を神だとしたわけですが、その神がどう影響しているかは、神は原理的に知覚できない以上人間には分からないのです。ですから神が意志を持ってそのように見せているかどうかということは、科学としては語れません。

 カントの『純粋理性批判』について

問 カントによると、今目に見えているものすべてが現象として我々が認知しているものであって、可能性の世界にすぎないということになるのでしょうか?

答 現象=意識現象=意識です。事実も事物も現象するものです。それは主観に現れるものという意味で現象なのであり、だから可能性ではなくて、現実です。

問 客観的な事物のことを現象としていて物自体でないとし、しかも現象としての事物は主観としていますが、では主観も客観も現象であるというのでしょうか?

答 客観的な事物が主観に意識されるのが、意識現象です。それで主観も客観も現象だということですね。物自体は意識に現れないものですから、客観になっていないのです。しかしだから存在しないと言えない。意識に現れないから存在しないとすれば、存在するものは全て意識に現れるということになり、人間理性は万能だということになりかねないわけです。

問 バークリーの「事物は感覚の束」ということは、五感それぞれが集まり、そして「像」を作るというのと同じ意味なのでしょうか?

答 「像」と言いますと、頭の中に見えているように思われますね。そうではなくて、現象としての事物を身体の外に構成するという意味です。

問 「事物は意識によって構成されている」ということなら、意識は万人共通なものなのですか? それとも各人がそれぞれに世界を構成しているのですか?後者なら人の数だけ世界があることになってしまいませんか?
 「私」が死ぬと「この世界」が終わるのでしょうか?それとも「私」の存否に関わらず「この世界」は続くのでしょうか?

答 感覚は微妙に個人差がありますから、人の数だけ世界があるとも言えますが、コミュニケーションによって共通の同定ができていますから、それが可能の分だけは共通の世界に住んでいると言えるでしょう。あなたが死ねば、あなた固有の世界は終わりますが、共通の世界は続くでしょう。

問 イギリス経験論の立場からは、自分が新幹線から富士山を見たことがなければ、富士山は存在しないことになるのですか? 

答 自分の経験としては存在していませんね。ただ伝聞や記録から他人の経験としては存在しているので、存在していると推論的に判断することはできるわけです。

問 思惟と存在の同一というのは、事物に関して言えるとしても、人間についてはどうでしょう?
人間はただ存在として思惟されるだけでなく、それ自身で思惟している存在ですね。

答 ええ、だから「人間存在は思考の連続だ」という言い方もあります。もっともそれを言ったのはアメリカプラグマティズムの創始者パースですが。そして「意識は或るものの意識である」というマルクスの言葉もあります。ということは人間は思惟であることによって、自己の身体の枠に捉われず、世界を自己自身として認識できる存在だということができますね。まさしく哲学的存在なわけです。

問 カントは事物は意識によって構成されていると言っていて、意識界だけを認識されるとしていますが、この場合神は認識されるのですか?

答 ヘブライズムの神は唯一絶対の超越神ヤハウェです。この神はみえざる神で意識現象に現れないので超越神とされているのです。意識できないのですから認識できません。ただし世界が存在するので、それを創造された神が存在するのではないかと考えることはできるわけです。
 認識できなくても、存在すると考えられる世界を可想界と呼びます。物自体、神、不滅の霊魂などは認識できないが存在する考えられる可想界の存在です。
問 存在以外は思考の中、つまり頭の中で考えられることなのに、思惟についてはそうではなく、存在が思惟であるというのはどういうことでしょう?

答 思惟と思考は同じ意味です。ただその中に感覚から高度な思考まで含めて言っているのです。
例えば薔薇の花を見て姿かたち匂い感触などをまとめ、それに花についての様々な知識を総合して薔薇だと認知しますね。だから薔薇という事物は、そうした薔薇についての思考の全体だということです。事物を認識するということは頭の活動も伴いますが、薔薇という事物を目の前に構成する活動だということなので、頭の中だけに納まっていないわけですね。

問 ドイツ観念論によれば「対象である事物は意識によって構成される」ということですが、この事物は主観である私たちにとって超越的で、かつすべて主観的な認識であるということでしょうか?この場合、事物が客観では想定はできても認識はできなくなってしまいます。そうするとこの世界の真の在り様というものは私たちにとって不可知のままなのでしょうか?

答 事物は意識の束だというのですから、意識現象ですので認識できます。物自体は意識として現象しないものを指していうのですから、認識できません。客観的ということを主観に現れないという意味だと受け止めますと、そういうものは認識できませんね。主観に現れるから客観的と受け止めますと、現象なので認識できます。世界の真の在り様に主観に現れないものも含めますと、世界の真の在り様は不可知だということになります。カントは理性は全てを認識できるとは考えません。理性の限界をはっきりさせようというのが、理性の限界づけです。それを理性批判というのです。

問 デカルトの反映説では、対象と認識内容が違っていたら間違った認識だということですが、カントの構成説では、対象を主観が構成するので、間違いがなくなってしますね、しかし実際には思惟が実在を捉え損なうということはあるのではないでしょうか?

答 同じ対象を見ていても角度や見る人の経験や知識次第で随分違って見えるものです。その場合に何を基準に正誤を判断するかですが、意識現象は人それぞれという立場からは、どれも間違っているとは言えません。しかしその判断に基づく行動が、うまくいくかどうかなどで、正誤判断するのが有効な場合があります。その場合の正とされる対象が実在とみなされているわけですね。しかしカントにすればそれも意識現象だよ、物自体ではないということです。

問 意識も感覚も思惟も同じように考えるのは、イギリス経験論ですか、それともドイツ観念論ですか、その両方ですか?

答 「事物は感覚の束」はイギリス経験論のバークリーの説です。この感覚には高度な思考も含まれています。ドイツ観念論の「存在と思惟の同一」という意味では、この思惟には感覚から高度な思考も含まれます。ですから両方ですね。もちろんそれぞれの哲学者の具体的な理論の展開では、感覚と意識と思惟を段階的に捉えたり、区別したりしていますよ、いつも同じ意味で使っているわけではありません。

問 プラトンによれば、イデアが先在しているから、事物が判別できるということですが、ではイデアはどのようにして生まれたのですか?

答 イデア論の立場では、イデアは元々あったということでしょう。それで納得できなければ、世界を神が創造されたときに事物より先にすべてのイデアを作ったということでしょう。

問 蝶と蛾は数万種存在し、中には蝶と間違ってしまう蛾や、蛾と間違われる蝶がいます。もし人間がイデアを持っているとすれば、その間違いはあり得ないことになりますね。

答 プラトンは無数のイデアがあると考えていました。ただ沢山ありすぎますと、思い出せなくなってしまって間違えるということでしょう。
カント『純粋理性批判』つづき

問 『純粋理性批判』ではやはり「現象としての事物の性質が主観の感覚に属しているので、物自体ではない」という部分が理解できませんでした。

答 カントは感覚に現れているものを現象とし、感覚に現れない部分を「物自体」としたわけです。だから我々が認識している事物は現象だけで、物自体ではないということです。

問 意識として現れていない物自体としての木は、木でなくて何なのですか?純粋理性では認識できないから、それが何か、私たちは現象界にいるためにしることはできないのでしょうか?

答 木は現象ですから物自体ではありません。物自体は純粋理性(理論理性)つまり「それは〜である」を判断する理性の対象外なのです。
 知ること(認識)が感覚を素材に対象を構成することですから、現象界を出たら認識できるということではありません。

問 カントの言っているように、時間・空間・質量などは、感覚として現れていないが、実際に存在している。だから認識できないからと言って存在しないというのは確かに言い過ぎですね。

答 全くの誤解です。カントは全ての事物は時間・空間・質量という性質で感覚的に現れていると理解しているのです。だってどんな事物でも生成し、発展し、衰退し、消滅します。つまり時間的に規定された有限者ですね。それは体積がありますから、一定の空間を占めます。つまり空間的に存在しています。そして事物として存在する限り質量があるのです。それははかりなどで測れますし、持ち上げてみれば重さは感覚されます。
 カントの言う「物自体」は、時間・空間・質量だけでなく、色・音・匂いなどの感覚でも捉えられない存在だから認識できないというのです。そういう物自体でも存在していないとは言えない理由は、もし感覚に現れないものがすべて存在しないとすれば、人間の理性は感覚によってすべてを認識できることになり、理性が万能だということになってしまう。理性の能力は有限なのだから、感覚に現れないもの、原理的に認識できないものでも、存在していないとは言い切れないというのがカントの考え方です。

問 カントは純粋理性と実践理性を主張していましたが、この二つの理性は正反対なのでしょうか?

答 人間理性には、対象が何かを判断する純粋理性つまり理論理性と、なにをなすべきか、なさざるべきかを判断する実践理性の二つの働きがあります。同じ理性の二つの働きですね。

問 神・不滅の魂・物自体も存在すると認識できないが、存在すると想像できる世界に属していると主張されていましたが、結果的にはどちらなのでしょうか、これは認識と想像の違いなのでしょうか?

答 「存在すると認識する」のではありません。存在する対象を認識するのです。存在すると分かっても認識しているわけではないのです。認識とは存在する対象の性質や運動を規定することです。
 可想界に属するというのは、認識はできないが、存在すると考えることができるということです。想像ではありません。想像はイメージを伴いますね。つまり架空のものを認識しているわけです。ところが超越神・不滅の魂・物自体は感覚されないので、どんなものかイメージできないのです。

問 神・不滅の魂・物自体を存在しないと言い切れないとして可想界に属しているとしていますが、それらは人間が作り出した概念ではないのですか、人間がフィクションで作ったものを認識できないのは当然で、認識できないからと言って存在しないとは言い切れないというのは納得できません。それって可想ではなく、仮想ではないのですか?

答 概念は人間が作り出すのですが、それぞれ根拠はあるわけです。宇宙が存在するということは、それを作った神が存在するのではないかとか、考えている以上「考える我」が存在するのは確実でないかとか、物が現象している以上そのもとの物自体もあるのではないかということですね。それらは感覚に現れないから、認識できないけれど、人間は全てを認識できる理性を持っているわけではないので、そういう理性の限界をわきまえて、見えない神や不滅の魂や物自体などに対しては、道徳や宗教や芸術で対応しようということです。
 可想は認識できないので、あることは証明できないけれど、合理的に考えて、存在して当然だと考えられる場合ですね。仮想は仮定としてあると考えてみる場合です。

問 青として当たり前のように認識されている色は、実はそれぞれの人は異なる色として認識していることは有りうるのでしょうか?

答 同じ色に対して同じ色とみんなが同定した場合、同じ色に見えていると判断されます。ただその同じ色というのが、人によって見え方が違うという個人差はあるでしょうね。

問 現代においてオカルト的に語られる霊的なものの存在ですが、霊は時間・質量・空間を無視した超越的なものになっているので、それを見たり感じたりできる人って一体なんなのでしょう?

答 超越神論での霊概念はたしかに超越的なので、聖霊も悪霊も見えないわけです。それでは聖霊も悪霊も信用されないので、宗教的なパフォーマンスとして悪霊を見せる場合がありますね、それが悪霊役者です。『新約聖書』のエクソシズム(悪霊追放)の場面では悪霊を見せていたように表現されているので、十二使徒というのは、イエスが聖霊でエクソシズムをする際に、見事に悪霊役を演じた人たちではなかったと私は想像しています。
 ただ霊が超越的だというのは、超越神論やアニミズムに立つからで、日本の場合最も古い信仰では霊はモノとして捉えられていましたから、事物がそのまま霊的存在だということです。毎日食事で「いただきます」と手を合わせるのは、霊つまり神である食物に感謝して命をいただいているのです。命こそ神なのです。

問 見ているのは自分自身の生理状態ということに不信感を抱きました。しかし同じ物を違う日に同じ時刻に見ると「美しい」と思う日もあれば、「そんなに美しくない」と思う日もあります。それは自分自身の精神状態によるところが大きいと思うので、そのことに対する説明として捉えることができるでしょうか? 

答 それはまた別の問題です。見えている事物が自分の生理的な感覚によって構成されているという意味なのです。例えば、ここにリンゴがあるとしますと、形も皮の赤い色、実の白い色、リンゴ独特のサクッとした歯ごたえなどリンゴを構成している要素はみんな感覚だということなのです。だから事物は主観の生理状態だということになります。ただし主観の生理状態だということは、それが事物でなくなるということでもなければ、体の外にあることを否定していることでもありません。体の外のリンゴという事物は、感覚を素材に構成されているという意味なのです。

問 人によってその物を認識する概念が異なっていた場合は、同じ一つの物でも人によっては全く違う物になるのでしょうか?それともデカルトの反映説から考えると、主観の意識に投映して結ばれた像と事物が一致しなければその認識は正しいとは言えないから、どちらかが間違っているということになるのでしょうか?

答 たとえば一本の木の棒があった場合、それを杖と見る人と、木刀と見る人と、物干し竿と見る人がいると、その場合は誰が間違っているわけでもありません。ただその棒が何の木を素材にしているかの認識については、三人とも見解が違う場合は、三人とも間違っているか、一人が正しいかですね。やはり間違って構成したら間違いです。

カント続き

問 カントが「道徳の要請」として神への信仰を説いたのは、神は認識できないけれど、存在していると考えることはできるからだということですが、それ以外に理由はありますか?

答 神とつながっているという信仰が、自らを聖化するので、非道徳的なことをして自らをけがしたりしたくなくなるので、道徳的になりやすいということでしょう。

問 道徳的に生きるためには宗教が必要だということは、無宗教の人が多い日本人などは道徳的に生きている人は少ないということになるのでしょうか?

答 カントの捉え方ではそういうことになりますね。つまり宗教がなければ、内面的に道徳的判断を主体的にできないので、主に社会の強制力や経済的な利害の調整で、義務を果たしているということになりますね。しかし、宗教を信じていますと、どうしても神の裁きや仏罰をおそれて道徳的義務を果たそうとしますから、真の道徳性を失くしやすいのです。その点がカントの道徳説のアキレス腱だと思われます。

問 無宗教の人々でも道徳的に生きているということは、神以外に何か大切な守るべきものがあるからでしょうか? 神や不滅の魂を信仰した方が道徳的に生きられるということでしょうか? カントの時代より現代は教育によって良識を身に着けているからでしょうか?

答 宗教によって道徳的に生きるということは落し穴があります。イエスはファリサイ派を地獄に落ちると言いましたが、それは律法を遵守すれば救われるという教義に固執し、神の国に入れてもらうために律法を守ろうとしていたからです。
つまり私利私欲のために道徳を実践しているつもりでいたわけですね。しかしそれは傾向性であって、少しも道徳性はないということです。このように宗教に頼ると道徳的に生きている気持ちにはなるけれど、かえって偽善に陥るということです。
無宗教と言っても宗教的な宗派に入っていないということであって、信仰を持っていないというわけではないのです。だから私はいつも世界最大の宗教は3L教だと言っています。光Light,命Life,愛Loveの3つのLを大切に思い、それに頼って生きているわけです。
 もちろんそれには教育も必要ですが、それは何も知識を教え込むという狭義の教育よりも、毎日の生活の中で、経験によって身に付く広義の教育によるものです。

     
フィヒテについて
問 フィヒテの「非我」がよく分かりません。

答 フィヒテもシェリングもスピノザ主義だということが大前提です。つまり全存在は唯一存在である神の現れであるわけですね。それを意志の自己展開として主意主義的に捉えたのがフィヒテです。ですからすべては絶対的な自我である絶対我の自己展開なのです。それは全存在を包括しているのでカント的の「物自体」の不可知論はいらないわけです。
しかしそれは、それぞれの人格的存在や事物を通して実現します。個々の人格は絶対我の現れであると同時に、それぞれの役目があり、課題を担っているわけです。それで、自分の課題を実現するために非我を構成して、それを克服しなければならないということです。つまり非我とは自我が克服すべき課題や状況を構成している自然や社会状況なのです。

    シェリングについて

問 シェリングの知的直観は既知のものには瞬時に直観できても、見たこともないもの、たとえばシェリングがパソコンを見たら、ピストルのように瞬時には認識できないということですか?

答 「未知との遭遇」ですね、それは「なんじゃこれ!」と驚くでしょう。それはその人が対象を知らなかったからです。すでに知っている人は直観できますし、その人も学んでいけば直観できるようになります。つまり主観も客観も根底においては絶対者の現れなので、事物の中に絶対者を感得できるわけです。

問 シェリングの主張の部分で、主観は人間、男、客観は自然、女と図で説明されていましたが、この断絶されているという関係は変わらないのでしょうか?

答 質問の趣旨が明確ではないですね。主観に自然、女を置き、客観に人間、男を置いてもいいのかという趣旨でしょうか?それならシェリングが人間であり、男だからこういう図式で説明したということでしょうね。

断絶はなくならないのかどうかを質問されているとしたら、ロマン主義は情熱で断絶を乗り越えようとする思潮ですから、断絶は克服できるという立場です。それは全ては絶対者の現れなんだ、思惟と存在は同一なんだという確信が根拠になります。

問 「人間の意識は自然の自己意識である」とありますが、人間が汚染された水を川に流したり、大量の農薬を使ったりして環境を破壊する行為も自然の自己意識と言えるでしょうか?

答 人間も自然の一部ですので、人間が意識するということは自然自身の意識であるということができます。ただし、人間は自己を自然全体とは切り離して、自己の身体とそこに宿る人格に限定し、しかも私的利害から物事を捉えようとする傾向があります。それで、自然自身が自己を反省して、自然自身の調和を図っていこうとするような意識までなかなか自覚できないところがありますね。自然の自己意識と言えるにはそこまでいかなくてはならないわけです。とはいえ人間は自己の身勝手な行為の結果、自己自身の自然環境を悪化させて生き辛くなってきて、やっと自然の自己意識であるという自覚に目覚めつつあるわけです。その意味ではシェリングは先駆的な意義があります。

問 シェリングのいうロマン主義というのは、情熱だけで相反するものの断絶を乗り越えようとする思想ですか?

答 それは言い過ぎでしょう。情熱があれば乗り越えられるという子とで、理性をはたらかせなくてもよいということではありません。もちろん必ずうまくいくというものでもないでしょう。失敗しても悔いがないということです。
主観も客観も絶対者の現れなので、断絶は絶対的に乗り越え不可能ということではありえないということです。とはいっても、ロマン主義は不可能を可能にしようという意気込みなので、失敗は覚悟の上なのです。命がけで挑戦すること、そのために敗れ去っても悔いがないということです。それだけ絶対的な課題に挑戦したのですから。

問 日本では自然を神ととらえ崇拝する文化があります。アニミズムです。これも自然の中に神的なものの類の絶対者を感覚でとらえたからなのでしょうか?

答 シェリングはスピノザ主義で、精神も自然も絶対者の現れという立場です。アニミズムは霊が万物に宿っているという立場です。つまり身体は物であって、霊は精神的実体で物ではないということですね。物と心の二元論なのです。日本の自然崇拝は自然自身が神であり、霊であるという一元論ですから元々はアニミズムではなかったのです。いつからかアニミズムが混ざるのですが、そのあたりはあいまいですね。
 日本の神は絶対者というより、命を支えたり脅かしたりする存在ですね。それらを祀って、命を支え、災いをもたらさないように願う信仰です。命が神だということでしようね。だから食事に手を合わせるのです。

問 カントからフィヒテはわかったのですが、シェリングへのつながりはよく分かりません。

答 カントは理性を人間の有限な理性に限定したので、「物自体」がでてきました。人間の理性は発展的なものであり、絶対我に包括されていというのがフィヒテですね。それを絶対者として自然と精神を包括する、自然の発展として精神を捉えようとしたのがシェリングです。

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